表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

【再掲】ティーティエの世界

作者: 冬野 狸
掲載日:2026/08/14

※再投稿です。以前、連載として投稿したものをひとつにまとめました。



 ティーティエの世界は狭かった。


 固く冷たい石の床は、ティーティエの足で歩いて、壁から壁まで十五歩程度。

 そこに詰め込まれている椅子と机と寝台、本が少しばかり積んである小さな棚。

 一日に三度、食事を持ってやってくる使用人と、朝と晩に身支度を整えに来る侍女と、時々窓辺に舞い降りる小鳥も、ティーティエの世界を構成しているものと考えていいのかもしれない。

 

 それが彼女の世界の全てだった。


 ティーティエが時折見下ろす窓からの景色は、彼女の世界には含まれていなかった。


 外には出られない。

 だからそれは、ティーティエには関係のないものなのだ。

 

 ティーティエは、いつから自分がここにいるのかを覚えていない。

 ずっとずっと昔、ここではない何処かで、誰かに会ったことがあるが、それはまるで夢の中のようにぼんやりとした記憶だった。


 おぼろげに覚えている。

 その人は、ティーティエと同じ銀色の髪だったような気がする。その人はティーティエに優しく微笑みかけて、頭を撫でてくれた。声も温もりも感触も忘れてしまった、遠い遠い記憶だ。


(でも、きっと違うよね。だって、銀の髪の人なんて、私以外にいないはずだもの)


 使用人も侍女も、土のように濃い色の髪だ。窓の下を時々歩いている騎士たちの頭頂部も黒や茶色。

 ティーティエみたいに色のない、見苦しい髪の人なんて、この国にはいないのだと侍女は言っていた。


(こんな気持ち悪い色の頭なんかを、誰かが撫でてくれるわけがないわ。だからあれはきっと、夢だったのよ。

 夢の中で優しくしてもらったから、それが本当のことだと思い込んでいるだけなのよ)

 

 自分の頭に手を載せて、ティーティエはそっと撫でてみた。

 肩につかないほど短く切り揃えられた髪がサラサラと揺れた。






 


 太陽が傾き、窓からの光が金色を帯びる頃になると、ティーティエの胸はそわそわし始める。

 窓の下を騎士たちが隊列を組んで通るのだ。


 青い制服を着た彼らの颯爽とした歩みは、ティーティエの目を楽しませてくれる。

 彼女の部屋は高い高い所にあるので、彼らの顔は見たことがない。いずれの騎士も頭頂部しか見えないのだが、きっと絵本の騎士のように勇ましい顔をしているのだろう。

 歩く姿から、そう伝わってくる。


 ティーティエは窓辺に寄って、そっと騎士たちを見下ろした。





 以前、彼らの姿をよく見ようとして窓から身を乗り出したことがあったのだが。

 その次の日の朝、やって来た侍女に叱られてしまった。


「姫様。窓から身を乗り出して騎士たちを見ていたそうですね」


「は……はい。見てました」


「騎士たちから苦情の声が上がっています。気味が悪いからやめてほしいそうです。二度とそんなみっともないことは、しないでください」


「あ、あの」


「姫様の姿を見ると、人は不快になります。貴女は人の目につかないようにここにいるというのに、わざわざ窓から身を乗り出すなど! してはいけません、と言っているのです!

 それができないのならば、あの窓は塞いでもらうしかありませんね!」


「ごめんなさい! もうしません! 外の人から見えないようにしますから、窓は塞がないで!」


「わかればよろしいのです。ぜひ、そうしてくださいませ」


 侍女は歌うような抑揚をつけてそう言った。言いながら醜く唇と目を歪めたが、ティーティエにはその表情の意味がわからなかった。

 わからなかったが、怖かった。

 いつもは無表情な侍女の顔が一瞬で歪んだのだから、驚きもするし怖がりもするだろう。


 窓を塞がれたら外の世界が見えなくなってしまう。開けた窓から小鳥が訪ねてくることもなくなる。

 何より、侍女の顔がまた歪んだらと思うと怖かった。歪んで歪んで、顔の端からめくれ上がってしまいそうで恐ろしかった。






 だからティーティエは、下を見るときにはそっと覗く。立つ位置に気を使い、なるべく窓ガラスに近づかないように首を伸ばして。


 窓の下を通る騎士たちの隊列は半分も見えないのだけれど、彼らのキビキビと動く手足は見えるのだから不満はない。充分楽しめるから、これでいいのだ。


 彼らが通り過ぎたら、じきに日暮れがやって来る。使用人と侍女が来る時間なのだ。


 ティーティエは窓から離れて椅子に座った。

 机の上にはお気に入りの絵本が置いてある。何度も何度も読み返しているので、本の端が擦り切れてしまっている。手に馴染んでちょうど良いとティーティエは思うのだが、侍女は「みすぼらしい汚い本!」だと言う。


 出したままにしておくと、食事の支度の邪魔だと叱られるかもしれない。ティーティエはいそいそと本を手に取った。

 小さな棚にしまおうとしたのだ。

 だけど、つい。

 ほんのちょっとだけ、絵本の美しい色彩を見たくなって、ティーティエは本を開いた。


 絵本には、遠い国のお姫様の物語が書かれている。

 『星を探す運命』をもって生まれたお姫様は、成長して旅に出た。もちろん、星を探すための旅。世界中を巡る旅だった。

 お姫様の星はなかなか見つからなかった。海を船で渡り、土龍に乗って砂漠を越え、高い山も草原も頑張って歩いて、たどり着いた地の果ての国で、お姫様はようやくひとりの王子様に出会った。

 お姫様はその王子様こそが、探していた星だと気付いて、その国にとどまることにした。王子様も美しいお姫様を愛して、物語の最後には結婚して幸せに暮らすのだ。

 

 物語は、くだらないありきたりのものだと侍女が言っていた。だけど、それでもティーティエはいいのだ。

 お話よりも絵が好きなのだから。

 物語の場面が、優しい絵柄と鮮やかな色使いで描かれていて、何度見ても飽きることがないのだ。


 この本を見ていると、ティーティエの狭い世界がどこまでも広がっていくような気がする。感じたことのない風を感じて、踏んだことのない大地を踏んで。ティーティエもお姫様と一緒に旅をする。そんな気がして、いつだって、夢中で見入ってしまう。


 だから、ティーティエは気づかなかった。侍女が部屋に入ってきたことにも。

 その侍女が意地悪く唇を歪めて笑ったことにも。

 

