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第8話 分離

最近、通知がやたらと騒がしい。


 画面を開けば数字が増えている。知らない名前が並ぶ。外に広がっていく気配が、じわじわと近づいてくる。


 車に乗った瞬間、さつきがスマホを裏返した。


「今日は見ない!」


 宣言みたいに言う。


「なんでだよ」


「合宿だから。今日は合宿に全振り」


 声が高い。明るい。少しだけ、力が入っている。



 スーパーに着くと、三人の動きは速かった。


 カゴを取る。


 青果を抜ける。


 精肉コーナーへ。



 鶏ガラは冷蔵ケースの端にまとめて置いてある。


 澪が一袋持ち上げる。


 首の付け根の割れ方を見る。血の残り具合を確かめる。袋の裏までひっくり返す。


「それ、そんな違う?」


 晃が横から覗く。


「違う」


 短い返事。



 豚骨はバックヤードで割ってもらう。


 カウンター越しに頼む間、さつきは調味料を次々とカゴに放り込んでいく。


「今日、最初から当てにいくからね」


「いいね、そのテンション」


 晃も笑う。



 澪は戻ってきた豚骨の断面をもう一度見る。


 白さ。骨髄の色。割れ目の粗さ。


 ゆっくり袋を持ち替える。



 レジを抜ける頃にはカゴは重い。


 動きは揃っている。


 会話も噛み合っている。


 でも、澪だけが袋を持ち直す回数が多い。



 自動ドアが開く。


 冷房の効いた店内の空気が背後に引き戻され、外の生ぬるい風が頬に触れる。


 夕方前の光はまだ強く、アスファルトが白く照り返している。



 カートを押しながら駐車場を横切る。


 クーラーボックスをトランクに積み、袋を詰め直す。


 骨の重みでビニールが少し伸びる。



「割とガチ量だよね」


 さつきが笑う。


「合宿だぞ?」


 晃がトランクを閉める。鈍い音がする。



 エンジンをかける。


 ナビはすでに蓼科高原を指している。



 市街地を抜けるまでは、信号が多い。


 コンビニ、ガソリンスタンド、ドラッグストア。見慣れた風景が流れていく。


 さつきは窓を少し開ける。


「なんかもう空気違くない?」


「まだ全然下界」


 晃が笑う。



 道路がゆるやかに上り始める。


 建物の密度が下がる。


 田畑が増え、看板が減る。


 カーブが多くなる。



 標高表示の看板が目に入る。


 エンジン音が少し変わる。アクセルを踏み込む。



 窓の外の色が、少しずつ濃くなる。


 街路樹が、針葉樹に変わる。


 ガードレールの向こうに、深い緑が広がる。



 さつきが助手席で身を乗り出す。


「うわ、もう高原っぽい」


 声が一段上がる。



 澪は後部座席でクーラーボックスの蓋を押さえている。


 揺れるたびに、袋が擦れる音がする。



 山道に入る。


 カーブが続く。


 木立の隙間から、空が広がる瞬間がある。


 そして、急に視界が開ける。



 木立の向こうに、濃い茶色の外壁が見えた。傾斜のきつい三角屋根。煙突は飾りかもしれないが、それらしく突き出ている。空気は市街地より明らかに冷たい。窓を少し開けると、湿った土と針葉樹の匂いが入ってきた。


