第18話 厭勝モラトリアム
「リーベになんか用?」
噂の談話室を訪れた八柱を出迎えたのは、見たこともない少年であった。制服を身に着けているわけでもなく、性の判別すらつかないほど中性的な子供。
(なんで子供が?)
テスト期間中に恐縮ながらと罪悪感に沈んでいた表情が、理解し難い状況に思わず引き攣ってしまう。
「ええと……」
「ん? あ! お前……お前か!? 入れ入れ、中で聞くからよ!」
「……?」
唐突に何かを思い出した様子で手を打った少年は、半ば無理やり八柱を部屋に引きずり込んだ。
大人顔負けのパワーに面食らっている間に、「まあ座れよ」と砕けた口調でソファに促される。
「うんうん、クソファッキンマーシャンのドブ臭がする」
年端も行かない少年に襟ぐりを嗅がれる八柱の心中は穏やかでない。ギョッとしつつ適切な言葉が見つからず黙っていると、少年はトスンと身を投げるようにして対面に腰を下ろした。
「後は血だな、後でお前の指切り落として中身見るから。逃げんじゃねえぞ」
そのままルンルンとご機嫌な様子でローテーブルへと手が伸ばされる。少年の前にはパッケージが無残に裂かれたロールケーキが一切れ鎮座しており、すぐ横におざなりに丸められたコンビニ袋が転がっていた。
(なんなんだ? これ……。夢みたいな……)
八柱は物騒な脅迫と長閑なおやつ風景に、それはもう盛大に脳がこんがらがった。あまりの突拍子のなさに、実は今朝起きた事故が盛大なもので、自分は今生死の境を彷徨っているのかと我が身すら疑う始末である。
まさか不幸を水で薄めた延長が、この混沌とした状況だとでもいうのだろうか?
「あの、梨辺さんは……」
プラスチック製のフォークはスイーツ用の小さいものだ。少年はそれを巧みに使って、一本のロールケーキをゆっくりゆっくり分解していく。
パスタのように巻き取られたケーキは、最早「ロール」と形状し難い何かになっていた。
「そういや、なんでリーベ殺さなかったん?」
「はあ!?」
「だってやろうと思えば出来ただろ。その場で処理した方が後腐れもないし。なんで生かしておいたんだ」
「こ、殺すって、そんなことするわけないでしょ。ゲームかなんかの話してます?」
「ふうん。お前って神様信じてるタイプ?」
すっかり食欲のそそられないロールケーキに改めてフォークを突き刺した少年は、垂らすように掲げてからそのスポンジに齧り付いた。案の定口周りがクリーム塗れになっている。
「信じてない、って言い切ると、少し変になるんで……。その時々でって感じですかね」
「どゆこと?」
「え? ああ……日本って宗教観適当なんで。葬式では仏教に則るけど、クリスマスとかハロウィンだとかは盛大に祝いますし」
「くりすます? とか、はろいんって何?」
「……キリスト教のお祭り、かな」
「キリストきょう?」
ふと『なぜなぜ期』という身も蓋もない言葉が八柱の頭を横切った。
失敗をあげつらい徒に時間を浪費させる上司がいる一方で、この少年は純粋な知識不足を補おうとしている風に見て取れる。
「キリスト教っていうのは、イエス・キリストを救世主として信仰する宗教のことです。『隣人を愛せよ』とか、聞いたことありませんか?」
この世に蔓延る多くの知識は、大概得るために偶然を要する。知るきっかけが限られている上、それが誤りだとして気付けないことさえある。
だから八柱は教師になったのだ。
「救世主」
「あ、人々を導いて救う人、という意味です。要は神様」
つまるところ、彼は今とても活き活きしていた。すっかり疑心が抜け落ちた八柱の行き場のない承認欲求は、丁度おやつを食べ終えた少年へと一身に向けられる。
「神がこんな穢れた地を這うわけねえだろ。平和ボケして造物主のことも忘れちまったのか?」
風もないのにセピア色の髪がフワフワとざわめき出す。
見ればぽろ、と手から零れ落ちたフォークの尻尾が、指先へ吸い付くようにして宙に浮いていた。それは第一関節を軸に緩慢とした動きで指の縁を辿ると、ギロリと尖った先を八柱に差し向ける。
「俺らが生き死にを繰り返さなならんのも、元はと言えば全部ヒルマの所為だろうがよ」
「え。蛭閒?」
「……!」
支えを失ったフォークが、今度こそ重力に従いからんとテーブルに落ちた。
「音が違う……」
少年はしまった!という具合にサッと顔色を蒼褪めさせた。右往左往していた視線が八柱の方向、正確にいえば彼越しの何かに注がれ、呆然と凝視される。
生徒の名と同一の語句に図らずも口を滑らせた八柱は、少年の異様な慌てぶりに堪らず、ゆっくりと背後を振り返った。
「あれ、先生。どうかしたんですかぁ?」
気配もなく立っていたリーベに声を掛けられ、ビクリと大袈裟に肩が跳ねる。気まずさからか、彼女もやや怯んだ様子でかち合った視線を即座に逸らした。
「梨辺さん、この子が今……あれ」
「やだなぁ部外者がいるわけないじゃないですか~怖いこと言わないでくださいよ~」
不自然な高さで固定された手をヒラヒラ振って、リーベが不気味なほど陽気な早口で否定する。
現に彼女の言う通り、数秒前まで目の前で狼狽していたはずの少年の姿は、跡形もなく消え去っていた。
「いやでも、本当にケーキをこう、啜ってたんだよ」
「何言ってるんですか?」
(……何言ってんだろ俺)
「私に何か御用があったんじゃないんですか? ああでも、占いでしょう? 相談に来てくださったんですね、先生。嬉しいです。是非聞かせてください」
