北風とたいよー
冷たい北風が、私に打ち付けられる。体に纏うコートが激しく空を舞う。
全く、私が何をしたと云うのだろうか。
定時より何時間も遅く掛かった仕事が終わりを迎え、その上悲鳴を上げることすら許されない満員電車に詰め込まれ、街灯の点滅した路地をよろけながら歩みを進めようとしているだけだというのに。
何故そのような日に限って大嵐のような風が襲ってくるのだ。
体中が軋んで悲鳴を上げているではないか。
もう、全てを投げ出して風に飲み込まれてしまいたい。
しかし、だ。
私にはまだやることがあるのだ。
その大いなる野望の為にも、今命を捨てる訳にはいかない。
その為にもまずは家に戻る。それが現在の第一優先事項である。
苦しい位の冷え込みだが、前に進まないと家で落ち着くことも出来ないのだ。
コートを握りしめ、帽子を深く被り、風に抗う。
不意に、辺りに声が響いた。
「何故だ。何故貴様は前に進む。」
ああ、幻聴が聞こえる程の状態になってしまったのか。
だが、それに応じる程、私は柔ではない。
そもそも幻なんぞ私には不要なのだ。
それよりも大事なものがある今、気にする道理はない。
「何故だ。この北風に身を任せば、全てが救われると謂うのに。」
なんとまあ。まるで幻聴では無いような気がする声色だ。
いや、辺りを見れば、声の発生源が判る可能性がある。
少し見てみることを考え、関節の悲鳴を強引に捻じ曲げるように体中を動かす。
しかし、道には誰も存在しなかった。
ああ、やはり幻聴か。
だが、幻聴だからと言うべきか、少し煩わしい。
「さあ、その身を我に託すといい。全てから解放してやろう。」
いい加減にして貰いたい。
私は家に帰るのだ。家に帰って布団で寝る。
たったそれだけが今の私の存在意義なのだ。
そんな僅かな幸せすら邪魔しようと云うのか。
北風という名の悪魔よ、さっさと消え去るがいい。
消えないつもりなら末代まで呪い続けてやろう。
「そうか。」
静かな呟きが風に流されると、何故か北風が吹き止んでいった。
何という幸運。風が止んでいる内に家に帰るとしよう。
震える足を弾ませるように、凹凸の激しい道路の端を踏み締める。
雲が流れたせいか、沈む上弦の月が足下を照らしていた。
軋む階段。響く足音。ひび割れたコンクリート。サビが目立つ扉。
刺さりの悪い鍵。扉が音を奏でながら見える玄関。
かかとが潰れた靴を足で靴箱の方へ放り投げ、暗い部屋を進む。
小奇麗な空間に、ぽつんと置かれた布団一式。
そこに音を立てて倒れ込む。
いつの間にか、太陽が見えていた。
窓の外から、ふてぶてしい位に輝きをぶつけてきている。
私は寝ていたようだ。何時も通りに。
立ち上がり、布団の上で伸びる。
ふと、ポケットの高機能型携帯電話を確認する。今日は暖かくなるそうだ。
寝たまま着ていたコートを椅子に掛け、壁際に投げられていた鞄を持つ。
さて、行くか。
サビまみれの扉に向かって、歩みを進める。
大きな音と共に、部屋から人間が消えた。
「私の勝ち、のようだな。」
誰も居なくなった空間で、人ならざる声が響く。
バランスの悪い椅子に掛けられて揺れ続けるコートを、窓から光が照らしていた。
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