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第9話 足並み

寸胴の底に、まだ少し残っていた。


 皿は空だった。神IVは完食されていた。それだけははっきりしていた。洗い物はまだ終わっていない。シンクの縁に重なった食器が、蛍光灯の光を鈍く返している。テーブルの上には骨だけになった何かと、使い終わったレードルが雑に置かれたままだった。誰かが笑った跡が、そこここに残っていた。食べている間は、笑っていた。声を上げて笑った瞬間もあった。でも今は誰も笑っていなかった。あの笑い声がどこへ行ったのか、部屋の中を見回しても、見つからなかった。


 澪は寸胴の縁についた脂を、折りたたんだキッチンペーパーで丁寧に拭いていた。縁から鍋肌へ、鍋肌から取っ手の根元へ。手が止まらない。止めると何かを考えてしまいそうだから、ということには気づかないふりをしていた。誰も「うまかった」以上のことを言わなかった。「うまかった」は言った。それで終わった。


 晃はリビングのソファに深く沈んで、スマホの画面を親指でなぞっていた。通知は増え続けていた。さつきにも音は聞こえていた。でも見なかった。テーブルの端に置いた自分のスマホを、なんとなく遠ざけるように、少しだけ押した。画面は暗くなった。通知の振動だけが、時折、テーブルに伝わった。


 窓の外はもう暗かった。山の夜は早い。昼間あれだけ騒いでいた鳥の声も、今はない。遠くで風が木を揺らす音だけが、断続的に届いた。三人は山の中の一軒家を借りていた。電波は弱かった。でも動画はアップできた。それで十分だった、と誰かが言っていた。晃だったと思う。


「フォロワー、四桁見えてきた」


 晃の声は明るくも暗くもなかった。ただ事実として言った。数字を読み上げるように。さつきの手が止まった。でも顔は上げなかった。


 その瞬間に、空気はもう変わっていた。


________________________________________


 深夜、三人は同じ空間にいた。


 晃はリビングで数字を眺めていた。ハッシュタグを辿り、コメントを開き、また戻る。「逸般」「どこ目指してるの」「趣味の域超えてる」。コメント欄に並ぶ文字列を、丁寧に、真剣に読んでいた。通知の増減を、何度も確かめる。晃にとってそれは分析だった。感情じゃなかった。数字が伸びているという事実を、正確に把握しようとしていた。可能性というものを、晃はいつもそういうふうに見ていた。数字の奥に、まだ見えていない何かが隠れていると信じていた。それを見つけ出すことが、晃にとっての「やっている」ということだった。


 さつきは布団に入っていたが、眠れなかった。


 天井の染みを数えようとして、やめた。目を閉じようとして、やめた。昨日の言葉が頭の中を回り続けていた。*勝ちにいく。削る。楽しいを。*晃が言ったその言葉たちは、悪意があったわけじゃない。それはわかっていた。晃はいつも本気で言う。本気で言うから刃になる。でも回る。眠ろうとするたびに、また回ってくる。


 昨日、あの山の中で火を起こしているとき、さつきは何も考えていなかった。ただ火があって、鍋があって、三人がいた。それだけだった。それだけでよかった。煙が目に入って、晃が文句を言って、澪が黙って薪の向きを変えた。暗くなってから食べた。寒かった。でも、うまかった。笑った。誰かが笑うから、また誰かが笑った。そういう夜だった。


 なのに今、それが何かに変わろうとしている。変わる、というより、外側から何かが貼りつこうとしている。剥がしたい。でも手の届かないところにある。さつきは布団の端を、強く握った。握って、しばらくして、離した。外でまた風が吹いた。木が揺れた。山の夜は長かった。


 澪はキッチンに立っていた。


 寸胴の中を覗く。


神IVはもう沸いていなかった。


表面には、ゆっくり固まり始めた油が薄く張りついている。


艶は残っているが、昨日のような勢いはない。


茶色は深く、重く、光を鈍く吸っている。


湯気はもう立たない。


代わりに、冷めかけた脂の匂いが、わずかに甘く鼻に残る。


おたまでそっとすくうと、とろみはある。だが流れは遅い。


粘度が、時間の経過を語る。


鍋肌に張りついた膜を、木べらでなぞる。ゆっくりと剥がれる。


昨日は渦を巻いていた色が、今は静止している。


美しい。けれど、動いていない。


 澪は小さく呟いた。


「重い」


 誰にも聞こえない声で言った。聞かせるつもりはなかった。ただ、口から出た。脂が重いのか、それとも別の何かが重いのか、澪自身にもわからなかった。おたまをゆっくり引き上げると、とろみのある雫が、鍋の中へ静かに戻った。