「なっ、何をするのっ!?」


 侍女は何も言わずに、ティーティエの手から絵本を取り上げて、彼女を見下ろした。

 そしてその手を高く掲げ、泣きそうな顔で手を伸ばすティーティエに向けて、口の端をキュゥッと吊り上げる。


「ああ、姫様。ダメですよ、前にも申し上げましたでしょう? 目が悪くなるから、日が落ちたら本を読んではいけませんと。」


「ごめんなさい! もうしないから! もう暗くなってから本を読んだりしないから! 返して!」


「いいえ、ダメです。二度目ですからね。それに、これはもう古くてボロボロです。捨ててしまいましょう」


 侍女はからかうように、ティーティエの頭の上で絵本を振った。バサバサと乾いた音がティーティエの焦燥感を煽る。


 ティーティエが急いで立ち上がり、絵本に手を伸ばすと、侍女はひょいっとまた高く手を上げてしまった。

 侍女よりも頭ひとつ分は背の低いティーティエには、到底届かない高さだ。


「いや! 返して!」


 ティーティエは侍女の身体にしがみついて泣き叫んだ。

 腕を掴んで、力ずくで引き下ろす。ティーティエが絵本を掴むのと、侍女がその腕を振り払うのとは同時だった。


「うるさいわよっ!」


「きゃあぁっ!!」


 強い力で振り払われて、小柄なティーティエの身体は思いのほか大きく飛んだ。

 ベッドの枠に背中を打ち付けて、床にへたり込む。

 その手には絵本がしっかりと握られていた。ただし、それは半分に満たない量だった。


 さすがにまずいと思ったのか、侍女は少し顔色を悪くしたが、ティーティエが身動(みじろ)ぎするのを見てホッと息を吐いた。

 すぐに嘲るように唇の片端を上げて、侍女は手の中の絵本の残骸をティーティエに叩きつける勢いで投げてよこした。


「姫様、お行儀が悪うございますよ? 人に掴みかかるなんて姫君のすることではありませんね。今日はこのまま反省なさってください。罰として、夕食は抜きにしますからね」


 己の行いを棚に上げて、侍女はまるですべてティーティエが悪いかのような言い方をした。

 ティーティエは投げつけられた絵本の、バラバラになったページを呆然と見ている。うんともすんとも言わない彼女を鼻で笑って、侍女は部屋を出ていった。









 ティーティエは侍女の足音が遠ざかり、聞こえなくなるのを待って動きだした。

 痛む背中にも構わずに、床に這いつくばって絵本を拾い集める。

 バラバラになったら順番に揃えればいい。折れ曲がったページも、手の平で押さえて伸ばせばいい。

 でも、破れてしまったものは、ティーティエにはどうにもならなかった。


 日が落ちてしだいに暗くなっていく部屋の中、ティーティエは声を上げて泣いた。


 この本はティーティエの宝物だった。

 狭く閉ざされた部屋から出られないティーティエにとって、この本は世界だった。

 絵本を開けばいつでも広い世界を駆け回ることができた。

 

(どうして、こんな酷いことをするんだろう。私の心を踏みにじるような、どうしてこんな酷いことができるんだろう)


 外の世界に憧れているティーティエは、それでも外に出たいと言ったことはない。言って願いが叶えられるとは思えないので、彼女は諦めていた。

 だけど、もう嫌だと思ってしまった。


(もう嫌だ、もう嫌だ! 狭い世界で、侍女の顔色をうかがって、いろいろなことを諦めて、大切なものを取り上げられて、このまま生きていくなんて嫌だ!)


 激しくなるティーティエの嗚咽に呼応するように、窓の外では風が吹き始めていた。


 風はどんどん強さを増して、雨を連れてきた。

 それは、いくらもしないうちに、狂ったように吹きすさぶ風と、空が壊れたかと思うほどの大雨になった。


 それからの三日間。大嵐は国中を暴れまわった。




◇ ◇ ◇ ◇




 

 さながら天変地異のような嵐の中、国の高官は手をこまねいていたわけではない。

 国王の住まう宮城(きゅうじょう)の、すべての役職の長である大宰(たいさい)は、薄暮からにわかに巻き起こった大嵐を訝しんだ。


 それまで予兆すらなかったのだ。何か特別な理由があるに違いない。


 考えられるのは沈黙の塔の姫君だ。


 彼女は先代国王の娘であり、現国王の妹君である。しかし高貴な身でありながら、持って生まれたその特殊な能力ゆえに塔に幽閉されているのだ。


 姫君の母親は『鳥の人』と呼ばれる神人であった。

 先代の王が玉座につく前の王太子であった頃、長い長い旅を経てこの国へたどり着き、王太子と深く親しく心を交わした。


 その結果、生まれたのがティーティエ姫である。


 母親譲りの繊細な美しさを持つ姫君であったが、彼女の扱いは非常に難しかった。

 神人の能力を無意識に発現させてしまうのだ。それは感情の起伏によるところが大きかった。


 彼女が笑えばそよ風が吹き、慈雨が国土を潤した。

 彼女が泣けば空も泣き、大雨が芽生えた苗を押し流した。


 幼いティーティエには、それら天候を操る神人の術を制御することはできなかった。

 姫君の母親が存命のうちはまだ良かった。彼女は、姫君が無意識に引き起こす事象を抑え切るだけの力を持つ神人であった。


 だが彼女が二人目の先代国王との子供を妊娠し、その最中(さなか)の疾患により母子共々儚くなってしまうと、姫君を抑えられる者はいなくなってしまった。


 母を思って泣く幼い姫君の呼んだ雨は、国中に降り注いだ。底の抜けた桶のように、どうすることもできなかった。

 このままでは各地で洪水の被害が出てしまう。国中から姫君に向けた怨嗟の声が響くのも時間の問題だった。


 だから先代国王は、泣く泣く姫君を沈黙の塔に幽閉したのだ。


 沈黙の塔は高貴な身分の者を閉じ込めるための場所である。

 塔全体に心穏やかに暮らすための術が仕掛けてある。それほど強い術ではないのだが、塔で暮らす者の精神は大きく影響を受けることとなる。

 その術中にあれば、どんなに荒れ狂う者の心も凪いだように静かになり、穏やかに暮らすことができるのだ。


 十一年。六歳の頃に塔に入った姫君は、もう十七歳になるのか。大宰は時の流れの速さにしみじみと目を閉じた。

 姫君には、不自由のないように諸々の手配をしてある。それは、姫君の母親が儚くなった三年後に、この世を去った先代国王の遺言でもあった。


 だから本来ならば、この嵐がティーティエ姫のせいであるはずがないのだ。

 

 そうは思っても、これが自然の災害だとは、大宰には考えられなかった。

 疑わしきは調べずにはいられない性分の大宰である。


 彼は荒れ狂う嵐の中で、できることをした。

 すなわち、普段ティーティエ姫の世話をしている者に聴き取りを行ったのである。


 





 大宰の執務室に呼び出された侍女は、ずいぶんと顔色が悪かった。荒れ狂う城外の天候を恐れてのことだとしたら、それは臆病が過ぎるというものだった。


(これは、他に理由があるな。私に呼び出され、職務に関する叱責を受けると恐れているのだとしたら……)


 子爵令嬢でもある姫君の世話役は、簡素なドレスを握りしめて俯いている。大宰は向かいのソファに座る女のつむじを眺めながら目を細めた。


(素直に話してくれれば良し。さもなければ……)


 大宰は念のため、補佐官にお茶を用意するように合図を出した。

 補佐官は大宰の無言の意図を(あやま)たず受け取り、優雅な仕草でお茶の用意を始める。


 それをチラリと横目で確認して、大宰は正面の姫君付きの侍女に微笑みかけた。


「そう、かしこまらずともよい。本日はそなたの仕えるティーティエ姫について、訊きたいことがあって呼んだのだ。

 気負わず、姫君の普段の様子を話してくれぬか?」


 ピクリと肩を震わせた侍女は、恐る恐るといった様子で顔を上げた。

 微笑をたたえる大宰の顔を見て、彼女はドレスを握る手を開いた。


「はい、何なりとご下問くださいませ」


 細い息を吐きながら答える侍女に、大宰はことさらに笑みを深める。よく見ればその目はけっして笑ってはいないのだが、侍女は表面だけを見て緊張を緩めたようだった。


「姫君はご壮健であられるか」


「はい。姫様におかれましては、お健やかに日々をお過ごしでいらっしゃいます」


「そうか。それは安心した。何かお望みのことはあるか?」


「いえ、姫様は高貴な御身であらせられながら、たいへん慎ましいお人柄でございますので、特別にこれといって望まれていることはございません」


「そうか。あのお方の母君も、奢侈を嫌う謙虚なお人柄であった。よく似ていらっしゃるようだな」


 大宰は低く声をたてて笑った。

 侍女の言うことが本当ならば、この突然始まった大嵐は自然の采配ということになる。


(そんな馬鹿なことがあってたまるか!)


