第27話 クラス委員長は慥慥爾
手首に残る歪んだ切り傷と、フレグランスで拭いきれない鉄の臭い。
「なんでみんな見てくれないんだろ。あたしはこんなに可哀想なのに、こんな……」
「……」
口下手な弟が、今にも死んでしまいそうな表情で俯く。何かを言おうと慎重に考え込む時の癖だ。優しい彼はきっと、心を病んでしまった姉について、自分のことのように苦しんでいる。
「みどり君ならわかるのにな」
口癖は彼女自身を苛み、同時に他人を攻撃する際の言い訳となった。
実の弟を連絡のつかない『彼』に見立てて、そうあるように強いた。
気に入らない生徒を暴力で追い詰めた。
そうして享楽に耽っていると、まるで世界が自分の味方であるような錯覚に陥ることができたのだ。
快い時、心が充溢している時、楽しい仲間とゲラゲラ笑って楽しい時。あんなちっぽけな悩みで泣いていた自分はどうかしていたと、そんな風に馬鹿にできる瞬間がある。
しかし―――今日をもってサナは妄執と決別する。彼女が一方的に思い慕う、この世に存在しない恋人と。
何故なら、それが運命の導きであるから。
「今時筆記の習慣なんて、委員長はきっと根が真面目なんでしょうね。慧も見習ったらどうです?」
「おいリーベ。俺、めちゃくちゃしっかりしてるんですけど! 一人でレストランとかもう行けるんですけどー!!」
「はいはい偉い偉い」
ボーッとしていて、つい昔の出来事を追想していたようだ。なんだか寒気もする。
あの後本格的に体調を崩したサナは、熱を理由に学校を早退することとなった。家には既に連絡してあるし、迎えを断ったとはいえ早く帰るに越したことはない。
だからこんな、人がごった返す回転寿司屋のテーブル席で、山盛りポテトなど食べている場合ではないのだ。
「誰か大トロ食べます? 注文しますけど」
「薄っ……え、これが大トロ? ほんとに? いつも食べてるのと全然違う……でもこのお値段じゃ打倒なのかも。あたしは要らない」
「あ、俺は寿司食えないから。生臭いのが無理」
「なんて甲斐のない人たち……」
リーベはタッチパネルを操作しながら、やれやれといった具合に肩を竦めた。
今日はお高い皿が少しだけ安くなる日らしく、人の入りは増加の一途をたどっている。やはり目立つのは家族連れだ。店内ではひっきりなしに子供の喚き声が飛び交っている。
(こんな騒がしいって、ちょっと異常じゃない? 頭痛くなってきた)
崩れた丸文字で書かれた『彼』の欄、正の字のなり損ないをなぞってサナは溜め息を吐く。線の一つ一つ、その聖域を反芻している限り彼女は凪いでいられた。
「未練タラタラでわろけるわ。悔しいのう」
「気を落とさないでください委員長、ミドリさんと同じぐらい好い人がきっと見つかりますから。あなたも余計な挑発しないの」
「チッ、反省してま~す」
同じタイミングで学校を抜け出て来たリーベは、完全にサナに構い倒す気満々であった。元より傷心に付け入る算段なのか、先程から美味しそうに金皿ばかりを平らげている。
サナから見た彼女は、一言で表すと「不思議な女」だ。同時に「気に入らない女」でもある。
否定や説教を遠ざけた関係を構築し続けてきたサナの周囲には、その振る舞いに苦言を呈す人間は存在しない。ましてや面と向かって「お前は病気だ」などと諭してくる狂人など初めてだ。
「でもみどり君の代わりになる人とか存在しないし……」
「へ~。どんな方なんですか?」
「優しい人……かな。クラスでも人気だったよ。所謂清潔感のあるイケメンなんだけど、ちょっと天然なところがあって、なんでもソツなく出来る反面人の言うことを簡単に信じちゃうの。でも価値観が合ってるからケンカはしたことない。会えない時も心は繋がってるし。あ! 実はみどり君って料理が得意でさ、記念日にサプライズでご馳走作ってくれるんだー。あとね……」
「あ、もう結構です」
「怪談話やめろ」
言葉とは裏腹に、リーベの表情は安堵の念に満ちていた。
諫言した側の彼女も様子のおかしいサナに気が気ではなかったようだ。いつもがおかしくないわけではないが、なんせ今までが嘘のように大人しい。
思えば保健室で「幸せにならなければいけない」と涙を流した瞬間から、サナの表情には何の感情も籠っていなかった気がする。それは激情や混乱が過ぎ去ったというより、超過のあまり反映できるキャパシティを越えた、といったありさまであった。
