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カチッと音がして真っ暗だった空間に光が灯る。先程とはまた違う部屋になっており、今度は真っ白な壁紙が貼られた、8畳程の所謂一般的な部屋だった。だが、やはり生活感はあまり感じられない。
今の光は電気の灯りだったようで、部屋全体が明るくなっていた。だから、こうやって観察出来るようになった訳で、つまりは、俺はここに不法侵入していることはバレバレな訳である。
電気に向けていた顔を下ろし、電気をつけた秀を見つめる。未だ固まったままの秀の顔つきは少し成長していることが伺え、小学生くらいだろうと予測する。ちょうど、俺と出会った時期くらいじゃないだろうか。いまいち秀とどうやって仲良くなったのかは覚えていない。小学生だからな。一緒に遊んで意気投合した、というところだろう。
だけど、この澄ましたような顔は覚えている。秀は常にこんな顔をしていたからだ。その時は俺らとは違う生き物なんだろうなんて馬鹿なことを考えていたもんだが、こんなにちっさかったんだな。
俺が秀の頭を撫でようと手を伸ばすと、秀はびくりと震え、その目には確かに怯えが感じられた。けれど、秀はすぐに表情を変え、俺を睨みつけると、真っ直ぐにこちらへ走りだし、俺を横を通りすぎていった。俺の後ろは壁のはずだろうと焦って振り返った俺は、そこがもう違う空間になっていることを知った。
今までの灯りは消え、薄暗い雰囲気の中、秀は僅かな隙間から出ている光の前に立ち、覗いている。四角く切り取られたような空間はまるで、少しだけ開けられている扉のようだ。
いや、まさしく扉と扉の隙間だ。俺も秀に追い付き、その中を覗きこむ。そこには、リビングで椅子に座り会話する男女がいた。決して年若いとは言えない風貌に、俺の親父の若い頃を思い出した。そう言えば秀は事情があり叔父と叔母のところで住まわせて貰っていると言っていたのを思い出す。そうか、この二人は秀の叔父さんと叔母さんだ。
一人で納得していると、叔母さんが小声で叔父さんに詰め寄りだした。
「何であんな性格の悪い子引き取ったのよ……! うちには真菜もいるのに。悪影響になるわ! 早く追い出してよ!」
「仕方ないだろう! 姉さんの遺産が全部秀の物になってるんだ! 遺産の為だと思って我慢してくれよ! それに、知ってるんだぞ。お前が勝手に高いアクセサリーに金を注ぎ込んでいることぐらい!」
「なっ、い、いいじゃない、あの気味の悪いガキを育ててやってるんだから! 貴方だって欲しがってたゴルフクラブが家にあったの見たわよ!」
「人のこと言えないだろ! 大体お前は……」
俺は秀の耳を防いだ。このスカスカの手のひらでどれだけ防げるか分からないが、ないよりはマシだろう。聞いてられない。こんな汚い大人が身近にいたんだなと、溜め息を吐く。怒りじゃない。これは、憐れみだ。
秀が俺を振り返る。秀は、泣いていた。
「僕は、いらない子なんだ」
そんな事ないと肩を掴もうと一度手を離した瞬間、秀は蝉になった。一瞬にして秀自体が圧縮したように小さくなったと思ったら、蝉の姿になっていたのだ。
俺は飛んでいる蝉をなんとなしに目で追った。はっと周りを見ると、林の中にいた。鬱蒼という程ではないが、至るところに木が生えており、枝についた葉が心地良さそうに揺れている。少し先で、少年たちが網をもって歩いていた。けれどどうしてか、どんなに目を凝らしてもその少年たちの顔は靄がかかっているようにはっきりとは判別出来ない。1人の少年が手の中の網を揺らして笑う。
「やーい、貧乏人ー! 貧乏人は網も買えないんだよなー! ばーか!」
貧乏人馬鹿にするんなよガキが。
自分に言われたような感覚に陥り、間に入りそうになる。
いやいや、何ガキに本気になってんだ。冷静に冷静に。
ふう、と息を吐き様子を伺う。少年たちは先程の言葉に便乗するように何度も「貧乏人」「馬鹿」を繰り返す。もっとボキャブラリー増やせ。呆れながらも少年たちの言葉の矛先に目を向ける。それよりも先に、少年たちが何かに飛びかかられ次々に殴られていていく。野次を飛ばしていた少年たちが一人残らず逃げていくと、後には仁王立ちした小さい少年だけが残った。からかわれても自分で追い払う。うむ、それでこそ男だな。
俺は感心しながらそいつの顔を見て、目を疑ったが、よくよく考えてみると心当たりがありすぎる。
偉そうに腕を組んで「おとといきやがればーか!」と叫んでいる少年は、ガキの頃の俺だった。
俺はあの時代から馬鹿だったな、うん。
遠い目をしながら、居なくなった秀がいないかと辺りを見渡す。俺はある木に目を止めた。いた。
