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老犬

作者: ムツキ



 その日、僕はやさぐれていた。小学校の三者面談で、母は普段とは全然違う態度で、なんだか僕はこの世界にいちゃいけないような気持になっていたからだ。きわめつけには帰り路、「なんであんたのためにこんなめんどくさいことしなきゃいけないのよ」と呟き、落ち込む僕をしり目に「感謝の言葉ひとつもないなんて、息子としてどうなのよ」ととどめを刺すように言ったのだ。


 僕は仕方なく「ありがとうお母さん」というと、母は満足そうに笑った。僕は泣き出したくてたまらなかったけど、泣き出したって叩かれるだけだ。誰も僕の気持ちをわかってくれやしないし、この世界でたった独りぼっちなんだという気持ちになる。気持ちになった。


 だから僕は、やさぐれてる。やさぐれて、一度家に帰ったのに、また学校に戻って夕暮れの中、三角座りでぼうっとしている。児童クラブの子たちが楽しそうに騒いでいるのが、少し羨ましかった。そういうことをする友達すら僕にはいない。




 小学四年生までは普通に友達がいたんだけど、ある日、別の友達の陰口を言っていることに我慢ならなくなって、それを先生に告げ口した。その結果として、僕は誰からも相手をしてもらえなくなった。「あいつはすぐに告げ口する。しかもそれを恥ずかしいことだと思っていない」という陰口。僕はそれを正面から聞かされても、嘘がつけなかった。「ごめん」とだけ言うと、相手は嬉しそうに僕を非難した。「そんなんだから、友達がいないんだぞ」まさにその通りだった。でも僕は強がりで「そんなことしないとできないなら、友達なんていらない」と大きな声で言ってしまった。


 それ以来僕は独りだ。これは僕が悪いのだから、別に何かを恨む気持ちはない。


 でも、なんで僕はこんなに不器用なのかと理不尽に思う気持ちはある。同じように、器用になんてなりたくないと思う気持ちもある。


 僕は独りぼっちだ。





 日が暮れて、月が見え始めた。家に帰りたくなかった。もうどうにでもなれと思った。だってお母さんはきっと僕のことなんて心配してないし、いなくなったって「心配事がなくなってせいせいした」なんて言いそうだから。


 実際、僕は夜に散歩することが多いけれど、8時とかに帰ってきても母は舌打ちするだけだ。テレビドラマとかでよく親が「どこに行ってきたの!」と怒鳴りながら心配するようなシーンがあるけれど、僕の場合は冷たく「晩御飯、冷めちゃったんだけどどうしてくれんの?」と冷たく返事のできない言葉をかけられるだけだった。


 もう何も食べたくないし……





 痩せた四足歩行の茶色い何かが僕の前を横切った。それはゆっくりと、ぬるぅっと、目を滑らせるように歩いて行った。


 最初「猫かな」と思った。小型犬にしては大きいし、中型犬にしては小さい。フォルムも猫みたいにほっそりとしていた。


 僕は興味を持って、追いかけた。追いかけているうちに、それが犬であるとわかった。変な走り方で、時々振り向いてはこちらの様子を確認する。鼻がつぶれていて、目が大きく、顔が長い。毛並みは不健康といった感じで、少しにおった。


 犬は息をあげていた。あまり体力がないようで、ついに犬は足を止めて、観念したように座り込んだ。僕がその隣に座っても、犬は吠えなかった。目をつぶって、ぷるぷると震えるだけだった。


 なんだか、とても悲しい気持ちになった。


 犬の前に手を近づけると、犬は最後の力を振り絞るように僕の手を噛んだ。あまがみだった。痛くなかった。ただ、手がぬるぬるして気持ち悪かった。思わず手を引いたときに、少し犬に乱暴してしまった気がして罪悪感があった。


 手を鼻に近づけて匂いを嗅いでみると、腐ったチーズみたいな匂いがした。でも、嫌じゃなかった。


 なんだか、その犬が僕と少し似ている気がしたからだ。


 僕は汚れていない方の手で、犬の頭を撫でてみた。するとその犬は、嫌がらず大人しくなでられていた。顎を上げて、こっちもなでろと言わんばかりに顎の下を見せてくれた。僕がその通りに顎を撫でると、犬は僕の手を舐めてくれた。臭かったけどそれも嬉しかった。自然と僕は涙を流していた。


 きっとこの犬はすごく年老いている。誰にも相手してもらえなくて、苦しくて寂しい想いをしている。だから、見ず知らずの僕にも、こんなどうしようもない僕にも、簡単に懐いてしまうのだ。


