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第16話 ペンローズの悪夢旅行


「ママさん! ママさんママさん! 見て、怪物がうとうとしてる!」

「怪物?」


 呆れた目を向けるアオイに、幼いキズミはそれでも必死に月を指差す。


「ほら、あの目! 見て!」

「あれは月だ」

「つき!?」


 その時、幼いキズミの中のキズミは「ああ、これは夢だ」と思った。


 こちらに来たばかりの頃、彼女は夜空を一枚の怪物だと勘違いしていた。その月とやらが目で、もやもやとした星々を伴った、大きな大きな生き物なのだと。

 そうして思い違いを拙い語彙で説明する内、真相を察したアオイは初めて聞くぐらいの大きな声でその勘違いを笑い飛ばしたのだ。


 当時のキズミは馴染みのないその笑い声に恐怖したものだが、今はまたああして思いっきり笑って欲しいと、そう切に願っている。


(本当に、そう見えたんだよ……)


 そろ、と辺りを窺うと、空も地も何もかもが真っ暗だった。かろうじて明るい月はベールを被ったみたいに薄ぼんやりとしていて、酷く視界が悪い。しかも足元は水溜まりでビチャビチャだ。


「どうしてそう思ったんだ?」


 いつの間に傍らで座り込んでいたアオイが、覗き込むようにして問いかけてきた。

 大笑いの余韻を帯び、いたずらっ子のような、少しだけ意地悪な笑みを浮かべている。


(あれ、おかしいな)


 いつもなら面倒臭いとかで、他愛無い雑談にもまともに取り合ってはくれないのに。そう、現実の彼女はもっとキズミを適当にあしらうのだ。悲しいかな、こんなことで夢だと念押しされるとは。


「だって目が……」

「どうして目だと思った?」

「どうして……?」

「何故答えられない?」


 ハッとしてそちらを見ると、母はもう笑っていなかった。


「お前といると退屈だ」


 頭の中で「言うな」、と予感した言葉が、アオイの口からそっくりそのまま吐き捨てられる。


 それはキズミがこれまで目を逸らし続け、有耶無耶にしてきたものだった。

 退屈で無個性で、誰の記憶にも残らない。そんな道端の石ころになりたくないという、強迫観念に似た偏見。


(面白おかしくしてないと、みんなに埋もれちゃうでしょ……? 竜なのに……。わたしだってママさんみたいだったら、もっと……)


 母のように硬い鱗も、色鮮やかな髪も、食事時誤って食器を粉微塵にする鋭い牙も何もない。ましてや何をしなくても畏怖と関心を向けられ、話題をさらう圧倒的な存在感も。


 それが、キズミの羨ましくて堪らないものの正体であった。


(……一緒にいたいだけなのに)


 失望されたくない、捨てられたくない。ずっと自分を見ていて欲しい。

 増幅する気持ちの悪い感情に、堪らず立ち去ろうと二の足を踏んだ。蹴り上げられた水滴がパタリと足首にかかり、ひやりとした感触に一瞬ドキッとする。でも夢の中なのだから当然本物ではない。


 ふと視界の端に、今まで殺して来た人間たちが現れた。

 現れた、といっても彼らはユラユラと陽炎の如くその場で揺れているだけで、やはりどこかぼやけて明瞭でない。


 夢たる所以なのか、そこにあるはずもない八柱の姿を見かけた気がして、キズミは急に嫌な気持ちになった。


(どうせ殺すんでしょ)