 心の内で吐き捨てて、大宰は補佐官が淹れてくれたお茶を一口飲んだ。侍女にも勧めれば、彼女は遠慮がちに口をつけた。


 侍女がお茶をしっかり嚥下したのを見届けて、大宰は目を閉じる。

 彼女の口にしたお茶は特別性だ。

 高価な茶葉を使っているだけでなく、たいへん気分良く、会話を弾ませるための薬を混ぜてある。


(取り澄まして、取り繕って……私を誤魔化せると思っているのが腹立たしい。その腹の(うち)、洗いざらい吐き出してもらうぞ)


 大宰と目が合った侍女は、ゆったりとした表情で「たいへん美味しゅうございます」と微笑んだ。








 それから半刻の後、大宰の執務室は慌ただしい空気に包まれていた。


 薬入りのお茶をしっかり飲んだ姫君付きの侍女が、己の所業をすっかり告白したのだ。

 彼女は、あろうことかティーティエ姫を日常的に虐げていた。

 己の気分次第で罵り、蔑み、憂さを晴らしていたそうだ。怯えながら謝る姿を見ると溜飲が下がるというのだから、呆れてものも言えなかった。


 さらに侍女は、王族である姫君が本来ならば受けられるはずの世話どころか、日常生活の世話すらも怠っていた。

 髪の手入れが面倒だから短く切っていると告白されたときには、大宰は低く呻き声を漏らした。ティーティエの髪は、長く保たねばならないものだ。

 彼は、手元の茶器を侍女に投げつけたい衝動を抑えるのに苦労した。


 与えられたはずの衣服も宝飾品も着服していた。姫君のための予算にも手を出していたようだが、これはどうやら上官も関わっているらしい。

 意外と大きな問題になりそうな予感がして、大宰は鈍い頭痛を覚えた。

 

 きりがないので、大宰は途中で聴き取りをやめた。彼女の腹の中を聴き出す役は、腕利きの尋問官に交代してもらう。大宰はもう胸焼けがするようだった。


 侍女は金切り声で泣き喚きながら執務室から引っ立てられていった。行く先は城の地下である。


(罪の重さを考えれば、間違いなく死罪。ならば尋問官は遠慮はすまい。五体満足である必要もないのだからな)


 自業自得の極みだった。彼女は、今後さらに深く後悔することだろう。

 塔に幽閉されているからといって、ティーティエ姫は罪を犯したわけではない。

 そもそも沈黙の塔は、王族の療養のためにある塔であり、罪人のための塔ではないのだ。


「ティーティエ姫のことを誤解している者は、他にもいるかもしれませんね。全国民は無理でも、せめて宮城(きゅうじょう)の者たちには、いま一度、周知しておきましょう」


 補佐官の提案に、大宰は目頭を揉みながら頷いた。


「ああ、それが良いな。だがそれは後のことだ。まずは陛下に今回の件をご報告して、被害の対応策を検討しなければ……」

 

 大宰は立ち上がって数歩進み、はたと足を止めて補佐官を見た。

 

「それと、女官長を呼んでくれ。私は陛下の元に向かうから、そちらへ。早急に姫君をお慰めしなければ……! 誰か、姫君を慰められる者がいてくれると良いが……」


「はい、私も切実にそう願います」


 補佐官の答えを背中に聞きながら、大宰は足早に執務室を出た。慌ただしい靴音が遠ざかっていく。

 補佐官も己の職務に動き出しながら、ふと考えた。


(しかし、過去にあれだけ様々な侍女の嫌がらせを受けても嵐など呼ばなかったティーティエ姫が、今回はこれほどの大嵐を呼んだということは……よほどお嘆きになっているに違いない。

 きっと我慢の限界だったんだろうけど……簡単にお慰めできるのだろうか……?)






 補佐官の懸念は、正鵠を射ていた。

 ティーティエを慰めることのできる者は、宮城(きゅうじょう)には誰もいなかった。


 そもそも、誰一人として嵐の中心地である沈黙の塔に、近づけなかったのだ。


 ティーティエを慰めるために選ばれた三人の女官たちはおろか、屈強な体躯を誇る騎士でさえも塔には近づけなかった。

 吹き荒ぶ風と石礫(いしつぶて)のような雨粒によって、彼女らは転ばされ、吹き飛ばされて打ち据えられた。

 それだけでも散々なのに、折れた木の枝などの飛来物も猛烈な勢いで彼女らを襲った。


 騎士たちを壁にしながら塔を目指しても、その壁ごと吹き飛ばされてしまうのだからお手上げだ。

 国王も、ティーティエの心を鎮めよと命令を出したものの、それを行う者たちの被害の大きさに頭を抱えた。


 嵐を止めたい。そのためにはティーティエを鎮めなければならない。だが嵐が邪魔で進めない。

 この状況をどうにかしなければならないのに、どうにもならなかった。


 宮城(きゅうじょう)では連日、対策会議が行われ、塔に近づくための試行錯誤が繰り返されて、三日目の夜明け。

 唐突に雨風がやみ、久しぶりの陽光が地上を照らした。


 奇跡のような光景に、喜び勇んで塔に駆けつけた人々は、塔を見上げてすべてが終わったことを知った。

 

 


◇ ◇ ◇ ◇





 ティーティエの心は荒れていた。

 悲しみと憤りと少しの寂しさとが入り混じって、心の中を吹き荒れていた。外の嵐と同じくらい轟々(ごうごう)と。


 ベッドに突っ伏して慟哭し、やがて糸が切れたように寸の間眠り。また目を覚まし、無惨な状態の絵本を目にして涙を流す。

 むせび泣き、すすり泣き、しゃくり上げる。とにかくティーティエ自身にもどうにもできないほど、あとからあとから涙が溢れて止まらなかった。


 ティーティエは、十一年もの長い間、塔に施された魔術によって感情を制御されていた。

 悲しみも寂しさも、喜びも楽しさも押さえ込まれ、強制的に心を平らかにされていた。


 大切な宝物を壊された彼女の感情は、その反動のように爆発的に膨れ上がっていた。塔に施された術の効果を遥かに凌駕して。

 

 ティーティエは、己の心を鎮める(すべ)を知らなかった。

 なにも考えず、ただただ心の中の荒れ狂うものを吐き出していた。


 しかし、涙を流すという行為には、心を鎮める効果がある。泣いては眠り、起きては泣いてを繰り返すうちに、ティーティエは外の様子がいつもと違うことに気がついた。


(なんだか、すごく騒がしいわ)


 泣き濡れた顔を上げて窓の外を見れば、いつもは青空の見えるそこには、真っ黒な雲が渦巻いていた。

 窓ガラスには大粒の雨がバチバチと硬い音をたてて当たり、窓枠は強風にガタガタと揺さぶられている。

 

 ティーティエはそれが自分の能力がもたらしたものだとも知らずに目を丸くした。


(雨と風が、あんなに……! いったいどうしちゃったのかしら。まるで私の心のようだわ)


 まさしく天候はティーティエの心を現しているのだが、本人は呑気に驚いている。

 ティーティエはこんなに酷い嵐を見るのは初めてだった。


 地上はどうなっているのだろうと気になり、彼女は窓辺に寄ってガラスに額をつける。

 こんな天気の日に塔を見上げている人もいないだろう。ティーティエはちょっと気を大きくして、久しぶりに人の目を気にすることなく窓から下を見た。

 

 普段は少し雑草の生えた石敷きの小路があり、緑成す短い芝と小さな花が風に揺れている地上は、一面の水に覆われていた。


(えっ? 水? 水、だよね。茶色く濁って、ものすごく波打っているけれど……。すごいわ! 初めて見たわ、あんなにたくさんの水! きっと海にもこんなふうに水がたくさんあるのね!)


