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結局、あの騒ぎは傷害事件として扱われ、男は逮捕された。女が刺されたのは腕だったようで致命傷には到らなかったようだが、後遺症は残ったと後に新聞で知った。二人は恋仲だったそうで、あの日もデートに来ていたのだろう。楽しいはずの時間が、どうしてあの惨劇に繋がったのか。痴情の縺れとはよく言うが、男の精神状態は正常とは言えなかった。もしかすると、全国的に見るとこんなことは頻繁に起こっているのかもしれないが。
着ぐるみのバイトも、あんな事件があった為、遊園地自体が一時的な閉鎖になっていることから、なくなってしまった。いつ再開するかまだ目処はたっていないから他のバイトを探してもらっても構わないと、主任さんから連絡された。
悪いことは続けざまに起こるものだなと溜め息を吐きながら、教師が黒板に書いている内容を書き写す。ちらりと斜め前に視線をやり、本人曰く天然らしいパーマのかかった茶髪を眺めた。
実を言うと、それよりも衝撃的だったのは、秀だ。
秀とは小学校からの付き合いで、昔から馬鹿な俺を何度も助けてくれた。柿を盗んだ時は秀は何も悪くないのに一緒に謝ってくれたし、山の中に松茸を探しに行って迷子になったときも一番に見つけてくれたのは秀だし、一時期してた内職が間に合いそうになかったときは徹夜してまで付き合ってくれてたなあ。……いや、ほんと、助けられてるわ。
そのせいか、秀は俺のことに関しては割と過保護ぎみで、普段厳しいことをいいながら、困った時には心配し、必ず手を貸してくれるのだ。だからという訳ではないのだが、今回のことも何だかんだと心配してきてバイト先を探そうかとでも聞いてくるのかと思っていた。だが、俺の予想は外れ、週明けに登校してきた俺を心配するどころか挨拶だけするとどこかへ行ってしまったのだ。その時は忙しいのかと思っていたが、1週間も経つと挨拶すらしなくなり、どうやら俺を避けているのだと理解した。何か気に触ることでもしたかと首を傾げるが、覚えがない。強いていうなら、手のかかる友達が嫌になったと、そういうことか。長年の付き合いで今更じゃないのかとも思うが、長年の付き合いだからこそなのかもしれない。
腑に落ちないながらもそんなことを考えて机に突っ伏す。伏せる俺に教師がだるそうに声をかけてきた。
「俺の授業で寝るとはいい度胸だな、牧下。君は俺の雑用1週間を命ずる」
「タダ働きは勘弁してください」
半目になって答える俺に周りがどっと笑った。いや、笑い事じゃないから。死活問題だから。
後方から、ひゃっひゃと笑いつつ乗っかる声が飛んできた。
「先生え、こいつ、バイト1つクビになったんすよ! 可哀想なんで、先生が雇ってやって下さいよ」
「ふざけんな猿。クビになってねえわ、人聞きの悪い」
「何だ、そうなのか。ちょうど俺の肩揉みのバイトを募集してたんだ。時給10円で」
「ブラック過ぎじゃあないですかね」
門澤こと猿のせいでいらん労働増えそうになったじゃねえか、ふざけんな。
牧下で遊んでる場合じゃなかった、授業続けるぞと再び始まるが、時々にやけながら俺を見るクラスメイトが数名後ろを向いている。俺が威嚇すると更に笑いやがって。舌打ちをしそうになりながら前を向いていると、1つだけ冷たい視線を感じた。それは俺と目が合うとぱっと前を向いたが、俺はじっとそれを見ていた。
本当に、どうしちまったんだよ、秀。
今はただ黒板を書き写す秀に、俺は不安を覚えずにはいられなかった。
昼の闘いから敗れた俺の背をばんばん叩きながら猿が話しかける。
「おい、蒼! バイトなくなったんなら、週末海行こうぜ、海! 自転車で30分くらいのとこにあるからよ!」
「金かからねえんなら行くわ」
「かかんねえって! そうじゃなかったら誘わねえし!」
秀が俺を避けるようになってから、昼は普通のむすびを1人で食べている俺に、いろんなやつが誘いを入れてくる。まあ、俺は金のかかる誘いには乗らないから、大体断っているが。俺がお金主義であることは皆知っている為、断っても「大変だな」と笑って去っていく。その点、この猿は金のかからない遊びで俺を釣ってくるから大したものだ。むすびの空をゴミ箱に投げ入れるが、またも外れた。席を立ち教室の後ろにあるゴミ箱に向かった俺に、着いてきた猿がこっそり耳打ちした。
「最近、藤堂のやつ、一緒にいねえな。やっと離れられたのか?」
「は? ちげえよ、何でか避けられてんだよ」
「うわ、流石感じ悪いやつはやること違うわ。でも、これであの陰気と関わらなくていいんだから、よかったな」
「お前、マジで怒るぞ。秀はいいやつだって言ってるだろ」
「そんなこと言ってるのお前だけだぞ。近寄ったら睨んでくるし、話しかけたら悪口しか返ってこねえし。マジで最悪」
顔を歪めてそう言う猿に、俺は溜め息を吐きながら前の席に座る秀を見やる。昔から何故か秀は人受けが悪い。それは普段から目付きの鋭いあの顔だったり、素直にものを言えない性格だったりするのだが、根はいいやつだと俺は知っているだけに居たたまれない。