「ああ」


 月が生き物ではないと知るより前、物心つく前から無軌道な生活をしていた。捕食者たるアオイは人間を威圧したり恐喝したりして居場所をつくり、最終的には殺して奪った。

 だからだろう。キズミはずっと、母のお荷物でいたくなかったのだ。


「臥竜丘、こっちに来るよな?」


 絡みつくような視線の中、アオイは期待に満ち満ちた目でキズミを仰いでいる。

 なんだかんだ『家族』なのだから、今までの暴言も乱暴も、過ちの全てを許すべきだ。……根拠のない希望はそんな掌返しにも見えた。

 他でもないアオイこそが家族だからと乱雑に、疎ましいと遠ざけていたにも拘わらず。


「……そうだ、目。初めて見た時二つあったから、だから目だと思ったんだよ、わたし」

「二つ?」

「そう、ああいう感じで……」


 あの日のように遠くを指差す。死者を示したキズミは、生まれて初めて見た空を思い出していた。

 アオイの大きな黒い瞳もそれはそれは美しいが、もっとまんまるで眩い光を放つ目玉。()()に映りこんだ月は、二つ揃って確かに彼女を見下ろしていた―――。


「臥竜丘?」

「……」


 足元に蟠っていた水溜まりが、どんどんとその水嵩を増していく。

 蠢く波は寄る辺なく漂っていただけの死者たちを流し去り、夢の中に瀰漫びまんする不穏な空気を象徴するかの如く手をすり抜け、その底が見えない。


 異様な光景に恐れをなしたキズミは、黙って後退りをした。

 すぐ傍で座り込んだままのアオイを置いて。


「おい?」


 ……キズミ自身何故一人で逃げようとしたのかわからないが、とにかく「溺れてしまう」と思ったからとしか言いようがない。


「なあ臥竜丘、お前ママさんのこと大好きだろ?」

「うん」

「死んじゃうよ?」

「……」


 いよいよアオイの顎先を波打った水が掠めた。彼女はパタリと口のあわいを閉じて返事を待つだけで、立ち上がるどころか身動き一つしない。


 ―――とりあえず助けないと。

 そんな一心で手を伸ばす。


「全部お前のせいだ」


 いつの間に近付いていた大波が、怒り狂った様子で彼女ら二人に覆い被さった。






「ヒッ……! ……はあ、……はぁ」


 辺りは静まり返っていた。室内は暗く暖かい。

 掛け布団を手繰り深呼吸をしたキズミは、目が覚めたことに心の底から安堵した。


(怖かったぁ……)


 段々と形を失くしていく世界を思い出してしまい、ぶるりと身震いする。

 ふとギリギリと激しい歯ぎしりの音に、そっと押し入れの方を見た。アオイが寝入っているのだろう、今はその音ですら恐ろしくて仕方がない。


「臥竜丘さん?」

「……」


 寝室を出ると、キッチンで八柱が湯を沸かしていた。ふわふわと昇る湯気に唾を飲む。


「眠れない? お腹空いた?」

「……トイレ、に」

「そっか。足元気を付けてね」

「ぁい……」


 普段は鬱陶しいだけのお節介がジンと胸に沁みる。勝手に夢で悲惨な姿にしてしまった手前、ほんの少しだけ普段の態度に申し訳ない気持ちがあった。


(……あれ……? でも……)


 彼は寝付きが悪い方で、一度寝てしまえばなかなか目覚めないことをキズミは知っていた。


 手を洗って洗面所から戻ると、キッチンは変わらず電気が点いていた。だが肝心の八柱の姿がない。

 後片付けもせず寝てしまったのかと思い、物音を立てずに寝室を覗く。やはり彼はベッドの上で横になっていた。ちゃんと耳栓もしている。


 ……考えてみれば不自然だ。


 寝苦しいのか程々に除けられた布団は、彼がずっとそこに居た証拠のようであった。それに、触れてみれば既に人の温もりを取り戻している。

 キズミの居た布団は、もう冷えきってしまっているのに。


 仮に彼がここでずっと寝ていたのだとしたら、先程までの八柱は一体誰だったのだろう。

 もしくは、今ここで寝ているのは、本当に八柱なのだろうか……?


(早く、早く朝になってよ……)


 得体の知れない恐怖に襲われたキズミは、布団に潜って息を潜めた。



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