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三之坊神社事次第

作者: 彼岸我岸
掲載日:2026/09/26


四方五方塚の底には黄泉があってその深奥には悪しき神が潜むとされる

塚の何処かより黄泉が漏れ魑魅魍魎の類が出現し近隣の人々の暮らしを脅かすこと度々あり

徳野国の守護は富士嶽より最高位の験者を呼び黄泉を鎮めるよう命じた

さしもの験者も黄泉に直直の影響を及ぼすことは敵わなかったが化け物どもが出入りする裂を見つけ結界を持って封ずることに成功した

守護は験者の助言もあって結界を強化すべく社を建て験者一族に代々地鎮を司るよう命じた

ときに応亀二年二月一五日

これがその験者すなわち初代神主の名を冠する三之坊神社の発端である

とはあくまでおもての話

三之坊は悪しき神と取引をしたとの薄暗い声が神社成立初期から漏れ聞こえる



「典、ただいま戻りました」

修験士である碧は朝の行を終え粗末な小屋の扉を開く

「碧様、おかえりなさい。いま手が離せなくて」

胃袋に達する音と香りの刺激

典が朝食の支度をしているのだ

「ああ、大丈夫です、自分でやるから」

水と手ぬぐい着替えは用意してあった

碧は行で汚れた衣類を剥いで体を拭う

芳醇な味噌の香りが漂い始め耐えきれなくなった腹の虫が鳴く

「いかんなあ、また睦様に叱られてしまう」

碧の師睦之坊の教えはいついかなる時も身体を意志の制御下に置くということを主眼に置いていた

腹の虫が鳴くなど以ての外なのだ

ともあれ碧は虫の騒ぐままに土間に向かう

「なにか手伝います」

「ではお膳やら食器やらを」

「承りました」

居間に向かい合わせに膳が設えられ支度が整えられる

たけのこを炊き込んだ麦飯

干した鯉とふきのとうの味噌汁

醤と酒に漬け込んだ雉の薄切り肉を焼いたもの

蕪のお漬物

「これは御馳走ですねえ」

食べる前から舌鼓を打ってしまう碧

「お腹すいたでしょう。たくさん食べてくださいね」

山盛りの飯茶碗を差し出す典

「はい。いただきます」

「いただきます」

春先に出回るたべものたちの食感をゆっくりゆっくりと噛み締めたっぷりといただく

「いやもうどれもこれも美味しくて泣きそう」

「碧様、食事中ですよ。嬉しいですけども」



ひとつにあまりにも静かに事態が収束したこと

悪しき神は当然魑魅魍魎を統べるだけの力を持つと考えうる

最高位験者三之坊の力量も言うに及ばず

それら二者が衝突してはたして甚大な被害なく収まるものかという疑念から発す

ひとつには周辺地域での怪異が減りはしたものの全くなくなったわけではなかったこと

これは守護にも住民の訴えが伝えられ守護は験者に説明を求めた

験者曰く微細な裂け目が絶えず発生しており小さな怪異が発生してしまう場合がある

体制を整えた現在では迅速な対応が可能であり以前のような規模にはならない

守護に対し験者は完全に封ぜられぬ点について詫び理解を求め守護は承服した

このあたりの経緯から守護は悪しき神と組んだ験者との敵対を避けたのだという見方から発す

ひとつにはその後帝が度度行幸に訪れそのたびに朝廷の勢力が強大になっていったこと

験者三之坊の神通力だったとも伝えられるが朝廷の意向を無視して他国へ侵略し領地を拡大していた小々馬、田部、磯之路あたりの守護がことごとく恭順していった

これがあまりにも急な変化であり三之坊は悪しき神と帝の仲介をしたのではないかという推測から発す

そしてさらに

さらにはそれから五十年経った琴寿五年にいまだ容色衰えぬ三之坊の姿を神社境内に見たという声

これが悪しき神の加護によるものだという説から発す

当たり前だが当代神主睦之坊験者はこれを穏やかに否定している



「睦様のご用件、なんですかね」

典が尋ねる

「だいたい碌なものではないですね」

答える碧

いまふたりは睦之坊神主に呼び出され神社本殿に坐している

「あら、睦様のおかげで私は碧様とお知り合いになることができましてございますが」

「これはしたり。では、それ以外碌なことはありませんね」

「碧様ったら」

童女が失礼いたしますと襖を開き冷えた気が流れ込む感覚の中当代神主睦之坊がすいすいと進み出る

碧と典は小さく畏まる

睦はふたりを見て笑みを漏らすがそれをすぐに改め円座に腰を下ろす

