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雨に覚めて

作者: 汚了 雪玉

 見た夢をほぼそのままに小説にしてみました。楽しんでいただけたら幸いです。

東西向かい合わせに二つの鋭い山脈が天を突いて、北南と連なる。麓から稜線あたりまで、朝方の賑わう竃のように靄が立ちこめる。雨季のはしりでその年初めての大雨が大地を穿った翌朝、決まって訪れる晴れの日和には必ず、このような幽玄の景色が広がる。鳥のさえずりよりも谷間に吹き込む風の音が強く響くそんな朝方、北の大岩壁に小さな影があった。それは縮れた短い髪の少女で、粗目の朱糸で編まれた丈の長い質素な服を着ている。この地域では一般的な服装である。朝露に塗れて、裾の方がじっとりとしている。

 少女は唸る風をものともせず、岩壁に作られた桟道をひょいひょいと跳び駆けていく。彼女の自宅のある谷間の集落から見上げれば、きっと彼女の姿は変幻自在の雲の中にあるだろう。さながら空へと駆けていくようであった。

 桟道は彼女の衣服と同じように、またそればかりか苔なども生えて一層に滑りやすかったが、しかし少女は只の一度も足を踏み外すようなことはなかった。それもそのはず、彼女がこの時間にこのような状態の桟道を通るのは昨年から行っていることなのである。それはあふれる母性愛によるものだった。


 彼女がただひたすら両親や、近所に数え切れないほど住まう親族たちの寵愛を一身に受ける期間が過ぎて、いよいよ好き放題に駆け回って多少舌足らずでも生意気な口が利けるようになった頃である。山菜の収穫の手伝いとして父母についてまわり、彼女は初めて桟道をつたって「山」へと立ち入った。雨季にはいる少し前のことである。彼女たちの住む村も山の麓であるからして山の一部であったが、そこに住む彼らは桟道を通った先、清水湧き出るひとつの泉を境としてそれより天に近い場所を特に「山」と呼んだ。「山」は彼らの住むところとは大いに異なる世界である。故に、そこにあるなにもかもは少女を魅了した。何かを唱えながら歩き回る茸、父母の膝丈ほどの大きさの臆病な蟻たち、勝手に転がり始めて物にぶつか

りそうになると急に止まる小石、少女よりずっと丈の大きな細長い卵。奇っ怪な物は数あれど、特に彼女の興味を引いたのは「卵」だった。

 大地に厳然と屹立する岩壁には、ところどころに大きな岩棚がある。そこは翼の生えた生き物か、勇気ある山羊のたぐいか、特別な物を求めに降りるヒトしか近寄らない。平地に住む人間からしたら悪夢でしか無いが、この程度の危険とは日々となり合わせの彼らは当たり前のように幼い少女をこの場所へと連れてきた。目的は薬草の採取である。荒縄を用いて上昇と下降を繰り返し、駕籠いっぱいに青青とした草が詰め込まれた。少女は父母の真似をして雑草をむしっては服のポケットに詰め込み、満足そうにしているばかりだった。その間も岩棚の上なので、いつ足を踏み外すともわからない。「しっかり足下を見て歩きなさい」と口を酸っぱくして言われていた少女は素直にそうしていたが、それ故に不意の事故に遭った。

 ごちん、と音がして頭に衝撃が奔った。「いたぁいっ」と、痛みより先に呻きが出た。眦にほんの少し涙をにじませながら、彼女は見上げた。目前のそれがとがった岩壁であったら、もう過ぎた筈の痛みを思い出して声を上げて泣き出していただろう。しかし目の前にあったのは、「白くつるつるとした何か」だった。

 呆気にとられる少女のもとに両親が近寄り、それが「正体不明の卵」であることを彼女に伝えた。少女にとって卵と言えば庭先でトコトコと歩き回る家禽のそれしか知るところがない。見上げてみると、鳥たちのものとは大きさもさることながら外形も異なるようである。上端、下端にすぼみ、ふくらみは無く、寸胴でのっぺりとしていた。きっと中には大きな黄身が詰まっているのだろうと、少女は思った。少女の数倍はあろうかというそんなのが数個、並んでいた。不意に父母は腰元にぶら下げていた水筒の蓋を開けると、中の水をそれにかけ始めた。卵に水をかけるなどという行為を不思議に思った少女がそれについて訊ねると、両親は「こうすると良いと聞く」と応えた。彼女も見様見真似で、両親と同じように、卵に水をかけた。

 注いだ水はそのつるっとした表面をただ過ぎていくことはなく、白い殻にしみ入ってそこをしっとりとさせた。それはまるで卵がとても喉を渇かせていたかのようで、あるはずの無い喉越しの音さえ聞こえた。少女が卵の、その水飲みの素直な様子に母性的な愛情からくるかわいらしさのようなものを感じたのは、我々には理解できないところではある。けれどそれが気の迷いでなかったのは確かである。なぜなら彼女はその日からしばらくの間、その卵たちのもとへ一日も欠かさず訪れては、熱心に水をかけたからだ。

 その習慣が一時止んだのは、雨季に入ってしばらくしてからだった。その日も雨に負けず桟道を登って、清水を汲んで、それから卵に水をかけにいこうと岩棚に降りると、そこには何もなかった。少女は、「きっと中にいた雛が飛び立っていったのだ」と少し残念に思ったが、卵の殻がないのが不思議だった。もしやと思い、落っこちないように岩棚から崖下を覗きこんだが、雨で煙った底には何も無いように見えた。そして、無いことにした。

 膝に付いた湿った砂利を払いのけて、岩壁を背にした。目前を阻むのは無数の雨だれだけだ。左右には稜々と山が聳え立ち、広い谷間の一帯、その中央には雨をかき集めて流れの激しくなった川が、こちらから南へと向かって勢いよく流れている。その轟音は雨音と合わさって、世界全体が震えているかのように思われた。底の方には、彼女の住む小さな集落もあった。竃の煙が、何本か立ち上っていた。

 不意に雨足が弱まり、少し静かになった。それと重なって、重く垂れ込んでいた鈍色の雲の所々が裂けて、谷間へと無数の光柱が差し込んだ。雨が蒸されて、水の匂いがした。まだ強い風は上空を掻き乱しながら、岩肌にしがみついていた雨水を吹き飛ばして彼女の頬を濡らした。強風で幕が剥がれ、陽射しで明瞭になった視界は、遙か貫通する。南の空は青いようだ。ずっと遠くの方に、いくつかの鳥のような陰があった。

 少女はそれだけを確かめて、山を下りたのである。

 以降の雨季の間、彼女はしばらく卵のことは忘れていた。有り余った母性愛は大半をおままごとに費やされたからだ。雨日がだんだんと途切れ途切れになってきて、連日晴れ間を望めるようになると、乾季は間近である。すると再び、彼女は卵のことを思い出すようになっていた。そうして乾季が半ばほど過ぎたある日、早起きをして北の岩壁に目を凝らしてみると、無数の岩棚のひとつに陽光を照り返して並ぶ白い物が、胡麻粒ほどに見えた。彼女の日課は再開されたのである。


 いよいよ雨季がはじまると見えたから、お別れも近くなってきたのだとターシアは思っている。しかし昨年のように忽然と消えてしまうのはやはり寂しい。どうしたら寂しくないだろう。

 桟道を渡りきると、彼女の頭ほどの大きさの石で囲われた泉が目に入った。今日も滾々と清水が湧き出ているが、いつもより多いようにも見える。手を浸すと、頭の先まで冷たかった。泉のへちに転がしておいた桶に水をいっぱいまで汲んで、少女はえっちらおっちら進む。

 軒先から卵が見えたときは、嬉しさでいっぱいになった。また毎朝早起きをして、山へ登って、水を汲んで。そういう日々がはじまるのだ、と。卵は大きくなる訳じゃないけれど、とても美味しそうに水を飲む。ごくごくと、飲む。それがとても嬉しくて、「はやく大きくなぁれ、はやく生まれておいで」とずっと声をかけてきた。そのときはちっとも寂しくなんて無かった。だのに今はもう、少し寂しい。

「ずっとたまごのままなら良いのに」

 ふてくされたように口先を尖らせながら、彼女は慣れた足取りで岩山を闊歩する。濡れた岩肌はまだ緩い陽光を反射して、てらてらと光っていた。木に括り付けられた朱糸の道標を辿って、深い木立を抜ける。断崖まで出ると、足下の奈落から轟々流れる谷川が集落を抜けて、南へ土砂を運んでいるのが見えた。この河川は幅の広いこの谷間を抜けると、しばらくして山脈が絶えたあたりで大峡谷へ注ぎ込むという。その後もずっと南へ向かうらしいが、どういった所なのかは少女も知らなかった。それは村の誰一人も知らないことだったからである。

 縄を器用に使って水の入った桶を下ろし、ターシアも滑りやすい岩棚に下りる。少し高度が下がっただけなので、まだ空の上の気分だ。慣れたもので、彼女は少しも恐ろしくなかった。

 いくつかの岩棚を下りると、そこに卵たちが待っていた。

 一年してターシア自身もいくらか背が伸びたがそれでもまだずっと、卵の方が大きい。そもそも前の乾季に可愛がっていた卵と全く同じものかというとそうではないので比べようも無いのではあるが、とにかく大人より大きい。そんなのが八つばかり有った。

「ふんっ」

 桶を頭上に持ち上げて、つま先立ちになる。途端、ふくらはぎから始まった震えが太股を通って全身を伝った。

「あー、あーーー」

 ぶるぶるぶる..むやみやたらに、小刻みに揺れている。.