 ティーティエは見下ろした地面……水面にたちまち興奮した。見たこともないくらいの水の量にワクワクして、まだ見ぬ海に思いを馳せて……


(素晴らしいわ! 波打つ表面がとってもキレイだわ! 本当に絵本のとおりに美しいのね!…………………絵本……)


 彼女はまた落ち込んだ。

 せっかく少しだけ弱まった嵐は、彼女が絵本の惨状を思い出した途端に、また苛烈さを取り戻した。

 眼下の水面に隙間なく雨粒が落ち、波紋が次から次へと生まれては互いの波で打ち消し合う。

 その激しさに目を奪われかけたその時、ティーティエの耳は誰かの声をとらえた。


「――――――――!!」


 声が遠くて、何を言っているのかはわからなかった。

 しかし、ティーティエにはその切実さが不思議と伝わった。


(誰? どこにいるの? 外から聞こえたみたい……)


 ティーティエの目は声の主を探してあちらこちらを見回す。

 だが、地上には誰の姿もない。

 風の音を誰かの声と聞き間違えたのだろうか、と少し残念に感じながら彼女は視線を上げる。

 

 色を霞ませる雨の(とばり)。分厚いその向こうに、たしかに白いものが浮いていた。

 それは雨に押されるようにフラフラと上下しながら、強風の中をこちらに近づいて来る。


(あれは、何? 鳥……いえ、違うわ! 人よ!)


 近づくにつれ、白いものは翼であることがわかった。翼は鳥の背ではなく、人の背に生えていた。

 その人は強風に負けずに、懸命に翼を動かして飛んでいる。こちらを目指して、真っ直ぐに。


(こっちに飛んでくる!? どうしよう!)


 ティーティエは一瞬、窓から離れようとした。が、踏み止まった。

 あの人がここにたどり着いても、窓が閉まっていたら、きっと下に落ちてしまう。風に飛ばされてか、力尽きてかはわからないが、そんな予感がしたのだ。


 ティーティエは衝動に従った。

 慌てて彼女が窓の掛け金を外すと、強風に押されて内開きの窓が勢いよく開いた。


 ごうっと入り込んでくる風と共に、信じられないくらい強く雨粒がティーティエの顔や肩を打つ。あっという間にずぶ濡れになってしまったが、ティーティエは怯まずに窓から身を乗り出した。


「こっちよ! 後もう少しだから、頑張って!」


 間近にまで来ていたその人は男性だった。ティーティエが大声で呼びかければ、彼は絵本のお姫様を思わせる顔を安堵したようにほころばせた。

 ティーティエの差し伸べた手を握り、彼は一気に最後の距離を詰める。ティーティエが引っ張るまでもなく、彼は窓から部屋に飛び込んできた。

 

 さして大きくもない窓である。翼がぶつかってしまうと思い、ティーティエは「気をつけて!」と声をかけようとして目を見張った。


 窓に翼が当たりそうになった瞬間、翼は光を放って消えたのだ。代わりに白く長い髪がバサリと宙を舞った。

 見たものが信じられなくて見返す間もなく、ティーティエは着地した彼に強く引き寄せられた。


「ティー! 開けてくれて助かったよ、ありがとう!」


 ずぶ濡れのまま抱きしめられているティーティエだが、戸惑いはなかった。不思議な安心感が温かさとともに体に広がっていく。


(私、この人のことを知っているわ……!)


 恐る恐る顔を上げてみれば、高い空の色に似た青い瞳がティーティエを見つめていた。


「ティー、どうしたの? 久しぶりすぎて、俺のこと忘れちゃった?」


 淋しげな笑みを浮かべて、彼は両手の平でティーティエの頰を包んだ。

 優しい手。温かい手。ティーティエはこの手を知っている。

 この人を覚えている。


「イー兄さま……?」


 そっと呼びかけると、彼は破顔した。嬉しそうに「そうだよ、イー兄さまだよ」と言って何度も頷いている。


 イー兄さま。イーリカ。小さい頃、まだ塔で暮らし始める前に、よく遊んでくれた人。

 ティーティエの母の甥で、六歳年上の従兄だ。そして、ティーティエの初恋の人でもあり、互いに幼いながら結婚の約束を交わした人でもある。


 ティーティエはその約束を思い出した途端に恥ずかしくなって、慌てて彼から身を離した。


「おっと……! どうしたの、急に」


 イーリカは突然距離を取ったティーティエに手を伸ばしたが、触れることを躊躇うように空中で止めた。中途半端に手を差し出したまま、困った顔をしている。


「ごめん、嫌だった?」


「ちっ、違うの! あのね、ちょっと恥ずかしくなっちゃって……でも、嫌じゃないの!」


 頰を赤く染めて俯くティーティエに、彼はほっと息をついてから訊ねた。


「ねえ、ティー。頭を撫でてもいい?」


 無言で頷くティーティエの頭を、イーリカが優しく撫でる。ティーティエは耳まで真っ赤だが、身動ぎもせずにその手を受け入れた。


(思い出したわ。イー兄さまだった。頭を撫でてくれたのは。夢ではなかった。良かった! 私の気のせいでもなかったんだわ!)


 彼はティーティエと同じ髪の色をしていた。床につきそうなほど長くて、濡れて少し灰色がかって見えるが、それでも同じ色だとわかった。


 イーリカは悲しそうな顔をしながらティーティエの髪を指で梳いた。


「ずいぶん短く切ってあるね……」


「手入れが大変だからって、侍女が……。でも、洗っても乾かすのがとっても楽なのよ」


「乾かすのなんて、一瞬でできるだろ? ついでに服も乾かしちゃおう」


 イーリカが口の中で何か呟くと、温かい風がふわりとティーティエを取り巻いた。瞬きする間に髪も服も乾いてしまった。

 ずぶ濡れにだったイーリカも、しっかりと乾いている。


「本当に、一瞬だったね……」


「うん。魔法だよ。覚えてない?」


 ティーティエは「覚えてない」と首を振った。


 忘れていたのだ。この世界には魔法があることを。自分も小さな魔法を使えたことを。


「私……たくさんのことを忘れていたみたい。イー兄さまのことも、母さまのことも、魔法のことも……」


 呆然と呟くティーティエの頭をグシャグシャと撫でて、イーリカはニッコリと笑った。おひさまのような明るい彼の表情に、ティーティエは思わず見とれてしまった。


「大丈夫! 思い出しただろ?」


 そう言いながらティーティエの手を引いてベッドに座らせ、彼も隣に腰を下ろした。

 彼は両膝に肘を置いて背を丸めるように座っている。そうして、背の低いティーティエの顔を覗き込むように話し始めた。


「ここの塔には、人の感情を抑える魔法がかかっていたみたいだね。ティーがいろいろなことを忘れてしまったのは、たぶんそのせいだと思う」


「えっ!? いろいろ忘れさせる魔法!?」


「いや、違うよ。心が大きく揺れるのを防ぐ魔法だよ。

 ……たぶんね、ティーは叔母上や俺のことを思い出して、たくさん悲しくなったんだよ。だから、その原因になる記憶を塔の魔法が封じてしまっていたんだと思う」


 イーリカはふっと顔を上げて開けたままになっている窓に視線をやった。外はまだ風と雨が強く、時々思い出したようにバラバラと雨が吹き込んでいる。窓側の床は水浸しだ。


「俺たち『鳥の人』は、生まれたときからそれぞれ得意な魔法をもっているんだ。……みんな魔法って呼んでるけど、息をするのと同じくらい自然に使えるから、魔法という感覚はないんだよね。