「大儀です。あ、ふたりとも肉を食べてますね。来るときは控えなさいというのに」

言いながら睦は清めの印を結ぶ

睦の口から静かで長い息が発せられるとふたりの身体は刹那どこかに鋭さのある冷たい気に包まれる

「睦様には何もかもお見通しですね」

畏まったまま言う碧

「私がいけないのです。賜った雉がちょうど五日目で」

同じく畏まったままではあるが碧とは異なる緊張した色のある典の声

「それは食べ頃ですね、ならば仕方がありません」

睦はおかしみをこらえているように碧には感じられる

「急に呼び出したのはこちらですし。顔を見せてください。楽にしていいですよ」

睦はそう続ける

ふたりは言いつけのとおりに上体を起こす

「ふうむ。ふたりとも、行にはよく励んでいるようですね」

「碧様は大変熱心に取り組んでおられます。私はただ身の回りの」

「典、臆することはないのです。それがあなたの行であり私が命じたものでもあるのです。大変立派ですよ」

「も、もったいなくも」

「いや、典は本当によくやってくれています。素晴らしい相方です」

「碧、碧様、か、過褒に存じます」

「典以外に碌なことはないようだから、これからも頼みますよ」

と睦がいい刃のような眼差しが碧に向けられる

「これは参りました、本日はこの辺で」

典の袖を引き立ち上がる真似をする碧

睦の声が続く

「実は本日、三之坊様がお見えになられております」

「え」

睦の声が一段と静かで深いものに変わる

「隠れ殿に行ってください。岩戸は開いてあります。用向きは直接お聞きなさい」

襖が開いて睦之坊は退出してしまう

ふたりには立ち上がる気配すら感じ取れなかった

ふうとため息が重なる

緊張が解かれたふたりは知らず笑いが漏れる

「やれやれ、こう勿体をつけるところがありがたいやらめんどうやら」

「でも、三之坊様って」

「ああ、私もお会いしたことはないのです。実在してたんですねえ。典はここで待っていてもいいですよ」

「いえ、お供いたします、お邪魔でなければ」

「ありがたい、私も少々心細かったのです」

「ええ、本当ですか」

「本当なのですよこれが」



ふたりは隠れ殿に向かう

隠れ殿は本堂の裏手にある竹林の直近にひっそりと建っている岩造りの社であるがその在処を知るものは少なくこれが社であると理解しているものは更に少ない

それもそのはずその造りはただただ岩を立て重ねして注連縄で結界を成立せしめているだけでありなにか由来のある岩だろうかと思いはすれど内部に空間があるとは気付きようもない外観

ただ今日に限って言えば正面の岩肌の一部を切り欠いてずらしたような塩梅になっておりそこから溢れ出しそうな密度の高い闇が覗いている

闇には注連縄が渡してあって左右を印を結んだ巫女が固めておりこれもあまり見ない光景である

「玲、毬、大儀です」

碧が場に似つかわしいとは言えない明るい音声にて巫女ふたりを労う

「碧様、典姉様、御大儀にございます」

と深くかしこまる玲の声音は硬い

「碧様、ここ、ここ、やばいってやばいって」

両手で自分の体を締め付け震えを抑えようとする毬

「毬、失礼ですよ」

と嗜める玲の声もやや薄暗い震えを帯びている

碧はふたりを励ますように継続して声を張る

「大丈夫。睦様の結界はしっかり機能している。もしかしたらそれが強すぎて私たちの負荷になっているかも知れないね」

「お気遣いありがとうございます」

「君たちが固めてくれていると心強い。玲、毬、今しばらく辛抱しておくれ」

「あい」

「碧様、早くね」

と毬

「これ、毬」

と玲

碧は微笑みながらふたりに向かって空を切りつつ典を従え闇に向かって歩みを進める

続く典が印を結び謡を始める

「天地は永久に永久に魂のゆらめきを抱き給う、魂は治世にありても乱世にありてもその陰陽を失うことなし、これに仇なす者はただいまただちに霧散するものなり、麗しきわが君にこれをかしこみかしこみ奉るものなり」

歩くという感触はあるが進んでいる感覚はない

空間を感じるがぶつかりそうな気配はない

右も左もわからないままただ流水のように長い長い時間を往くふたり

「そうか、私は勘違いしていたよ。禍々しいものがここにあるから清めているんじゃなくて、この清浄な空間に変なものが入りこまないよう強力な力場を拵えているんだ。なるほどなるほど」