「うんしょー、うんしょぉおー」

 少女はすでに半分ほど零してしまった桶から水を、卵へ注ぐ。

 桶をぶつけて割れてしまうと悲しい(し、お母さんに怒られる気がする)ので、彼女は慎重に水やりを行った。一度目は無事、終了した。

 桶が空になるとすかさず、ターシアはもと来た道を引き返した。そして同じように泉で水を汲んで、少し前と同じように岩棚に下りてきた。

「まったくもう」

 二度目の水やりの最中に口を尖らせてそう言っていた。


 全部で八度の往復をした彼女は、その復路を終えるや卵の隣でへたり込んでしまった。一度目よりずっと多く水の入った桶を抱えて、再び濃くなった霧で真っ白な南をぼんやりと眺める。何も見えないし、雲の中のようなので、ふわふわと眠ってしまいそうである。そうしてそのうち、うつらうつらし始めた。

 

 どうしようかな、どうしたら寂しくないのかな。

 

 このたまごが孵るまで、ずっとここに居ようかな。

 お母さん、許してくれるかな。

 きっと駄目だろうな。いっぱいお手伝いしても駄目だろうなあ。

 

 じゃあ寂しいから割ってしまおうかな。

 お母さんに怒られるかもしれないけど、知らないところでなくなるのはやだから。

 でも、お母さんに怒られるのもやだなあ。もっと、いや。

 

 おうちに持って帰るのはどうだろう?

 転がしたら持っていけるかしら。

 これはきっと名案だ。いっしょのおふとんで寝よう。温めるから、するときっと、すぐに出てくるに違いない。

 ...でもどうやって壁の上に持ち上げよう?


「いくしっ」

 くしゃみが出てしまい、身体が吃驚してすっかり目が覚めた。服がじっとり重い。鼻水を啜って、「あー」とぼやいた。霧は一向にその濃度を減じていない。むしろ一層に白くなっているようにも思われた。太陽がどこに有るかもわからない。

 けれど、帰るには良い時分のはずだ。桟道まで不透明になっていたら危険である。

 ターシアは、桶を、手に取った。

 

 さり、さりさりざり、さりさりーーー

「ーーー?」

 聞き慣れない音が、彼女の鼓膜に届いた。

 背後には岩壁、正面には白く塗りつぶされた視界だけが有る。上空で未だ吹き荒れる強風が唸りを上げていたが、それを遠いところに押しやるようにして、不思議な音が聞こえてくる。

 それはまた、一つではないようである。まとまった所から、不規則に、複数聞こえてくる。

 少女の知るところで例えるなら、それは石で石を引っ掻く音に似ていた。ともだちと河原で遊ぶときに、よく聞く音。丸い石に尖った石で絵を描くような、音である。

 ーーーやにわに、音がひとつ増えた。いや、ひとつの増えた音がいくつもあるのだ。干した豆の鞘を割るのとよく似た音が。

 確かに、卵の方から、響いてきた。

 ターシアは見る。

 だらしなく引き延ばした白色の表面に、下へと反り返る牛の角のようなものが突き出ている。それはぎこちない様子で出たり入ったりした後、尖った先の方で殻を裂き始めた。ばらばらに亀裂が奔り、穴が広がって、角の付け根が見えてくる。付け根は、岩のようにごつごつしている。けれど、固くて如何ともしがたいというような風ではなさそうで、ずいぶん柔軟に動いている。そんな事態が五個の卵に起こっていた。ターシアがおそるおそる近づくが、卵の中の何かは気づかない様子で、一所懸命に穴を広げている。

 ターシアは卵が孵った喜びより遙かに、この生まれ来るものがどのような見た目をしているのかが、気になって仕方なかった。岩棚とかいう高くて危なっかしい場所に卵を産むのだから、鳥なのは間違いないだろう。では、どんな鳥だろうか。びっくりするくらい大きな鳥には違いない。こんなに大きな卵なのだから。翼はきっと虹色だろう。雨上がりに架かる虹は、きっとこの子たちが架けているのだ。兄弟で並んで、空を飛ぶのだ。でも、虹を架けられるくらい大きいのなら、その気になれば産まれた途端

に一呑みされてしまうかもしれない。きっとお腹も空いているだろうし。

 少女は一歩くらい、卵から距離を置いた。それからまた思った。

 お父さんが、「鳥は初めて見たものをお母さんやお父さんだと思いこむものだ」と言っていた。そしたら、私がお母さんになるには、この子たちに一番に見てもらわなくっちゃ。

 少女は半歩くらい、卵に近づいた。

 それと同時に、卵の穴からずるりと、細長いものが飛び出した。

 それには二つ目がついていて、紛れもなくその生き物の頭部と思しきものである。しかしながら、そこに少女の想像していたような鳥類の面影はない。

 虹彩は黄土色、瞳孔は笹の葉のようであり、とても細い。瞳自体は横に長く、鳥のような丸っこくて愛らしい様子ではない。くちばしは無く、それどころか顔には羽根のようなものさえ見当たらず、むしろごつごつとした岩のような皮膚をしている。そも鳥類と比較すべきではない見た目だ。これは、むしろ、爬虫類である。

「かっこいいーっ!!!」

ターシアはトカゲや蛇が大好きだった。そもそもこの土地で「ターシア」という言葉は「鱗あるいはそれに準ずるものを持つ陸棲生物一般」を指すものである。ダンゴムシも好きだった。

 そのトカゲのような生き物は、歓声を上げる少女の方をちらりと見て、大きなあくびをした。そして何度か口を開いたり閉じたりした後に、徐に自分の入っていた殻へとかぶりついた。殻は厚く大変硬そうであったが、特に造作もないという様子で、ぱくぱくと食べ進めていく。卵の殻を食べるという発想を持っていなかったターシアはその様子を見て、今度私もやってみよう、と思った。

 にわとりのたまごのなかみはおいしいので、きっとそともおいしいにちがいない。

 なぜ誰も食べないのかという疑問には至らなかった。

 五匹のトカゲのような生き物たちはあっという間に、自分の住まいを平らげた。するとその全貌が露わになる。それは再び、少女を驚愕せしめた。

 例のトカゲのような顔は蛇の胴体のように細く長い、頼りないような首で支えられている。身体は成体の牛ほどの大きさで、背から脇腹にかけて石のようなごつごつとした殻に覆われている。前脚は見当たらず、逞しい後ろ脚が特徴的である。それについては鳥によく似た造形をしていた。長く伸びた尾は、ぐるりと体躯を取り囲んでいた。そして異様なのはその背に、例えるならば蝙蝠が持っているような角張った巨大な翼が一対、生えていることである。

 見たことのない生き物だ、と少女は首を傾げた。

 三つの卵を残して、五体のトカゲのような生き物たちが、思い思いに辺りを見回している。時折青白く長い、先の割れた舌を覗かせては、顔についた霧の露を嘗めてとっている。卵では食い足りなかったのか、岩壁にかみついて破片やら小石やらを頬張るものもいる。

 一匹が甲高い音で鳴いた。その声はよく、響いた。

 すぐ隣にいたターシアはその強烈に耳を塞ぎ、歯を食いしばる。思わず瞼を閉じるほどである。眉間にこもった力が抜けた時、次に彼女を襲ったのは暴風だった。

 岩棚からはたき落とされそうなほどの勢いはある程度の律動を持っていて、それが少しずれながら幾重にも吹きこんでくる。ターシアは反射的に身を屈め、付近のクラックにしがみついた。少女の薄く開かれた瞼、その下の瞳は、羽ばたき始めた子どもたちの影をとらえていた。猛々しい脚は、地から離れようとしている。

 

 待って!

 

 彼女の母性は、叫びをあげた。しかしそれは、生あることを確かめ、噛みしめ、歓喜に浸っているかのような、十の翼膜の躍動によってかき消される。ーーーたとい声が高く響いたとて結果が変わったようには思われないが。

 前日の雨は足下を、頼りとするクラックを、しとどに濡らしていた。それは彼の少女の指圧や脚力を無視できるほどに、摩擦というものを奪っていた。個々ばらばらにはためいていた翼が、自然に一頭に合わせ、ひとつの律動を繰り返すように収斂し始めた途端である。

 ターシアは悲鳴を上げる間もなく、宙に吹き飛ばされた。

 視線は天に垂直にーーーだろうか。純白の深海、そのただ中である。落下しているはずなのに、風を切る音すら聞こえない。霧粒のひとつひとつには、自分の瞳が写っている。しかし、それらは視線がぶつかった直後に、めくるめく変幻をした。これまでのとりとめのない日常の数々、過ぎて忘れてしまった様々の瞬間になり、繰り返しているのである。なにがなんだか、ターシアには全く理解できなかった。けれど着実に、何かに向かっていることだけは感じられた。それがひどく怖いものであるということにもすぐに、気づいた。






 だから。

 だから、襟首をひどく引っ張られて、地に足も着かず、宙ぶらりんで脚の間がすーすーしても、とりあえずどこかに行かずに済んだのが嬉しくて、少女は涙が止まらなかった。


 真白き霧中を、五頭の影が進んでいく。

 先頭の一頭の口元には、少女が啣えられている。飛ぶのに支障をきたしているらしく、群れはゆるりと、速度を落とし始めていた。

 すると後方から一頭が器用に先頭へと躍り出て、少女の足元にまわった。すかさず、襟首は解放される。少女は短い悲鳴を上げたが、すぐに頼もしい背甲にしがみついて笑顔になった。

「どこに行くのーっ!!!!!!!?」

 少女は当たり前のつもりで訊ねた。当たり前に返事はない。ただ互いの場所を確かめ合うように、短い吠え声を絶やさないでいる。

 

 群れは一路、決して方向を違えずに、ある方角を目指す。それは南。大峡谷を有する広大な平地である。そこに何があるのか、それは翼龍たちにもわかっていない。彼らは産まれたばかりであり、何も知らないからである。けれど何かにせき立てられて、翼を動かしている。

 今、ある一頭が拾い上げて、とある一頭の背中に寄生虫のようにしがみついている生き物のことについても、何もわからない。ただその生き物には翼が無く、空は飛べないらしいことはわかった。急に目の前から居なくなったと思ったら、落下しながらもがいていたからである。兄弟そろって、「飛べばいいのに」と思って、眺めていた。一頭を除いて。