ガキの頃の俺の少し後ろにある木の影に隠れ、秀は俺を見ていた。その手には、丈夫そうな網を持っている。暫くするとそろりと近付き、俺に声をかけた。
「ねえ、君、網も買えないくらい貧乏なの?」
「何だよ! お前も馬鹿にしてんのか?!」
振り返った俺は威嚇するように吠えた。秀は首を振ると、自身の網を俺に差し出して言った。
「違う。貸してあげる。その代わり、凄いの捕まえないと僕の友達になるバツがあるんだからな」
「まじか! お前いいやつだな! てか、そんなんバツになんねーし!」
俺は網を掴むと、にっと笑った。
「俺、牧下蒼! お前の名前は?」
「……藤堂、秀」
「おし、これで友達だ!」
「……簡単すぎ。馬鹿じゃないの」
「うっせーよ!」
ああ、そうだったな。秀はこの時から素直じゃなくて、この時から口悪くて、この時から優しいやつだったんだな。
ふっと自然に口元が緩む。だが、秀の夢は懐かしむ時間もくれないらしい。ガキの俺は秀の手をとり、その手を握るとにやりと笑った。
「見ぃつけた」
「あ……」
みるみる俺が大きくなり、肌は赤黒く、ゴツゴツしたものになる。髪だけは黒く、鬼は俺なのだと分かり、眉をひそめる。般若のような顔を秀に近付けて、鬼は笑う。秀は助けを求めるように鬼の後ろに手を伸ばした。そこには、クラスのやつらに囲まれた今の俺がいた。いつの間にか、秀も現在の姿に変わっている。
「お前は、誰からも必要とされてない」
「違う……」
秀は頭を抑えた。首を必死に振り、これ以上聞きたくないと身体中で叫んでる。それでも必死に手を伸ばす秀に、鬼は更に声を大きくした。
「俺は、お前が必要じゃない。お前なんか」
「嫌だ……」
秀の目線の先の俺が振り返った。その顔は、俺が今までしたことのないような、虫けらを見るような目だった。そして、ゆっくりと口を開く。
「死ねばいい」
「うわああああああ!!」
秀は声が枯れるのも気にせず叫び続ける。
俺は走り出した。鬼は秀を取り込むように覆い被さろうとしている。くそ、普通の靴と違って滑りやすい。もっと上手く走れ。そう思った俺の足元が突然フィットしたように動かしやすくなる。何か知らねえが都合がいい。俺は足に力を入れ、飛び上がった。
やっと分かった。俺がここで何をすればいいのかを。
お前は、ずっと我慢してたんだな。そんなみずくせえこと、すんじゃねえよ。だって、俺ら。
「友達だろおおおがああああ!」
足の裏にあたる歯のような骨のようなものが砕ける感触に口角を上げ、地面に腰から落ちるが気にしない。んなこと、何回あったと思ってんだ。素早く立ち上がり、ゆらりと起き上がった鬼へと構える。後ろから小さく呟く秀の声。
「う、兎……? 何で」
「あ? んなの、決まってんだろ」
怒りで雄叫びを上げながらこちらへ突進してくる鬼を腕で抑える。う、くそ、鬼だけあって力が強い。けど、負けるかってんだ。ぐっと足に力を入れて鬼を押し出す。は、お前の間抜けな顔が想像出来るぜ、秀。決まってんだろ、お前を。
「お前を、助けに来たんだよ」
このまま、押し出す。なんて馬鹿正直するかよ。
俺は跳ねるように後ろに飛んだ。そうすると必然的に鬼は前に仰け反る。馬鹿め、前ががら空きになってん、ぞ!
俺は思いっきり拳を限界まで引き、渾身の力で鬼の顔に捩じ込んだ。鬼は重力に逆らうように舞い、どすんと地面へと叩き付けられた。
はっと鼻で笑う俺の後ろで秀がくすくすと笑った。俺が振り向くと秀が笑いながら俺に理由を話した。
「そのせこいやり方、蒼みたいだなーと思ってー」
うっせ、せこくて何が悪い。
心のなかで反抗していると、秀はふっと笑いをやめ、悲しそうに笑う。
「いや、蒼だったら来ないかなー。僕、態度悪いし、口も悪いし、クラスの人達といる方が何倍もいいよねー。実はねー、蒼に手を貸してたのも、僕から離れてかないように必死に心配するふりしてたんだよー。最低な偽善者でしょー? 君も、僕なんか助けても何にもならないよ」
「お前はほんとに素直じゃないな」
座って項垂れていた秀の腕を掴んで立ち上がらせる。ゆっくりと上がった秀の顔は、涙の跡で濡れていた。ったく、手のかかる。俺はきちんと秀を立たせ鼻を鳴らす。
「こういう時は、素直に「ありがとう」って言えばいいんだよ、馬鹿が」
秀は目をみはり、堰をきったかのように笑いだした。
笑っている秀の肩を拳で叩く。徐々に秀は笑いながら泣き出した。ぼろぼろと、ぼろぼろと溢す。
「あり、ありがと……うー」
「変なとこで切んな」
泣いている秀の身体が透けていき、消える直前、秀は俺の目を見て満面の笑みを浮かべた。
その顔は、まるでどこかの小学生みたいに馬鹿で、単純で、笑えるくらい、輝いていた。