謡に合いの手を入れるようにぽつりぽつりと独白を混ぜ込む碧

不意に薄く明かりが灯る

神楽が闇の中から染め出されるようにじんわりじんわりと現れる

神楽には円座が用意してあって碧と典は着座してかしこまる

「そうじゃ。ひとは闇を恐れ忌み嫌った。じゃが、闇は何も産まぬものであったか」

闇を歪ませながら伝わる声

典の謡が止み苦しげな吐息がうううと漏れ始める

「典」

碧は思わず声をかけてしまう

「大丈夫じゃ。一部の回路が保安のために停止しただけじゃ」

碧も大丈夫だとは思っているがそれであっても全く気遣いをせず済ませるには典は大切なものになってしまっていた

「お初にお目にかかりまする。修験士の碧、相方の典にございます」

「顔をあげよ。手間を取らせてすまぬな」

ゆっくりと向けた視線の先で四肢を放埒に投げ出す童のように円座にあぐらをかく正装の少女

「三之坊じゃ。苦しゅうないようにせい」

「かたじけのう存じます」

様々な思いが巡る碧

しかしどれもこれも形をなさぬままこの空間の闇に吸い込まれてゆく

「うむ。命を下す」

「え」

「苦しゅうない。黄泉に異変が生じておる。お主と典で黄泉を降り、次第を見極め、あやをほぐすのじゃ」

「若輩未熟に務まるものでしょうか」

「謙遜はいらぬ」

「いえあの」

「うまくいかなかったら他のものを立てる。案ずるな」

「はあ」

「委細は睦に預ける。心してな。そして」

「はい」

「無事を祈念する。必ず帰還しろ」

「わかりま」

応えようとしたところで意識が途切れ途切れたところからふたたび始まったとき碧典玲毬の四人は本殿礼堂に無造作に転がっていた

「とりつく島もないとはいうけども」

一番に意識を戻した碧はたまらずに思いを溢す



「で、睦様に八つ当たりをしようと思ったのだが、流石だね、私が聞きそうなことの答えを文書に残して、修行という名目の雲隠れをなすっているそうな」

「碧様、怒ってらっしゃいますね」

「もちろんですよ。こんな無茶な、乱暴な、雑な話がありますか。もう修験士やめようかな」

「そんな悲しいことを」

碧が験者への道を放棄すれば離別に直結するため典は涙を今にも溢れそうなほどに溜める

碧は狼狽してしまう

「ああごめんなさい、典に八つ当たりをするつもりはなかったのです。未熟ゆえどうか堪忍を」

「ああ、取り乱しまして申し訳ありません。碧様のお腹立ちはわかります」

「無体を被ると、もう、慰め合うしかありません。典、労しい」

「碧様こそお労しゅうございます」

おいおいと泣き縋るふたり

「あのう、茶番はまだ続きますかね」

「毬、口を挟んでは失礼です。お菓子でも食べて静かにしていなさい」

「けどさあ玲」

ここは三之坊神社の直会

隠れ殿での一件があってから六夜開けての会合

「ああすまない。しっかり支度してあるようだね」

碧と典は居住まいを正してふたりに向き直る

「おおせのとおりに」

と玲

「いや、壁様、待ってください」

玲の腕に軽く振れつつ身を乗り出す毬

「なによ毬」

「玲、あたしたちが黄泉って無理だろよ」

「だいじょうぶだいじょうぶ、ここ数日間の合宿で修練の成果を見せていただきました。本当に逞しくなりました」

「数日間しか見てないじゃん。喋ったのも数年ぶりじゃんそう言えば」

「毬、少し謹んだもの言いをしなさい。とはいえ壁様、私たちが足手まといになるのではないかと気になってはおります」

碧は懐から文を広げる

「この闇のいんちき出鱈目怪文書によるとですね」

「それ睦様の伝言ですよね」

「私たちが黄泉に慣れるまでの補佐と、あなたたち自身の修練という側面もあるようです」

「捨て駒ということでしょう、実は」

ぼそりと放り出すようなものいいをする毬だったが表情は穏やかであった

「毬、何を言い出すの」

「玲、あきらかに力の足りないあたしたちが役に立つとすれば、そんなものだろ。目的地にたどり着くまでの担ぎ手。消耗を抑えるための盾。わかってるんじゃないかおまえも」

「そんなこと言っても仕方ないでしょ。私はおふたりのお役に立てるならありがたいことだと思っているもの」

「あたしは自分の立ち位置を改めておきたいだけだ。碧様、言ってもしょうがないってのはわかりますが」

「言わないと気が済まないというのもあるよね。それはわかりますよ」

「碧様、差し出がましくてごめんなさい」

典がすいと前に出て、玲と毬の前に出る

両手を伸ばして、妹巫女の膝に乗せる

「私は碧様と、あなたたちと一緒に旅に出られることを、喜んでいるのです。それは、誰かの思惑とか、ものごとの経緯なんてどうでもよくて、私の心のうちのものです。危険な道のりだと心得ておりますが、私は楽しみなのです」