 はじめは補食の本能であった。落下して為す術もないその生き物を見て、「食べやすい相手だ、やあお腹空いたから捕まえてやろ」程度に思い、岩棚から滑空した。しかしその時、兄弟から離れていく毎に遠ざかるはずの親しみある匂いが、むしろ近づいていくのを感じ取ったのである。不思議に思ったので、柔らかそうな部位を避けて、それでも食べようと思えばすぐに息の根を止められる場所を啣えた。そうしてしっかりとこの生き物の匂いを嗅いでみると、おかしなことに自分たちと似た匂いがするのだ。薄気味が悪いし予想に反して重量があったので、別な兄弟の背にそれを預けた。するとその生き物は何事か吠えたが、何を言いたいのかちっともわからない。放って置いて、この珍妙な生き物について、兄弟たちとああでもないこうでもないと話し合った。

 結論は出て、今はもう迷い無い。前後不覚ではあるが、進む方向も自ずとわかる。兄弟たちは逸れずにいる。

 そして「翼がなくて口が小さくて目も小さいし頭の小さな前足のある毛の生えた一番上の兄弟」も、振り落とされずにいる。

 群れは速度を上げた。

 陽光の乱反射が強まっている。

 太陽が輪郭を持ち、霧に浮かんだ。

 五頭と一人は、風を切る、切る、切る。

 一度極限まで高まった乳白色は、緩やかに濁り始めた。色彩が息を吹き返し始めたのだ。深海からの脱出である。

 

 ーーー伝うための光は淡い黄色をしていた。

 それは一生分で、これからの一切の光を奪うかと思うほどまぶしかったが、彼女らの瞳孔はきゅっと細くなり、しかと虹色の反射を受け止めた。

 空の青、山の翠、谷の褐、花の赤...それらは折り合い、照り返しあって、様々な色を為している。そしてそれは一定でなく、不断の変化を持っている。ターシアは生まれて初めて、野山が巨大な生き物のように見えた。悦びから、自然に歓声が上がった。それに応ずるように、五匹は鳴いた。

 びっしょり濡れて冷え切った身体が、陽光に当てられると、むずむずっとした後に痺れたようになる。しばらくすると先の方から染みるように暖かくなってくる。額を垂れて鬱陶しかった水滴がこめかみへ抜けて、そのまま空に散った。しがみついている、岩のような肌が少しずつ水気をはけて、色を変えていく。どれもこれも、快かった。

 透明よりもずっと澄んだ空気を進む。あっという間に、谷をなぞり、抜けて、行く。川に重なるように、天を泳ぐ。

 

 しばらくして、群れの先頭が高度を下げた。はじめに頭が下がり、それから身体が滑るようにそれに倣った。残りの四頭もそれに続いた。

 先頭は川の終わり、瀑布の切っ掛けめがけて飛び込む。白く水煙の上がるところを突っ切り、水といっしょになるように大峡谷へ飛び込んだ。すべては彼に連なった。少女はまた服が濡れたがそんなことは気にせず、迫力の飛沫を体中で浴びて嬌声を上げている。 

 左右を阻む切り立った岩肌は厳然とあり、触れるもの一切を削りきるような荒々しささえあった。まるで何かとてつもなく巨大な生き物の歯のようで、突然に閉じてごりごりと噛み潰されてもなんら可笑しいことはないんじゃないかという不安まで、喚起させる。しかしそうでは無いらしい。その鋭さのなかに点々と突き出ている岩棚には鳥がどこからか掻き集めてきたらしい柴で誂えられた住まいがあったし、事実その鳥たちは奔放に谷間を飛翔していたのである。それは数え切れないほどである。その中の運のないものたちは腹ぺこの翼龍たちに見初められて、彼等の腹の内で一緒になって空を飛ぶことになった。

 足下では轟々と音を立て、濁った水がうねっている。時々に岩壁が崩れ、音を立てて呑まれていった。二度と浮き上がってはこない。ターシアは思わず身震いをしたが、最悪について心配はしていなかった。それだけ頼もしい羽ばたきだったのである。

 少女は頭上を見上げた。

 破れ目に空がある。空の切れ端が、ここから向こうまで横たわっている。青がいつもより濃いような、そんな気がした。

 

 

「さきの降雨の具合にしては、ずいぶんと穏やかですねこのあたりは」

 川幅は広い。流れはやや濁っているが暴れん坊というほどではなく、岸に寄る波が多少しぶくといった様子だ。陽光で煌めいている。その岸は細かな砂でなっていて、水場から遠退くごとに乾いた緑色の草本が目立つようになっている。その硬くしなやかな葉を乱し、また飛び越えて、一台の原動機付き浮遊自転車がゆるゆると走る。乗客は二人で、一人がハンドルを固く握り、もう一人は運転手座席の後部に付いたバーを、軽く握っていた。双方は安全帽を被ってゴーグルを身につけている。太陽光が照り返されて目映く煌めいている。

「大峡谷を抜けると一気に流れの幅が広くなるの。勢いはおさまって、土砂もその地点で堆積しておしまい。ここにまで影響がでるのは、それこそ本格的な雨季が始まってからよ」

 運転手の妙齢の女性は、後部座席で呑気に欠伸をする副官に対し、そう応えた。

「そうなる前に国境の水門を整備しておくのですね」

「そういうこと。○×国にも、○○国にも迷惑はかけられないからねぇ」

 くぐもったエンジン音が少しずつ大きくなっていく。同時にまた少しずつ、二人は加速していく。推進力を尾部のプロペラに依存しているので、通った砂の上には柔らかく大雑把な轍ができている。

 やがて前方に、石造りの建造物が見えてきた。規模は小さく、大変簡素な作りである。川の畔にちょこん、と、ある。田舎にある水車小屋と大差はなかった。水門もまた石造りであったが、こちらはなかなか大仰である。確かに川幅は欠伸が出そうなくらいに広いが、それにしてもこの厳めしさは何あろう。あまりの差の開き方に、副官は目を丸くしている。

「...やあ」

 運転手は言う。

「私もこれ、初めて見るの。築年数は三桁とか。水門は噂通りの猛々しさだけど、しかしなにも詰め所まで噂通りでなくても良いだろうに」

「人が立ち入るのも年に二度程度ですから、手を抜いたのでしょうか」

「どうでしょうね。巷説曰く、余った石材で戯れに建てたとか」

「...崩壊していないだけ、いくらかマシですねぇ」

「まったくねぇ」

 粗末な建物ではあったが扉だけは頑丈な錠前で閉ざされており、副官は錆びた錠を相手にするという渋い戦いを、四苦八苦で勝ち抜いた。

 軋み、砂埃を降らせながら開いた扉の奥は、真っ暗闇である。簡素な作りでも、積まれた外壁の石はしっかりとした加工を施されていたようで、光が漏れ入ってくるようなことはない。先んじてずかずかと入っていった女性に続き、副官は携帯型の燧発灯(火打ち石と可燃物を具えた、一時的にごく小規模な火を焚くもの)を灯してそれに従った。ひんやりとしているその中は床が砂のままで、歩く度に華奢な音がした。副官が照らしていた背中が、不意に止まった。

「ここまでね」

「せ、狭い」

「奥行きは、私の三人分くらいかしら?」

「十六尺、大凡そのくらいですね。あ、机と椅子がある」

 燧発灯の弱々しい光が、部屋の角を照らした。

「水門の鍵は、たしか...」

 女性は濃紺の官吏装束の腕をまくり、最下段の引き出しに指をかけた。が、すんなり開くはずもない。

「代わりましょうか?」

 その言葉には、すぐさまかぶりが振られた。やや残念そうにしている副官を余所に、女性は踵を大きく引いた。事の運びを予想できた照明係は咄嗟に肩をすくめた。それに一秒に満たない時間遅れて、女性の鋭いつま先が振るわれる。騒々しい衝突音とともに、朽ちかけた机をどこからどうみても朽ちた木屑にした。

「良いかしらホッペンフルト副官、こういうのは開くか開かないかじゃなく、「開ける」のよ」

「さすがですねー、局長。根っから文官の私にはちょっと想像できなかったですぅ」

「育ちが良いと不便なのね」

 カシア・ホーバル・ジャックオー国土管理局局長は、木屑の中から拾い上げた鍵束を胸ポケットに仕舞い込みながら、にっこり笑う。辟易の相を浮かべる副官は、木屑の中に転がっていた遠眼鏡を拾い上げて、雑に埃を払った。

 詰め所を出た二人は、水門に向かった。水門は空から降下でもしない限りは詰め所に隣接する通用口を除いて侵入が不可能な構造になっている。国家間の関係が非常に友好である現状、そこまでの徹底をする必要は無いのではあるが、体裁上厳重であるべきだとされているのだ。そのためその通用口入り口の仰々しさたるや、監獄の正面口をさえ思わせる。

「この川が私達の国の南部にある山脈を水源としているのは?」

 またもぶら下がっている重苦しい錠前に、あれでもないこれでもないと鍵を差し込みながら、カシアは副官に訊ねた。

「存じ上げております」

 ホッペンフルトはさも当然というように答える。

 カシアは頷いて、流れるように語る。

「よし。大峡谷を抜けてこうして流れてきた後は、この水門を抜けると二里程度の緩衝地帯となる。どの国家にも帰属しない地域だけれど、誰も住もうとはしないのも事実よ。適していないの、住むのにはね」

 錠前はうんともすんとも言わない。

「その一帯を抜けると、○×国よ。うちと同じように立派な水門がある。下流だから、うちより遙かに実用的でしょうね」

 知った話なのでホッペンフルトも、うんともすんとも言わなかった。

「○×国から十里くらい行くと、○○国の領内。そこに川の終着点の大きな湖があるの。いろんな生き物がいるらしいの...よっ!」

 言い終えると同時に前蹴りが飛んだ。錠前は、がちゃんと貫禄ある音を立てたが、それきりだった。カシアは気にせず、鍵束と共に再び向き直った。

「ご興味がおありなのですか」

 慣れた様子で、副官が訊ねる。上司は何につけ、好奇心が旺盛なのである。あと非常に足癖が悪い。

 カシアは首もとで結わえた髪を横に振った。

「そこまで興味はないわ。近いうちに詳しく話して貰える予定があるもの」

「というと?」

「私のーーー。ホッペンフルト、通信機」

 振り返った赤銅色の瞳。副官は刹那、事態が飲み込めずに射竦められたように蒼い目を白黒させたが、すぐに腰元へと手をやった。

「なぜわかるんです...」

「なんとなく」

 ホッペンフルトは通信機に着信があるのを確認した後、円形の受話器を耳元へ押しやった。わずかではあるが、漏れた音声がカシアにも聞こえてきた。ただし何を言っているのかまでは判別が付かなかったので、腕組みをしてじっとしていた。

