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第7話 「怖ぇよ」

夜のキッチンは、昼よりも少し狭く感じる。



換気扇の低い唸り。


流し台に立てかけられた鍋。


神IIの残り香が、まだ壁に貼りついている。



窓は半分だけ開いていて、


外の空気がゆっくりと入れ替わる。


春の匂いと、スパイスの甘い残響が混ざる。



テーブルの上には、空になった皿。


縁に残るソースの筋。


洗われる前のスプーンが三本。



晃は椅子に浅く腰かけ、


肘をついたままスマホを見ている。



画面の光だけが、顔を白く照らす。



──通知。



短い振動。


また通知。



フォロワー数が、ひとつ増える。


コメントがひとつ増える。



数字は小さい。


でも確実に動いている。



さつきは冷蔵庫の前で水を飲みながら、


横目でそれを見る。



「そんなに面白い?」



軽い声。


でも晃はすぐには返さない。



澪はシンクに向かい、


スポンジで皿を洗っている。



水の音が一定のリズムを刻む。


それだけが、部屋の中で安定している。



──また通知。



晃の親指が止まる。


一瞬、呼吸も止まる。



さつきが笑う。



「神II、当たったんじゃない?」



冗談めかしている。


けれど、部屋の空気はほんの少しだけ重い。



澪は水を止め、


布巾で手を拭く。



そのまま何も言わず、


晃の横顔を見つめる。



画面の光が揺れるたび、


晃の目も揺れる。



換気扇の音。


夜風。


通知の振動。



静かなキッチンに、


見えない何かが入り込んでいる。


会話は軽い。


声のトーンも、いつも通りだ。



さつきは笑いながら水を飲み、


「バズるってこういうこと?」なんて冗談を言う。



晃も肩をすくめる。


「まだ全然だろ」



言葉だけ聞けば、ただの大学生の夜。


達成感の余韻。


少し浮ついた空気。



でも、その奥で何かが噛み合っていない。



晃の指は、画面を閉じるでもなく、


かといって積極的に操作するでもなく、


ただ更新を待つみたいに止まっている。



数字が増えるたび、


胸の奥がほんの少しだけざわつく。



嬉しいはずなのに、


なぜか呼吸が浅くなる。



"ここから先に行ってしまう"感じ。


引き返せない方向へ、


小さく傾き始めた感覚。



さつきは明るく振る舞っている。


けれど本当は、晃がスマホを見続けていることに


気づいている。



気づいているからこそ、


あえて軽くする。



「そんなに増えてる?」



冗談めかした声の裏で、


ほんの少しだけ確認している。



"これ、私たち大丈夫?"



澪は何も言わない。


けれど一番早く察している。



晃の視線の固定。


通知のたびに変わる表情の硬さ。


さつきの笑いのテンポが、


わずかに早いこと。



三人の呼吸が、


ほんの少しだけずれている。



誰も揉めていない。


誰も怒っていない。



それでも、


空気の奥に薄い緊張が張っている。



成功の気配は甘い。


でもその甘さには、


まだ名前のついていない怖さが混じっている。



そして、三人とも、


それに気づきかけている。



通知が鳴る。



晃は、反射みたいに画面を見る。



胸が熱くなる。


同時に、胃のあたりが冷える。



"これ、当たってるんじゃないか"



その言葉が浮かんだ瞬間、


別の言葉がすぐに追いかけてくる。



"当たったら、どうする?"



期待じゃない。


恐怖だ。



もし本当に伸びたら。


もし周りに見られ始めたら。


もし、もう後戻りできなくなったら。



自分たちは、


ただの大学生のはずだ。



料理が少し好きで、


少し凝り性で、


少しだけ逸れているだけの。



でも、今の流れは違う。



文化祭。


神II。


数字の上昇。



この先は、


遊びの延長じゃ済まない気がする。



晃は画面を伏せる。


けれど手は離せない。



視線だけが、テーブルのソース跡をなぞる。



うまかった。


確かにうまかった。



でも、うまいだけで終われる気がしない。



さつきが、わざと明るく言う。



「次どうする?」



軽い声。


でもその奥に、問いがある。



止まる?


進む?