晴れやかで甘やかではしやぐ娘のような声音

どことなくささくれていた雰囲気が穏やかになり毒を抜かれたような表情に変わる玲と毬

「いえあの、あたしは、あたしもでもあの」

毬の頬が赤く染まる

「毬は典姉様が大好きだものね」

玲は素知らぬようにからかう

「あ、そんな事言いながら典姉様の手の上に手を重ねてるのは誰だい」

「あら、せっかくの機会だもの。誰かさんがごねてくれたおかげで」

「あのさあ玲さあ」

皆の笑いが起こる中で典はまた静かにもとの座に戻る

「さて、明日はいよいよ出立です。今夜はご馳走があるらしいし、お風呂も浸かり放題らしいので、慣れ親しんだお社だけども、くつろがさせていただこうじゃありませんか」

手を叩く碧

畏まって童女が襖を開く



黄泉への入口は四方五方塚の壁面に密着するように建てられている本殿奥

御簾を潜ると注連縄の奥に空間

「野辺送りにおくりびとなし、と」

神社全体から人の気配が消えていた

日取りだけは決められていたから何らかの処置は施してあるのだろう

無人となっているのも処置のひとつであるかも知れないし災いの広がりを警戒しているのかも知れないが碧典玲毬はおのおのもはや無縁とされていると察せざるを得ない

「あまりにも寂しいので、少しばかり舞っておきましょう。典、お相手を願えますか」

「よろこんで」

重装備のうち外せるものだけ傍らに除ける

名乗りが上がる

お囃子もない中ではあるが門出にふさわしく豊穣願いの舞を舞う

翻る千早には三之坊神社の紋である三ツ浪

大きく駆け強く踏み鳴らす揉合の所作は玲と毬の中に力が育まることを励ますかのように

「三つ翁ですね。言葉になりません」

と玲

「最期に良いものを見させていただきました」

と毬

「どうにかして、生きて帰りましょう。ねえ典」

「もちろんです、碧様」

四人は闇の中へと進む

進むと明らかに流れの違う空気を感じる

背後で不穏な気配

扉が閉じられたかのような

景色としては本堂が見えている

ではあるのだが明らかに隔絶が生じている

あちらとこちらの世界は違うのだ

四人は皆それぞれにうつつとの別れを告げ歩みを進める



ただ薄暗い夕暮れ時に村の外れの道を歩くような感触

「何だあれ建物かな。ねえ玲、あの辺り家なんかね」

「知らないわよ。足元気をつけなさいよ毬、よそ見してるとまた畔に落ちるわよ。全くあんたはこないだも」

「言うなっての」

気持ちの張りに耐えきれぬゆえの軽口にほぐされるものを感じて微笑む碧

四ッ辻が現れる

「さて、どっちに行きましょうかねえ。典、今日はどっちがいいのかねえ」

「うつつならば北が吉方となっておりますが、さて」

「こっちではどうなるものですかねえ」

碧は路傍に転がる石をいくつか選び地べたの一角を片膝をついて平らに慣らし盤をこしらえる

両手の中で選別した石を振り盤の上に放り出す

それを何度か繰り返す

「右だな。典はどう思う」

「私もそちらがよろしいかと」

「よかりよかり」

四人が辻を曲がり切ったその刹那

「ようこそいらっしゃい」

「ひい」

明らかにこの世ならぬ声音に囚われ魂ぎれる毬

「久延じゃ。案内を頼まれておる」

声は穏やかで柔らかいものに変わる

おののいている毬を除いて皆かしこまる

「これはこれは久延毘売様、恐れ多くもかたじけなく。玲、手向けものを」

玲は背嚢を碧に向ける

「どれがいいかなあ。やっぱりこれかなあ」

と和紙の包を取り出す

「此方で採れましたお米を菓子にいたしました。些少ながらお納めくださるとさいわいです」

「ふむ。いただこう。して、礼というわけではないが」

土産物を受け取るやいなや巨大な蝦蟇が久延毘古の背後に現れる

「百々臥打蛾那之神。しあうがよい」

「みんな下がって」

「碧様」

「典、大事な初戦だ、私が対処する」

久延毘古がたかくたかく笑いを上げる

「対処、対処、対処。呵ッ呵ッ呵呵呵呵々ッ。見せてもらおうかのう」

大いなる蝦蟇の神が口を開き舌をのぞかせ今まさに碧に向かいて打ち出そうとの刹那

「鋭」

ぼそとつぶやくようにいい背負っていた杖を突き出す

うつつより来る三人には柔らかく清らかな空気が流れる

突き出された杖は蝦蟇のげに禍々しき舌先を捉えそのまま口腔内から後頭部へ向かい刺し貫く

「どうぞ健やかにお鎮まりくださりますよう、かしこみかしこみも申す」

いつの間にか杖を背に戻し手を合わせ烏帽子を深く垂れる

蜘蛛の子が散らばっていくかのように無数の粒へと帰化した百々臥打蛾那之神が消失して逝く

「きい」

久延毘古は藁屑が軋るような音を発する

「ひとつお尋ねしてもよろしいですか」

と碧

「なんじゃ」

と久延毘売

「広くものを知るとされるあなたさまがなにゆえ蝦蟇など使役されます」

「知恵を得たが故じゃ。知識を増したが故じゃ。百々臥打蛾那之神はあれで無知では扱えぬ。力もなまじの人間などでは及ばぬ。お主は強いんじゃの。すまんが見くびっておった。すこしばかり脅かしてやろうと思ったんじゃが」

「勿体なくも」

「謙遜はいらん。知恵も大事だが体も伴っておらんとことのゆかりは開けぬ」

「重々こころに留めおきまする」

「うむ。そのまま真っ直ぐに進むとあらわれる大きな屋敷に、道案内の本職がおる。それを訪ねるが良い。いや、良い、かどうかは知らんが」

「え、どっちなんですか」

と毬

「言葉遣いっ」

横から玲に突き飛ばされる

「おまえもなかなか強そうだな。どうだひと勝負するか」

と久延毘売

「滅相もございません申し訳ありません」

と玲の後ろに隠れる毬を見て呵々と笑う久延毘売

一行はふかぶかと頭を垂れ静かに場を離れる

「碧様、大事ではございませんでしたか」

と典

「あら、やっぱりわかりましたか。少々手首を捻りました」

碧が千早を翻し躊躇いなく差し出した左の手を愛おしそうに両手で包む典

「滅してしまおうかと歯噛みをいたしました」

「ああ私の至らぬところです。こらえてこらえて」

そんなふたりをうっとりと見つめる玲

「いいわ。いいわねえ」

そのあたりに関わらず、道のりを振り返って言う毬

「あら、まだこっち見てるよ」

「毬、あんたねえ、弁えなくおしゃべりばらまくのやめなさいよ。神様が寛大だったからいいものの」

「わかったわかった。ねえ玲、久延毘売様、まだこっち見てるよ。気になるなら一緒に来ればいいのにねえ」

「久延毘売様は動かないのよ。知らないの。田んぼに立って、農民たちを見守って、時には知恵を授けてくださるのよ」

「そか。見送ってくれているみたいでさ、なんだか寂しくなるよね。ああ、さよなら」

毬は動かない神様に手を振る

「そうかしら。今会って今別れたばかりでしょ」

言いながら玲も振り返り続ける

「そうね。それ、ちょっとわかるわ」

我知らず玲も手を振る



田んぼが広がる景色は一行の歩みに合わせてのたりのたりと変わっていく

「ものを知らないというのは恥ずかしいとは言うけども、黄泉がこんなところだとは知らなかったのは、やはりはずかしいかなあ」

と碧

「私たちが暮らしている世界と、あんまり変わりませんね。もうすぐ水が張られるのでしょう」

と広がる春先の田んぼを見渡しながら典

「こういう話になると玲が得意なんじゃないかと思っているんだけども」

碧はちらりと玲に視線を送る

「わたしたちのことなんかご存じないと思ってました」

玲は落ち着いた目を碧の背中に返す

「おいおい、思い切ったことを言うね」

茶にする毬だが玲のもの言いを否むでもなく

碧と典は無言だがかすかに肩が揺れたかのようにも見える

ふんと鼻を鳴らして話を始める玲

「黄泉とは、うつつにあるもののうちでもっとも端境に近いもの、とわたしは解いております。あらゆるものの境にあるもの。とらえたと思ったら、変わってしまう。絶え間なく変わり続けるものを区切ることはできません」

