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第19話 厭勝モラトリアム


「た、ただいま……」

「おう」


 今日は散々だった―――そう自棄気味に家の玄関を開けるなり、相変わらず目のやり場に困る膚色に出迎えられる。


(やっぱ凄いな)


 甚平姿のアオイは何を考えているかわからない真顔のまま、自身の爪を巧みに用いて圧力鍋の蓋を摘まみ上げている。

 小さなテーブルに配膳された夕食を一望した八柱は、改めて彼女の常軌を逸した器用さに感心した。


「オイ何突っ立ってんだ。座っとけ」

「ああ、はい」


 居間では一つしかない座椅子に背を凭せ掛けたキズミが、うつらうつらと舟を漕いでいた。なんでも最近よく眠れていないらしい。


(環境の変化で精神的な負荷が大きいのか……? 布団で寝かせてやればいいのに……)


 しかしながら口出しでもしようものなら、暴力的な反発が飛んで来ることなど想像に容易い。


 家の様子から見て、どうやらアオイは布団と風呂を行き来するだけの怠惰な生活をしているらしい。家事も料理だけはしっかり務めてくれているものの、逆を言えばそれ以外は八柱やキズミを顎で使うばかりであった。


 要は、常々不満を口にする割に、彼女は娘の食生活すべてを把握並びに管理しているようなのだ。

 しかも無精者の癖して大半が手作りなのだから、だいぶ愛情表現が婉曲だと言わざるを得ない。……皿上の彩りの悪さを鑑みれば、食育は失敗している気がしないでもないが。


 何よりアオイは考えなしの無法者ではない。だから妻も子供もいた試しがない八柱 脩29歳には、できることなど一つもないのだ。


「お前甘いの食べれるか?」

「ん? 卵焼き? 全然食べますよ、凄い美味しそう」

「うぎぎ……」


 ギョロリと覗き込む大きな瞳は、間近で合うと自分の顔がくっきり映るほど透き通っている。故に八柱は思った以上に自分が嬉しそうな表情をしていることに気付き、心の中で密かに驚いた。


 ふわりと噎せ返るようなはちみつの甘い香りが鼻を衝く。追加でプレートの脇に追いやられたトロトロのたまご焼きが、机上でキラキラと光を放っていた。


「うまっ」


 行儀悪く、手掴みでその一切れを口にした八柱は感動を隠さぬままアオイに目を遣る。

 すると皿によそったきり一挙手一投足を眺めていた彼女は目を更に見開いて、すぐにフニャフニャと口角を緩ませた。


「だろ?」

「うん」

「黙って食え」

(照れ隠しはわかりやすいのになぁ)


 獣のような耳がなくても、例え言葉を介さなくても、彼女の心情は多少なりとも理解できる。それはアオイに真の意味で裏表がないからだ。


 ―――職場でのネヤのキンキンに冷え切った目を思い出す。

 揶揄うというには些か()()な金色は、嫌味な物言いを躊躇いもなくこちらに投げかけるのだ。


「占い? ……まあ、君ほどの世間知らずなら特別御し易いだろうね。忌憚のない意見というだけで信用を得られるんだから、金蔓としては優秀なんじゃない」


 忖度もされなかったという話題を振っただけでこんな言い草だったのだから、なし崩し的に教え子と同居しているなどと露顕した際の侮蔑の雨など考えたくもない。

 八柱は自分が日陰の内の人間だと自覚している。しているからこそ、まだうら若い彼女のサポート役として副担任を勤めていると、度々感じるのがこういった意思疎通の難しさであった。


 それに、どうしたってアオイと比べてしまう。

 きっと暴力しか知らない彼女は、これほど醜い悪意の向け方をしないだろうから。


「んん……」


 温かな匂いにつられ、ほとんど倒れるように眠っていたキズミの目蓋が億劫そうに持ち上げられる。かと思えば傍でネクタイを緩めていた八柱を至極嫌そうな目つきで睨み、何を言うでもなくゆらりと立ち上がった。