 僕だってそうだ。こんな汚くて惨めな犬を、心の底から愛そうとしてしまう。だって僕は、独りぼっちだから。


 それを認めても、その犬を撫でるのを辞めようとは思えなかった。確かに、その時僕には彼しかいなかったのだ。茶色の、臭い、疲れ果てた、老犬。それが僕の今の相棒なんだと。それでも、嫌な気持ちはしなかった。彼がいてくれてよかったと思った。




 寒くなってきた。お腹が空いてきた。でも、彼を見捨てる気にはなれなかった。


 お母さんに頼んでも「絶対に捨ててこい」と言われるのはわかってる。この犬は青色の首輪をしていたけど、それはもうほとんど色がくすんでいて、捨てられてから長い時間が立ったのだとわかった。もしかしたら飼い主とはぐれただけかもしれない、とも思った。だから、とりあえず交番に届けようと思った。


 でも、小学校の授業で見学しに行った保健所のことを思い出して、やめた。クラスの誰かが「保健所で犬が死ぬところを見たい」と言って、先生が「いいアイデアだ。きっと命の大切さを学ぶいい機会になる」と言ったことがきっかけだった。


 最悪だった。泣いている女子もいたけど、でもそういう女子も、帰り道にはもう笑ってたし、友達とはまっているアイドルグループなりなんなりの話で盛り上がっていた。


 あそこで死んでいく犬たちは、どんな気持ちなんだろう? きっと今の僕の気持ちに少し似ているはずだ。全部を諦めて、ただただ悲しくて、独りぼっちで。もう明日も生きていたくないから、今日殺されることすらそんなに大したことに思えない。


 僕、死にたいのかもしれない。


「お前もそうかな?」


 老犬は目をつぶって返事をしなかった。死んでしまったのかと思ったけれど、体がちゃんと呼吸に合わせて大げさなほど動いていたから、そういうわけではないのだと安心した。


 帰りたかった。でも帰る場所がなかった。




 遠いところに行きたかった。最初からやり直せるような場所に行きたかった。


 僕はその時、本当に自暴自棄になっていた。もう何もかもが嫌で、ただ現実から逃げ出せるだけの別の現実を必要としてた。僕は犬を抱きかかえて玄関まで走り、犬を置いて急いで自分の部屋の貯金箱を割った。それを全部財布に入れて、ポッケにつっこんで、家を飛び出した。母の声は聞こえなかった。


 これでどこまでもいけるような気がした。やったぞ、と言いたくなった。でも犬を驚かせてしまいそうだったから、黙った。犬は独りで立っていた。僕が試しにゆっくり歩いてみると、ぴったりとついてきた。嬉しくて、頬ずりした。


 僕らは一心同体だ。どこまでも行こう。どこまでも行けるよ。こんな世界二人で、いや二匹で抜け出そう。僕らならきっとどこまででも行ける。行けないなら、死んじゃえばいいだけだ!




 不思議なことに、電車に乗ったけど誰にも止められなかった。駅員さんも車掌さんもじっと見てたけど、なぜか大目に見てくれた。昔、テレビで『迷惑な人』の例として、犬をたくさんつれて電車に入った人が法律違反か何かですごく責められていたような記憶があるけれど、それは嘘だったのか、それとも今の僕たちが何かによって守られているか。僕たちにはよくわからなかったけれど、試しに少しだけ神様に感謝してみた。名前も知らないけれど。


 三十分くらい電車に乗って、名前の知らない駅で降りた。世界の裏側に来たような気持だった。見たことない景色が広がっていた。


 その街には黒い川が流れていた。夜だからよく見えないだけかもしれないけれど、でも僕たちにとっては真っ黒な川だった。街灯は僕が住んでいた町より少しだけ暗くて、やっぱりここは違う世界なんだと思った。すれ違う人たちも、心なしか違う顔つきをしているような気がする。ひょうっとするとここは日本じゃないから、日本語が通じないかもしれないと思った。


 コンビニを見つけて入ると、そこはやっぱりコンビニだった。コンビニは、どこのコンビニでも同じような感じなんだと発見した。おにぎりと、犬のおやつを買った。日本語が通じたから、ここはやっぱり日本だった。少しがっかりした。


 犬はおいしそうに食べたけど、時々むせたように吐き出していた。心配だったけれど、どうしたらいいのかわからなかった。生きていくのは苦しいなぁと思った。


 