むむと唸る碧

「だから一見、変わらないと。いいね、とても面白い。私も使わせてもらおう」

「私も」

と典も便乗する

「お使いの際には碧様から五十文頂きます。典姉様はただでいいです」

「あいにくと持ち合わせが。すいません典払っておいてください」

「碧様」

「声が怖いよ玲」

「玲はやきもちから碧様に意地悪をしてしまうのね。こんなにも落ち着いて、大人びているのに」

と典

「それとこれとは別です。おふたりはお似合いだと思いますが、わたしの姉様を取られた悲しみは筆舌に尽くしがたく、また恨みは金銭でもいただかないと収まりません」

軽やかに不穏を言ってのける玲

「冗談に聞こえるかも知れませんが、多分本気ですよ」

と毬が素の声音で付け加える



そんなやくたいもない話をつれづれ歩いていると大きなお屋敷が出現する

それに合わせるようにひとかげが増えていく

ひとかげは時折馬に乗っていたり牛車を引いていたり

お屋敷に入るものお屋敷から出るもの

ただひとかげかと見えていたものの詳細が判明するに従い狐だか狸だか狢だかといった獣に似たような顔つきに見えてくる

「これはたいそうなお屋敷ですね」

と毬

刺股を構えていかめしい顔の門番に目を合わせ一礼をする碧

「久延毘売様にこちらを案内されました。ご立派なお屋敷ですねえ」

「なんじゃうぬら」

「黄泉に異変ありとのことで、三之坊より遣わされたものどもにございます」

「ああん。聞いとらんな。だいたいうぬら」

「うひょう。もう我慢できねえっ。もっさもさでかわいしゅぎるっ」

毬がとびついて獣門番の首筋に顔を埋めこすりつける

「なっ、なにを。やめ、やめんか、やめ、あっあっ」

地面に崩れた門番に覆いかぶさりさらにもさもさを満喫する毬

三人はあっけにとられさしもの玲も諌める言葉もなく

「なんの騒ぎじゃ。おや、その紋は三之坊神社の」

刺股の番人がもうひとり

「ああ、すいません、神社からの使いです」

「そうか。では主人に伝えてこよう」

「ありがとうございます」

「毬、あんたいい加減にしなさいよ」

玲は番人に覆いかぶさり貼り着いたままの毬の腰紐を掴んで引き剥がす



会所に通された四人は茶と菓子でもてなされつつも待つ

「なにあれ、でっかい円座」

毬は上座に向かって無遠慮に声を上げ無遠慮に指先を向ける

「失礼よ、よしなさい」

玲がその手をぴしゃり

外の気配が入ってこない室内はあまやかに穏やかに漂う香が焚かれている

碧と典が顔を見合わせ笑みを交わしつつ香りを楽しんでいると襖が開く

現れたのは襖の尺からしてもののことわりを越え不自然なほどの巨躯

背後からそろりと続く近習も偉丈夫なのだが比べると大人とわらべ

四人は揃って畏まる

「大儀である。猿田と申す。よろしう」

「猿田比売様、お初にお目にかかります」

「うむ、まずはゆるりと楽に」

猿田比売は人間の客の正面に座り付き従う近習は左右に分かれて着座

近習の前にはそれぞれ机と槍が設えられている

対して来客は碧と典の後ろに玲と毬

童女が静かに現れて猿田比売の傍らに茶を置く

「恐れ入ります。すでに五感に楽しまさせていただいております」

「それはなにより。して、ことの次第であるが」

「はい」

「天照姫と月読姫が諍いをしているようでな」

猿田比売はそう言って間を取り碧次いで典を見る

「ああ、はあ、ふうむ」

典に向いてしまう碧の目

「ええとそれはつまり姉妹の」

碧と言外を語り合う典の目

「帰りましょうかねえ」

「そうですねえ」

玲と毬は口に出してしまう

「まさか姉妹喧嘩が原因なんて」

「付き合いきれないわよね」

そして四人の目は猿田比売にじっとりと向けられる

「我をそういう目で見られても困るがのう」

猿田比売は口元を指先で掻く

「姉妹喧嘩と言ってしまえばいかにも卑小じゃが、なにしろ大神ふた柱が揉めておるのじゃ。黄泉にあり黄泉で収まるものならざれごとであったで済むかも知らんが」

両手で椀を持ちしばらくそれを眺めた後口に運ぶ

茶を飲み込むようでもあり思いを飲み込むようでもあり

「姫神たちはそれぞれ軍勢を構え力を漲らせておる。本来ならばこの時期この屋敷はもっと賑やかでな。ごった返しておる。種も苗も蒔かねばならぬからのう。だがなあ、戦となってはな」

声音は重くそれでいて空疎だったのは諦観から来ているようにも伺える

「お気持ちはわからぬものでもないです。うつつも戦となればおおごとです」

碧はわだかまるものを抱えたまま労う

「そちらのいるところは戦が絶えぬのう」

「そういうものではないのですか」

碧たちが暮らしている地域は政治権力の直接的な影響がある

周辺での小競り合いは絶えない

国を取った取られたというのは頻繁に耳に入る

それは戦の結果だろう

猿田比売神は笑いとも嘆息ともつかのものを小さく吐き出す

「いのちとはそういったものかも知れん。本質的には争いから逃れられぬ。ただのう、そうでない時をなるべく長く、そうでないところをなるべく広く、そうはならぬものかと思うてな」

碧と典は神妙な顔ではあるが自分の言葉を受け入れているものではないと感じる猿田比売

うつつに住む者にとって戦は必然だ

「そうさな。過酷な時代に生きるものよ」

「ですが、大神様の諍いごとに、私たちごときが出来ることがあるとは思えませんが」

と首を傾げつつ碧

「そういうのはそっちで片付けてほしいよね」

「よしなさい」

毬を叱る玲の声もどこか緩い

そのやりとりで微笑んだ猿田比売神だが微動して身を正す

「神々には神々同士の約定がある。そもそも他の神のやることに口を挟むのが難しい。あまり関わらぬようにするから本来戦も起きにくいのだ。かくなるは、よその世の全く違う約定の中に生きるものに調停を依頼するのが善かろうと思うての」