 俺は遠くのものを視る魔法。ティーは、叔母上と同じ天気を操る魔法をもっている。

 ティーが小さい頃は、君が泣くたびに空も泣いて雨が降っていたよ。叔母上は『まだ小さいのに、この子もすごい力ねぇ』って笑いながら雨を止めていた。

 ……その叔母上が亡くなって、ティーの力を抑える人がいなくなって……この国の人は、きっと困ったんだろうね。困り果てて、こんな塔にティーを閉じ込めたんだ」


「母さまが、亡くなって……。私が……たくさん悲しんだから?」


「たぶん、そうだと思う。叔母上が亡くなったという知らせは、遠く離れた俺たちの国には来なかった。というか、連絡手段がないからね、ただの人には」


 イーリカは苦しそうな顔をしながら、ティーティエの母がこの国に来た経緯や、ティーティエが塔に閉じ込められた後のことを語った。


 




 イーリカの父とティーティエの母は兄妹であり、『鳥の人』の王国の王族である。父親は先代の国王。現在の国王は二人の一番上の兄だ。


 『鳥の人』の王国は、人の暮らす地域から遠く離れた場所にある。人々は穏やかな気質で平和を愛する国民性なのだが、他国に出ることを嫌っている。仕事も婚姻も王国内で収めてしまい、他国と交流することもほとんどない。


 だが、それは国民の全員に共通することではなかった。中には、いるのだ。他国に出て伴侶を求める者たちが。


 それはおそらく、近親婚による弊害を避けるための、血に備わった本能のようなものなのだろう。濃くなりすぎた血を薄めるように人と子を作り、また王国に戻って来る。本人が戻ってこなくても、不思議なことに子か孫は必ず戻ってくるのだ。


 ティーティエの母もそうだった。

 伴侶を求めて王国を出て、この人の国の王に出会い、子をなした。

 王にはすでに、長く連れ添った妻と成人した子が何人かいたのだが、ティーティエの母は気にしなかった。王も稀有な存在である『鳥の人』と縁を結ぶことに積極的で、すぐに彼女を側室にしたのだった。


 反対する者はいなかった。天候を操るティーティエの母は、その能力の有用性もあって歓迎され、大切にされた。


 彼女が子供が生まれたことを祖国に知らせると、二番目の兄と、その息子であるイーリカが文字通り飛んできた。

 それを契機にして、イーリカは頻繁にティーティエに会いにこの国を訪れていたのである。

 道中、長大な距離を飛び続けることになるのだが、イーリカは遠くを見通す能力のおかげもあって飛ぶことが得意だから、苦にはならなかった。


 幼い頃のイーリカは、あまり間を空けずに遊びに来ていたのだが、学校に通い始める十歳になってからは、さすがに時間が取れなくなった。

 学校が休みになって、ようやく彼がこの国に来たときには、叔母は亡くなり、ティーティエもいなくなっていたのである。




◇ ◇ ◇ ◇




 十一年前。彼は国王を問い詰めたのだが、国王はのらりくらりと幼い詰問を(かわ)した。


「あのタヌキオヤ……いや、先代の王……ティーの父上は、君は幸せに暮らしているから大丈夫だと言っていた。安全な場所で、心穏やかに暮らしているから、って」


 イーリカは眉間にシワを寄せた不穏な顔で、遠くを見るような目をした。

 

「でも、ティーの姿が見えないんだ。俺の能力は、どんなに遠くにあるものでも視ることができるはずなのに。ましてやティーだよ? 見えないはずがないんだ!

 心配したよ。俺の家族や国王……ああ、ティーの伯父さんたちは、もう生きていないんじゃないかとさえ言っていたけど、冗談でもそんなことを言ってはいけないよね?

 もちろん俺には、君は生きていると確信があったよ。だからあちこち探したんだ。だけど、さすがに他国であまり勝手なことはできないし……国に帰って、遠見(とおみ)の力を使って探す方法に切り替えたんだ」


「なんで、私なんかのために、そんなに一生懸命になってくれたの?」


 ティーティエが思わず問いかけると、イーリカは目を丸くした後に眉根を寄せてくしゃりと笑った。しょうがないなぁとでも言いたげに。

 片手を上げてティーティエの頭をやわやわと撫でる。


「ダメだよ、私なんか、なんて言っちゃ。君は俺にとって、かけがえのない人なんだから。

 初めて会った時に、ティーは俺を見て笑ったんだ。天使かと思ったよ。その時に、この子が俺のお嫁さんだって思ったよ。それからずっと、君は俺の大切な人なんだ」


 ティーティエは、優しく微笑みかけるイーリカを、ぽかんと口を開けて見つめた。


(えっ……と……。初めて会った時って……? たぶん、私が赤ちゃんの時だよね……?)


 そのときの彼は何歳だったのだろうか。なんというか、ものすごい思い込み様である。だが、そのあたりを(つつ)くと面倒なことになりそうな予感がしたので、ティーティエはその予感に従うことにした。


 黙り込んだティーティエの頰を、そんなことを考えているなんて思ってもみないであろうイーリカが、楽しそうに指で突いた。


「あれ? ティー、どうしたの? 俺と約束したこと忘れちゃった?」


「え、約束……?」


「うん、約束だよ。ティーが大きくなったら俺と結婚しようねって」


「あっ、それはっ!」


 ティーティエはボンッと音がしそうなほどの勢いで赤面したのを自覚して、両手で頰を隠した。


「あの……あのね、覚えてるよ。というか、思い出したの」


「そっか! 良かった! 君が生きているって信じて、探し続けたかいがあったよ! 

 家族がさ、いい加減に諦めさせるつもりなのか、最近は縁談を持ってきたりしてたんだ。あ、もちろん全部断ってたんだけどね。俺にはティーティエ以外を妻にするなんてあり得ないから。

 ふふっ。嬉しくてつい、余計なことまで話しちゃってるけど……俺、いつもはこんなにお喋りじゃないんだよ? 今は嬉しくて嬉しくてずっと……」


「ああ、あのっ、イー兄さま!」


 ティーティエは大きな声でイーリカの話を遮った。止めなければ彼はずっと喋り続けている予感がしたので。予感は大事にしたい。なるべく。そう思うティーティエである。


「なあに、俺のお姫様?」

 

 話を止められたイーリカだが、気を悪くした様子もなくニコニコしながらティーティエの言葉の続きを待っている。

 『俺のお姫様』という呼びかけが恥ずかしくてクラクラしながら、ティーティエは必死で話の方向を戻した。


「あの……あのね? 私の姿が見えなかったのは、たぶん私がこの塔で暮らしているからなのよね? じゃあ今は、見えたからイー兄さまが来たの?」


「そうそう、それ!」

 

 イーリカは大きく頷きながら、ベッドの端にまとめてあった絵本に視線をやった。


「三日前に急にこの国が大嵐に見舞われたのが見えてね。これは、今までとは違うと思ったんだ。時期もおかしいし、規模も大きすぎる。

 ティーに何か、大変なことが起こったんじゃないかと思った。相変わらず君の姿は見えなかったけど、ここが嵐の中心になっているのは見えたんだ。たぶんここだな、と思って来てみたら、遠見では見えなかった塔が建ってるし。やられたな、と思ったよ」


「えっと……やられたって、何を?」


「この塔には認識を阻害する魔法がかかっているみたいだね。肉眼で見ると普通に見えるけど、なぜか塔の印象が残らない。取るに足らない普通の塔で、気にする必要もないと思ってしまうんだ。そして、遠見では塔自体が見えないんだ。

 おかげで俺は、十一年も全然見当違いの場所を探し回る羽目になったよ。人の魔法なんてたいしたことないと侮っていた。悔しいよ」


 イーリカは絵本を手に取った。


「それ以上に、まんまと騙された自分に腹が立つ。

 君がずっと、こんな所に閉じ込められて、こんなに大きな嵐を呼ぶほど悲しんでいたなんて……悔しくて、悲しい」


 絵本は、ティーティエが泣きながらも元の状態に戻そうと頑張った結果、一応は本の体裁を保っているように見える。だが、背表紙が破れているのは明らかだった。表紙を開ければその惨状はさらに顕著になる。

