第29話 あなたは猫を見てますか? 猫はあなたを見ています
二時間にも三時間にも思える、長い長い時が過ぎた―――実際のところは五分程しか経っていないのだが。
それでも一度恐怖に呑まれた人間は、立ち戻りが非常に困難なのである。
「……高いし、絶対足痛いし」
「臥竜丘、痛くないから」
「ごめんね、シン……わたしって、なんでこんななんだろね……」
「いいから飛び降りろ!」
「やだー!」
木陰では蛭閒が腕を広げ、受け止めるようなジェスチャーをしていた。構わずキズミは思いっきり叫び、群がる人集りへこれが「パフォーマンスである」ことをアピールする。
「ここまで登って来ておんぶで降ろしてよ!」
「臥竜丘……おれはおまえの為なら死ねるが、おまえの所為で死ぬのは御免蒙るぞ」
「だって! ずっとこのままだったらどうする? どうなる!?」
こんな状況でも衆目を集める快感は健在のようで、怯えているにしては彼女の口調がやけにわざとらしい。期待で溢れた輝かしい表情は、とてもじゃないが助けを求めている風には見えなかった。
「埒が明かんな」
生徒の大半は心配と好奇心から奇行に集っているだけだろうが、先程のように低俗な連中にキズミが辱められる可能性だってあるのだ。だからこそ蛭閒は一刻も早く彼女に降りて欲しいのに、肝心の当人が目的を忘れ、下手な芝居に夢中になってしまっている。
未だ救助を待ち侘びる黒猫はペタンと耳を畳み、なんとも言えない表情でキズミを見つめていた。不躾に詰め寄って来た人間相手だ、そんな態度にもなるだろう。
いっそ、揃ってせーので飛び降りてしまえば、全てが解決するのに。
「おれももう付き合ってられんぞ」
「えぇっ!? 待って待ってシン、もうちょっとだけ……!」
バサバサバサッ!
「!?」
突如として彼女と猫を乗せた木が大きく揺れた。枝の折れる騒々しい音が響き渡り、とつてもない衝撃がキズミの身体に降り掛かる。
彼女は勢いを打ち消そうと咄嗟に、身に迫った何かをギュッと抱き締めた。
温かく、トクトクと震動するのは鼓動だろうか。心臓が脈打っているのがわかる。
そこまでわかっていながら、彼女の脳はそいつの正体を捉えられずにいた。猫というには些か大きく、馥郁としたフルーティフローラルの香りの中に、ほのかに荒んだ煙の臭いを混じらせている。
確かに嗅いだことのあるにおいだ。
「クソ野郎が……」
「うおっ!? びっくりした!? リ、リ、リベちゃん……?」
腕の中にいたのはリーベであった。怒りのやり場もないのか、諦念の目で天を見つめている。
いつの間に地べたは安定していた。辺りにはハラハラと葉が舞い落ちている。
あれほど恐れていた大地の感触に、キズミは空から降って来たリーベのクッション代わりとなって地表まで落ちた事実を悟った。
落下時に背中を強打したのか、節々に走る痛みを実感し始める。
「リベさん、助けに来てくれたのか?」
「え?」
「は?」
野次馬から最前線に蛭閒が躍り出て来る。彼の足元には件の黒猫が擦り寄っており、何とかどさくさに紛れ木から降りられたようだった。怪我もなくピンピンしているようで何よりである。
「占いで此処がわかったんだな。やはり頼りになる」
「違うよね?」
「そうです……私、力になりたくて……」
「嘘だよね?」
照れ隠しなのかなんなのか、そう言うとリーベは乙女チックに口元を隠してしまった。瞳も伏せられ、真意も感情も窺えなくなる。
「……でも、ありがとう、リベちゃん」
「そんなわけないのに」という気持ちをぐっと堪え、キズミはひとまず彼女を受け止められた事実に安堵した。
リーベたちは大事なクラスメイトで、貴重な友人だ。