「迷ってらっしゃったということですか」

と碧

「まあそうあれこれ見透かさんでおいてくれ。それでま、なんといったか。ええそう三之坊。三之坊どのに話を聞いてもらってな」

「結果、私たちがと」

「うむ」

「神託というものですかね。お引き受けいたしますが、私たちが託されものを為す間、この者らを預かっておいてもらえますか」

と玲と毬を見る

「構わぬが」

「いや、それはおかしいでしょう碧様」

と毬

「私たちはどこまでもお供を」

と玲

碧はその声を背中で受け指先で典の膝に触れ促す

「あなたたちは人質なのよ。生贄とも言うかしら」

と典

「え」

「典姉様」

抗いの声を上げるふたり

「ね。お願い」

ふたりの頭を抱えるようにして頬を寄せる典

「この者らに常にきよらかな風が吹きたもう。糧が尽きることなきようたもう。隔たりはなきが如くたもう」

ふたりの心の落ち着きが顔に現れる

「なにかお考えがお有りですね」

と毬

「決まってるでしょ、姉様のすることなのだから」

と玲

「命に従わねば人質をというのはこちらの話ではないのかな。戦力としても相当であろうに」

玲と毬を見つつ猿田比売はあまり合点の行かぬ様子

「調停に行くのでしょう」

と碧は続ける

「ぬ。そうだが」

「それにあの者らを人質にしても持て余しましょう」

「うむ。あ」

「修行の一環となればよいかと思います。よろしくお願いします」

「む。よかろう。碧、と申したな」

「はい」

「厄介をかけて済まぬ。よろしく頼む。典もな」

「勿体のうございます」



北を目指して進むと天照姫神のところへ

南に向かえば月読姫神のところへ

猿田比売から受けた案内はそれだけであった

「確かにそれならつづまるところ一箇所を目指すことにはなるわけだけどもさ」

「猿田比売様の仰せですし黄泉ですしね」

呪いをしてまずは南と決めた

出立に当たって猿田比売は竹の皮で包まれた握り飯を持たせてくれた

「何もいらんと言うからどうしようかと思ったが、せめてこれを持っていってくれんか。不要なら中途で捨てても構わぬのでな」

食事については飢え乾きを癒し心安らかならしめる三之坊神社特製霊丸を用意していた

「でも、おにぎりはありがたいですよね」

「碧様これ、わきつづけの竹の皮ですよ」

「なんですかそれ」

「丹巳の国に伝わるお話しです。喉の渇きに困っていた蛇に水を分けてあげた旅人がいたんだそうで」

「ほう」

「お礼に、その旅人の家に生えている竹を切ると水が湧きいづる呪いをかけた」

「家に戻りしときは輝く竹を斬るべしさすれば云々と」

「お見事です。で、旅人は尽きることない湧き水によって田を開き富を得たそうな」

「その竹の皮で包まれているということは」

「おにぎりが尽きることなく湧きいづる」

「もしくは水ですかね。いずれにしてもありがたい。え、これだけあったらもう何もしなくても生きていけるってことじゃないですか典、そうしませんか」

「碧様それは。でも、碧様がよろしければ」



猿田比売は見送りの祝詞を上げた後縁側で休みを取っている巫女ふたりの前に立ち言う

「毬、玲、少々話があるのだが、あ、楽なまま、かしこまらなくてよい。ここにいる間は皆と同様で構わぬ」

「なんでしょうか」

と毬

「またなにか毬に不調法がございましたか」

と玲

「あのさあ玲」

「ここに来たとき、門番と悶着があったらしいのう」

「ああ、もさもさを堪能させていただきました」

猿田比売は指先で頬を掻く

「それで、門番が恥をかかされたというてな、一度しあえと」

「ほらやっぱり不調法じゃないの」

玲は毬を肘で突く

「ああそうですか、ちょっとやりすぎたのかなあ。謝りますよ」

「人間同士ならそれで済むのであろうが、我らにおいてはちとそうもいかなくてな」

「気が済まないと。わかりました、やりましょう」

「ちょっと毬。碧様がいないときに勝手な真似は」

「あたしが叱られればいいよ」

「けど」

「気が済まないってのは、なんだか可愛そうだ」

春の風がさあさと流れ巫女の袖を揺らし触れ合わせる

言いかけて止まった玲の口元は柔らかい

「ものごとの片の付け方としてあまり褒められたものではないしのう。相手は人間だしと諌めたのじゃが、いや、力が及ばず」

「大丈夫です。そもそもあたしが悪い」

「もう。胸張って言えることじゃないでしょ」



南へ南へ

「月読様というのはなかなか謎めいたところの多い姫神様ですね。私のように無知では話になりませんが」

「ご謙遜を。月読様は夜を司っていらっしゃいます。碧様は悪いこと、やましいこと、いけないことは夜になさいますよね」

「そのようになさいますね、は、はは」

典は手を合わせ印を結んでから話を始める

「創世の神様です。神々が分かれ世の中が出来上がっていく中で、秘したいものを月読様が引き受けていらっしゃる、従って月読様自身がまさしく神秘的な性格を帯びてきました」

