第22話 親愛なる滄海の一粟
―――視界がチカチカと瞬く。平衡感覚の喪失、加えて激しい嘔吐感。世界が遠のくような感覚は、朝陽を直視した際と酷似していた。
「あ……頭が……、ネヤ? ネヤ? 痛い、痛い痛い!」
堪らずその場に蹲ったケイは、どこにいるかもわからない上司になんとか「逃げろ」と伝えようとした。しかし類稀なる自負があった五感も今やすべてが機能せず、満足に舌も回らない。
「緋月、静かに」
「い、なに……? なんか言って……?」
そうして芋虫みたいに這いつくばった姿を、ネヤは渋い顔で見下ろしていた。
「……硬いな、そいつ?」
一方、殴った反動で痺れを起こした手があまりに衝撃的だったのか、アオイは目を丸くして血溜まりに伏せった少年の身体を見つめていた。並みの人間ならまず頸椎を損傷し即死は免れない殴打を、事もあろうに子供の身に耐えられたのだ。
「突然お邪魔して申し訳ない。初めまして、宇宙人保険代表取締役兼、高校で教師をしている者です」
「……???」
「今まで浴室にいたのかな? それじゃあ出られない筈だ。それに成程、言われてみれば確かに魚だね。でも言葉はわかるようで助かるよ」
おもむろにその場に屈み込んだネヤは、お手柄だとでもいうようにケイの耳に手を翳した。爪が掠ったのか大きく切れ込みが入っている。
どこぞの星の変異体である可能性は捨てきれないが、勿論アオイは人間ではない。その事実に気付いたのは彼の功績であった。
距離を保ちつつ特殊な呼吸の仕方を特定したり、常人より遥かに遅い脈拍音を聞き分けるなんて所業、他に誰ができようか。
そうして取り払った使い捨てマスクで顔の血を拭ってやるが、依然として瞳の焦点は合わないまま、未だ嗚咽を漏らし続けている。
「お前、そのガキの親か?」
「まさか。面白い発想だね。親が子を見殺しにするなんて、あってはならないと思うけど」
口元をひた隠した彼女は「まあこの程度じゃ死ねないけどね」と付け足すと、そのままクスクス笑った。ともすれば死ぬより苦しい痛みに涙を流す少年を後目に、あくまで飄々とした態度を崩さない。
「……」
アオイは警戒しながらも自身の爪に付着した血を舐め上げ、どこか抱いた既視感に懐古する。
怯える様子もない、ないどころかもったいぶった話し方で怒りを煽る、その傲慢さ。それが古い知人に重なったのだ。迫害される身分でなく、崇められる対象だった過去を思い出す。
「君って人間じゃないのに、どうしてこんな場所に居るのかな。ああわかるよ、どうせ押し掛けたことぐらい。あんなどこまでも受け身の男に同棲を持ち掛ける胆力は無いだろうからね。その癖プライドだけは高いから、はっきり拒絶もしないんだ」
「待てよ。……お前、”ねや”とかいう同僚か?」
「おや」
金色の瞳に期待を滲ませて、ネヤが心なしかウキウキと話の続きを待つ。
「そうだよ。いや、そうだろう。持ち帰るぐらいにはボクの存在が不可欠に違いないんだから」
「いや、職場に性格悪い奴がいるって、シューがよく言ってるから」
「シュ……!?」
胸を押さえたネヤはあんぐりと口を開けたまま、一歩後退りをした。そうして一度押し入れを振り返る。
「き、君たち、懇意?」
「気持ち悪いなお前」
「いいから答えろ、恫喝して押し入ったんじゃないのか。……違う。そうだとしてもいい。何故、八柱は君に好意的なんだ?」
「フン、わかりきったことを。私が完璧な存在だからだ」
打って変わって今度は著しくアオイの機嫌が良くなる。隙あらば二撃目を加えようと身構えていた手は、今や痛んだ長髪をグリグリと弄繰り回していた。
「あいつも趣味が悪い……」
