鬼
コキ、という軽い音をたて首のストレッチをしておく。固まった腕の筋肉も伸ばすように交差し腰を捻る。勿論、屈伸も忘れず入念に行い、全身の筋肉を緩めておく。
ここに集まったのは自分の力を信じ、他には負けないとプライドを持った者たちのみ。この勝負を決めるのは、力、素早さ、そして、諦めない根性だ。
時は来た。境界の限界まで伸ばされた足がにじりよる。
「さああ、今日は豚カツ握りだ! 思う存分食い漁りやがれ野郎どもぉぉおおお!」
うおおお! という雄叫びが購買へ轟いたと思った直後、後ろから物凄い勢いで身体全体が前へと圧される。俺も負けじと前へ進み、狙いへと手を伸ばした。そう、豚カツ握りへと!
ああ、くそ! ガムの棚が邪魔くさい! あと数センチなのに! 目の前なのに!
むさ苦しい暑さの中、俺は必死に手を伸ばす。目の前の籠からは見るからにボリュームのある豚カツ握りが次々とゴツい手で覆われ姿を消していく。残りも僅か。あと、あと少し……!
俺の執念の賜物か、残り1つがさっき豚カツ握りを取ったやつの反動でこちらに引き寄せられた。
もらった!
しっかりとそれを掴んだ感触を得た俺はほっと気を抜いてしまった。次の瞬間、手の中から獲物が消え、俺は拳を握るだけのただの阿呆になった。周りを慌てて探るが、この密集地帯の中、誰が取ったかもわからないし、取り返せる術もない。俺はただそのまま、地獄の流れに呑まれることになった。
「だああああ! ちっくしょ! 絶対あれ俺取ったっつーの! 誰だよこんちくしょー! 返せ!俺の豚カツ握り返せええええ!」
「無理でしょー。というか、何故にあの中に入ろうとするのかが疑問すぎー。普通にお握り買いなってー」
「おっま、あのボリュームで一個百円だぞ?! あんなのあって他の買えるかよ?! 俺は安いものの為なら傷の1つや2つ、どうってこと……」
「そのせいでまた今日も昼飯なしだねー」
「……腹減った」
おかずの香り漂う教室で鳴き声のように鳴り響く俺の腹の音。ああくそ。あの豚カツ握りを買えてればこんなに腹が減ることもなかったのに。
昼の決まった時間になると、購買にはボリューム満点のむすびが並ぶ。日替わりで中身が変わる1つたった百円の破格のむすびは、野郎どもにそれは人気で昼は購買にむさ苦しい熱気が漂うのだ。その中に俺も含まれていた訳だが、今まで勝利したのは数える程しかない。平均より僅かに低い俺の身長では、部活に入っている大柄のあいつらには到底敵わないのだ。
机に助けを求めるようにべたりと張り付いていると、頭の上に何かが置かれた。頭を上げずにそれをとり、自分の顔の前まで持ってくる。これは。
「メロンパンじゃねえか……! 秀、まさかこれを俺にくれるっていうのか……?」
「仕方がないからねー。友達が馬鹿だから、恵んであげなくちゃ友達失格かなーと思ってー」
「神か……! お前は神か……!」
「食材を前に僕の悪口さえ聞き流してるしー」
いただきまーす! と手を合わせてメロンパンにかじりつく。俺はどっちかっていうとガッツリ食べたい派だが、この際四の五の言ってられない。あっという間に残り一口になったメロンパンを口に放り込む。合掌をし、空になった袋を丸めてゴミ箱に捨てるが、角に当たり跳ね返ったそれは、俺の元へ戻ってきた。何もかもが上手くいかないと自然と舌打ちをしてしまった俺に、秀はいつもの気の抜けた口調で問いかける。
「機嫌悪いってことは、また親父さん、クビになったのー?」
「ああ。あんのクソ親父! 今度は課長の奥さんたらしみやがったらしい」
「あららー。御愁傷様ー。もしかして、またバイトが増えるのかなー?」
「いや、流石にこれ以上は俺の体力がもたねえからな。身体壊しちゃ、そっちの方が金かかる」