「知られていないのも道理と。でも、月と太陽なんて常に追いかけっこと言うか、相容れないという感じがするんですが」

日の傾きに呼応するようにふたりは木々の生い茂る森の中に入っていく

日没がもたらすものか森の闇か判然としない暗さに包まれゆく

あるかなしかの小径の脇にはふたりの歩くさまを物珍しそうに眺める大小のけものたち

「そもそも私たちが住む世界の昼夜は、御二柱の姫神様が仲違いした故より生じたとされています」

「ええ。よく喧嘩するのかなあ」

「それにしても軍勢を従えて、は穏やかではありませんねえ」

枝が揺れ葉が擦れ生じる音に紛れてかすかに吐息のようなものが交じる

それは耳元で聞こえるかと思えばはるかかなたにまたたく星星から届けられているようでもある

「久久能智神。お邪魔しますよ」

碧と典はそれぞれ十の指を編んで印を結ぶ

「黄泉の森の久久能智神はひとなつこいものですね」

「なんだかずっとおしゃべりしてますね」

操る指先に意識を集めているのだがそれを気にも止めずからかうようにふたりの体にまとわりつく森の精霊



「いったい、どうなっているのかしら」

猿田比売のお屋敷の広場中央には板が敷かれ畳が上乗せされている

「黄泉は今大変な状態なんですよね。こんなことしてていいのですか」

玲は腕組みをして設えられた舞台を眺めている

「こんなときにこんな事が起こるのも、何かの縁と思うてのう」

猿田比売はその隣で模糊とした答を返す

傍らでは炊き出しがあったり舞を舞うものがあったりでお祭りごとの感すらあり

従ってそれなりの数の見物が集まっている

「みんな神様ですよね。お暇で」

「時も尺も主らの間合いとは異なるのでな。心配しておるのか」

「それはもちろん」

「さようさなあ」

大太鼓が打ち鳴らされ対決のふたりが現れる

毬は小袖に袴の白装束

恥をかかされたと訴えた門番は濃紺の直垂

間に立つ天忍穂耳日女は審判であろうか

「両者、寄って名乗られよ」

促されたふたりは直前まで迫る

「三之坊預かり巫女、毬です」

からりと晴れた声

「宇迦之魂」

腹の底から力を込めたかのような声

天忍穂耳日女の手が上がる

わあやわあやと騒いていた見物が雨後の水面が如く静まる

「お互い思い残すことのなきよう。始めっ」

上げられた手が振り下ろされる

さきほどを更に上回るほどの熱狂



精霊に見張られ見送られしつつ茂る木々の中を進み不意に現れた闇の中を進む碧と典は星空の中に包まれる

岩造りの御座が静かに静かに現れる

月光の如く深く深く謎を覆う輝き

「月読と申す」

ころころと鈴がなるような声音

可憐

足元すらはっきりしないがふたりは深々と畏まる

「勿体なくも畏くも。これあるは三之坊よりの使い、碧と典にございます」

「待っておった。此度の経緯は知っておるな」

「え、えと」

「慮ることもない。姉様と喧嘩じゃ。どうしてこうなってしもうたか」

うううと唸った典が動きを全く止めてしまう

「典、またか」

「似た力と干渉して過剰な負荷が掛かり保護のためにおつるようじゃ。干渉を和らげるようにしてやろう」

月読姫神は右手の指を立ててすうと息を吹きかける

くつくつと息を漏らしつつ典が顔を上げる

「あ、碧様、申し訳ありません」

「気にしなくていいよ。辛かったね」

ふたりは改めて畏まり夜を統べる神に向き直る

「睦まじきが羨ましく」

「揉め事の原因は、やっぱり大したことないんでしょうね」

「汝らの言うところの、つまらぬ行き違いじゃ」

「謝ることができないんですね」

「うむ」

「わかりました、というか、何もわかりませんが、ともあれ姉姫神様にお会いしに行きます。来た道を戻ればいいですか」

「うぬ。厄介をかけて済まぬ」

「勿体のう御座います。典、大丈夫ですか」

「ありがとうございます、大丈夫です」

「羨ましく」



きん

と金物が打ち合わされたかのような音がかすかにしかしくきりと鳴った

が

音より先に典の顔が宇迦之魂日女の目前にあった

金物のような音は毬が畳を蹴った音だ

毬の手足はゆっくりゆっくりと動いている

宇迦之魂日女はしかし対応する動きが取れない

動かない

襟を掴まれ袖を取られ足が掛けられた

投げられる

叩きつけられる

受け身は返しで意を越え働く

ぶつかりに備えるがふわりと一瞬のあいだ時が止まり寝入りの時のように畳の上に横になる身体を感じる

見物も息を呑む決着

胸の上に毬の重さを感じる

「も」

と毬

「も」

と宇迦之魂日女

「もっさもさだああ、もっともっともっさもさだああああ」

襟を広げ胸元にほほを遠慮なくこすりつける毬

「ああっ、やめてやめて、それ、あっあっ」

「ああもうやっぱり。あんたねえ、あんたねえ」

と玲が力の限り引っ張るが毬は剥がれない

「勝ったもん勝ったもん、勝ったんだからもっともさもさするもん」

ようやく大太鼓が連打されようやく我を戻した見物が鬨の声を上げる



木々の間から漏れる光に誘われるように進む碧と典

明るいが厳しくはない光のなかに輪郭が生じやがて岩の御蔵へと全容をあらわにする

ふたりは日が昇ると同時に大地に生まれ出る霊峰の如き威厳を覚える

「天照と申す。此度の大儀まこと深くに感ずるものなり」

またしても鈴の音のような声

相変わらず上下の定まらぬ感触の中深々と身を伏す使者

「勿体なくも畏くも。これあるは三之坊よりの使い、碧と典にございます」

「苦しうない。さあて。先に月読のところに行ったか」

どこかに不満のありそうな響あり

典はまたうううと唸り細かい震えのあと動きを止める

「典、何度もごめんなさい」

「どれ、見てやろう」

天照姫神は左手の指を二本立て細く鋭く息を吹きかける