リーベはそんな風に、一つに執心するあまり精神が壊れた人間を、誰より間近で見たことがある。
「今何をしているとか、最近のこととかはわからないんですね。ネトストの方法教えて差し上げましょうか?」
「フツーに引くわ……」
「理想と現実の乖離を抑えられれば、もっと生きやすくなると思うんですよねぇ。自分に都合のいいものしか見れない状態になってるだけですから。まあ、それもそれで仕方のないことではありますが」
「確証バイアスってやつやろ? でもこんな女選んだ時点で大概同類じゃねぇ? 見るからに地雷だし」
「も~馬鹿だな~お前は。神にでもなったつもりですか~?」
味噌汁を啜りながら片眉を上げるケイ。しかしながらこの顔は会話や問答ではなく、周囲や味そのものに気を取られている時の顔である。どうやらお気に召さなかったみたいだ。
「だから委員長も自分の幸福の為だけに、二度と馬鹿な真似しないでくださいね」
(……なんなんだよ。コイツも、あたしよりバカなクセに)
人と並んだ時、サナは度々考えることがある。果たして心なんてものが人体のどこにあるのだろう、と。
なまじ自身の醜さを知ってしまうと、人の性は『悪』だと思わざるを得ない。どうせ意識など矮小な形をしているに違いなくて、それだから脳にも心臓にも、本当の心なんて存在しないように感じられる。
(あたしがこんなんなったのも、全部イジメのせいなのに)
どうして、彼がノートを勧めたか。
そこに馬鹿にされる謂れは無いはずだ。だってミドリはこの世に突然変異して生まれたたった一人の善人で、決して下心はなくて、サナのことを好ましく思うからこそ心配してくれたのだ。
―――その感覚が麻痺しないように、嫌なことは全部ここに吐き出して。
褪せたノートだ。もう使わないから、と譲り受けた水色のリングノート。恋人からの最初で最後のプレゼントでもある。
その日からサナは受けた侮辱を証拠として残せるように、必ず報復する為に名を綴った。愛してやまない彼のことも、同じように私刑の対象として。
しかし……清廉潔白な彼が、そんなことを望むだろうか?
その時サナは気付いた。
否、何故もっと早く気が付けなかったのだろうか。
「その」と言うからにはサナ本人が吐露した苦しみがある。しかし今や彼女は当時の感覚さえ忘れ、吐き出して捨て去るべき感情の方に囚われていた。これでは本末転倒である。
『いじめられるのを普通だと思いたくない』
思い出してしまった。
幼いサナが長い長い癇癪を終え、やっと意味のある言葉を発せられるようになると、ミドリは必ず黙って耳を傾けてくれたことを。
だから彼の優しさだけは、いつ何時であっても鮮明であったのだ。
「あの……すみません。言い過ぎました。あなたにとっては大切な習慣でしたね」
うんともすんとも言わない相手にさすがに焦ったのか、リーベが突然猫撫で声で話しかけてくる。
ただでさえ体調の芳しくないサナは行き詰った表情をしており、途端に返事に窮する様は、執行を待つ死刑囚のような悲壮さがあった。
「……やっぱ帰るわ」
「大丈夫ですか? ちょっと待ってください、これだけ食べ終えてから……」
―――もしかしたら、もう会うこともないかもしれないから。でも大丈夫だよ、見てくれてる人は絶対にいるから。絶対お前は幸せになれるから、だから頑張ってな。
彼が卒業する日。サナの記憶に残っているのは舞い散る桜ではなく、髪のほつれまで生き映した濃い影だった。泣き顔を見られたくなくて、視線を上げられなかった遠い記憶。
それもこれも悦楽に浸っている間は抱き得なかった感覚だ。考えたくないものや楽しくないものは、そういった空間からは一切合切排除される。だからいざ自分に降りかかった時、あれだけ味方だと信じて疑わなかった全能感にボロボロにされたのだ。
(でも、わかるワケないじゃない)
ずっと縋ってきた言葉じゃなくて、自分が吐いた言葉を思い出せたら良かったなんて!
「違う。誰かにこんなところ見られなくないの」
「どうして?」
「アンタと友達だと思われたらイヤだから」
熱々の粉茶を一息で呷ったサナは、それをテーブルに叩き付けるようにしてから席を立った。人混みの中央を掻き分け、通りがかる子供に対してまで道を譲らせている。
無理やりにでも何か食べさせておくんだった……、とリーベは後悔混じりに揺れるツインテールを睨んだ。
「ああいう非常識的な人って、今までどう生きてきたのか不可解極まりないですね~……」
「真性たる所以やな」