 砂利を踏むタイヤの音がやけに大きい。エンジンを切ると、静けさが一段落ちる。遠くで鳥が鳴いている。


「うわ、ガチじゃん」


 さつきが先に降りる。


 玄関ポーチは木製で、靴底が乾いた音を立てる。ドアノブは冷たい金属だ。


 扉を開けた瞬間、少しだけこもった木の匂いが広がる。


 天井は高い。梁がむき出しになっていて、照明はオレンジ色。リビングには大きめのダイニングテーブル。窓の向こうは森。視界の端に、ウッドデッキ。


「キッチン広!」


 さつきの声が反響する。


 奥に回り込むと、L字型のキッチンがある。


 ステンレスのシンクは二槽。作業台は広い。IHではなくガスコンロ。つまみ式。火力が直感的に分かるタイプ。


 壁には木製の棚。包丁立て。まな板が二枚。業務用っぽい大鍋も吊られている。


「勝ったな」


 晃が笑う。


 窓を開けると、冷たい空気がすっと流れ込む。換気は十分だ。


「今日はここ、戦場な」


 さつきが言って、両手を打つ。



 荷物を一気に運び込む。


 クーラーボックスを開けると、骨が白く光る。


 酒は冷蔵庫へ。中はほとんど空だ。


 豚骨と鶏ガラはシンクに並べる。ステンレスに触れた瞬間、冷たい音がする。


 水を出す。勢いよく落ちる水音が、山の静けさを一瞬だけ壊す。


 骨を洗う。血の名残が流れていく。指先に伝わるざらつき。骨髄の色。



 三人がキッチンに並ぶ。


 さっきまでの笑い声が、自然に落ちる。


 広い作業台に、包丁、まな板、ボウル。


 窓の外は森。


 換気扇のスイッチはまだ入れていない。



 鍋を取り出す。大きめの寸胴。


 底が厚い。重い。


 蛇口をひねる。


 金属に当たる水音が響く。


 鍋に水が溜まっていく。透明な水面が揺れる。


 骨を持ち上げる。


 重みがある。


 一つずつ、鍋の中へ落とす。鈍い音。


 蓋はまだしない。



 晃がコンロの前に立つ。


 つまみを回す。


「やるか」


 カチ、と火花が散る。


 次の瞬間、青い炎が立ち上がる。


 寸胴の底が、静かに熱を受け始める。



 昼過ぎに火を入れた寸胴は、ずっと鳴っている。


 二時間目を過ぎたあたりから、完全な交代制になった。


 今、火の番は晃だ。


 対流を見ながら、差水のタイミングを測る。



 ダイニングテーブルの上には、菓子が広がっている。


 ポテトチップス。


 チョコ。


 グミ。


 コンビニで買った高原限定っぽいクッキー。


 飲み物は雑多だ。


 炭酸。


 麦茶。


 ビール。


 エナジードリンク。


「白湯とポテチの相性最悪」


 さつきが笑う。



 携帯ゲーム機が起動している。


 島ゲーの島は、橋が二本増えた。


 博物館が拡張された。


 住民が一人引っ越してきた。


「うちの島、めっちゃ発展してる」


「こっちはまだ乳化途中だぞ」


 晃が鍋を覗きながら言う。



 三時間目。


 火の番は澪に交代。


 晃は床に座る。


 古い携帯ゲーム機を取り出す。


「なつかし」


「まだ持ってたの?」


「名作は消えない」


 起動音が鳴る。


 不思議のダンジョン系のRPG。


 さつきはソファで島を整地している。


 澪は火の前で柄杓を持っている。



 五時間目。


 鍋はまだ完全に白くない。


「ちょ、待って」


 晃の声が震える。


「え?」


「ここ、無理だろ」


 さつきが画面から顔を上げる。


「なに?」


「この展開、反則」


 晃は無言で進める。


 数秒後、鼻をすする音。


「泣いてる?」


「泣いてない」


「泣いてるじゃん」


 澪が振り向く。


「闇?」


「空」


「名作じゃん」


「そう。今いいところなんだ」


 澪が笑う。


「八時間煮込みながらゲームで泣かないで」


「泣くときは泣くだろ」


 寸胴が鳴る。


 湯気が立つ。



 六時間目。


 鍋の中がようやく乳白色に寄る。


「ちょっと来て」


 澪が呼ぶ。


 晃は目を赤くしたまま立ち上がる。


 さつきもゲームを置く。


 三人で鍋を覗く。


 脂が砕けている。