「わたし、後で食べる……」

「ああ」


 八柱が「待って欲しい」と言いあぐねている内に、キズミは迷わず玄関の扉を押し開いた。まさかこんな時間から何処か出掛けるつもりか、と危惧する心と首を突っ込むべきでないという理性が何度も何度もせめぎ合う。


 結局彼は未だ答えを出せないまま、一人でに鳴る施錠の音を聞いてしまった。


(それにしても……)


 家でのキズミは極端に口数が少なく、学校での出来事をこれっぽっちも話さない。加えて引きこもりがちなアオイとは対照的に、日中の多くを外で過ごしているようだ。

 それは学校で見受けられる彼女の印象とは、どことなく異なるものであった。


「臥竜丘さんって、プライベートじゃ物静かだよなぁ」

「根が暗いと書いて根暗なんだ」

「オンオフがきちっとしてるんですよ、最近の子は」


 生徒相手なら一線引いた対応が望まれるものの、キズミの場合レアケースだ。教え子であり被養育者であり、他人でもある。

 それにもう高校生だ。過剰に干渉するのも躊躇われる。


「いやでも高校生か……そりゃ自分の部屋もないのは可哀想だよな……」

「嫌なら出て行けばいいだろ」

「そう言ってる間に自立しちゃって、すぐに寂しくなりますよ」


 子育てを終えた主婦だったか、とにかく誰かの受け売りの言葉だった。

 軽い冗談っぽく言い放ったそれに、アオイはキョトンと呆けた顔をする。


「うぇ。なんでだ? シューがいるのに」

「え? いつまで居座るつもり?」

「いィーだろいつまでだって」

「良くねえよ」


 かんらかんら、歯を鳴らして豪快にアオイが笑う。その無邪気な笑顔に、八柱は色々と心配事をしていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。

 そもそも居候を許している表向きの理由は「キズミへの同情」だ。彼女が独り立ちすれば世話を焼く理由も義理もなくなる。

 ならばそうしてくれた方がいいのに。

 どうして気を削ぐような言動をしてしまったのだろう。


「ハッ、臥竜丘も所詮私が生かしてやってる小物に過ぎん。だから今は好きさせておけ、それこそ成人するまでな」


 二人以上の同席を想定されていない折り畳み式のミニテーブルは、そこにアオイがいるだけでなんとも窮屈そうな印象を受ける。


(結婚は人生の墓場か……)


 帰れば誰かが必ずいて、でも彼女らは八柱を待ってなんかいない。キズミは乱高下の激しい二面性で彼を拒絶するし、アオイは押し入れで延々ゴロゴロしているだけだ。

 だけど婚約したわけでもないのに、そういう生活がとんでもなくかけがえのないもののような気がして、墓場が必ずしも悪だと思えなくなった。


「貴女が不甲斐ないせいで子供に苦しい思いをさせてるんですよ。なのに、その言い方はないんじゃないですか?」


 昨日までの彼ならばこんなことは絶対に言わなかった。それが自己犠牲というならそうなのだろう。

 なんだかんだ押せ押せで無茶を通してきたアオイは、唐突に固くなった空気に少しだけ驚いた風に八柱を見た。


「なんだ? 突然」

「もし気を悪くさせたらすみません。ただ……きっと、アオイさんの強さの指標って、膂力とかにあると思うんです。でも人間はそういうのじゃなくて、別に、弱くたっていいんですよ」

「おいおい、どうした? やけにあいつの肩を持つな、結局弱いし。いよいよ可哀想にでもなったかァ?」


 馬鹿にしている、というよりシリアスな雰囲気が鬱陶しいのだろう。彼女はソワソワと落ち着きなく食器の縁をなぞり、カチャカチャと音を鳴らしては気を逸らそうとしている。


(能動的に……)