「まあ、実は……」
神経の昂りが見せた幻覚だったのだろうか。不可思議な体験だったような気もするが、とにかく今はリーベである。彼女は少年がいた場所に躊躇いなく腰を下ろし、散らばったゴミを片手で脇に追いやった。
「どうぞ」
ローテーブル上に手際良くタロットカードの山を置いたリーベが、そう言って促すように手のひらを差し出す。
すると掛け声を受けた八柱は、逡巡しつつも悩みを打ち明け始めた。
「どうにも不運続きで、先日から……ええと、ペット、というか。そう、ペットを飼い始めたんです。それからうまくいってなくて、今日も……。正直、このままでいいのかわからなくて」
八柱は働き盛りの成人男性だ。仕事への情熱はなく、人間的魅力も薄い。平々凡々とした、どこにでもいる社会の歯車である。人物を表現するのに「ない」という言葉は不適切かもしれないが、彼にはとびぬけた正も負もないのだ。
一つ特異な点を挙げるとすれば、ある日を境に右手の握力を失っていることくらいか。それだって過去に起きた災難で、とりわけ珍しいものでもない。
「お世話がストレスなんですか~?」
「いやまあ、それはいいんだ。ただ、このままでいいのか不安で」
「そうですか~」
彼の考える全ての災厄のきっかけは、偏に家に転がり込んで来た化け物によるものであった。
アオイと関わりを持ってから天井は破壊され、犯罪者を匿う嵌めになり、常々神経を擦り減らして脅かされる日々を送っている。
それだって時が過ぎてみれば案外、なんてことないいつもの事になりつつあるが……。
輪を描くように混ぜ合わされたカードたちが、リーベの手でよくよくシャッフルされ再び一つに合わされる。
その滑らかな手付きを漫然と眺めていた八柱は、ふとピタリと手を止めた彼女の顔を見た。背を丸めて作業を行っていたリーベの上目遣いと目が合うと、にこりと上品に微笑まれる。
「ペット……へえ、随分我が儘なんですねぇ。扱いに困ってるんじゃないですか? 本当はもう、手放したいと思ってます?」
とんでもない台詞に肝が冷えた。
(スピリチュアル系ってあまり信じてなかったけど……、こんな怖いもんだったのか)
次いで山から二枚カードを選び抜いたリーベは、描かれた絵を見て『正位置の戦車』と『逆位置の審判』を読み上げた。
「まああまり興味もないでしょうから、ある程度省略して説明しますね。まず前提として、結果を真に受ける必要はないです。それを念頭に置いて聞いてください」
「は、はい」
「……あなたは及び腰を装っていながら、諦める選択をしたくないのですね。安心してください、その意志は相手に伝わっています。信念を貫くと良いでしょう」
リーベは人差し指で『戦車』の縁をなぞり上げた。そうしてホッと表情を緩ませる八柱の、その挙動、仕草、筋肉の動きを観察する。
「でも面倒事を後回しにしがちですね~、現状に執心せず能動的に行動しなさい。自己犠牲の精神で成り立つ関係は長続きしません、あなたの精神は着実に擦り減っています。また、その円滑なコミュニケーションを図る器量が、時に『隠し事をしている』と見なされ不信感を与えているようですね」
「不信感……?」
「あと見返りを期待したり見栄を先行すると、非常に良くないです。まあ日々が非日常に見えるのは、プレミア感のある今だけですよ~ってことですね」
「なるほど」
自身の性格をとびきり加味された内容に、八柱は心底から感嘆する。せいぜい一か月もない付き合いしかないため、これほど真に迫る進言をされるなど思ってもみなかったのだ。
年齢の割にさっぱりとした、洒脱さを感じさせる言葉選びが、また彼の深層意識にぐさりと刺さる。
「それと、言いたくないことに関してはそのままそう仰ってください。嘘を吐くのは精神的に負担でしょうから」
「うっすみません……!」
どうやら天才はなんでもお見通しらしい。困ったような笑みで告げるリーベは、今まで見たどんな生徒より笑顔慣れしていた。
単純なスキルよりコミュニケーション能力を求められる稼業は、恐らく想像もつかない苦労があるのだろう。客から信用されるより、客を信じる方が難しいのかもしれない。そんな擦れ方が垣間見える。
「……はい。とりあえずここまでです。また何かありましたらご相談ください」
(現状に執心せず……)
心の内で助言を反芻する。言われてみれば確かにそうで、本当のところ八柱はアオイやキズミを未だ許してなどいなかった。
なのに、どうしてこうなってしまったのか。
哀れなキズミへの同情心だけで、果たして今までの平穏を捨てられるものか。それは恩返しや負い目を期待した、所詮姑息な言い訳ではないか。
彼は自らの右手を見た。
思うように動かないそれは、他でもない八柱が無力である証である。
(そうか)
誰かに頼られたかった、からなのだろうか―――。
***
「……慧、もう出て来て大丈夫ですよ」
一人、誰に言うでもなく呟かれた声に、ガタガタ、と天井裏がにわかにざわついた。次いでダクトからひょっこり顔を覗かせたケイは、リーベと目が合うや否や頭に血が上る体勢のままクシャリと表情を歪める。
「勘が鈍ってるわ、俺。ほら、人型は脳味噌小さいから。確か反物質でいられんくなった辺りで太陽ができたから、そっからナーフされてるし……」
「あのぉ私、宇宙の神秘とか興味ないので。そういうのいいです」
「アッハイ。すみませんでした」