「...は?寝ぼけてるのか...?」

 副官はぼやいて、受話器を自らの口元に寄せる。

「四時間交代制で身体的に辛いのは重々承知だが、もう少し詳細に話してくれ。どうぞ」」

 再び耳に回された受話器からは、先ほどより大きな音声が漏れ出ている。カシアはそれを断片的に聞き取ることは、できた。しかし意味はとれない。

「ホッペンフルト」

「お待ちを」

 眉を奇っ怪に歪め、空いた右手を突き出し、副官は述べた。やや緊張感のある空気が岸辺を漂う。呑気やってるのは波打ち際の鶺鴒だけであるように思われたが、彼女はふと尾を上下に振るのを止めて、上流たる北を凝視した。そしてやにわに、何かから逃げ出すように飛び去っていった。

「中流域第一拠点に残してきた局員からの報告です。局長、にわかに信じがたいことなのですが」

「うん?」

「二脚で駆ける大きな蜥蜴の群が、川沿いに南へ向かっていると」

「はあ」

「それでですね、そのうちの一頭の背に...女の子が一人、乗っているそうで」

「っ...なにを莫迦なことを」

 吹き出しそうになりながらそれでも威厳を以て、彼女が副官の報告を切り捨てた直後である。川の上流の方から、一群の水鳥が叫び声を上げて、彼等の目前を飛び去っていった。それは尋常でない様子であり、何かに追い立てられていると見て間違いはなかった。川であるからして、水を欲した捕食者が鳥たちに悪戯を仕掛けたのだろうと、普段なら解釈するところである。しかし二人は生唾を飲んで、手を額にかざし、目を細めて北を睨まざるを得なかった。

 はじめ汀の陽炎に、滲んだような黒点がちらほら見えたような気がした。それはやがて小さな地鳴りのような、不規則に連続する打突音が聞こえ始めると共に、五つの影に確定した。

「む...群れと言うには」

「少ないわね。しかし、巨大な?蜥蜴?何も情報が入ってこないわ」

「駝鳥か何かと見間違えたんじゃ...」

「駝鳥と蜥蜴見間違えるような局員には、今日限りで退職してもらわないと。それより女の子って何を見間違えたら」

「あっ、そう言えばーーー」

 慌ただしい手つきで、ホッペンフルトは自らの身体をまさぐり始めた。カシアは手を伸ばし、それを待った。ややあって、肩に掛けてあった鞄から取り出された、少し汚れた単眼の遠眼鏡が彼女に手渡された。

「どうです?蜥蜴ですか?駝鳥ですか...!」

 もうこの部下は、一局員の滑稽な解雇理由の決定以外には興味が向かないように思われて、彼女はその早まった問いに答えなかった。赤銅の左瞳が、今閉じられた。

 遠眼鏡を探しているうちに、それらはかなり距離を詰めてきていた。そのため、レンズを向けた方には初め何もとらえられなかった。接近と多少の進路のズレを考慮して筒先を傾けたとき、群れの一頭が円の視界に囲われた。

 それは駝鳥のように細い首を持った、二脚で走る生き物である。しかしその面つきは鳥類のようなつるりとした曲線を持たず、むしろ岩のようにむくつけき有様だ。呼吸のために薄く開かれた口内には、肉食動物を思わせる鋭い牙が見える。首の付け根から背に視線を遣ると、背甲には大きく隆起した瘤のようなものが左右に一対あった。前脚は見当たらない。少し湿った川縁を蹴る脚は逞しく筋立ち、その点のみは駝鳥、あるいはヒクイドリに極めて似ていた。躍動する脚部の間からはときたま、長く伸びた尾が窺えた。

「あれは...確かに蜥蜴としか形容できないわね」

「蜥蜴かァーッ!」

 無念に膝を叩くホッペンフルトは、局長の視界には写らない。彼女は観察を終えるや、少しずつ視点を動かした。そしてついに、それを捉えた。

 ある一頭の背に、不自然に鮮やかな朱色があった。それは疾駆の勢いにはためいていて即座に、布に違いないと判別せられた。黒い頭髪のようなものも、一緒になって滅茶苦茶に乱れている。しがみついてじっとしているようで顔付きなどは確認できなかったが、蜥蜴の体躯と比してみても、それが成人に満たない年齢のヒトであるのは確かだった。

「っーーー!」

 遠眼鏡から目を離し、左目を開く。鋭い陽光に瞬間、眩んだ。白色の世界が徐々に彩りを取り戻し始めたときにはすでに、群れは目前へと迫ってきていた。ここまでにカシアが目にしたものを同じように視認した副官は、口を開けて驚嘆するばかりである。

「なんじゃあれ...」

 そんな役立たずを置いて、一房の髪束が翻った。

 迫り来る一群に興味が尽きない男は呆然と北を眺めていたが、浮遊自転車のプロペラ音に我に返る。見ると、上司がそれに跨がって、今にも発進しようとしているではないか。彼女が何をしようとしているのかは、すぐに察せられた。走り寄ろうとするより先に、「副官、他に仕事を任せます」という、張りのある声が飛んできた。

「仕事ってなんです!?」

 副官は狼狽える。跳ね返ってくるのは驚くほど固く、熱意ある声色である。

「うちの水門はあの程度の大きさの体躯であれば間違いなくすり抜けられるわ。無駄に大袈裟な作りにしてあるから、柵の間隔が広いのよ。つまり、もう、ここじゃだめ。けど、三ヶ国協定の通りに今日の水門点検が行われているならば、○×の国環局員も間違いなく水門に出てきているはず。協力を仰いで」

 プロペラの回転は加速していく。蜥蜴たちの跫音はすぐそこまで迫っている。一刻の猶予も無い。

「頼みました」

「ーーー頼まれました」

 駄目押しの言葉に、しかし当然を思わせる素直さで副官は頷いた。カシアはにっこりと微笑んだ。

 直後、突風が吹き抜ける。強靱な脚に踏み散らされた水際が白く泡立ち、激しい飛沫が上がった。男の頬を、蜥蜴の長い尾が少しかすめていった。驚き、思わず瞼瞬く間に、その像は小さくなっていく。それにやや遅れるようにして、浮遊自転車を奔らす上司の背中が南へ向かっていった。 一団は間もなく、なんであるか判別付かないほど小さくなってホッペンフルトの視界から消えた。

 あの騒々しい足音も、張りつめた緊張感もなく、川が時折ちゃぷちゃぷと波音をたてては南へと流れていく。それに沿うように吹く風も、唸るには穏やかすぎた。

「そういえば...」

 副官は呟いた。

「俺はどうやって帰ればいいんだ...?」

 通信機を片手に途方に暮れる男が一人。帰ってきた鶺鴒は無害そうだと見た彼の傍らに降りて、尾羽根を上下するばかりである。人に聞くに、彼は託された任務を全うした後、日が暮れるまで歩いて半べそをかいていたところを部下たちに保護されることとなったという。


 蜥蜴の群れへと追い縋るカシアの浮遊自転車は、快調な動作を見せた。出だしこそ遅れをとったものの、やがてプロペラがゆっくりと逆回転して見えるくらいになると、群れはすぐ隣にあるようになった。蜥蜴たちは前方に駆け続けながら度々、器用に首を傾いでは彼女を眺めた。それでも特に気になりはしなかったようで、何か働きかけるようなことは無かった。カシアも蜥蜴たちそのものには一切興味がない。彼女の瞳には初めから、例の少女しか写っていない。ハンドルを固く握りしめ、彼女は叫んだ。

「ごきげんようお嬢さん!」

 暴れ狂う縮れた髪に、動きがあった。少女が首を反らせて振り返る。そして、ぱっと顔を明るくした。

「おやくにんさんだ!どうして?」

「それはあたしが聞きたいわね」

 カシアは苦笑する。

「私はカシア・ホーバ...カシアでいいわ、あなたは?」

「ターシア」

「ターシアちゃんね。どうしてここに?」

「この子たちにね、乗ってきたの。ずっと北からよ」

 北、と聞いた国土管理局局長は、頭の内で国土の地図を広げて見せた。

「膨らみがやや上部にある縦長の菱形」と形容されるこの国のうち、今彼女たちがいるのはその最南端の国境を越えてやや過ぎた所である。この地点から川沿いに南へ遡ると、まずは中流域第一拠点に行き着く。第一拠点は峡谷の峻険壮大な岩壁の陰にあり、峡谷の入り口までは約一・五里程の距離がある。この周辺に定住している人間など誰一人としていないことは、既に確認されている。さらに北へ遡るには大峡谷に設置してある国有の昇降機を用いて峡谷の上に出るか、流れを遡って北へ、上流へと川を行くしかない。つまり、北から南へと来るには川を泳ぐか流されるかしているはずで、そうでなければカシアの知るところであるはずなのだ。すると少女は、さらに上流の人里から流れてきたと考えるほか無い。確かにこの川はもとを辿れば広い谷を有する山地に出るし、そこには人も住んでいる。しかしどうだ、少女はずっと蜥蜴に乗ってきたと言っている。であれば、この蜥蜴はあるいは彼女を背負って川を下ってきたのか。いやできまい、あの大地をも削り続ける濁流を泳ぎ来ることは、如何なる生物を以てしても、為されまい。

 なんだか訳が分からなくなったわ、と、カシアは思考を放棄し、アクセルを強く捻った。プロペラはより鋭く風を切り始める。

 少し車体を傾けると、すすっ、っと平行に移動し始める。幅を寄せられてそこはかとない危機感を覚えた傍らの蜥蜴は、小さく鳴いて前方を譲った。カシアは真剣な面もちで左手を垂直に上げて、前に割り込んだ。一頭分、少女に近づくことになった。目標までにはあと一頭ある。