 知らない公園のベンチに座って、昔のことを思い出した。なんだか、冒険が終わったような気持になった。僕はもう疲れ切ってしまっていた。今日一日慣れないことばかりだったし、嫌なことも多かった。きっと明日になったらまた、行きたくもない学校に行って、お母さんにひどいことを言われて、また一人ぼっちで生きていくんだと思った。


 でも今だけは、お前がいる。お前がいるから、凍えずにいられる。ベンチで横になって、お腹の上に犬を乗せる。暖かくて、家の布団よりずっといいと思った。命って素晴らしいと思った。生きているって、意味のある事なんだと思った。


 今だけは、せめて今だけは。





 僕はそのまま眠ってしまったようで、くしゃみと共に目を覚ました。昔、家の駐車場で夜を明かしたことを思い出した。何か悪いことをしてしまったからだと思うけれど、もはや何をしてそうなったのかは思い出せなかった。


 犬はお腹の上にはいなかった。足元に移動していて、僕は初めて会った時と同じように頭を撫でようとした。冷たくなっていた。あぁ、死んだのだ、と僕ははっきりわかった。食べさせたおやつがだめだったのか、それとももう寿命が近かったのかわからなかった。


 ただ泣いて、あぁ終わったのだと嘆いた。僕はまた独りぼっちだし、この現実は変わってくれないし。家に帰らないといけないし、生きていかないといけない。最悪だ。最悪だ! なんでこんな想いをしてまで、生きていかないといけないんだろう。もう死んでしまいたい。一緒に死にたかった。でももう遅い。僕は生きていて、老犬は死んでしまった。




 もう、嫌だ。




 そうして僕がうずくまっていると、ひとりのお姉さんが声をかけてきた。元気そうな小型犬を五匹ほど連れていて、その犬たちは死んだ犬の匂いを興味深そうな顔つきで嗅いでいた。


「少し、お姉さんに話してごらん?」


 僕は相手の顔も見ず、ただ思っていること全てをぶちまけた。もう何でもよかったし、今更だった。何も変わらないような気がしていた。きっとこの人も、「かわいそうだね」とか、そういう事だけ言ってどこかに行ってしまうのだ。今までずっとそうだったし、これからもずっとそうなのだ。それで僕は、この犬みたいに、惨めに死んでいく。独りぼっちで……


「うん。わかった」


 お姉さんは、ただそう言った。声が湿っていて、それに驚いて、お姉さんの顔を見ると、お姉さんは泣いていた。


「大丈夫だよ。大丈夫。ちょっと待ってね」


 お姉さんはそういうと、後ろを向いて携帯を取り出した。それで何やら知らない人と話しているようだった。たくさん謝っていた。


「仕事、休むって連絡入れたの。だから、一緒に何とかしよう。頑張って、生きていたいと思えるようにしよう」


 分からなかった。なんで見ず知らずの人がそんなに優しくしてくれるのか分からなかった。本当に別の世界に来てしまったのかもしれないと思った。お母さんも、先生も、友達も、親戚の人も、誰も僕のことを見てくれなかったのに、見ず知らずの人がなぜこんなに親切にしてくれるのか、わからなかった。


「まず、お母さんと話をしよう。お母さん、今日仕事?」


「ううん。木曜日は休み」


「じゃあ……でもその前に、この子を埋めてあげないと」


「でも、どうやって?」


「知り合いにお坊さんがいるから、聞きに行こう」




 結局犬の埋葬はそのお坊さんがやってくれることになった。優しそうな人で、僕が一通りその犬と出会ったいきさつを話すと、そのお坊さんも涙を流してくれた。「きっとこれも何かの縁。向こうから君を見守ってくれている」と声を詰まらせながら肩を叩いてくれた。




 案外この世界も、悪いものじゃないような気がした。きっとお母さんも、今なら僕を愛してくれるような気がした。だから、お姉さんと一緒に家に帰るときも、それほど怖くはなかった。




「あなた、何やってるの?」


 第一声は、僕に向けてじゃなくて、お姉さんに向けてだった。それにはお姉さんも驚いたようだった。「えっ?」と素っ頓狂な声で聴き返した。


「だってそうじゃない? 人の息子をさ、一晩中連れまわしたんでしょ? それで何? 私に何を言いに来たの?」


「いや、そういうわけじゃ……」


「違うよ、お母さん。お姉さんとは朝になってから……」


「あんたは黙ってなさい」


 ピシャリと言われて、黙るしかなかった。


「ま、いいからあなたは帰ってください。これ以上うちに関わらないでください。迷惑なんで。場合によれば訴訟だって、しますからね?」


 僕は絶望的な気持ちになった。僕は何一つ赦されてなどいないし、誰にも愛されていなかった。世界が微笑んでくれるわけないし、不幸は僕に絡みついて離れない。この先も独りぼっちで生きていく。そう思うと、涙がこぼれていた。


