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第33話 スティギアン・ドラゴン・ヘッド


「あたしお寿司好きだしお寿司屋さんとかがいいなー。誰かマグロの解体ショーとかできなーい?」

「できるわけないじゃん!」


 ドッと笑いの渦が起きる。教卓周辺で数人の男女が何やらワイワイやっており、発言主であるサナだけが大真面目な顔をしているのが、殊更発言を面白おかしくしていた。

 間を置いてタガが外れたように笑い出す彼女に、一番後ろの席から様子を見ていたキズミがほう、と小さな溜め息を吐く。


(サナちゃんがやりたいならいいけどな~)


 監督不在の自習時間に横やりは入らない。梅雨真っただ中の教室はジメジメとして少し暑苦しいが、差し迫った文化祭について盛り上がる光景は、端からも十分「青春」を感じられた。


「アハハ。ワタリはどー思う?」

「え?」

「ちょっと白凪サナやめなよお、ワタリさん困ってるじゃん」


 プリント片手に固まったワタリを見て、サナとその取り巻きがニヤニヤと厭な笑みを浮かべる。教卓に向かうタイミングが悪かったのだ。真っ当に提出物を終えたばかりの彼女の手が震え始める。


「なんで困るんだよ、聞いただけじゃん。ねー?」

「……いい加減にしなよ」

「えっガチおこ系? コワ。なんかゴメン」


 ワタリは普段大人しい女子だが、一方的に笑い者にされて黙っていられる性分でもなかった。刺々しい声の標的は、薄笑うサナただ一人に向けられる。


「……あんた、本当に成長してないんだね、中学の時から。さっきからギャーギャーうるさい。みんなが迷惑してるのわかんない? 一人じゃなんにもできない癖に」

「ちょっと、謝ったでしょ、一応……。中学のも、悪いと思ってるし。あたしも言い過ぎたなって。まだ子供だったから仕方ないけど、いつか謝ろうとは思ってたよ」

「いつかって、あんたねぇ!」


 ガタンッ! 教室中に響き渡ったのは、サナに掴みかかろうとしたワタリが教卓を思い切り引き摺った音だ。

 その衝撃を皮切りに、ずっと機を伺っていたのだろう、出られなかった授業のノートを無心で取っていたリーベが営業スマイルで間に割って入る。


「まあまあ、委員長が非を認めたということで、ここは収めてください。お互いに色々事情もあるでしょう」

「ホラ、外野はこう言ってるよ。てかあたし謝ったじゃん。何が不満なワケ?」

「あぁ~落ち着いてくださいねワタリさん、委員長も悪気はないんです。性格が悪いだけなんです」

「知らないそんなの、事情とかこっちに関係ないし。でもみんな、あいつの味方するんだね! じゃあもういいよ!」


 水を打ったように静まり返る教室から、不利な状況下にあることを悟ったワタリが廊下に飛び出してしまう。

 慌てたキズミがその後を追いかけるも、しかしすぐにつんのめった。


「ワタリちゃん」

「竜」


 思いの外まだ近くにいた後ろ姿に呼び掛けると、最早止まってしまいそうなほど歩みの鈍いワタリがゆっくりと振り返る。


「何がムカつくって、あいつ、許されようって気がこれっぽっちもないんだよ。ハナからわたしのこと舐めてんの。サイテーだよね!」


 強張った声からは哀しみの感情しか汲み取れない。

 でもキズミは下手に慰めることも、怒りに同調することもできなかった。どちらを切り捨てることも考えられなかったからだ。


 だから、傷ついたワタリの悲痛に歪む顔を、黙って見ていることしかできなかったのだ。



***



「今日学校行きたくない」


 開口一番。いつまで経っても起きて来ないキズミを案じ、八柱ヤハシラが布団に包まったままの彼女を揺り起こした際の、最初の一言だった。


「なんで?」

「……」

「アオイさーん、臥竜丘ガリョウキュウさん今日休みらしい」


 彼が押し入れに向かって呼び掛けると、建付けに影響が出そうなほど大仰な音を立て戸が開かれる。そこから鱗に覆われた艶めかしい脚がダランと垂れて、その場でゆらゆら揺れ出した。


「臥竜丘、休んだところで家からは追い出すぞ」

「……現実じゃないからいい。どうでも。生きてないもん、今」

「もっとマシな言い訳考えろって話だな」


 そこから動く気のないそっくり親子に挟まれ、八柱はいつになく元気のないキズミを優先することにした。

 要領を得ない言い分は勿論、彼女が母親に対し反抗的な態度を取る現場に初めて遭遇したからである。


「やっぱり調子が悪いんですよ、今日は休みを取って医者に診てもらうべきです。いつも飲んでる睡眠薬だって、身体に良いわけないんだから」

(鬱陶しい……食用で生かされてる人の癖に……)