________________________________________


 朝、換気扇の音から始まった。


 澪が一人でキッチンに立っていた。外はまだ薄暗かった。山の朝は光が遅い。スープを火にかけ、浮いてくる脂を丁寧にすくっていた。言い訳もしなかった。説明もしなかった。ただ整えていた。整えることが、澪にとっての言語だった。昨日より良くできる。それだけを考えていた。料理が終われば、また何かが始まる。それはわかっていた。でも今は、鍋の前にいることだけが、澪の仕事だった。


 晃が起きてきた。スウェットのまま、寝癖のついた頭で、まず寸胴を見た。


「もう触ってるの?」


「重いから」


 晃は少し考えてから、また寸胴を見た。


「昨日、完成じゃなかった?」


 澪の手が一瞬止まった。それからまた動き始めた。おたまがスープを掬う音だけが、しばらく続いた。


 さつきが起きてきた。目が腫れていた。眠れなかったことは言わなかった。昨日と同じ匂いがした。でも空気は違った。三人で、また始めた。脂を抜いて、火加減を調整して、味を確かめた。手を動かすことで、言葉の代わりにした。誰かが黙って鍋を見ていれば、別の誰かが隣に立った。それだけだった。


 澪がスープを一口飲んで、目を細めた。何も言わなかった。でもそれで、さつきにはわかった。もう一段ある、という顔だった。さつきは塩を手に取った。少しだけ足した。澪がまた飲んだ。今度は何も言わなかったが、顔が少し変わった。そこで三人がほぼ同時に味見をした。言葉は出なかった。でも、その沈黙は昨夜のものとは違った。


 味は確実に昨日より良くなっていた。構造で立っていた。でも誰も笑わなかった。


 完成度は上がっていた。高揚は下がっていた。


________________________________________


 味見のスプーンをさつきが口に運んだ。確実にうまかった。昨日とは違う次元でうまかった。胃の奥まで届くような、落ち着いた旨さだった。昨日の派手な高揚とは違う。地べたを這うような、確かさがあった。昨日のあれは祭りだった。今日のこれは、日常に近い。でも、それをうまく言えなかった。


 晃が言った。


「これ、店レベルだな」


 さつきが晃を見た。


「店?」


「ふつうに商品になる。ベースのレシピ固めて、定期的に更新したら売れる」


 晃はそのままスマホに目を落とした。スプーンを持ったまま、画面をスクロールしていた。


「クラファンの相談もDMで来てる。タイミングはいいと思う」


 さつきはスプーンを置いた。


 テーブルの上に置いていたスマホが、そのとき振動した。見ると通知が重なっていた。販売希望。クラファンやって。プロ目指してる?さつきはスマホを伏せた。画面を下に向けて、テーブルに押しつけた。


 私は昨日、楽しかった。山の中で火を起こして、でかい鍋でスープを炊いて、三人でそれを食べた。風が吹くたびに煙が目に入って、晃が何度も文句を言って、澪が無言で薪の向きを変えた。暗くなってから食べた。寒かった。でも、うまかった。笑った。誰かが笑うから、また誰かが笑った。そういう夜だった。それがあの夜のすべてだった。


 でも外はもう、次のステージへ進めようとしていた。さつきが何も言わないうちに、外の世界が勝手に先へ進んでいた。さつきの楽しかったという気持ちを、足場にして、次へ行こうとしていた。


________________________________________


 山を下る車の中はエンジン音だけだった。荷物は後ろに積んであった。寸胴は毛布にくるまれて、トランクに収まっていた。中身は捨てなかった。持ち帰ることにした。誰が言い出したわけでもなく、自然にそうなった。


 助手席のさつきは窓の外を見ていた。針葉樹が続いた。道が続いた。ガードレールの向こうに、深い谷が見え隠れした。昨日登ってきた道を、今度は下っている。同じ道が、全然違う景色に見えた。


 晃がハンドルを握りながら言った。


「今回、完全に掴んだな」


「何を?」


「流れ。数字。期待値」


 さつきは初めて晃の方を向いた。


「それ、料理の話?」


「活動の話」


「私、料理してたよね」


「してたよ。だから伸びた」


 その「だから」が、さつきの中で引っかかった。でも、すぐには言葉にならなかった。


「なんで活動の話になるの」


「分けて考えられないだろ、もう」


「分けたい」


「無理だよ。ここまで来たら」


「どこまで来たの?」


「戻れないとこ」


「誰が決めたの?」


 沈黙があった。木が流れていった。カーブを曲がるたびに、光の差し込む角度が変わった。山の光は不均一だ。木の間から差してくるから、明暗が交互に顔を打つ。晃はその光の中で、ずっと前を見ていた。