「ふむ、ほお、月読が手を入れておるな。なるほど。ここをこうすればよいのじゃな。さすがじゃのう月読。私がどうするかお見通しのようじゃ」

くつくつと息を漏らしつつ典の顔が上がる

その色は悪くはない

「典、大丈夫ですか」

「碧様、ご心配には及びません。二柱様に手を入れていただいたおかげで前よりも力が増したようにも感じます」

「え、そうなの。いや、典がいいならいいんだけど。いいの」

「よいように思えますが。碧様のお力になれることが増えるかと」

「そか。いや、失礼しましたありがとうございます」

「なんの。慈しむとはそうしたものであろう。睦まじく羨ましい」

「月読様もそう仰ってましたよ。それなのに何故このような」

日を司る姫神は背筋を正し面を改める

「我ら二柱の神は近づきそして離れればならぬ。こうなるのも理であろう」

「でも軍を率いてというのは。いや」

碧は典の膝に手をおいて問う

「典、刻はいずれですかね」

小首をかしげる典

「下限の月の頃でございましょうかねえ」

「それはいい。月読様に来ていただきましょう」

天照姫神はそれを聞いて眉根を曇らせ曰う

「いまはそれはしかししばしちょっと」

「緊張は得てして他に及ぶものがあるものでございます。ほうっておくわけにも行きませんし、故に私たちが召喚されたのでしょう。この状態が続いているのが非常に芳しくない。いまここで陣を広げていただいてですね、雌雄を決していただきたい。後生にございます」

碧と典はまた深く頭を下げる

もはや畏まっているのではなく頑なに動かないという意志の体現

「むむ」



「やはり勝負にならぬのう。お主も分かっておったろうに」

猿田比売の前には玲と毬とそして宇迦之魂日女が坐している

宇迦之魂日女の右腕は毬の左腕に絡まっている

頬は薄く桜色に染まっている

「お主だけではない。敵うものはここにはおらぬ。だから碧殿はこのふたりをここにおいていったのじゃ。危険がないからではない。言ってみれば、我らを監視して人質とするためにここにいるのだ」



両者の軍勢に向き合う背中合わせの碧と典

動きはともに同じ

合掌して印を結び開いた掌を膨大な数の兵どもに向けると彼らは光の粉となって霧散していく

たんぽぽの綿毛が旅立っていくかのように

「なんのために」

と月読姫神

「得心がゆかぬ」

と天照姫神

「おふたりが集めたのだから、いや用済みだから帰れとは言い辛いかと思いまして」

二柱の神は同じ顔をして黙する

「どこかに行って、帰ってくる。それを迎えるひとがいる。もしくはお互いが出かけて、どこかで出会う。いつもいつも一緒にいられないというのが普通ですね。私と典もそうです。ときに私と典は違う場所にいる。違う世界にいるんです」

並んで座する碧と典の前に並んで二柱の姫神も座る

「違う世界は違う時間、違う規則があります。私はそれに従って過ごす。典もそうなります。そんなふたりがもう一度出会うとどうなるでしょうか」

「ことなる民どもとの関わりとなるな」

「かように思うことはなかったが」

「私は自分が変わっていることに気が付かない。典も変わってないと考える。私は何も知らない典に変わっている自分をぶつけてしまう。典はよくできたひとですからそんな無神経を受け止めてくれますが」

「いえ、そのようなことは」

「いつもありがとう。でも、そんな限りなく受容する力を典以外に持てるものでしょうか。我らの及ばぬところを知る柱様におかれましては、なおさらかと思われます」

「さほどでも」

「皮肉かのう」

「いえいえ恐れ入ります。で、こういう有り様というのは、普段仲睦まじいところから始まっていたりします。好ましい部分が常にあると期待してしまう、というか、好ましい部分は変わってほしくないと縛ってしまう」

碧は典の両手を取って合わせそれを自らの掌で包む

「それは愛するが故、慈しむが故だと思います。許せるかどうか、赦しを願うかどうか、それもお互いを思う気持ち次第で、つまり余人が口を挟むものではありません」

「なにをいまさら」

「言いたいように言いよって」

「これ以上揉めるようなら、猿田比売様のところに残した巫女ふたりに、分かっていただけるだけの行いをさせようと思いますが」

「むむ」

「ぬぬ」

「神神の導き手である猿田日女様に異変があっては一大事。もちろん、こんな事は言いたくないわけですが」



「言いたかったんでしょう。で、そちらは」

三之坊神社の会所

睦之坊の前には黄泉から戻った修験士と大巫女妹巫女ふたり

それから

「宇迦之魂じゃ」

「それは存じ上げておりますが、お座りいただく場所を考えませんと」

「構わぬ。毬の隣でいい」

「では仰せのとおりで。毬」

「は、はい」

「いつまでご滞在されるか知りませんが、お世話をしっかり頼みますよ」

「わかりましたわかりました」

「玲、補佐を願います」

「まあ、ありがたいことですものね」

「そのとおりです。流石ですね。で碧」

「畏まって賜ります」

「当然です。典の制限装置が解除されてしまっていますね」

「ああ、空が飛べます」

「戯言を」

「ほんとです。私くらいなら担いで飛びます」

「それに気付いた経緯がどうなっているのか。ともあれ典は、あらゆる結界を突破することができます。大二柱神からのご加護ですね」

「ああ、そうなんですか」

「事実として、典はこの世においてもっとも強い存在となります」

向けられた目に母の慈愛のようなものを感じる碧

その奥にはなにか包み込むようなおそろしさ

碧は平伏する

「厳に戒めます」

それに合わせて典も伏す

碧は言う

「とりあえず今は、典のご飯が食べたいです」

ふたりは目を交わし口元を緩め合う。





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