「ねえお姉さん、この子たちはどこに行くの?」

 蜥蜴の首元に抱きつきながら、少女が訊ねてきた。

「どこに行くと思う?」

 ハンドルにしがみつきながら、カシアは返す。そうしながら、常に機会をうかがっている。

 ターシアはしばらく首を捻って思考している様子だったが、ちょっと目を離した隙には辺りの景色に気を取られ始めていた。

 呑気なものね、とカシアはほころんだ。尋常ならざる肝の据わり方であるからして、この少女は後々傑物になってもなんら不思議がない。もっとも、子どもというのは特に幼いうちは、誰しも無限であるのだ。在りし日は、自分もあんなだったのだろう。

 彼女にとっては希有な感傷。その合間に、機会があった。彼女はそれを見逃さなかった。

 傍らで走る蜥蜴が、長い首をわずかに引いたのである。

 何かに気を取られている風であった。これを逃すわけにはいかない。

 ほんの少し緩まっていた手元に力が加えられた。

 前進しつつ、じんわりと水平に滑る浮遊自転車。プロペラは快調に、空を攪拌する。蜥蜴は首を伸ばそうという気配をさえ見せない。できすぎていると思えるほどに好都合な瞬間、二度とは訪れるように思えない。

 冷静であったのなら、普段のカシアであったのなら、ここで一つ踏みとどまることを選択していただろう。その生き物が何を目的にそうして、なぜ元のようにする気配を見せないで、ここがどこであるかについて考えを巡らせていただろう。

 浮遊自転車はその安定性をハンドルにつながる舵に委ね、その浮力をシート下の特殊な鉱石に頼り、その推進力を尾部のプロペラに託している。いずれかが欠けてしまえば、それは歯車を失くした時計のように意味を為さない物になる。噛み合わなくなってしまえばガラクタだ。ガラクタは直ちに地に墜ち、そして鉄屑となる。

 安心しきっていた航行、その不意を突くかのように、蜥蜴の首が素早く伸ばされた。その鼻先は川面を突き進んで水を撒き散らした。しかし快走は止まることを知らず、ひとえに前進を続けている。ひとつの状況変化と、あるひとつの状態の不変はこの場合、カシアにとって最悪を意味した。

 繰り出された頭に反応しきれず、鋭く上がる飛沫が目尻を掠めてから反射的にハンドルを切るのがやっとだったカシアは、プロペラを、そしてこの生き物の鼻面を守ることに必死だった。その気持ちの先走りは、しかし実際の走りを大いに妨げた。

 浮遊自転車は弾丸のごとく螺旋した。悲鳴も舌打ちも許されない一瞬の転回。

 わずかな動揺と脊髄反射からたった一度瞬いた瞳が次にとらえたのは、彼女を宙に残して青空へ空転する浮遊自転車だった。生命への不安に満ち満ちた、体中を流れる血がすっかり抜け落ちるような薄ら寒い感覚は追ってやってきた。

 歯を食いしばり、文句のあれこれを飲み込んだカシアは手を伸ばす。指先は水中をまさぐる蜥蜴の首に向いている。しかしそれは一寸に満たないほどの遠くにあった。そのわずかのところで届かぬように思われた。

 落下の後、続く蜥蜴に蹴られて死ぬか。無い話ではない。馬に轢かれて人が死ぬのは噂話の中だけではないのだ。であればこの奇っ怪な大蜥蜴に蹴り、踏み殺されてもおかしなことは無いーーー

 水を経ても響いてくる不断で急いた駆け足の地鳴りが、激しく鼓膜を叩く。心臓の拍動も、同じくらいであろうか。分け散らかされた水際は、真っ白に泡立っている。泡沫のひとつひとつが、つぷつぷとはち切れる断末魔を上げている。打ち上げられて再び溶けていく水滴が戴く王冠のひとつひとつが、輝いて見える。瞬間の経過がいやに遅く感じて、何もかもが馬鹿らしいくらい主張している。全てを余さず、受容させようと。それを彼女は、死の目前と捉えた。

 その時指先に、何かが触れた。

 それはごつごつとして岩のようであった。

 それは指先に触れると言うよりは掠めた後、大きな軌道を描いてそのまま、振り切る勢いで、カシアの両腕を巻き込んだ。それが蜥蜴の首であることを疑わなかった彼女は掌、そして前腕と上腕にありったけの力を込めた。

 首では彼女一人の体重は支えようが無かったらしい。蜥蜴は捕らえたての魚を逃がし、悲痛な声を上げて首を低く持って行こうとした。カシアは脚を決して水に浸けぬように腹筋を酷使し、同時に蜥蜴の首もとに抱き縋った。

 そうして九死に一生を得て、今は硬い背甲の上で、弾む息を整えようと項垂れている。

「だいじょぶ?」

 心底心配そうな表情と声色で、ターシアが訊ねる。

 カシアは前髪をかき上げて、ため息を吐きながら微笑んだ。

「ええ...なんとかね」

「乗せてほしいなら、横から乗せてもらったらよかったのに」

「...次からそうすることにするわ」

 掌が額に押し当てられる。

 緊迫していた拍動が少しずつ弛緩するにあたって、彼女は何処かに行っちまった乗り物を顧みようと思った。しかしあまりにも空しい安否確認をする体力が無い。ちょっと首を回すのも億劫なほどに疲弊している。今までのものが一度に来たのだろう。様々な土地に赴くのには慣れたつもりだったが、と観念した彼女は、蜥蜴の首にもたれ掛かった。先のような拒絶はない。

「私もするぅー」

 ターシアがそれを真似て、カシアと向かい合った。満面の笑みの少女を見て、私はいったい何を焦って駆けつけたんだったかしらと、いっそう空しくなる大人だったが、とにかく少女と自分が無傷であることに深く安堵した。

「この蜥蜴たちは、ターシアのおともだち?」

「んーん。こどもよ」

「あらぁ、随分大きいのね。うまれてどれくらいなの?」

「今朝、たまごからでてきたの」

「朝ご飯の話じゃなくて」

「あ!あさごはんたべてない...」

「そう...それはお腹空いたわね」

「うん...」

 少女の腹の虫は気の毒な声を上げていた。何かないか、とカシアがポケットをまさぐってみると、飴玉が二つ出てきた。

「飴食べる?」

「あるの?ほしい!」

「よーし、じゃあ投げるからちゃんと受け取るのよ」

 二人は身体を起こし、跨がる腰から上を捻って向かい合った。少女は歓喜と真剣のために、両手を挙げて構えている。

「落ちないでよ...?」

「落ちないもん!おねえさんみたいに!」

「私は落ちてませんー」

「落ちそうになったもん!」

「でも落ちてませんー」

「乗り物からおっこちたー!」

「蜥蜴からは落ちてませんー!」

 益体のない言い合いをした後、カシアの「それっ」という掛け声と共に、飴玉は宙を舞った。タイミングを合わせたつもりで握られた少女の手、その甲を掠めて、頭頂で一度弾んだ飴玉。死んだ勢いであとは重力に従って、少女の脚の間に転がった。ターシアは、「ありゃ」と不思議がった後に、たちまちのうちに包み紙を開いて、中身を口に放り込んだ。

「美味しい?」

「おいひいれす!」

 少女は如何にも幸福という表情で、ころころと口の中でそれを転がして、小気味良い音をさせてみせた。自分の飴玉の包み紙を畳みながら、カシアも同じように遊んだ。

 波打つ川面は、陽光で煌めいている。

 照りつける日差しは強いが、疾走に纏わせる風の爽やかなこと。

 これ以上にないくらいに開けている景色で、少しの不安と長い溜息ができあがった。

 口の中の蜂蜜飴がとろりと融けだして、口いっぱいを甘くした。それは鼻腔を通って柔らかに薫り、たちまちに全身を蜜に浸けたような気にさせた。肩にしぶとく居座っていた妙な力みが、川に垂れ出るような開放感があって、カシアは思わず蜥蜴の首を撫でた。反応は無い。ただ、この子は南へ走っている。そこには何があるのだろう。

 カシアが見上げた先。そこにはうっすらと、何か陰があった。

 見当だけは付いた。彼女は腰を据えなおして、背筋をぴんと張った。


 ケコモン・イエノスは隣国から俄には信じがたい一報を受け、信じがたかったのでそれを冗談だと思うことにした。そうして、気の進まない水門の整備に辟易するばかりか、無聊の慰めに目に付いた小石を集めるなどしていた。そのしわ寄せは、砂埃と一緒にすぐそこまで迫ってきていた。水門を閉めているような時間は、もう無い

「またやっちゃいそうだぁ...」

 身の丈八尺ほど、しかし痩せた体躯から漏れる悲痛な声。半べそをかきながら、彼は手だてを考える。いや、考えていたのは手だてではなく言い訳であった。仮にも○×国国土管理局副局長という身ではあるが、局長にはしばしば怒られている。この局長の怒りは、○×国の威風堂々・泰然自若という理想的人格像がケコモンに足りていないが故のことであるのだが、怒られている本人は仕事ぶりを叱責されていると思っている。このすれ違いは長く、それゆえ、考えれば考えるほど怒られる言い訳の類いを彼は必死に捻っているのである。

「そもそも何が起きたら蜥蜴に乗って降りれないなんて事があるんだろう...」

 彼は天を仰ぐ。この世界を司っている偉大な何かよ、僕は悪いことをしましたか。彼の心の中で胡座をかいている偉大な何かは応える。言うなれば何もしていないことが悪いことだったろう、と。彼は納得した。

 背丈だけなら周りの人よりほんの少し大きいということを思い出した彼は水際へと進んで、仁王立ちしてみた。あるいは自分の巨躯なら、あの蜥蜴たちをせき止められるかもしれない。すでにそのシルエットは明確になりつつある。そしてそれにしがみついている少女と、乗馬でもするかのように優雅な姿勢で跨がる女性の姿もしかと捉えることができた。女性の方には見覚えがあった。