「だったら、すればいいじゃないですか!」


 お姉さんが、驚くほど大きい声でそう言い放った。今度は母が驚く番だった。


「は? 何が?」


「訴訟! 何だってすればいいじゃないですか! おかしいですよ、お母さん。なんで、なんでそんなひどいことが言えるんですか!」


「おかしいのはあんたの方でしょ! 知らない家にいきなり入り込んで、それでこっちのやり方に文句付けて、挙句の果てには怒鳴り散らかして! 馬鹿なんじゃないの?」


 お姉さんは深呼吸した。冷静になろうと努めている様子だった。


「わかりました。事情を説明しますから、聞いてもらえますか?」


「いいけど、さっさとしてくれる? 私も暇じゃないから」


 お姉さんは、今日の朝起こったことを順番に説明した。母は首を振ったりため息をついたりで、あのお坊さんと違って少しも涙を流したり僕に同情するそぶりを見せなかった。どうでもいいと言わんばかりだった。


「それで、何なの? やっぱりあなたには関係ないじゃない。それに、その犬が死んだのだって不自然じゃない? だって、その日に会って、次の日には死んでたなんて、偶然にしても出来過ぎてる。もしかして、あんたが殺したんじゃない?」


 母が何か悪だくみをするような笑顔を浮かべて僕に笑いかけた瞬間、お姉さんが思い切り母に平手打ちをした。


「あんたにこの子の何が分かる!」


 僕はお姉さんの空いている方の手をしっかり握った。そうだ。お母さんは何もわかっていない。


 僕は、自分の母親が叩かれているのを見て、決して嫌な気持ちがしなかったのだ。僕は……僕の心と、お母さんの心の間には、もう何のつながりもないことを、そのときはっきりと分かった。一緒に生きていくことなどできやしないのだと。





 本当に、お姉さんはよくしてくれた。めんどくさそうな手続きとか、話し合いとか、本当に世話を焼いてくれた。それでいて、僕の気持ちが置いてけぼりにならないように、何度も話を聞いてくれた。僕が嫌がるようなことは少しもしないでくれた。僕が嫌な気持ちになるようなことは、何も言わないでくれた。




 結局僕は、一人暮らしの伯父さんのところに預けられることになった。転校手続きも済んだ。母は鬱病にかかったらしいけど、心底どうでもいい。


 お姉さんとは時々会って一緒に晩御飯を食べたりする。五匹の犬たちは、お姉さん以上に僕に懐いてしまって、お姉さんはそれが少し気に入らないみたいだ。「それは別に、君のことが私より好きなんじゃなくて、君がいるといつもより多めにおやつが食べられるからってだけなんだから」と悔しそうにぼやく姿は、言わないけれど可愛らしいなぁと思った。年上の女の人にそんなことを言うのは失礼な気がするから黙ってるけれど、きっとそう思っていることはバレているような気がする。




 親戚の伯父さんは、お母さんの弟とは思えないほど、とても親切で優しかった。お小遣いはちゃんとくれるし、お母さんみたいに心のないことを言ったりはしない。もちろん、自分の子供じゃないから、愛情をもって接してくれるわけじゃないけれど、でも一人の人間として、一人の同居人として接してくれる。それだけで十分だった。


 くだらない冗談を言って笑い合ったり、世の中のことを一緒に悪く言ったり。僕が晩御飯を作ったらおじさんは大喜びしたし、掃除を手伝ったら、ため息交じりに「なんであいつはこんなよくできた我が子にひどい仕打ちができたんだろうな」と呟いた。




 僕は今幸せだ。ずっとこの幸せが続くわけじゃないことはわかるけれど、でも僕は今幸せだから、それでいいんだと思ってる。


 あの名前も知らない独りぼっちの老犬が、死ぬ間際、僕にしてくれたことを決して忘れない。彼がいたから、僕は幸せになれた。僕は彼にずっと感謝し続ける。


 お寺には、小さな墓がたった。僕は死ぬまでずっとお墓参りし続けることを誓った。花を添えて、彼が天国で一人じゃないことを願うのだ。

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