 対流が安定している。


「きたな」


 晃が言う。


「泣きながら言わないでよ」


 澪が軽く返す。


「うるさい」


 でも笑っている。



 七時間目。


 外は夕方。


 森の色が濃くなる。


 気温が下がる。


 テーブルの菓子は減っている。


 ゲーム機は閉じられている。


 寸胴だけが、変わらず鳴る。


「楽しいな」


 さつきが言う。


「楽しいな」


 晃が重ねる。


 澪は鍋を見る。


 白湯は、ようやく完成に近い。


「ここまでやれるならさ」


 晃が言う。


「ちゃんと当てたいよな」


 その言葉は、少しだけ重い。


 さっきまでゲームで泣いていた声とは、違う温度。


 さつきが頷く。


「勝ちにいくなら、ここまでやらないと意味ない」


 寸胴が低く鳴る。


 澪は何も言わない。


 楽しい。


 でも、


 "勝ち"という言葉が、湯気の中に混ざる。



 白湯が、ようやく完成した。


 火を少し落とす。


「やるか」


 晃が寸胴を覗く。


「うん、やろ」



 テーブルの上には、刻んでおいた食材が並んでいる。


 玉ねぎ三個分。


 薄切りのにんじん。


 ざく切りのトマト。


 塩を振った豚肉。


 ほぐした舞茸。


 寸胴では白湯が弱火で揺れている。


 澪はそこから目を離さない。


「油ある?」


 晃がボトルを渡す。


 澪はフライパンを中火にかける。


 カン、と底が鳴る。


 油をひと回し。


「いけ」


 さつきが玉ねぎを一気に落とす。


 ジュウ、と鋭い音。


「うわ、今の音いい」


「テンション高いな」


 玉ねぎはすぐに透き通る。


 木べらで広げる。


「動かしすぎない」


 澪が言う。


「分かってるって」


 水分が抜け、縁から色づき始める。


「焦げそう」


「水もらえる? カップで」


 さつきが少量の水を回しかける。


 ジュッ、と蒸気が立つ。


 底に張りついた甘味が溶ける。


 にんじんを投入。


 油をまとわせる。


 甘い匂いが立つ。


 隣では晃が別のフライパンを強火にかける。


 豚肉を広げて置く。


 バチッと油が跳ねる。


「触んなよ」


「触らん」


 片面に焼き色がつくまで待つ。


 返す。


 舞茸を投げ入れる。


 水分が飛び、きのこの香りが立つ。


 澪は寸胴を確認する。


「対流、止めんなよ」


「分かってる」


 白湯はゆるく回っている。


 玉ねぎは狐色を越え、深い茶色に近づく。


「今だ」


 さつきが火を止める。


 澪が寸胴から白湯を少量すくい、


 ソフリットのフライパンへ注ぐ。


 ジュワッ、と香りが爆ぜる。


「やば」


「ここ好き」


 全体を混ぜ、温度差を均す。


 それを寸胴へ戻す。


 白と茶色が混ざる。


 対流が少し穏やかになる。


 続けて、豚肉と舞茸を投入。


 肉の脂が溶ける。


 野菜の繊維がほどける。


 スープの色が、ゆっくりと変わっていく。


 軽く灰汁を取る。


 澪が塩をひとつまみ。


「一回締める」


 もう一度、煮る。


 香りはもう、完全にカレーの手前。


 夜が完全に落ちる。


 窓は黒い。


 晃が寸胴を覗く。


「……いく?」


 澪が頷く。


「いこう」


 さつきが火を止める。


 炎が消え、荒い沸騰が静まる。


 一瞬、静寂。


 ルウの箱を開ける。


 パキ、と割る音。


「温度、少し落とす」


「了解」


 澪が一片をそっと落とす。


 ぽとり。


 濃い茶色が沈む。


 すぐには溶けない。


 表面がふやけ、縁からじわりと崩れる。


 もう一片。


 また一片。


 鍋底から持ち上げるように、ゆっくり混ぜる。


 混ぜる。止める。待つ。また混ぜる。


 木べらに、とろりと重みが乗る。


 香りが変わる。


 骨の甘さに、スパイスの鋭さが重なる。


 白は曇り、淡い茶へ。


「色、変わってきた」


 晃が言う。


 完全に溶けきるまで焦らない。


 澪が弱火に戻す。


 ゆるやかな対流。


 とろみが出る。