 ケコモンはひょいと片手を挙げてから、その掌をみずからの胸にあてがった。それに気づいたらしい官吏装束の女性も、蜥蜴上で同じようにした。少女の方は、低く挙げた小さな手をひらひらと舞わせている。ケコモンは空いた手で、それに応じた。

 蜥蜴と視線がぶつかった。粘りけのある土と似た色をした瞳は、何を見ているのかがわからない。人と違い、志向性も感情も、そこには居ないようにも思われた。少し腰が引けたが、引き返すには時間がなかった。

 彼は少女の乗った蜥蜴に真っ正面から掴みかかろうとする。少し引いた左足がべったりと地面に重なり、腱が張り、収束した。近づいてみると自分よりも大きかったその蜥蜴は、その威圧に加え、甲高い声を上げて障害物を蹴散らさんとした。それに一瞬間、身を竦ませた。

 小さな悲鳴を漏らし身構えたその間隙は、容易に突かれる。怒濤はしかししなやかに、彼の傍らをすり抜けていこうとした。

 「何が何でも止めなければ」というケコモンの使命感は、それに驚くべき反射を見せた。過ぎていってしまおうとした蜥蜴の尻尾を、掴んで見せたのである。それは偶然にも、少女の跨がる一頭であった。

「よぉしっ!」

 歓声をあげるケコモンとは対照的に、蜥蜴はその不快に、再び鳴き声を上げ、走り去っていこうとする兄弟たちに助けを求めた。遅れる一頭を気にして、少し前をゆるい足取りになって進んでいた蜥蜴たちが長い首を捻った。カシアも同じように、振り返った。

 背丈は高いが体躯が立派というわけではないケコモンは、両手でもって蜥蜴を制しているのも精一杯である。呻きを漏らし、額に汗を滲ませながら、彼は少女に呼びかけた。

「お嬢さん、もう大丈夫です」

「速くて怖かったでしょう、おうちの方も、心配しているはずです」

「遠くまで、来て」

「さあ、そこから、ひと思いに、降りてください」

「さあ、早く...っ!」

 その声に、少女は振り返った。それはそれは安心しきった表情であろうと、ケコモンは信じて疑わなかった。けれどくるくる真っ黒髪の下の眉は、高くつり上がっていた。

 少女はケコモンに向かって右のこぶしを振り上げ、続けて虚空を振り抜いた。

「あいたっ」

 ケコモンの額に何かがぶつかり、彼はそこを両手で覆った。ぽちゃん、と間抜けな音がした。少女の掌は開かれている。下を見ると、ちいさな胡桃が流れていった。

 しなやかな尾の先は、開いた口がふさがらなくなった男からすぐに遠ざかっていく。蹴り放たれた水が、彼の服をびしょ濡れにした。まだ額を押さえて立ち尽くしている彼に、少女は口をとがらせて言い残した。

「いじめたら、だめ!」

 群れは遅れてきた兄弟二頭を迎え入れた後、開けっ放しの水門を抜け、再び仲良く猛進していく。

 

「あの人はきっと、悪い人よ」

 少ししてから、ターシアは不機嫌そうにぼやいた。

「あは。そうかしらねぇ」

 蜥蜴の首もとを撫でながら、カシアは笑った。顔見知りが災難に遭っていたことについて、同情より勝った所感があった。額を覆う大男の様子を思いだし、頬がゆるんだ。

 河の両岸はいつのまにか、蜥蜴の腹を撫でようかというくらいの丈の草本に覆われている。それは陸地遠くへと連なっていて、広大な原野を為している。いくつかの合流もあって、川幅も上流の倍ほどになっている。陽には少しの傾きが見受けられた。

「ここはきっと、すごく遠く」

 ターシアは深い草原を見渡して、溜息をつくように言った。「おうちに帰りたくなった?」とカシアが訊ねると、それにはかぶりを振った。

「まだ大丈夫」

「いつかは寂しくなるのかしら」

 ここまで、そして今の瞬間までを混じりけ無く満喫しているように見えていたカシアは、少女の言葉に可愛げを覚えた。

「わかんない。でも、私もこの子たちをさみしくさせたらだめ」

「すっかりお母さんね」

「たくさんお水あげて、大きくしたの」

「...植物?」

 少女特有の飛躍した会話だと思ったカシアはそれ以上訊かなかった。卵はともかく、今日孵ったとか水を上げただとか、理解しようとするのが無理がある。つくづく子守が向かない。溜息が出た。

「おねえさんは、さみしくなっちゃったのね」

 ターシアは憐れみを含んだ眉尻を向けてきている。カシアは眼を閉じ、口をとがらせて「ええ、そうなのよ」と返した。少女はそれをまじまじと見つめて、それから、「かわいそう!」とだけ言い放った。そして少しの間もなくあらぬ方向を見渡して眼を輝かせはじめてしまった。いい年したお姉さんは、蜥蜴の岩のような鱗を柔い爪で掻いて歯ぎしりした。

 

 草の嵩は進むごとに増していき、川幅はごく小さな枝分かれを繰り返した結果に一、二尋の小川となっていた。遠景として見るとそれははっきりとはみとめられない物だったのに。ずっと辿っていた滔々の路は、深い草の海へと分け入っている。それをまた重ねて、ついには糸のような細流になっていった。

 蜥蜴たちは、葉が彼等の顎を掠めるようになると疾駆するのをやめて、緩く軽やかな足取りで歩を進めるようになった。背筋を伸ばして少しでも視界を確保しようとしている二人は、時々ちょっかいを出してくる細い葉っぱたちを鬱陶しがって唸っている。

「ここの葉っぱ、嫌」

「葦の類いかしら、ご立派な原っぱね」

「原っぱじゃなーい。森、森!こんなの」

「確かにそうねぇ」

 その森は分け入っても分け入っても森である。延々と続く。時々蜥蜴たちが立ち止まることはあるが、それは休息にもならない束の間。周囲は一切が葦の壁であり、息苦しささえあった。時折、鳥の群れと思しき気配が羽ばたき去る羽音と悲鳴を聞くことがあった。そこに命のあるのを感じて、少女は少しの安堵を覚えた。

 陽の傾きが顕著になり初め、二人はそれぞれに表情を曇らせている。常に囲まれ、遮られた集団は周囲より常に一段暗く、それが一層の沈黙を誘った。カシアは眉間に皺を寄せ、あたりに視線を配っている。ターシアは樹上の鷹を思い出した。

「おねえさん、怖いの?」

 少女は訊ねた。カシアは

「そう見える?」と返す。頷きが返される。

 良くないな、と大人は思った。

 彼女は両手を高く突き上げて、背の筋という筋をめいっぱいに伸ばした。しばらくそうしていると、伸ばしたところが微熱を持って、それと同時にささやかな余裕が喉のあたりにまで昇ってきた。ためらわず腕をおろしながら、息と共に緊張を口から追い出すと、草陰の色が少しだけ明るくなって、空がまだ優しく青いことに気づいた。

 傍らの少女は何事か愉快なことだと想像したのか、カシアを真似て伸びている。特に楽しいわけでも無いだろうに、変化があったのが嬉しいのか、満足そうに微笑みながら繰り返している。

「楽しい?」

 あまりに繰り返すので少々呆れたカシアは首を傾げた。

 少女は言う。

「ずっと、ずっと、楽しかった!」

 はじけるような、笑顔であった。


 突然に視界が開けた。

 突き飛ばされて追い出されたような呆然があって、カシアはしばらくの間、言葉を失った。

 目前は、遙か前に駆け抜けてきたような極めて低い丈の草原が少し続く。それはやがて天に流れる雲を反射して映すようになっていき、あるところからすっかり、澄んだ水に浸かっている。ずっと遠くに見える山々から降りてきたのだろう、冷たい向かい風が、草原を飲み込んで果てしなく広がる湖に、さざ波をたてている。寄せるばかりで返さぬ波打ち際に、

彼女たちはいるのだ。

「ここが、うみ!?」

「...いえ...大きいけれどここは湖、ね」

「みず!うみ!?」

「...そういうことでいいわ」

 蜥蜴たちが立ち止まった。じっとりと湿り気のある瞳が、眼窩で滑ってぐりぐりと動き回っている。時折ちろちろと舌を出して、きょとんとした顔で硬直したかと思ったら、足下に口先を下ろして喉を鳴らしている。ここまで休み無く駆け抜けてきた激しさから一転した弛緩に、カシアとターシアの身体は自然にその緊張を解いた。「うみ」との邂逅に興奮冷めやらぬといった様子の少女はまた異なった強ばりで身悶えしていた。対してカシアは純粋な眠気に襲われはじめ、目をしばたたいている。欠伸まで出た。蜥蜴の一頭も、同じように大口を開けた。

「ねえ、おねえさん。うみとみずうみは違うの?」

 ターシアは、いつのまにか蜥蜴から降りている。地から染み出した水で履き物をぐしゃぐしゃに濡らして、屈んでいた。服の裾が水を吸って色を濃くしているが、気付いていないらしい。

 カシアは大きく伸びをした後、慎重に蜥蜴から降りた。解放された蜥蜴は「清々するぜ」と言わんばかりにすかさず距離を置き、湖へ進み出た。

「水の種類と広さが違うわ。湖はふつうのお水、海は塩味のするお水。海はここよりもっと広いのよ」

「ふうん」

 両掌を水面に浸し、ばしゃばしゃとかき混ぜて遊んでいた少女は、徐に両手で椀を作って水を掬った。

「飲んだら駄目よ」

「うみかもしれないから...」

「お腹壊すわよ。海でもやったらだめ」

 腕組みしたおやくにんにきつく言いつけられた少女は、「はぁい」とふてくされ気味の応答をして、手の椀を解いた。小気味良く柔らかな音をたてて、水は湖へと還っていった。気に入った少女は、しばらくそれで楽しんでいた。

 それを見守り、そして何を考えるでも無く、羽毛のような軽い雲が遠方をただ過ぎていくのを、カシアは眺めていた。考えねばならぬ事が山ほどあるように思われたので、面倒くさくなって何も考えないことにした。どれかに優先順位を付すのがなにより面倒くさい。