 不眠が続くキズミは毎晩寝る前に薬を内服している。

 それ自体詳しく話を聞いたことはなかったが、八柱なりにその光景を悶々と思うところはあった。そういう睡眠改善薬への偏見だといわれればそうなのだろうが、どうにも不健康に思えて見ていられないのだ。


「だってよ。行けば?」

「やだ」

「シュー、医者って面白いか?」

「親として責任を……いや、アオイさんが見たこともないような物がたくさんあって、ものすっごい楽しいですよ」

「ほー、そりゃあいい。臥竜丘も行くよな?」

「……行く」


 回りくどい説得を終え、八柱は早速職場に遅刻の旨を連絡した。寝食を共にするキズミはもう家族も同然で、彼自身止むを得ない事情だと考えている。


 とりあえず目下の問題は、早く行こうとせっついてくるアオイの存在だ。気の毒だが、八柱は彼女に嘘を吐いた。

 以前キズミが入院した総合病院は建物も広く設備も充実しているが、アオイが大人しく待合で待機できるなんて彼は微塵も期待していない。もし癇癪を始めたら車に押し込んでおくしかなくなるだろう。出来れば八柱だってそんなことはしたくないが。


「臥竜丘。お前、私が好きだろ?」

「うん……」

「じゃあ盾になれるよなァ」

「事故が起きないよう運転するので! だから別に、アオイさんが助手席に座ってもいいんですよ!」

「莫迦言え。私はもう位置についたぞ」

「あと病院着いたらちゃんと身なり整えて、帽子も被ってくださいね」

「うるせ~」

「…………そんなうるさかった? 今の」

(わたしに聞くなよ)


 道中、八柱の宣言した通り運転は慎重そのものであった。

 それに超聴覚に車移動は厳しいかもしれないと心配していたが、どうやら杞憂だったらしい。後部座席に寝転がったアオイは乗り心地に文句を言うでも彼を揶揄うでもなく、瞬く間に流れゆく配電線の掛かる雨空を、ただただ眺め続けていた。


「あ、お姉さん」


 平日の朝方ということもあり、来診する患者の数は僅少である。渋々ながら受け付け口に赴いたキズミは、欠伸混じりでこちらを窺う若い看護師の女と目が合った。


「あなた、臥竜丘さん!? 久し振り~、元気にしてた? 今日はどうしたの~?」


 入院した際キズミが世話になった看護師である。柔らかな物腰と明るい瞳色は変わらず、キズミは暫し見惚れてしまった。


「最近生きてる実感がなくて……」

「あらー、大変ね」


 薄濡れたロビーはどことなく電光も弱々しく、暗がりへと続く廊下は底無しの闇のようだ。そう見えてしまうこと自体が、八柱曰く病気の症状らしい。

 問診票の挟まれたバインダーを差し出されると、キズミは細雨を潜ったばかりの両手を急いでスカートで拭う。なんやかんや制服を着て来たため高校入学できた吉報を伝えようと、照れながらも顔を上げた。


 すんすん。


 見れば、アオイが受付カウンターに片足で乗り上げ、看護師の胸元を嗅ぎ回っているではないか。

 カウンター自体キズミの胸ほどの高さもあるのに、その体勢は余裕がありそうにすら見えた。


「駄目ですってアオイさん、失礼だから! すみません看護婦さん!」

「フフ、大丈夫ですよぉ。でも足は乗せないでくださいねぇ~」

「なんかドブみたいな臭いすんなこの女」

「君わかってて言ってるでしょ」


 看護師の表情が抜け落ちる。フワついた口調は一瞬にして刺々しいものになり、あまりの豹変ぶりに八柱が「え?」とアオイ越しに受け付けを窺った。


「いえいえ、お気になさらず~。お母様、お手洗いはこちらになります~」

「ぐぉ、どこ引っ張ってんだお前」

「それじゃあ臥竜丘さん、それ書いてお待ちくださいねえ」

「はーい」


 明らかに非常口へアオイを誘導する看護師が、堂々たる歩みで暗がりへと消えてゆく。

 二人が完全に見えなくなった瞬間、キズミは貸し切り状態の待合ソファから跳ねるように立ち上がった。元気の有り余った俊敏な動きに、並んで座った八柱が呆気に取られる。


「わたしもお手洗い行ってきます」

「え!? は、早めに戻って来てよ……?」


 白紙の問診票を押し付けられた八柱は、左手で事も無げに『臥竜丘 創実』の名をそこに綴った。



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