炎の色彩に包まれた
翌朝、ディアナとバルドルは追われていた――リカード軍の兵たちに。
ロッククリークに向かうことを決めた二人が宿を出てしばらくあとのことだった。
王女の探索なのか別の理由なのかは不明だが、近くをうろついていた騎兵七人に見つかってしまったのだ。七人の軍装には、王弟リカードの紋章である“黄金色の狼”が描かれている。
細い街道を二人と七騎が駆ける。
その距離は百メートルほど離れていても、追われる側と違って追う側は騎馬である。距離が縮まっていくのは明白だった。
「バルドル、ドラゴシュはどこに?」
走りながらディアナが問う。
今のバルドルは飛術が使えないという。敵から逃れるには一時的にでもドラゴシュに乗って飛ぶしかない。
「こっちに向かってるよ。あれだ」
バルドルが指さした先――上空に赤い点としてドラゴシュが視認できる。それはかなり遠くだった。
(このまま街道を走ってるだけだと、ドラゴシュが来るより先に敵に追いつかれるわ……)
逃げずに戦うという手段もあるにはある。もしバルドルが戦闘中に再び飛術を発揮したら、敵が騎兵七人とはいえ、圧倒できるだろう。
しかし、ディアナはその展開を望んでいなかった。昨日、彼女はバルドルが敵を殺したことを咎めた。にもかかわらず、バルドルをまた戦わせ、また敵を殺させる道しか作り出せないなら……。
(私は無能の偽善者だ)
ふと。
顔に雪が降りかかるのをディアナは感じた。今はそこまでではないものの、昨夜は大雪が降っていたのを思い出す。その雪をきっかけに、ある考えがディアナの脳裏に閃いた。
(たしか、このあたりには……あれがある)
(昨日の降雪量と冷え込みだったら……)
二人は道からそれて、林の中に駆け込んだ。これ自体は昨日、ヘクターたちに追われたのと同じ展開だった。
続いて七騎も林に入り、あとを追ってくる。昨日と違ってこの林は木々が密集しており、小回りがきかない騎兵では本来の速度が出せなかった。一気に追いつめられる状況は避けられた。が、それでも距離はじりじりと縮まってゆく。
木々の合間を走り抜けるディアナとバルドル。二人の数十メートル前方から、ぷっつりと木々が途絶えている。
その先に現るのは――。
「あれは……湖?」
バルドルの問いにディアナが応じた。
「ええ、湖面が氷結してて雪に覆われてるけど、湖よ」
ダミア湖という。二人から見て、縦二百メートルほど、横二百五十メートルほどの大きさである。
今は湖面のほぼ全体が凍っており、このまま湖を渡れる。このあたりは標高が高く、今の時季は極めて気温が低い。それでも他の湖なら氷結はしなかっただろうが、ダミア湖は水深が非常に浅いために氷結しやすい。さらには、昨日の大雪で湖面が冷やされて氷結が進みやすくなっていた。ディアナはそれらの知識を瞬時に取り出したのだ。
二人は岸から湖面に足を踏み入れた。そのときには追っ手はほんの五メートルほどのところまで迫っていた。
ディアナとバルドルは凍った湖を走っていくが、騎兵たちは湖に馬ごと進入するのをためらった。いくら氷結している湖面といえど、馬の重みには耐えきれず、氷がくずれる可能性が大きい。実際、ディアナたちが湖面を踏むだけで、ひびが入るくらいだ。兵たちは下馬して追うしかなかった。これもディアナの予測通りとなった。
さらに彼女は、追っ手を振りきる策の肝心な部分をバルドルに手短に伝えた。
氷上にて逃走劇は続く。
ほどなくして、ディアナとバルドルの表情には安堵の笑みが、敵兵たちの表情には驚愕の色が広がってゆく。上方から迫りくる赤竜の姿が、今や全員の目にはっきりと映っているからだ。
ドラゴシュの重量では湖氷には着地できないから、すぐに乗ることはできない。だが、追っ手を殺めることなく、二人が安全に逃げのびる手立てがある。ディアナはそのために湖のほうへ来たのだから。
ドラゴシュは舞い降りながら、さらに近づいてきた。優美な淡赤色の翼を大きく羽ばたかせながら、兵たちの斜め上方で、いったん空中停止した。その神々しい姿に、兵たちは一瞬目を奪われて立ち止まった。