 傍らでは少女が水遊びをしてはしゃいでいる。

 蜥蜴たちは各々に草を喰んだり水浴びをしたりなどしていて、さっきから軽薄そうな鶺鴒が私の前を行ったり来たりしている。

 湖で気持ちよさそうに魚が跳ねている。波紋は妨げるもの無く、すい、と広がる。

 対岸には牛のような生き物がいて、親子で寄り添って尾を振っている。それを牛飼いが、見守る。

「うん?」

 彼女は目を眇め、向かいを睨んだ。そこには確かに四つ足大小の生き物が一対居る。そしてその傍らには、一人の人が立っているではないか。その人物は何かをのぞき込むような姿勢で身を屈め、立木のように硬直していた。ふとカシアは思いだし、上着の隠しから一本の筒を取り出した。そうして徐に、右目にあてた。

 初め牛と目があった。茶色のぶちが散った額に、小蠅が屯している。つつ、と先を動かすと、その牛飼いに当たったらしく、衣服の一部が見えた。それは首もとで、屹立した詰襟には襟章が輝いている。それにはよくよく見覚えがあった。

 彼女はのぞき込みながら少し口角を上げて、空いた手を掲げた。

 レンズの向こうの男は双眼鏡を手放さず、口を一文字に結んで凝視していた。しかししばらくして何事かぼやくように口を動かした後、双眼鏡を手放した。

 カシアと彼は遠く、視線を交わした。面白がったにやつきが顔から剥がれない彼女に対して、対岸の男は眦を鋭くするばかりである。今にも皮肉小言のあれこれを毒吐きそうな顔つきだったが、カシアがお道化た仕草をとると、僅かに破顔した。

「どしたの?」

 奇妙に動いているおやくにんに淀みない輝きの眼を向け、少女は遠眼鏡をせがむ。カシアは求められたままに手渡した後、腰に手を当てて胸を張った。湖の畔は金色に染まり初め、風が少し冷たいような気がした。けれど若草の青い薫りは胸につっかえず、爽やかさだけが残った。余分な物は一緒に流れていったのだ。

「少し、遅いわね!」

 カシアはめいっぱいに、微笑んだ。

 

 扉を開いて廊下に出てみて、ターシアは昨晩の夢うつつに見た景色が夢ではないことを確信した。

 すごく天井が高く、すごく幅が広く、すごく長い廊下だ。ひょっとしたら外なんじゃないかと思った。目の前にそびえているそれは見慣れた岩壁をさえ思い出す。何十歩も進んでやっとたどりついた壁面はひんやり冷たい。ぴたん、と全身で張り付いてみると、ますます自分が小さくなるような気がした。

 ターシアは廊下の先まで走った。そしてひどく疲れた。見えているよりずっと遠くに突き当たりがあったのと、徹頭徹尾全力疾走を貫いたからである。へえへえ言って腰を下ろした。突き当たりからは右と左に分かれている。どちらも今駆け抜けてきたような廊下がのびていて、その先で突き当たってさらに分かれているようだった。それがずっと続くのを想像して、少女はわくわくした。ずっと楽しいからだ。「山」のように鬱蒼とした木立はないし、足を掬うような根は張られていない。つまり迷わない転ばない。なのに「山」のように広い。ターシアは飛び上がり、思うままに駆けだした。昨日、蜥蜴に乗って走った一日の風を思い出しながら。

 そして迷った。見晴らしが良いのは確かにそうであったが、景色がほとんど変わらないので帰り道がわからない。どの角を何度曲がったかも定かではない。走りすぎて脳に酸素が行き渡らないので思考もあやふやである。ただ遠くまで精一杯走ってきたという感動があった。

「もう、いいかなっ」

 飽きてしまったので、歩いて戻ろうと思った。肩で息をしながら、ターシアはぽつぽつと歩き始めた。

 すると、走っている間には特に気にならなかったものが目に付くようになった。

 高く広い廊下の壁には、いくらかの間隔を置いて扉があった。それはもう大きな扉である。彼女の身長の六倍以上はありそうだ。当然、彼女の身長では取っ手にさえ届かない。硬い床を跳ねようが、磨かれた戸板に足をかけてよじ登ろうが、無闇に埃を舞わせるだけである。閉め出された猫のようである。

 苦心していると、ちいさな音が耳に入った。それは金属が擦れあうような音で、ターシアがのけぞると、やにわに戸板は彼女に迫ってきた。大慌てに駆けだした彼女を追い回すようにするりと動いた戸板は、彼女が向かいの壁面にたどり着いた時にはすっかり開かれていた。壁に背を張り付けて見上げると、そこで見下ろしていた巨人は目を丸くしている。

「おやおやお嬢さん。早起きですね」

 見た目に反してずっと高い声で、彼は笑った。

「やっぱり、大きいと、びっくりする」

 ターシアは服の裾を掴んで引っ張りながら、肩をいからせてぼやいた。顔だけでも少女の身長の程はある巨人が苦笑して、「驚かせてすいません」と会釈した。少女はそれにかぶりを振って、「どうしたらそんなに大きくなれるの?」と真剣な面持ちで訊ねた。巨人は部屋に招きながら言った。

「たくさん遊んで、たくさん食べて、たくさん寝ることです」

 ターシアの村の家屋が四棟はおさまりそうなその広く高い部屋は、入り口の向かいの壁に大きな観音開きの窓を備えている。そこから日光が差し込んでいて、部屋は大変に明るかった。また部屋の中は甘く馨しい香りで満ちていて、起き抜けの空腹児童にとってそれは大変に気に掛かった。部屋の中央に巨人には小さすぎる長机が据え置かれていて、それを間にして向かい合わせに、革張りの長椅子と、巨人用の椅子が一脚ずつある。その長机の上に、ターシアの背丈ほどの直径の大皿があって、その上には照りよく焼けたパンのようなものが花のように並べられていた。こちらは彼女の頭大である。

「もしよろしかったら。ちょっとしたお菓子ですが」

 巨人はそのひとつをつまみ上げて、彼女へと手渡した。

「大きいねぇ」

 しかと両手で抱き抱えて柔らかそうなところに歯を立てると、裂けたところからふわりと、例の美味しそうな香りが立ち昇ってくる。中身のふわふわは噛むほどに甘く、ターシアは林檎一つ分くらいを残して満足した。

「食べきれなかったのでしたら、お預かりしますが?」

 後生大事に残りを握りしめている少女は、「これはおかあさんにあげるの」と断った。巨人は目を細めて、小さく会釈した。徐に背を向ける。大きなその背に隠れてしまって、少女には彼が何をしているのかわからなかったが、蝶番の擦れる音だけが聞こえた。振り返った彼の大きな手には、縁を美しく切り飾られた紙片が握られていた。それは光を透かして、幾度か瞬いたように見えた。

 手渡されてみるとそれは、目算よりずっと多くを包めそうに広がった。大変に薄く、そして手触りでは気付けないほどの細かな装飾が切り抜かれている。不思議と丈夫で、端を持って引っ張っても伸びて草臥れるようなこともない。

 彼女は両手でふわりと翻して、柔らかに被った。それを通した世界は霧がかったように不鮮明だったが、朝霧のようにきらきらと、穏やかで微細な明滅をなぞっていた。顔を出して、「とってもきれいね」と巨人を見上げた。男は「ええ、実にそうですね」と、溜息を吐くように彼女を褒めた。パンの包み紙として渡したことは、この際どうでも良いことになっていた。

 くるりくるりと楽しげに回ったり、あちらこちらをきょろきょろと透かし見て遊んでいると、不意に来客の兆しがあった。巨人は扉を小突かれる音に小さく身体を振るわせてから、一拍置いて立ち上がった。それからゆっくりとした足取りで音の方へ向かい、丸い金属の取っ手をひねった。その音はターシアが聞いたのと同じもので、彼女は無意識にそちらへと、顔を向けた。

「どうもおはようございます。よく眠れましたでしょうか?」

 巨人が柔らかな声色で訊ねながら、半身を引いた。

「おはようございます。優れた調度品ばかりで私の身には余るものばかりでしたが、それだけあって頗る快調です。連れが眠らせてくれなかったもので、多少寝不足ではありますが」

「カシア国管局長、言い方。ルワンホルルア殿、誤解なさらぬよう。例の蜥蜴について問いつめていたのです」

 並び立つ大木のような彼の両脚をくぐり抜けて、女性が顔を出した。長い髪をすっかり下ろしているので雰囲気が異なって見えるが、それは確かに、少女の見知った人物である。女性は少女に気付いて眉をひょいと動かすと、右掌を肩まで上げて、ひらひらと振って微笑んだ。

「おはよう、ターシア」

 駆けつけたターシアは一晩ぶりのカシアと熱い抱擁を交わすと、例の装飾紙を掲げた。その仕事に見惚れつつ、国土環境管理局局長は謝辞を忘れない。ルワンホルルアは巨体を縮こまらせて、恐縮する。

 カシアの隣には、眉間に皺を寄せた男がいた。色違いの官吏装束を身にまとっている彼は、姿勢良く直立している。ターシアが控えめに見上げると、彼は頷いて応えた。

「アルル、そんな厳めしい顔をしていると、子どもに泣かれるわよ」

 カシアは茶化して言った。

「アルルって呼ぶな。生まれつきだから仕方ないだろう」

 唇を歪ませて、ザッカ・アルルデルアルアートは文句を吐いた。

 ルワンホルルアはにこにことその円満を眺めていた。アルルデルアルアートとカシアは、齢を十数えないうちからの付き合いであるが、彼はそれを知らない。この関係性の不透明さ故に、後にある事件が起こるのであるが、それはこの時点で語られるには相応しくなかろう。とにかく、誰から見てもこの男女は特別な関係にあった。それはターシアにとってもそうであり、仲がいいのできっと姉弟だろうと踏んだ。カシアが姉であることに疑いはなかった。決して姉ではないが。