「伸びてるうちにやらないと意味ない」


「意味って誰の?」


 晃は少し間を置いた。それから言った。


「俺たちの、でしょ。三人でやってるんだから」


 三人。その言葉を晃は迷わず使った。さつきは何も言わなかった。


「私、勝ちたくて料理してない」


「でも評価は欲しいだろ」


「欲しいよ」


「じゃあ同じじゃん」


 違う。全然違う。でもその「違い」を説明する言葉が、さつきにはまだなかった。


「評価のために削るのは違う」


「削るって言い方が悪い。最適化だよ」


「同じじゃない」


「さつきさ」


 晃の声が少し変わった。諭すような、落ち着かせようとするような声だった。それが一番嫌だった。


「感情で動くのはわかる。でも、ここまで来て感情だけで判断したら、ちゃんと積み上げてきたものが全部無駄になるよ」


 無駄。


 さつきは、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが音を立てた。


「昨日のあれが、無駄なの?」


「そういう意味じゃない」


「じゃあどういう意味」


「戦略的に動かないと、いつまでも趣味のままだって言ってる」


「趣味でいい」


「趣味でいいの?本当に?」


 晃は前を向いたまま言った。ハンドルから目を離さなかった。だから、さつきの顔を見なかった。


「さつきが一番うまいのに、それを誰にも届けないのは、もったいないと思う。俺は本気でそう思ってる」


 澪は後部座席でずっと窓の外を見ていた。シートベルトに手を添えたまま、ずっとそうしていた。


 さつきは窓の外に視線を戻した。谷が見えた。深かった。


「届けたいかどうかは、私が決める」


「届けたいだろ。だからやってるんじゃないの」


「届けたい人がいる。でも届け方は違う」


「具体的に言ってよ」


 さつきは黙った。


「感情論だけじゃ話にならないよ」


 その一言で、車内の空気が固まった。感情論。晃はその言葉を、おそらく悪意なく使った。でもそれがどれだけ鋭いか、晃には届かなかった。


 さつきは何も言わなかった。言おうとして、やめた。言葉が出てこなかったわけじゃない。多すぎて、どれを選べばいいかわからなかった。


 そこで澪が言った。後部座席から、静かに。


「二人とも、正しい」


 それが余計に重かった。どちらかが間違っていれば楽だった。どちらかを切り捨てれば終わった。でも澪はそう言った。正しい、と。その一言が車内に落ちて、誰も拾えなかった。


________________________________________


 しばらく誰も話さなかった。道は下り続けた。山が終わりに近づいていた。木の密度が薄くなって、空が広くなってきた。雲が低く垂れていた。雨になるかもしれなかった。街の明かりが、遠くに見え始めていた。


 晃が言った。


「じゃあ、どうする?」


 さつきは答えなかった。すぐには答えられなかった。


 窓の外の景色が流れていった。木。ガードレール。谷。また木。また谷。


「さつき」


「……わかってる」


「何が?」


 さつきは自分の手を見た。昨日、火を起こした手だった。煤がまだ、爪の隙間に残っていた。洗っても落ちなかった。落とそうとも思わなかった。


「私は、料理をやりたい」


「だからやってるだろ」


「違う。活動としてじゃなくて」


「もうその区別、意味ないよ」


 さつきは一度だけ、深く息を吸った。胸の奥で何かがきしんだ。


「私、次の投稿、出ない」


 車内が静止した。


 エンジン音だけが続いた。晃は何も言わなかった。言おうとして、言えなかった。口が開いて、閉じた。


「……本気で言ってる?」


「うん」


「ここまで来て」


「うん」


 晃の声が、初めて揺れた。怒りじゃなかった。困惑でもなかった。もっと別の、うまく名前のつけられない何かだった。


「甘い」


 それしか出なかった。


 さつきは返事をしなかった。窓の外を見ていた。木が終わって、空が開いていた。低い雲が、街の上に垂れていた。


 澪は何も言わなかった。ただそこにいた。


 信号が赤になった。車が止まった。雨粒がフロントガラスを叩いた。一粒、また一粒。晃はワイパーをつけなかった。しばらくそのままだった。雨粒が増えていった。視界が滲んでいった。それでも晃はワイパーをつけなかった。


________________________________________


 街に入ってから、誰も口を開かなかった。


 駐車場で車が止まった。エンジンが切れた。静かになった。荷物を降ろした。毛布にくるまれた寸胴を、晃が持った。重かった。一言も言わずに持った。


 エレベーターの中で、三人は並んだ。鏡の中に、三人が映っていた。


 さつきはその鏡を見なかった。


 晃は見た。


 澪だけが、まっすぐ前を向いていた。


 扉が開いた。


________________________________________


 神IVは、完成したはずだった。


 でも寸胴の底には、まだ少し残っていた。


 誰も、それを片付けなかった。

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