第1話 彼女はドラゴンの末裔
16年前、日本のとある半島にシーサーペントが現れた。
シーサーペントとは海洋で目撃されるUMAであり、その姿は『大海蛇』と呼ばれるほど巨大且つ長大であるという。
立ち寄った観光客から類似性のある目撃情報が寄せられたことでメディアはこれを連日特集し、「宇宙人が送り込んだ生物兵器である」だとか、「戦争の前兆だ」とか面白おかしく取り上げた。
中でも夕方のニュースで流れた衝撃的なインタビュー映像は、一大ブームの火付け役であるといっても過言ではない。
「大きな蛇が海から這い上がろうとしていた」
「遠目からは巨大な女性の姿にも見えた」
「大蛇は確かに、抱っこ紐を括り付けていた」
しかし、当初その異様さから世界的な高まりを見せたUMA騒動も、案の定一過性の話題に過ぎず。
地球滅亡の表徴だとまことしやかに噂されたシーサーペントも、やがて人々の意識から薄れていったのだった―――。
***
「ハッ!」
耳障りな音に目を覚ます。そこは真っ白い部屋であった。
身体にはいくつもの管が繋がっており、点滴の滴る音が絶え間なく響いている。
少女はベッドに横たわっていた。今の今まで夢を見ていたが、でも夢の内容までは思い出せない。
(わたしが何したっていうの……)
すかさず自己判断で腕に刺さった点滴チューブを引っ張り抜く。次いで吊り下がっていた点滴のバッグをあるだけ集めると、少女は白い部屋を飛び出した。
外に続く廊下は真っ暗だったが、足元に人感センサー付きのライトが点々と設置してあり、かろうじてその先が見える。
そこは病院であった。
振り返ると、今の今まで隔離されていた部屋にはベッドと最低限の設備だけしかなかった。とてもじゃないが人が暮らすような環境ではない。
「誰かいるんですかぁ?」
白い壁に囲われた廊下の奥、そこから締まりのない甲高い声が反響する。突き当たりから顔を覗かせたのは若い女性で、清潔感溢れる医療用白衣と一つに縛られた髪を見るに、どうやら見廻りにやって来た看護師のようだった。
看護師は最初、胡乱な目で少女を見た。
幽霊も竦んでしまう強い眼差しに少女がビクリと全身を強張らせると、暫くして「彼女が生きている」ことに気が付いた看護師が、驚愕して声を張り上げる。
「え、うそ! あなたガリョウキュウさん!?」
「お姉さん!」
慌てふためく看護師に対し、少女は抱えていた点滴バッグを差し出す。
「タッパーありますか!? お持ち帰りしたいんですけど!」
事故があったわけではない。脳に損傷があるわけでも、過眠の兆候があったわけでもない。
しかし突然、睡眠状態から覚醒しなくなった。
そうして一か月前、高校の入学試験中にバタンと倒れ寝たきりになっていた少女―――臥竜丘 創実は、唐突に目を覚ましたのだった。
「ちょっとだけ冬眠してました。でも竜なので! ご心配なく!」
「そうなの、大変ねぇ」
時刻は夜の二時。手厚い保護を受けたキズミは、ナースステーションでこれでもかというほどの厚遇を受けていた。
「寝るのも疲れた」と不満を訴えれば話し相手を宛がわれ、「お腹が空いた」と泣き言を漏らせばおやつや夜食を恵まれた。
それもこれも肉体に異常が見られず、健康体そのものであったため叶った要望だ。
「美味しい?」
「おいひい!」
「フフ、そぉ」
ぱかっと大きく開かれた口元にサンドイッチのパンくずが付いていて、看護師はクスクスと愉快そうに笑った。
肩にかかるまでの黒髪は、前髪含めちょっとだけ伸びた気がしないでもない。しかし逆を返せばそれ以外、倒れた時より変わった要素は見受けられなかった。
「十五歳だっけ? 高校生?」
「いえ、中三です!」
「あらー」
キズミは猫のように大きなつり目を伏せた。身勝手に快活に振る舞う彼女だったが、その実内心焦っていたのだ。
彼女が受けた試験があったのは三月の頭頃。けれど待合室に掛けられたデジタルカレンダーが示す日付は、既に四月を越えていた。
―――すべてが手遅れなのだ。
信じ難いことに、入試どころか合格発表まで終わってしまっている。
「でももしかしたら、ずっと中三かもしれない……」
肩を落として呟くと、キズミは胸に抱えるようにタッパーを抱き寄せた。中の液体がビチャビチャ跳ね回る様が、まるで彼女の代わりに涙を落とすようである。
夢と消えた学び舎に思いを馳せるキズミの傍ら、長いこと介護にあたっていた看護師の元に内線が届く。
どうやら不在を示していた彼女の保護者が、たった今病院まで赴いたらしい。
「良かった、もうおうちに帰れるよ。それに心配しないでガリョウキュウさん、学校にだってきっと行けるから。ねっ、元気出して?」
「お姉さんっ……!」
瞳まで潤ませて、キズミは真っ赤に染まった顔のままこくりと頷いた。
それはもう何度目かになる、彼女の初恋であった。