更に悪いことに、秀はなまじ顔がいい為、気の強い女子などに人気なのも嫉妬の原因になっている。普段は俺がいるからか、声もかけない奴等が、今は秀の机を囲んでいた。決して秀は嬉しそうな顔をしている訳ではないが、猿は秀を見るとちっと舌打ちし、「顔がいいってのはいいよな」と悪態をついている。俺は、どうすりゃいいんだよ、と天井を仰ぐことしかできなかった。
1日もあっという間に終わり、ホームルームの担任の話が特にないことにガッツポーズをして帰る支度をする。斜め前を見ると、秀も帰る支度をしていて、今日は珍しく煩い女子もいない。俺は今しかないと、教室を出た秀を追った。
「秀! 待てよ! おい、秀!」
肩を掴んで引き留める。振り返った秀は驚いた顔をしていて、そんなに驚かしたかと申し訳ない気持ちになりながらも、再度掴み直した肩は離さない。今の秀だったら離した瞬間逃げ出しかねないからだ。
「なあ、秀。俺、お前に何かしたか? 何かしたなら言ってくれ。このまま無視は俺でも堪える」
真剣に問う俺に、秀はくしゃりと顔を泣きそうに歪めると俯いた。そして、ぼそりと何かを呟く。
「何だ?」
「……って、言ったじゃないか」
「え?」
その瞬間、秀は顔を上げ大声で叫んだ。
「僕なんかいらないって、言ったじゃないか!」
しん、と辺りが静まり返る。
熱り立つ秀は今まで見たこともないような険しい顔をしていて、冗談で言っているのではないと分かる。けれど、俺はそんなこと言った覚えはないし、そんなことを言っていたら、こうして呼び止めていない。俺は冷静に、事実を述べる。
「秀、何を勘違いしたのか知らないが、俺はお前と関わってきてそんなこと一度も言ったことないぞ」
「あ、あ……夢、夢だった……間違えた……何でも、何でもないよー、は、はは……」
俺が本当のことを言っていると理解したのか、力の抜けた顔をして目を逸らした。今更取り繕ったところで遅い。俺は掴んでいた肩に力を入れて秀を見つめる。
「秀。何か悩んでることがあるなら言ってくれ。俺ら、友達だろ?」
「……いいから、僕に関わらないでくれ!」
ぱしん、と俺の手を払う音が廊下に響いた。俺は払われた手を見た後、走り出した秀を呆然と見つめた。
なあ、秀。俺は、お前の友達じゃなかったのか?
気分が沈んでいても、バイトには行かなくてはならない。自転車を力なく漕ぎながら、バイト先を目指す。何度も溜め息を吐く俺の前を電車が横切る。遮断棒が上がる気配を感じペダルに足をかけた俺の目の前に、赤と黒のジャケットが映る。
出た、奇抜女子。
だが、今は声をかける気にならない。横を通り過ぎた俺に、あの不思議と耳に響く声が聞こえた。
「覚めない夢は、人を狂わせますよ」
後ろを振り向いた時には、奇抜女子は居なくなっていた。何だったんだ。あれは、俺に言ったのか?
意味が分からないと再び足を動かす。
バイト先に着いた俺は、先に入っていた中村に挨拶をする。
「うぃっす、お疲れ」
「お疲れー! 今日も宜しく!」
俺のバイトはよくあるコンビニ店員で、中村はバイト仲間のいつも元気溌剌な女子である。元気なだけが取り柄みたいな奴とも言える。
「今何か失礼なこと言ったかな?」
「とんでもない。今日も中村様はお美しいと言ってたところなので、笑顔で拳を握るのはやめてくれますかね」
「よろしい」
こいつエスパーかよ。こええ。
垂れ目が特徴的な可愛らしい顔してる癖に性格は可愛くない。
素早く上着を着てレジにつく。今はそこまで人がいない為か、中村が話しかけてきた。
「ねえ、この間の遊園地での事件知ってる?」
「ああ、新聞で見た」
嘘ではない。わざわざ居合わせたなんて言うこともないだろう。いちいち質問されそうで面倒くさいのもあるけどな。実際、メールで秀にしか伝えていない。
「こんな身近で起こるなんて怖いよねえ。あれって、男が精神異常だったみたいだね。取り調べでも夢がどーのこーのって言ってるんだって」
「夢?」
「うん。意味は分からないけど、可笑しいこと言ってるって認識されたみたい」
「そうか……」
「ほーんと、怖い怖い。危ない世の中になったよねえ。あーあ、誰かか弱いあたしを守ってくれないかなー……」
夢。
確かに、女と揉めている時にそんなことを口走っていたような気もする。
「今あたしの隣にいる馬鹿でもいいんだけどなー……」
そう言えば、秀も夢がどうとかって言ってなかったか?その後、正気に戻ったように誤魔化していたが、もし、あの男のように気が触れたら?
『覚めない夢は、人を狂わせますよ』
奇抜女子の言葉を思い出す。
あれが、ただの戯言じゃなかったら?
「ちょっと、聞いてんの?!」
「え、あ、すまん。何だ?」
「…………何でもないわよ! あんたなんかその辺のダンゴムシとでも付き合えば!」
「は? 何で怒ってんだよ」
「知らない!」
中村は肩をいからせたまま隣のレジに行ってしまった。
何だ、あいつ? 意味分からん。
「いらっしゃいませ」
商品のバーコードを通しながら考える。この奇妙な繋がりに突破口があるかもしれないと。まずは、あの奇抜女子に会うしかないか。