 表面に艶。


 深い茶色が、ゆっくりと落ち着いていく。




 三人で味を見る。


 一口。


 沈黙。


 誰も次の言葉を言わない。


 脂の膜が、表面にゆらりと浮く。



 鍋の火を落とす。


 三人で皿に盛る。


 白い湯気が上がる。ライスの上に、とろみのある茶色が広がる。



 三人、最後まで食べきる。


 沈黙のままではない。


 スプーンは止まらない。


 晃が、皿の縁をすくう。


「やっぱうまいわ」


 本音だ。


 さつきも笑う。


「普通におかわりいける」


 実際、いく。


 澪も、最後の一口まできちんと食べる。


 皿は空になる。


 完食。


 誰も残さない。


 それが、三人の最低限の礼儀みたいに。


 晃が立ち上がる。


「名前つけよ」


 少し間。


 さつきが笑う。


「くると思った」


 澪は鍋を見る。


 まだ白濁の名残を引きずる茶色。


 晃が言う。


「神IV」


 反応は一拍遅れる。


「乳化の交響」


 澪が小さく足す。


 さつきがスマホを持ち上げる。


「写真撮るよ」


 照明を少し落とす。


 木のテーブル。


 白い皿。


 艶のある茶色。


 湯気。


 シャッター音。


「上げるね」


 晃が頷く。


「上げよ」



 投稿文。



 《神IV:乳化の交響》


 豚骨×鶏白湯8時間。


 本気の土台。



 投稿。


 画面を置く。


 数分。


 通知が鳴る。


 さつきが見てしまう。


「もう三十いいね」


 晃が笑う。


「早」


 さらに通知。


 コメントが並ぶ。


 《完成度えぐ》


 《店出せるやろ》


 《次は販売?》


 晃の目が少しだけ変わる。


「ほら」


 その"ほら"が静かに落ちる。


 澪は画面を見ない。


「うまいよ」


「うまい、で止まるの?」


 晃が言う。


 空気が変わる。


 さつきがスマホを裏返す。


「今日それやめよ」


「何を」


「勝ちの話」


 晃は黙る。


「でもさ」


 晃が続ける。


「ここまでやったら、ちゃんと取りにいきたくない?」


「取りにいくって何」


 澪の声は平坦。


「評価」


「評価って何」


「数字」


「数字で何が変わるの」


 晃は一瞬詰まる。


「ちゃんとやってるって証明になる」


「誰に」


 澪は静かに言う。


 沈黙。


 さつきが口を開く。


「ねえ」


 声が、少し低い。


「今日、楽しかった?」


 晃は即答しない。


 澪は答える。


「楽しかった」


 さつきは晃を見る。


「……楽しかった」


 でも、そのあと。


「だからこそさ」


 晃が言う。


「このまま終わらせたくない」


「終わってない」


「でも伸ばせるだろ」


「伸ばすのは料理?」


「活動」


「料理の話してる」


「同じだろ」


 ここで、初めて噛み合わない。


 さつきが言う。


「同じじゃないよ」


 晃の視線が動く。


「料理は料理」


 さつきは続ける。


「活動は活動」


「分けられる?」


「分けたい」


 晃は笑う。


 乾いた笑い。


「じゃあ、今日みたいなの、ずっと合宿でだけやる?」


 さつきが言葉を失う。


 澪が静かに言う。


「勝ちにいくなら、削る」


「何を」


「楽しいを」


 それは事実。


 晃は理解する。


 さつきも理解する。


 だから、重い。


 誰も怒っていない。


 誰も声を荒げない。


 ただ、方向がずれている。


 寸胴の中。


 白濁の名残を引いた茶色。


 表面に、薄い油の膜。


 揺れる。


 混ざらない。


 さつきがぽつりと言う。


「私、どっち?」


 答えが出ない。


 インスタの通知が、また鳴る。


 誰も取らない。


 森の風が窓を鳴らす。


 三人は同じテーブルにいる。


 でも、今、初めて。


 向いている方向が、揃っていない。

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