 ティーティエが手を差出すと、イーリカはそっと絵本を載せてくれた。が、彼はティーティエの顔を見てギョッと目を剥いた。彼女が涙を浮かべていたからだ。


「ティー、どうしたの? ごめん、この本に触られたくなかった? ごめんね、泣かないで」


 イーリカはティーティエの肩を抱いて顔を覗き込み、必死な様子で謝っている。

 ティーティエは絵本をギュッと抱いて、首を横に振った。涙が一筋こぼれ落ちる。


「違うの。イー兄さま、大事な話をしてるのに、泣いちゃってごめんなさい。イー兄さまのせいじゃないの。……もう、自分でも呆れるくらいたくさん泣いたのに、まだ悲しくて……。

 侍女に叱られて、この絵本を取り上げられそうになったの。それで、取り返そうとしたら破れちゃって……。とっても大事な本なのに、こんなになっちゃって、悲しくて……」


 言いながらもポロポロと泣くティーティエを、イーリカは抱きしめた。腕の中に閉じ込めるように背中に手を回す。

 彼の胸に顔を押し付ける形になって、ティーティエは自分の涙が彼の身につけている青いチュニックに染み込んでいくのを感じた。

 

「イー兄さま、涙が……濡れちゃうよ」


「構わないよ。どんどん濡らして。ハンカチじゃあ追いつかないだろうから、こうしたんだ」


 イーリカは耳元で囁いて、ティーティエの小さな背中を優しく擦った。


(温かい。イー兄さま、優しい。安心する。でも悲しい。悔しい。イー兄さま、いい匂い……)


 ティーティエの思考はあちらこちらに飛んだ。自分でもどうにも制御できなくて、涙が後から後から湧いてくる。止まらなかった。


「悲しいときは泣くといいんだよ。無理に我慢する必要はないし、誰かが無理に抑え込むものでもない。

 ティーはずっとここで、感情を抑えられていたんだ。今までの分も合わせて、たくさんたくさん泣いていいんだよ」


 優しい声でイーリカに促されて、ティーティエはおおいに泣いた。まだこんなに涙があったのかと、自分でも呆れるほどに泣き続けた。








 イーリカは、ようやく再会できた愛しい人を抱きしめる喜びに震える思いだった。

 だが、大きな喜びを感じるとともに、腸が煮えくり返るほどの怒りも覚えている。


(ティーティエをここまで追い詰めた奴らなど、水の底に沈めばいい)


 彼女の頭に鼻先までを(うず)めたまま目だけを動かして、吹き込む雨と水浸しになっていく石の床を見る。

 雨も風も先程からまた激しくなっていた。


 ティーティエの抱えている絵本。それはイーリカが幼い頃に、彼女のために描いたものだ。

 彼女の母親と相談して物語を作り、イーリカが遠見を駆使して風景を描き取った。彼は幼い頃から、描画において素晴らしい才能を発揮していたのだ。ティーティエに渡すためのものだと思うと、絵を描く楽しさ以上に喜びを覚えた。

 

 ティーティエが大切だと言ってくれた絵本は、イーリカにとっても思い入れの深いものである。

 それを無惨な姿にされたのだ。怒りもする。そしてティーティエの状態の悪さが、彼の怒りに拍車をかけている。


 ティーティエの身体は、だいぶ細かった。筋肉のついていない腕は棒のようだし、背中は背骨をたどれるほど肉が薄い。以前はふくふくとして可愛らしかった丸い頬も、肉を削がれたように失われている。きちんと食事を摂れていたのか、あやしいものだ。


 それに加えて、髪を無惨に切り落とされているのも痛々しかった。

 『鳥の人』にとって、髪は翼を形成するための大切なものである。幼い頃から長く伸ばし、保護魔法をかけてまで損なわれないようにするものなのだ。


(それを、こんな……うなじが見えるほどに短く切ってしまうなんて……! 万死に値する!!)


 イーリカの怒りは激しかった。

 とはいえ、ティーティエを怖がらせるつもりはないので表面には出さないように、彼は腹の中に収めている。


(ティーティエをここまで悲しませた罪の報いを、存分に受けるがいいさ)

 

 彼は熱い怒りを心に隠して、猛烈な雨風に翻弄されるこの国の人々を静かに嗤った。



 


 


          

 


 思いきり泣いたティーティエは、しばらくしてなんだか心が軽くなっているのを感じた。

 泣きすぎて頭は少し痛むのだが、胸のモヤモヤがなくなっている。彼女は最後に大きく息を吐いて、イーリカの腕の中で身動ぎをした。そして彼の服の胸元を見て途方に暮れた。


「…………ご、ごめんなさい、イー兄さま。あの、服が……ものすごいことになっちゃった……どうしよう、これ……」


「ん?」


 イーリカはティーティエと涙に濡れて濃く変色した自分の服を見下ろした。広範囲がびしょ濡れである。

 

「服なんて気にしなくていいよ。それよりもティーだよ」


 彼はスラックスのポケットからハンカチを取り出して、八の字眉毛で困り顔のティーティエの目元に当てた。ポンポンと軽く叩くように、優しく涙の残滓を拭う。


「たくさん泣いて、ちょっとはスッキリしたんじゃない?」


「うん。不思議。まだ大丈夫じゃないけど、さっきよりはマシに……」


 言いながらティーティエは抱きしめたままの絵本に目を落とした。彼女の双眸が再び潤みはじめるのを見てイーリカが慌てた。


「待って待って、その本、直せるから! ね?」


「えっ!? 兄さますごい! できるの? 魔法で?」


 目を丸くしているティーティエの顔中をハンカチで拭きながら、イーリカは声をたてて笑った。


「魔法じゃないよ。ふふっ。驚いた顔が子供の頃とおんなじだね、ティー。可愛いなぁ」


「もう! イー兄さまったら、からかわないで!」


「怒った顔も可愛い。ティーがその本を大事にしてくれていて嬉しいよ。その本の絵を描いたのは俺なんだ。だから……完全に元のとおりとはいかないかもしれないけど、今よりもだいぶマシにできると思うよ」


 イーリカの言葉にティーティエは頬を上気させた。目を輝かせて絵本を抱え直す。


「よかったぁ! 直るんだね! イー兄さまってすごい!」


 キラキラした目で喜色満面のティーティエに見上げられ、イーリカは片手で口元を覆って天井を仰いだ。そらされた首の喉仏が二度ほど大きく上下したあと、彼は完全に動きを止めてしまった。


「兄さま……? どうしたの? 気分が悪くなったの? 大丈夫?」


「いや、違うから。大丈夫。……衝動とか欲とか、いろいろと大変なものと理性が戦っているだけだから」


「ん、兄さま。口を押さえたままじゃ、なんて言っているかわからないわ。もう一回言って?」


「うん。良かった。大丈夫だよ」


 イーリカは元の体勢に戻ってニッコリと、それはそれは綺麗な微笑みを浮かべた。








 それから二人は、これからのことを話し合った。

 といっても、この国を出るか出ないかの話ではない。イーリカはティーティエを連れて帰る気満々だし、ティーティエもイーリカについて行くの一択だったので、話は王国に着いてからのことである。