 八柱は垂れ流しになっていたテレビの電源をオフにした。すると皿を弾く爪の音も段々と小さくなって、やがて途絶える。


「臥竜丘さんは貴女以上に苦労してるし、世の中のことも理解してる。偉そうに仰っておられますけど、じゃあ貴女は自分でしでかしたことの責任を果たしたことがあるんですか? 人に迷惑を掛けておいて矢面に立たせるのは子供なんて、恥ずかしくないんですか」

「……そう見えるか」

「はい」


 自制の効かない八柱の右手はブルブルと震えていた。左手で無理やり押さえつけ、いつ恐喝なり拳なりが飛んで来るか吐きそうになりながら歯を食いしばる。

 そんな決死の覚悟も露知らず、当のアオイは心なしかションボリと気落ちするだけであった。


「もういい、喋るな。少し頭を冷やしてくる」

「えっ!」


 皿に盛られた肉の塊を丸呑みした彼女は、フォーク代わりに突き立てた自身の爪を元気なく舐め取った。血なのか肉汁なのかわからぬ液体がポタ、と机に滴り落ち、八柱はすかさずボックスティッシュを差し出そうとした。

 しかし、その手はするりと避けられてしまう。


「拭いておけ」

「はい……じゃなくて! アオイさん!?」


 もそもそと押し入れに巨体を押し込んだアオイは、呼びかけを一切無視して戸を閉めてしまった。不貞腐れ方が似たもの親子だなとどうでもいい発見にある種感動してしまう。


(ああやって入ってるんだ……! なんか、香箱こうばこ座りみたいな……)


 コンパクトに手足を折り畳む様は、猫やうさぎといった彼女から遥かに遠い存在を想起させた。

 期せずしてぐっとくる仕草を目の当たりにした八柱は暫くそれで頭を一杯にしていたが、我に返って先程の一方的なやり取りを省みる。


(こ、これで良かったのか……? いや、先に臥竜丘さんか)


 必要最低限の貴重品だけを持って、最後に車のキーを手に玄関の扉を開ける。外は思ったより暗くて、淀んだ空気は今にも雨が降り出しそうだった。


「先生」


 キズミだ。

 彼女は部屋の前の共用廊下にうずくまり、後悔の滲んだ瞳で八柱を見上げている。


「わたしのこと言ってたんですか? ママさん、どんな感じでした?」


 鼻に掛かった声色が僅かに揺れる。今にも泣きそうに俯いてしまった彼女に、ドアノブを握ったままの八柱は唖然とその小さなつむじを眺めた。

 いつだって壁を設けていたキズミが、こんなに弱った様子を見せるのは初めてなのだ。


 室内を一度振り返った彼は、少しだけ冷えた頭をフル回転してなんとか慰めの言葉を紡ぐ。


「別に、怒ったりはしてないよ。ただ自分が、少し言葉が強過ぎるかと思っただけ。……風邪引いちゃうから中、入りな」


 漏れ出た光へと誘うように、命令にならないよう八柱が声を掛ける。

 けれど再び目が合ったキズミの表情は、酷く険しかった。


「そういうのって、あくまで先生の個人的な価値観ですよね。どう考えて貰ったっていいですけど……でも、それをママさんに強要するのって、ちょっと酷くないですか?」

「…………そう、だね。ごめん」

「いえ……」


 本当は言うつもりのなかった思いなのだろう。キズミは咄嗟に口を覆って、誤魔化すように部屋の中へと飛び込んだ。よくよく見ると引っ繰り返ったローファーはかかとの縁が潰れており、最初から遠くへ行くつもりもなかったことが窺える。



 八柱はバクバクと脈打つ自らの心臓を押さえた。

 尊い親子愛への羨望か、新たな一面を垣間見れた喜びか、とにかく筆舌に尽くしがたい歓喜に全身が打ち震える。


 そもそもとして価値観の違い以前に、根本から外野には理解し得ない領域の話である。当人たちもわかりきっているからこそ、意見の擦り合わせを拒んでいるに違いない。


 ただ、だからこそ「もっと知りたい」「わかってあげたい」と、より一層に思うのだ。



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