第21話 親愛なる滄海の一粟
(予想はしていたが……)
それは例えば、『食』であった。『衣服』や『SNSの投稿』、日々の『表情』に至るまで。
大まかにフォルダ分けしてみても、以前と比べたらまるで別人なのである。それほど長い付き合いのないネヤが気付けるのだ。―――八柱が最近、やけに機嫌が良いことくらい。
ジリリリリ。
道すがら、彼女はカバンの中からスマホを取り出した。画面に反射した晴れた夕焼け空は鮮やかで、昼間は夏日と遜色ない気温であったことを思い起こす。
「社長お~!」
ネヤが雲の少ない五月晴れを仰いでいると、丁度歩道橋の上からこちらを見下ろす顔見知りと目が合った。
コンビニ袋と共に無邪気に振られる細腕、顎までずらされたマスク。夕空に溶け込んでしまいそうな髪色をした少年、ケイは、耳元に当てたスマホをそのままに大声で声を掛け続ける。
「さっきコンビニでレシート断っちゃったんやけど、これ経費で落ちますかー!?」
「緋月……そこから話しかけるな。不愉快だ」
太陽と被った顔が眩しくてぐっと目を細める。手の中へ囁くように不満を零すと、そんなことわかるはずもないのに、上方から息を呑む音が聞こえた気がした。
「あ、失礼しました」
突如彼女の頭上を影が横切る。
横断歩道橋の頂上、更に高い手すりに昇ったケイがそこから飛び降りたのだ。
あっという間に歩道のアスファルトを捉えた足裏が、衝撃を和らげるため数メートル地面を滑る。風を伴って巻き上げられた髪、背広の裾、領収書のない麦茶。ネヤの目の前で順番に常態へ落ち着くのに、彼が落下して来てから十数秒とかからなかった。
「せっかく買ったのに居留守使われて……あれ、切れとる」
慣性を完全に殺しきったケイが、何事もなかったかのようにトコトコと歩み寄る。そうして今更になって通話の切れた電話口に気が付くと、改まって引き下ろしていたマスクを正した。
「居留守? それは確かなのか?」
「おう。チャイム鳴らしても全然出て来なかったぜ、絶対居るのに。あと周波数見た感じ、一人暮らしでもなさげ」
「まだ家の中か?」
「多分な。暫く張ってみるか?」
「いい。直接会う」
彼は不思議に思った。人に擬態する宇宙人を見分ける方法はなく、なんの力も持たない原住民の地球人が不安に思うのはわかる。
しかしネヤは『火星人』だ。
熒惑を冠する組織の主であり、通常下っ端がこなす身辺調査など到底役不足な仕事である。
「なあ。ちょっと思ったんだが、契約者が宇宙人を囲ってんじゃないかって疑ってんだろ? なら先に本人を問い詰めた方がいいんじゃないか?」
「口を割るまで拷問でもする? ははは。ボクに手を汚せって言いたいのかな。血気盛んも大概にしておけ」
「そこまで言ってねぇし……」
飄々と追及を躱す態度にいつもと変わった様子はない。思い過ごしか、とケイがモヤモヤ考える内に、気付けば目標のマンションに着いていた。
部屋番号を確認した彼が耳をそばだてると、確かに内側から一人分の鼓動音が伝わってくる。
こくりと頷いたケイに、ネヤは改まって扉の前に佇んだ。
「八柱さん。保険会社の者です、開けてください」
建前のノックが繰り返される間も、辺りは学業や仕事を終えた人々で段々と活気づいてきている。
同じ階に住むこのマンションの住人もセールス紛い、もっといえば異色の容姿を有した二人を、部屋に入るまでの数刻思わずといった形で目で追っていた。
「人が増えて来たな……」
「おい、外から鍵だけ壊せ」
「え? なんで俺? 嫌なんですけど。自分でやれよ」
「いいから早くして貰える?」
「……」
気圧されたケイが渋々ドアノブを握るが、鍵のみを破壊して部屋に入る術など彼が知るはずもない。というより素人が都合よく開錠出来るわけないのだ。
故に力技で玄関扉をひらすらに押し込み、扉を固定しているボルトを折るという荒業に打って出た。徐々に金属が引き千切られる、日常ではおよそ聞き馴染みのない異音が廊下に響き渡る。
「おや。開いてしまったか」
「は!?」
無理やり捻じ切られた側面の器具を指して、ネヤが「あーあ」と肩を竦める。そうして非難をしておきながら、護りを失った部屋へ悠々足を踏み入れた。
「つくづく杜撰なセキュリティで呆れ返るよ。けど八柱の家に強盗でも入ったら大変だ、ボクが見張ってあげないと」
(マジでなんなん? こいつ)
「緋月、危ないから離れるな」
土足で躊躇いなくフローリングを踏み付けながら、家中隈なくを睨め付けるネヤ。カーテンの閉め切られたリビングは暗く、どことなく湿り気を感じる。暫くうろうろしたかと思えば、ふと押し入れの戸へゆっくり手を掛けた。
「うわあ……」
まず目に飛び込んできたのは、その乱雑具合であった。
上下で二段に分割されていたと思しき収納棚は、どうしてか見るも無残な切り傷塗れになっている。猫が爪を研いだような無数の跡がそこらに散らばり、しまってある敷き布団や毛布のどれもが引き裂かれていた。
奥行の隅にはこびり付いた血の跡もある。
「なんこれ~……、も、帰っていい? しゃちょ……」
「誰だ」
獣の唸り声が耳朶を掠める。いきなり湿度を増した室内の一帯に二人が振り返ると、そこに、一匹の化け物が立っていた。
「でっか……」
思わず口に出すほどあらゆる意味で大きい。それは身体中に鱗を纏った、大きな”人”の形をした生き物だった。額から突き出た歯列から、絹糸のような雫がポタポタと間断なく落ちている。
彼らが呆気に取られていると、化け物はふっと微笑んで胸の前で両手を組んで見せた。敬虔な信者が祈りを捧げるようなポーズに、ついつい意識がそちらへ向かう。
しかし直後、目にも止まらぬ速さで両拳が振り上げられた。
やはり風を切りながら降り迫った巨大な狼藉に、ネヤは咄嗟に逃げようとしたスーツの上襟を掴んで引き寄せた。
「いッ……?」
頭蓋が陥没する音だろうか。
金属が砕けるより鈍く重い音の感覚に、ケイは信じられない思いで自身の目を拭った。その手にべったりと血が絡みつく。
肉盾となった彼の前頭部は大きく歪み、こめかみから額にかけて夥しい量の血を噴き出していた。
「こんばんは。君がアオイさん? 思ったより大きいね。それに常識知らずだ」