もし取りこぼしたり位置がずれていたりしたら、もっと甚大な怪我を負っていたに違いない。それに膠着状態を脱せたという点では、助けられたと表現できなくもなかった。
「すみません、よくわからないんですけど……一体何をしていたんですか?」
「えっと、ほら、ヒーローは偶然近くを通りがかるものだから!」
「あぁ……あなたも自制の効かない人ですね」
はあ、と耳元で特大の溜め息を吐かれ、キズミの肩がぴくりと跳ねる。
リーベはやれやれとでも言いたげな緩慢な動作でその場から立ち上がり、座り込んだままの彼女に手を差し伸べた。
「そんなに認知されてどうするんです? あなたの承認欲求で死ぬのが、あなたであるとは限らないのに」
人に見られることを前提とされたリーベの生白い指には、無数の切り傷が散見された。その洗練された五本の端々に罪悪感が募る。
結局キズミはその手を取ることができず、かといって無反応を正当化することもできなかった。
せめてもの免罪符として散った葉を払おうと、リーベの丸い頭部に手を伸ばす。
「普段ニュースとか見ません? 刹那的でその後を考えられない人って、よく人生を棒に振ってますよねぇ。目立ちたいからって自傷したり、赤の他人を傷付けたり……なんだこの手は」
「だって私は、竜なのに」
キズミは自分の口を衝いた言い訳がましい言葉に、たちまち自己嫌悪に陥った。
(違う、こんなこと言うつもりじゃ……。リベちゃんは心配してくれてるのに……)
自然と撫でるような動作になった手は避けるように後退され、空いた距離がいやに遠く感じられた。
他意はないことを証明したくて、猫を救いたい一心だった事実を知って欲しくて、無事で嬉しい気持ちが本物だと伝えたくて。
でもうまく言語化できなかった。
話したくて堪らないことは、今は的外れであることぐらいキズミだってわかる。そこまでの道化にはなりきれない。
「そういうのは一人の時にやってください。周りを巻き込むな」
ピシャリと言いのけたリーベは細かい枝葉を纏わらせたまま、迷いのない足取りで校舎へ立ち入ってしまう。
「ご、めんなさい……」
蚊の鳴くような謝罪は、遂に彼女の耳には届かなかった。終始ザワついていた人集りも次第に鳴りを潜め、リーベの退場を皮切りに日常へと帰って行く。
あれだけのことがあったのに、もう中庭は静けさを感じられるほど長閑である。
とうにスポットライトは消えてしまったのだ。
「……リベちゃんに、嫌われちゃった」
「そうだとして不都合があるのか? 彼女の気質を忘れたわけでもあるまいに。元より他人の失態や鬱憤に遭遇することなんて、さして珍しくもない」
「だけど……」
「虚しさは、その全てが凋落するとわかっているからだ。どうせ灰になるのだから、あまり情けを掛けてやるな」
(なんか……リベちゃんの気持ち、ちょっとわかったかも……)
主語と思想だけが強い独りよがりな物語は、単純に人を不快な思いにさせる。
キズミは改めてこれまでの自身の振る舞いを振り返り、そして後悔した。血筋を盾に自分の都合ばかりを追い求めてきたが、それではいつか孤独になってしまうのだろう。
「シン、そういえばさっき、わたしの為に怒ってくれてたよね。怒るの苦手なのにありがとう」
珍しく魔王的というか、邪神的な奸悪さを感じさせる笑みを浮かべていた蛭閒は、ふと目を丸くして小首を傾げた。
「ねこちゃんも怖かったよね、ごめんね」
彼の足元では黒猫がスリスリと尻尾を擦り付けている。気を持ち直したキズミが撫でようと指先を近付けると、猫はフイッとそっぽを向いて、グラウンドの方へ一目散に駆けてしまった。
(えっわたし猫に懐かれる体質だと思ってたけど……なんか違うかも)
それもまた彼女の傲りである。