化け物が住むにはかなり窮屈な空間を見渡す。目に入ってくるのは、溢れんばかりの食品トレーで表面張力いっぱいのゴミ箱や、シンクに放置された飲みさしの発泡酒など。
床に貼り付いてキラキラ光っているのは抜け毛だろうか。薄い水色で、常軌を逸して長い。間違えようもなくアオイのものだ。
さながらマーキングである。
「おッ、わかったぞ。ピンときた。お前さては好きだな?」
「……」
これだから厭なのだ―――侮蔑の表情を浮かべるネヤに、すっかり闘争心を削いだアオイが距離を詰める。
「だから私を探っていたと。どうだ、図星だろ」
「半分は正解」
「強がるなよお嬢ちゃん」
一歩にじり寄り、一歩後退される。
間取りを知り尽くしているアオイに分があるように見えるが、あくまで双方共に機をうかがうのみだ。逆に会話の方が弾んでしまっている。
「そう、最近おかしな行動が目立つから、少し気になっただけ。勝手に死にそうになって、ボクはともかく周りに迷惑だからね。大人ならわかるだろ? 皆と協調しないとさ」
「ああ……やっぱり変なのか、あいつ。私の所為で」
「別に君の所為じゃあないよ。思い上がるな。ボクが言いたいのは、徒に揺さぶったり栄養を偏らせるなということだ。君に思惑がないならね」
「……それだけ、か?」
「そうだ。何か可笑しい? 言っておくが八柱を殺したら相応の対価を払って貰うからな」
馬鹿げた動機も当人にはその異常さが理解できないらしい。
同僚を案ずるあまり人生を棒に振っている事実も、巡り合わせ次第で彼女がアオイを手にかけていたかもしれない可能性も。
「なァんだ~。じゃあ殴り損だったな」
拍子抜けしたアオイは最早呆れの感情が大半を占めていた。ふと視線を下に遣ると、顔面蒼白のケイがただただ恨めしそうにこちらを見つめている。
いつ意識が回復したのか定かではないが、恐らく一番そう指摘してやりたい立場にあるのは彼なのだろう。
「こんなに女の趣味が悪いなんて、八柱には全くガッカリだよ。失望した。用は済んだしもう出るよ緋月、いつまで寝てるつもり?」
「ふ、ふざけんな……」
かろうじて発された嗄れ声は、それだけで喉を酷使するらしい。激しく咳込みながらなんとか上体を起こした彼は、大いなる呪詛を込めて仁王立つネヤに舌を打つ。
「仕方ないな……、よく頑張ったね緋月。痛かったでしょ、でもその痛みはきっと糧になる。君たちは苦痛を経験して初めて成長できるんだ。だからいっぱい我慢しないとね。ほら、帰って仕事の続きをしよう」
「うッ……」
やれやれというように腕を引き上げたネヤは、慈しむように頭を撫で傷痕にそっと息を吹き掛けた。生温い風に晒された神経がシクシクと痛み始める。
「待て金色」
開けっ放しの玄関から見える空は暗く、もう夕日は落ち切っているようだ。そろそろキズミが帰って来る頃合いである。
流れ込む寒風にアオイが思い立ったように言うと、ネヤは白々しくも困り顔で振り向いた。
「お断り致します。管轄外なので」
「なんの話だ。お前、どうしてそうも人間に肩入れする? お前は人になりたいのか?」
「……勝手に仲間意識を持たないで貰えるかな。ボクが目を掛けてやらないと、勤労主義の畜生共は野垂れ死んでしまうんだよ。ただそれだけ」
おどろおどろしい怒気を纏いながら部屋を後にするネヤ、その背中は華奢で儚く、ケイを引き摺る腕はか細い。化け物と称されるアオイとはまるで対極の出で立ちだ。
曰く、若くて優秀な新人であるらしい彼女は、何かしら信条があって八柱に執心するのだろう。互いに盲目的な評価の高さがまたいかがわくもある。
―――もう人に擬態しようとも、人を羨ましいとも思えなくなって久しい。
アオイは事件現場と化してしまった血痕に、なんとなく素足を浸してみた。
「熱っ」