 カシアとアルルは長椅子に着いた。ルワンは向かいの椅子に腰掛けて、梁ほどの肘掛けに、同じくらいの太さの腕を載せて彼らに向かい合った。ターシアは長机のそばで、すっかり気に入った贈り物を畳んだり拡いたり、くしゃくしゃに丸めたりしている。しばらくの間、甘い香りのする沈黙が続いた。口火を切ったのはカシアだった。

「そう言えばルワンホルルア殿、我が副官と○×国のケコモン・イエノス副局長への連絡をお願いしておりましたが」

 その質問に、ルワンはぱっと明るい顔で口調を弾ませて、且つ思い出し笑いを含んだ口角で答えた。

「昨晩そのお申し出をいただいた後、両名に連絡を試みました。まずカシア局長殿の副官...」

「ホッペンフルトくん、です」

「そう、その御方。その御方についてですが、昨日暮れ刻にはまだ中流域のいずれの拠点にも帰還なさっていなかったようです」

「あら?しかしながらケコモン殿はこちらとの邂逅にそれほど驚いていなかったわ。仕事はしたのは確かなのだけど」

 ルワンはゆっくりと頷いた。

「ええ。それはケコモン殿からも証言がとれております。確かに、ホッペンフルト副官から○×国への連絡は通じておりました。それはそれとして、貴殿の副官は単身、徒歩で、明け方ころに帰還なされたことは今朝先ほどご連絡いただいた、という次第であります」

「徒歩...?...あぁ、それは...悪いことをしたわねぇ」

 カシアは明後日の方に目を細めて、広野を重い足取りで進む一人の顔見知りを想像した。彼はナキネズミの巣穴につまずいて、大地に倒れ込んでいた。官吏装束が土埃で白く染まり始めているが、気にするそぶりもない。むしろもぞもぞと、泣きべそをかきながら、路肩で干からびゆく芋虫のように転がり仰け反るばかりである。可哀想だ。

 ルワンは今にも吹き出しそうなにやけっぷりであった。○○国の住人は総じて笑いの沸点が低いので、これしきの出来事でも三代は笑い種にされるだろう。対して、詳しい事の顛末にまで聞き及んではいなかったアルルは、机の下から頭を出したり引っ込めたりして遊んでいるターシアを観察していた。大人の注意を引けている少女は、得意満面である。

「さてケコモン殿ですが、彼も彼で大変気の毒なことになっておりました」

 巨人は精一杯に神妙な顔をしたつもりで、かえって珍妙に口を動かした。

「気負うでしょうな、彼は」

 ちょっとした溜息を混ぜ込みながら、唐突にアルルが口を開く。眉間の深い皺の下に鋭くある両瞳には、若干の憂いがあった。

「お知り合いですか」

 おや、と、ルワンが巨大な毛虫のような眉を上げる。

「○×国の住民にしてはかなり穏やかな気性の持ち主ですから、外交上のやりとりにいくらか都合が良くて...まあ、なにより彼とは友として馬が合ったのです」

 答えたアルルは腿に肘立て、両掌を組んでは解いてまた組んで、忙しなくしている。ケコモン・イエノスの本国における処遇が気になるのだろう、しかしルワンがそこまでの情報を得ていないことは、よく承知していた。

「そこまで心配しなくてもいいわよー、私からも便宜を図っておくから。知らない仲でもないし」

 伸びをして末尾へと声を細くしながら、呑気の調子でカシアが言った。巨人もはそれに合わせて、何度か頷いた。

「そういう問題じゃないんだ」

 アルルはかぶりを振る。彼の友人への憂慮は真剣そのものである。一言を発する度に、その形相は陰惨を増していった。

「彼が彼の立場を盤石せしめるには、僕らの干渉は極力少なくては成らない。現状、確かに彼は家筋が後押しをして、彼自身の気弱さや官吏の手腕の不足を補っているから、既に彼自身が自立しているとは言い難い」

「であれば我々の助力は有って無いようなものではないか、とも言えるが、僕らもそれなりの官職だ。その影響は一事件の解決に終息して、後に響かないという保証は無いだろう」

「彼は彼たる理由で、以て彼の立場にいなくちゃならない。そのために...」

「えーくしゃいっ!」

 彼の滔々とした懊悩の語りは、ターシアの威勢の良いくしゃみと、激しくつまらなさそうな表情のカシアの挙手で遮られた。アルルとルワンは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。

 カシアは懐から薄布を取り出して、ターシアの鼻にあてがった。少女は肩を怒らせて鼻汁を絞り出した。顔を上げれば、すっかり恍惚の笑みである。

 中指と親指で薄布をつまんで、汚れた箇所を包むようにして、カシアはそれを畳んだ。

「お節介はアルル、あなたの美徳だわ」

 それはそれは、穏やかな調子で、彼女は続ける。

「でもそういう人を引き当てた、そういう人と巡り会えた、そんな彼の才覚もひとつ、彼の立場が彼である理由じゃないのかしら」

 アルルデルアルアートはその言葉のひとつひとつに、瞑目のまま、首肯を繰り返す。組まれた指は落ち着きを取り戻している。

「彼の今後を考えて私たちが行動をとるのは今じゃないわね。まだ彼には、後ろ盾が必要...昔、私がどうしても欲しかったーー」

 カシアが少しだけ感傷的な息を漏らそうとしたとき、突如長椅子と机が、軽い衝突音ととも跳ね上がった。カシアが先ほどの真剣を吹き飛ばして呆気なく仰天し、ルワンがまた豆鉄砲で撃ち抜かれたような貌で、正面にいる。その二人を置き去りにして、騒々しい二人分の駆け足の音が、大窓へと向かっていった。

「いたーっ!!」

「クサバミズオオトカゲだーーーっ!近過ぎちゃってどうしよう」

 大窓、そのガラスの向こうに広がっている爽やかな緑の中庭に、一人の巨人が目立った。彼はその肩に仔牛一頭ほどの大きさの角笛のようなものを提げていて、革張りらしい鎧も身にまとっていた。そしてその彼の周りで五頭の首の長い生き物が、辺りを見回したり、しゃがみこんだり、ゆっくりと歩んでみたりと、思い思いに過ごしていた。

 そのうちの一頭が背筋を伸ばし、こちらを凝視した。ターシアが嬉しそうに右手を振ると、その蜥蜴は天を仰いでひとつ啼いた。それを聞きつけた他の四頭も、呼応して啼いた。何事かと辺りを見回した革鎧の巨人はこちらを見つけ、ルワンホルルア国土管理局副局長の存在を認めるや、恭しく頭を下げた。

「ねえ大きいおじさん、窓開けて、行きたいなぁ」

「僕も行きたい」

 あどけない少女の純粋な声と、若干の権力圧を纏った我が儘に朗らかな笑みを返したルワンは、慣れた手つきで大窓の閂を抜いた。草の青くて懐かしい香りが部屋に吹き込んで、少しだけ室温が下がった。その冷たい肌触りは、この上なく心地の良いものだった。ターシアとアルルは、駆け寄っていった。

 近づくごとにその図体の巨大なるを実感していき、××国国土環境局局長ザッカ・アルルデルアルアートは思わず歓喜の声を叫んだ。喚き散らしながら、走った。それでも少女の方が早かった。

 ターシアを中心に、蜥蜴たちは集まってきた。それは末っ子を心配して労る兄弟のような様子で、自分たちの肩の高さにも及ばない彼女の、足先から登頂までを矯めつ眇めつ観察していた。やがて奇声を上げて近づいてきた生き物に明らかな警戒の色を見せたが、平気そうにしている少女を見てすぐに平静を取り戻した。

 少女は彼らの足元に目を遣った。彼らの明らかに強靱な両脚には8の字に縄が結ばれていて、一見するとそれは残酷な緊縛に思われた。

「いたくない?」

 訊ねられたアルルは、力強く頷いた。

「もちろん。彼らの身体を傷つけることはまず無い。駆けるのには邪魔だろうけれど、歩くのには支障を来さない伝統的な放牧の技だよ。安心していい」

 それを聞くことができたターシアは、はじけるような笑顔を見せて、蜥蜴の首もとに抱きついた。


 遠巻きに眺めていた二人がいる。そのうちの一人の巨人は、傍らの女性に問うた。

「ザッカ環境局局長殿というお人は...」

 カシアは顔を綻ばせた。

「かわいいだろう、あの面であれだ」

 大変に愛おしくて堪らない、という口振りに、ルワンは柔らかく頷いた。

 少しの沈黙があって、巨人が再び問いを口にした。

「カシア殿」

「ん?」

「あなたが昔欲しかった、欲しくてたまらなかった、というのは、いったい何だったのですか?」

 カシアはその予想外な興味に、目を丸くした。その巨人にしかし剣呑な意図が無いことを感じ取ると、彼女は少々歯切れ悪く、そして目を細めて向こうを見遣って、呟いた。

「まぁ、家族...のようなもの、ね」

 視線の先には、五頭と一人が居る。それはそれは仲睦まじく、お互いの視線を交わし、触れあっている。

 その様を見た人々は、あるいはそれを兄弟姉妹と例えた。または信が篤い主従のようなものと、見た。刷り込みによる構造的な関係と、理知的な見方もあった。

 まあ、誰がどう思おうと構わないのだ。彼女の感じる世界は、彼女のうちでとどまっている。彩り鮮やかな山々の俯瞰風景も、切り立った峡谷の風圧も、川辺の緩やかな水音も、広大な湖沼の青い香りも、そして目の前の首の長い蜥蜴たちの瞳の色も。

 ターシアは両手に、水桶のずっしり重い感触を思い出した。

 その手触りが、彼女と彼らを、確かに繋いでいた。

謎のまま終わる個所がいくつか散見せられたでしょうが、もし気になったら、筆者に問い合わせてみてください。構成上、切り離した設定等などございます。ご感想、ご質問、大変ありがたく、且つ楽しみにしております。うきうき。(あとがきでは無い)

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[良い点] これだけの内容を書き切ること自体が、もう賞賛と尊敬に値すると思います。凄いです。設定もしっかりしていて、地に足が着いてる感じがしました。骨太な文体が「世界」を表現してるなぁと思いました。知…
2019/08/28 00:36 退会済み
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