「王国には他国から帰ってきた人のための制度があるんだ。教育や住居の保証や生活費の支給、仕事の斡旋もする。困ったことがあったら、相談に乗ってくれる役人もいるよ。

 ティーは王妹の娘だから王族の括りになるね。君さえ良ければ、うちで暮らしてもらってかまわない。というか、俺のお嫁さんになるんだから、それが一番良いよね」


「あの、あのっ、ちょっと待って。イー兄さまのお嫁さんになるのって、ちょっと待ってもらうことはできないかしら?…………って、思ったんだ、けど……」


 ティーティエの言葉が尻すぼみになったのは、イーリカが笑顔で圧を強めたからだった。


「なんで? ティーは俺と結婚したくない?」


イーリカの笑顔はとても綺麗だが、ティーティエは途轍(とてつ)もない圧力を感じた。開けっ放しの窓から響く、轟々と叫ぶような風音と相まって非常に不穏である。

 首をブンブンと振ってから、彼女は無理やり微笑んだ。


「違うの、兄さま。私も……兄さまと結婚する約束をしたときから、ずっと楽しみにしていたの。母さまと兄さまのことを忘れていた間も、兄さまのことはなんとなく覚えていたのよ。夢だったのかな、って思っていたけど、夢じゃなくて良かったって。

 思い出した時に、本当に嬉しかったの」


 イーリカの誤解がとけるように、本心が真っ直ぐ伝わるようにと、そう願いながらティーティエは思いを口にした。

 真剣な表情で語られる彼女の思いの丈に、彼はじわじわと顔を赤くしたあと、隠すように両手で覆ってしまった。


「ごめん……。早とちりで、疑ってしまった。ごめんね、ティー」


 ティーティエは絵本を脇にそっと置いた。くぐもった声で謝罪するイーリカの両手を掴んで引き下ろし、真っ赤になった彼の顔を覗き込む。

 

「もう! 本当にそうよ、イー兄さま! 兄さまって、ちょっと思い込みが激しいところがあると思うの。結婚をするということは、ずっと一緒にいるということでしょう? ならば、私の話をちゃんと聞いてくれないと困ってしまうわよ?」

 

「うっぐっ! むくれ顔の上目遣いとか………! わかった、善処する! 気をつけるから、そんな必殺の技を使わないで……!」


「必殺の? 何?」


「小首かしげるのあざと……! いや、ティーティエ。そうじゃなくて、どうしてすぐに結婚するのを待ってほしいのかを教えてくれないかな?」


 胸を押さえて息も絶え絶えなイーリカである。苦しそうな荒い息に心配になって、彼女が「大丈夫?」と訊ねれば、彼は「大丈夫!」と即答した。

 とてもそうは見えない様子だが、本人が大丈夫だと言うのだから、大丈夫なのだろうと判断して、ティーティエは咳払いをした。


「あのね、イー兄さま。私はずっと外に出ていないでしょう? それに、お勉強も、ずっとしていないの。ここに来たはじめの頃は先生が来てくれていたんだけど、いつの間にか来なくなってしまって……。

 私はたぶん、いろいろなことを知らないの。知らないまま大きくなってしまったのよ。それって、恥ずかしいことよね?」


「いや、可愛いから心配ないと……」


「兄さまはそう思ってくれるかもしれないけど、そう言ってくれる人ばかりじゃないことは、私もわかってるのよ」


 ティーティエは目を伏せて侍女の顔を思い浮かべた。

 彼女はティーティエが何かしたり言ったりするたびに、嫌な顔をした。唇を歪めて、吊り上げて、笑っているような怒っているような、とても嫌な表情だった。

 あれはティーティエを否定する顔だ。

 ティーティエは、なるべくあんな顔は見たくなかった。


「だから、ちゃんとした人になりたいの。人に嫌がられない人に。私ね、常識知らずなんだって。でも常識がどんなものかも知らないのよ。

 さっき、イー兄さまは、王国には他国から帰ってきた人のために、教育をしてくれるって言ってたわよね? 私もそうしたいの。ちゃんとお勉強をして、恥ずかしくない人になったら……兄さまと結婚したいわ」


 ティーティエは真っ直ぐにイーリカを見つめて言った。


(兄さまに、伝わったかしら……? 言葉って難しい……。もっと、自分の心を言葉で伝えられるようになりたいわ)


 祈るような気持ちでティーティエがイーリカを見上げていると、彼は深く長く息を吐いた。

 俯いて手の平で両目を覆った彼は、しばらくしてから「わかった」と言った。

 顔を上げた彼は苦く笑っていた。


「わかったよ、ティー。ごめんね。俺が焦りすぎていたんだ。

 そうだよね。君の気持ちを全然考えていなかった。ごめん。本当に、ちゃんと話し合わなきゃダメだね。こんなことでは、いつかティーに嫌われちゃいそうだなぁ。俺も頑張らないと」


「大丈夫よ、兄さま。私もなんにも知らなすぎるから、いつか兄さまに嫌われちゃいそうよ。一緒に頑張りましょう」


 両拳を握りしめ、勇ましく瞳を輝かせている彼女を、イーリカはそっと抱き寄せた。


「うん、そうだね。お互いに頑張って、早く結婚しようね」


 耳元で優しく囁かれて、ティーティエは頬どころか耳まで赤くなった。さきほどから握ったままの拳を、彼女は鼓動が速くなった胸に押し当てた。


(知らなかったわ! 恥ずかしいと耳が熱くなるのね! 私、本当に知らないことがたくさんあるんだわ……!)


 新しいことを知るのはドキドキするものだ。これからは、たくさんのことを知ることができると考えるだけで、ティーティエは楽しみで仕方がなかった。

 


 


◇ ◇ ◇ ◇





「さあ、しっかり俺に捕まって、心の準備をしてね。口は閉じていたほうがいいかな」 

 

 窓から身を乗り出してイーリカが言う。その腕にはティーティエ。宝物のように大事に抱えている。

 ティーティエは口をギュッと結んで、大きく頷いた。横抱きにされてイーリカの首に両腕を回している彼女の目には、これから飛び出す青空が映っている。


 空はティーティエの今の心のように晴れ渡っている。あれほど暴れまわっていた大嵐が嘘のような快晴だった。


「じゃあ、行くよ……っと、邪魔が入ったか……」


 イーリカが地上を気にしているようなので、ティーティエも肩越しに振り返ってそちらを見た。

 雨はやんだが、地上の水は未だ引いていない。空を映す鏡のような水面をバシャバシャと乱して、何人かの人がこちらに駆け寄って来ていた。


 侍女と同じ服を着た人が三人。騎士が二人と、あとは昔見たことがある人が一人、知らない人が三人だ。彼らはティーティエとイーリカを真っ直ぐに見上げている。


「ティー、どうする? 手紙を残してあるから、無視して行っちゃっても良いと思うけど?」


「うーん……そうね。でも、さよならくらいは言いたいわ」


「まあ、挨拶は大事だけどね。それだけじゃ終わらない気がするよ」


 二人で相談をしているうちに、彼らは塔の真下にたどり着いた。皆、水しぶきを上げながら走っていたのでずぶ濡れになっている。

 背の高い壮年の男が、両腕をこちらに差し伸べながらティーティエに呼びかけた。


「ティーティエ殿下! どうか、塔にお留まりあれ!」


「断る!!」


 イーリカが突然大声で答えたので、ティーティエはビクッと肩を震わせた。イーリカは眉間にシワを寄せた険しい表情で地上を見下ろしている。


「詳細は手紙にしたためて彼女の部屋の机の上に置いてある。そちらを確認せよ」


 凛然としたイーリカの声は、けして張り上げているわけでもないのに水面を震わせるように響いた。

 広い場所に立って、大勢の人に聞かせるための声だ。ティーティエは、イーリカが王弟の嫡男であることの一端を見たような気がした。


 一方、地上にいる長身の壮年の男も、よく通る声をしていた。ティーティエは覚えていなかったが、彼もまた人の上に立つ者。この国の大宰である。

 嵐が去ったのを見てティーティエの心が落ち着いたことを知り、様子をうかがうために侍女たちを引き連れて駆けつけたのだ。


 大宰は塔の窓辺に今にも飛び立ちそうな『鳥の人』と、その腕の中の人物を見て心の底から仰天した。二人がここを去ろうとしていることは明らかだった。


「遠きかの国の神人、イーリカ様とお見受けいたします。どうか、我が国の宝であるティーティエ殿下をお返しください!」


「…………宝だと?」


 イーリカはくいしばった歯の間から絞り出すように低い声をもらした。彼の形の良い眉がギリッと上がる。彼の内で渦巻いていた怒りの発露だった。


「お前たちは宝を裏庭に放置し野ざらしにするような真似をするのか!! 宝と言うのならば真綿に包むように大切に扱うものではないのか!! 何年も虐げるような扱いをしておいて、宝だなどと、どの口が言うのか!!!」