「さっすが、貧乏人ー」
「お前、今失礼な漢字あてただろ」
バレた? と牛乳を飲みきった秀はパックを潰すと、歩いてゴミ箱まで行きそれを捨てた。そのまま戻ってくるかと思いきや、俺がさっき落としたゴミを拾い、ゴミ箱へと入れ、こちらを振り向いた。その顔はいつものせせら笑いではなく、僅かに微笑みを浮かべていた。
「ま、本当に困ったら言ってよねー。僕ら友達なんだからさー、チビ。間違えた、蒼」
「感動しかけた俺が馬鹿だったわ」
「ごめーん、つい本音が」
「謝っていないことに気付いてないんだろうな、お前は」
はあ、と溜め息を吐き指を折り拳を作る。それを秀へと向けると、小さく肩を叩いた。
「……あんがとよ、秀」
「どいたまー」
俺の人生いいことあったのかわかんねえけど、こいつが友達だったってのは、いいことなんだろうな、きっと。
授業が始まる音を聞きながら、俺はそう確信した。
授業も終わり、部活に向かう為に席を立つやつらに混じり、急いで支度をしバイト先へ向かう。
担任の話なげーんだよ! ギリギリ間に合うか?!
自転車で全速力で駆け出すが、それでも間に合うかどうかの瀬戸際である。俺は脇目も振らずスピードを上げ真っ直ぐな道を走る。が、目の前にいきなり人が現れ、急ブレーキをかける。直前で何とか止まったが、これが下り坂だったら完全に轢いてしまっていた。飛ばしすぎたと反省しながら恐らく横路から現れたのであろう人に謝る。
「すまん! 怪我はない、か」
「へ? あ、大丈夫です!」
何だ、この奇抜な格好した女子は。
顔には上半分を覆う仮面を着けており、右目側は白と黒の千鳥柄に、左目側は目の周りをひし形で赤く塗られている。それに対になるように、肩で切られたのジャケットは右側が赤、左側が黒になっており、中の白いカッターシャツを入れ込んだスカートは丸く、まるで傘のように広がり、紺と桃色のストライプになっている。
その下は右足からだけ覗く黒いスパッツらしきものがあり、靴下は長さがバラバラで右は短く青のチェック柄、左は膝下まである同じく青のストライプだ。靴はイラストで描かれる魔女がはいているような、先の尖った少し大きめといえるヒールのあるもの。
極めつけは、襟元を大きく占める山吹色のスカーフだ。ネクタイのように締められてはいるが、大きすぎて白いシャツがほとんど見えなくなっている。
わたわた答えている様子は可愛らしいと表現していいものだろうが、この奇抜な格好が全てをぶち壊している。髪型は腰までと少々長い気もするが、ポニーテールというありふれたものであるというのに。どこかで仮装大会でも開かれているのだろうか。
暫し呆然と目の前の女子を眺めていたが、はっと我に返り時計を確認した。
「ぎゃあああああ! 完全に遅刻だあああああ!」
慌てて自転車のペダルに足をかけ、前に重心をかける。進もうとした俺を弱々しい声が引き留めた。
「あ、あの、貴方」
「すまん! 改めて謝罪は後で! 今は緊急事態!」
勢いよく漕ぎ出した俺は、先程のことを思いだし、スピードは上げつつも周りをきちんと確認出来る速さでバイト先へ向かった。
案の定遅刻で、顔色の悪い店長が更に顔色を悪くして俺に小言を残して休憩に入った。深夜から働きっぱなしらしいから、本当に申し訳ない。
とっぷりと暗くなりそろそろ上がりだという頃になって、あの奇抜女子にまた後でと言ったが、名前も知らないのに会えるのかとふと思った。まあ、怪我もさせていないし、次にばったり出くわした時にでも謝ろう。あんな奇抜な格好だったら、絶対に間違えることはないだろうと、蒸し暑い夜を自転車で走りながら俺は呑気に鼻歌を歌っていた。