次の刹那、彼らの前方は赤、黄、白という炎の色彩に包まれた。ドラゴシュの両あごが開かれ、その口から猛炎が吐き出されたのである。
このとき、二人と兵たちの間の距離は約十メートル。そこの湖氷に向けて、ドラゴシュは火炎を吐いた。氷は半ば蒸発し、半ば水に変化した。炎が消えても、その部分は湖氷がとけきっており、兵たちは前方に進むのが不可能となった。この厳寒のさなか、とけて水になった部分を渡ろうと決意する者などいなかった。
ドラゴシュが自らの意思で、二人と兵たちの間に炎を放ったわけではない。バルドルが騎竜術で、ドラゴシュの意識に触れて、そのようにさせているのだ。彼もディアナもドラゴシュを人殺しの道具にはしたくないので、炎で敵を直接攻撃する気はなかった。
むろん兵たちは、炎でとけた前方の湖面を避け、横から回り込んで、二人を追おうとする。しかしバルドルは、ドラゴシュを左右に飛行させ、追っ手の進む先にある湖氷に火炎を吐かせ続ける。兵士七人では竜に対抗しえるはずがない。
炎の乱舞を前に、彼らはなす術がなかった。ディアナとバルドルは追っ手と距離をぐんぐんと開いていく。
ディアナが思いついた策が功を奏したのだ。いや、炎で湖の氷をとかして進路をふさぐというだけで、策と言えるほど複雑なものでもない。ただ、ダミア湖が近くにあると瞬時に思い出さなければならない上に、この湖が氷結しやすい条件を備えているのも知っている必要があった。
ディアナの頭の中には、ブリタニア全土の精密な地理情報がたくわえられている。それが今回、役立ったのである。
とはいえ。
「バルドル、結局、あの兵たちが馬で湖岸から回り込んできたら、いずれ追いつかれるわ。私たちが走ってるだけだとね」
もっと言えば、二人は走り続けるのにも限界を感じつつあった。
「だから、ドラゴシュに乗るしかないわね……」
ディアナの声に不安がこもった。
ドラゴシュには初日の数時間だけしか乗っていない。その飛行はディアナにとって恐怖体験として心に残っている。怖いという気持ちが彼女の胸に広がりつつある。
ディアナとバルドルが湖岸にたどり着くと、ドラゴシュは炎の噴射をやめ、二人のところに飛んだ。
すでに兵たちは湖から追うのは諦めて、馬を置いてる岸に戻ろうとしていた。完全に諦めたのか、馬で回り込んでくるのかは判断できない。
ドラゴシュで飛行するという考えは変えられない。
「ディアナ、僕とドラゴシュを信じてほしい」
バルドルの声は優しく、落ち着いていた。
「今の僕なら、ドラゴシュを制御して安全に飛行できる。長時間は無理だろうけど、ロッククリークまでなら、魔道の集中が保てる。今はそう感じるんだ」
魔道の力は精神状態によって変化する。前回は緊張もあったし、ディアナのために全身全霊を尽くすというほどの意思がバルドルになかった。しかし今は別だ。
「信じてるわ、バルドル」
湖岸に着地したドラゴシュに二人が騎乗する。前方に乗ったバルドルの体にディアナは腕を回した。ディアナの全身を怖さと動揺が走る。だが、前に騎乗したときに比べれば、それは軽いものだった。
「ディアナ、大丈夫?」
「ええ、問題ないわ」
「よし、じゃあ――飛ぼう」
彼があっさりとそれだけ告げるやいなや、ドラゴシュはゆるやかに上昇を始めた。徐々に速度を増して空に向かっていく。雪片と風が二人の顔に吹きつけられる。ある程度の高度に達すると水平飛行に切りかえた。
前回と比べて、飛行にぶれがない。ドラゴシュは安定して空を飛び続けた。バルドルの体を、ぎこちなくだがディアナは受け入れはじめていた。
まだ色々な点で恐怖は残っている。だが奇妙なことに、バルドルの背中を抱きながら空を翔られることに心地よさもディアナは感じていたのである。
こうして、追っ手を完全に振りきったのだった。
まもなく二人は、ロッククリークの南端を守る砦に到着し、その後、砦の部隊によって、領主であるハーバートの居城まで護送された。