 激烈な怒声が響き渡った。彼の体がカッと熱くなったような気がして、ティーティエは身をすくませる。


「それに関しましては、殿下には大変申し訳無いことをいたしましたこと、お詫びの次第もございません! 原因となりました侍女は、捕らえて尋問の最中でございます! 現時点で判明している罪状だけでも死罪が確定しておりますことを踏まえ、どうかご寛恕いただきたく願います!」

 

「侍女ひとりの問題だと考えているのならば、なおさら容赦できぬ! そもそもの根幹が腐り果てていることを知れ! なぜ誰も彼女の惨状に気付かなかった!? なぜ誰も様子を見に来なかったのだ! 一目見ればわかるはずだ! 彼女が虐げられていることを!」


 たしかに、ティーティエは『鳥の人』ではありえないほど短い髪をしていた。いや、普通の貴族の令嬢でもありえない髪型だ。ましてや彼女はれっきとした王族である。大宰には、もはや陳謝の言葉が出せなかった。

 だが、ティーティエを失うわけにはいかない。彼女はこの国に必要な存在なのだ。


「返す言葉もございませんが……! どうか今一度のご宥恕をお願いいたします!」


 大宰は足首まで満ちた水の中に膝をつき、頭を垂れた。周りの者たちも同様に許しを請う姿勢になる。

 ティーティエはそれがなんだか申し訳なくなってしまった。


「無駄なことだ。お前たちがティーティエ姫を必要とするのは、天候を穏やかにするためだけだろう。この国は彼女の母君が来るまで、たびたび旱魃(かんばつ)の起こる地域だったと聞く。彼女の心を無視したやり方で、そのためだけに国にとどめよと言うのならば、ここは人の国ではなく鬼の国だ」


 鬼と聞いて、地上にひざまずく者たちは項垂れ、ティーティエは目をパチクリとして瞬いた。

 イーリカは彼女の様子に気づいて目元を緩めた。


「鬼というのはね、ティーティエ。神に従わず、時に人を喰らう化け物のことをいうんだよ。この国の人たちはティーの能力を利用して食べ物の安定供給を図っていたのだから、似たようなものだと思うんだ」


 彼女に語り聞かせる(てい)でありながら、その実しっかりと地上の者たちにも届く声量でイーリカが説明した。

 

 ティーティエは納得がいった様子で頷いて、小さく笑った。


「それは、私がここで心を波立たせることなく暮らしていたから、天気が安定していたってことね? 私ね、ずっと疑問だったの。どうして私はここにいるんだろう、誰かのためになるんだろうか、って。

 でも、ちゃんと役に立っていたのね。それがわかって良かったわ」


 嬉しげに弾む声は、かろうじて地上の者たちの耳にも届いた。

 大宰も他の者たちも、姫君の言葉に希望を見出してハッと顔を上げた。

 塔の高い位置にいる彼女の顔は、たしかに穏やかな笑みをたたえている。己がこの国に必要な存在だと納得した彼女は、もしかしたら思いとどまってくれるかもしれない。


 期待した分、続く彼女の言葉には大きく落胆したのだが。


「今まで食べ物の安定供給? ができていたのならば、蓄えはたくさんできているはずだわ。それに、何年も経ったのだもの。旱魃に対する対策も進んでいるはずよね? だって、母さまだって私だって、いつかはいなくなるってわかっていたはずだもの。そうしていなければおかしいわ」


「ふふっ。ティーは勉強をしていないと言っていたけど、なかなか物事の道理がわかっているよね。きっともともとの頭がいいんだよ。すごいね」


「あのね、昔は本をたくさん読んだの。その受け売りだから、全然すごくないのよ」


 窓辺の二人は和やかな会話をしているが、大宰は再び項垂れていた。


 旱魃などまだまだ先のことと考えていた彼らは、対策の検討などしているはずがなかった。

 水に浸った己の膝に目を落として、見苦しくない言い訳を探している大宰に、ティーティエの声が優しく響いた。


「皆さん、立ってください。水は冷たいでしょう?」


 皆を思いやるティーティエに、もしかしたら、と希望を抱いた者もいた。


「ひざまずいてお見送りなんて、しなくていいんですよ」


 彼らが抱いた希望は瞬時に叩き落とされた。

 大宰はもうダメだと悟った。

 ティーティエを、あまりに蔑ろにしすぎたのだ。イーリカの指摘したとおり、誰もが彼女のことを気にかけていなかった。恩恵だけを享受していた報いが、これから始まるのだ。


 大宰は立ち上がった。

 いつまでも萎れている場合ではない。彼女の言うとおり、少しでもこの先のための対策を立てなければ。

 顔を上げ、振り仰いだ塔の窓辺ではティーティエが変わらずに微笑んでいた。


「私はこの国が嫌いではありません。だって母さまが愛した父さまの国ですもの。この国で二人が出会ったから、私が生まれました。そのおかげで、私は大切な人と出会うことができました。だから、感謝しているのよ」


 そう言って、ティーティエはイーリカを促した。

 イーリカは小さく頷いてティーティエの身体をしっかりと抱き直し、トンッと軽く窓枠を蹴った。宙に躍り出た彼の髪が光を放ち、瞬きよりも速く翼を形成する。

 

 大きな白い翼が青空に広がった。

 羽ばたき数回。二人はあっという間に遠ざかっていく。

 空を映すような水満ちた地上でそれを見送りながら、大宰は姫君のこの先が幸せであることを願った。

 









 ティーティエはぐんぐん遠ざかっていく塔を見ていた。

 ほんの少し前までは、あそこがティーティエの世界のすべてだった。狭く、冷たい石の世界。


 今、彼女の世界は限りなく広がっていた。

 眼下の山も川も森も、まだ見ぬ海も。頭上の空の彼方まで。あまりに大きくて少し怖くはあるけれども、それ以上にティーティエの心は期待に踊っていた。


「ティー。真っ直ぐ王国へ行かないで、寄り道をしよう。大きな街も楽しいし、寂れた温泉宿なんかも楽しめると思うんだ。ティーは牧場なんかも喜ぶかな? 可愛い服を買って、美味しいものを食べよう。ティーにいろいろなものを見せたいんだ」


「ありがとう、イー兄さま。でも、見たい所の全部に寄り道して回っていると、きっといつまで経っても王国に着かないわ。いっぱい見て回るのは、私の髪が伸びて、私も飛べるようになってからにしましょう? だって私、どこでも全部見たいんだもの!」


「ティーがそんなに欲張りだとは思わなかった!」


「呆れたかしら?」


「いや、俺も同じくらい欲張りだから! ティーと一緒なら、どこでも全部見て回るよ!」


 弾けるような笑い声を上げる二人の行く手に海が見えてきた。生まれて初めて見る海だ。

 ティーティエは瞳をきらめかせて、その濃い青色を見つめた。


「すごいわ、イー兄さま! 海って空の色を映しているのね!」



 目に入るすべて。

 はるか彼方では海と空が交わっている。

 その向こうまでもすべて。

 それがティーティエの世界になった。

 

 


  


◇終わり◇




お読みいただきありがとうございました。

私にとって好きな作品です。読了後に少しでも心に残るものがあったなら嬉しいです。


※公開後、最後に少しだけ加筆しました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