晃の喉が、少し詰まる。



止まりたい。


正直に言えば、今ここで止まれば楽だ。



神IIまでで"いい思い出"にできる。


成功未遂のまま、


綺麗に終われる。



でも――それは逃げだ。



澪が何も言わずに見ている。


責めていない。


でも、逃げ道も与えない。



息を吐く。



「神III、やるか」



声は少し低い。


決意というより、


自分を追い込むための宣言。



進むと決めた瞬間、


胸の奥の震えは消えない。



ただ、


震えたまま立つ覚悟だけが残る。



さつきの目が光る。


澪が小さく頷く。



一瞬の静寂。


誰も大きく頷かない。


でも、立ち上がる。



さつきが冷蔵庫を開ける。


冷気がふわりと広がる。



玉ねぎのネット袋を引き出す音。


澪がまな板を置く。


包丁が静かに光る。



晃は袖をまくる。


コンロのつまみをひねる。



──カチッ。


──ボッ。



青い火が、揺れる。



さっきまで重かった空気が、


少しだけ動く。



怖さは消えていない。


胸の奥で、まだざわついている。



でも手は止まらない。



玉ねぎを半分に割る。


断面が、白く光る。



包丁が入る。


一定のリズムで、刻む音。



トントントントン。



さつきが鍋を出す。


澪が肉の筋を落とす。


晃がフライパンを温める。



三人の動きが、自然に噛み合う。



怖い。


でもやる。



その答えは、


もう言葉じゃない。



油が温まり、


最初の玉ねぎが落ちる。



──ジュッ。



甘い匂いが立ち上る。



この夜、三人は、


成功の先を考えるのをやめた。



ただ、目の前の火と、


鍋の中の変化に集中する。



神IIIは、


未来の証明じゃない。



いま、この瞬間を


逃げずに続けるための一皿だ。



玉ねぎを三つ、まな板に並べる。



さつきが一つを薄くスライスする。


澪が一つを粗めに刻む。


晃が残りをみじんにする。



同じ玉ねぎでも、厚みが違う。


火の入り方が違う。


甘さの出方が違う。



フライパンに油を引く。


弱火。



まずはみじん切りを投入。


透き通るまでじっくり。



澪が言う。


「焦らない。ここが土台」



甘い匂いがゆっくり立ち上る。


さつきが横から覗く。



「もうちょい色欲しい」



晃が火をほんの少し上げる。


色づき始める。



次にスライス玉ねぎ。


鍋の中で重なる層。



"多層"が、目に見える形になる。



ヒレ肉を取り出す。


淡い赤。きめ細かい。



ハラミは色が濃い。


繊維がはっきりしている。



さつきが笑う。


「性格違いすぎ」



晃がフライパンを強火にする。


肉を置く。



──ジュワッ。



油が弾ける。


焼ける匂いが一気に広がる。



ヒレは短時間で。


ハラミは少し長めに。



だが。



晃、少しだけ火を入れすぎる。



表面が想定より濃い色になる。



「あ」



小さな声。



澪がすぐ見る。


トングで持ち上げ、断面を確認。



「まだ戻せる」



肉を一度引き上げる。


余熱を逃がす。



さつきがトマトを刻む。


完熟の赤がまな板に広がる。



トマトを鍋へ。


酸味が加わる。



甘さ、旨味、酸味。


層が立ち上がる。



晃が肉を戻す。


火を落とす。



三人、鍋を囲む。


言葉が少ない。



味見。



さつき、目を細める。


「……いける」



澪、頷く。


「バランスは保ってる」



晃、二口目を食べる。


少し間を置いて言う。



「ちゃんとうまい」



過剰じゃない。


狂気でもない。



でも確かに、積み上がっている。



さつきが立ち上がる。



「さ、写真撮ろ」



木のテーブルを拭く。


鍋を中央に置く。



湯気がゆっくり立ち上る。


玉ねぎの艶。


肉の断面の赤み。


トマトの色が全体を引き締める。



さつきがスマホを構える。



「ちょい待って、湯気もう少し欲しい」



晃が鍋を軽く揺らす。


湯気がふわっと立つ。



「今、今、今」



カシャ。


カシャ。



澪が横から言う。


「影、ちょっと重い。ライト上げて」



晃が卓上ライトの角度を変える。


肉の断面がちゃんと光る。


玉ねぎの艶が出る。



「うわ、これ普通にうまそうじゃない?」



さつき、写真をスワイプ。


三人で覗き込む。



「え、これ強くない?」


「強い」


「強いな」



投稿画面。



キャプション、打ち直し。


一回消す。


また打つ。



最終版:



試作カレーIII。


ヒレ×ハラミ。


玉ねぎ三層で甘さガチ。


トマトで締め。


普通に仕上がった。



#自炊研究会


#カレー記録


#まだ伸びしろ



さつきが顔を上げる。



「行くよ?」



晃、うなずく。


澪、腕を組んで小さく頷く。



投稿。



読み込みバーが伸びる。



「うわ、緊張する」



画面が切り替わる。


自分たちの写真がタイムラインに乗る。



静かになる。



三人、無言で画面を見る。



──いいね 1



「早っ」



──いいね 3



「誰だこれ」



──コメント。



“レベル高くない?”


“学生でこれ?”



さつきが笑う。



「やば、外出ちゃった」



晃の喉が、少しだけ鳴る。



外出ちゃった。



それは冗談のはずなのに、


ちゃんと意味を持っている。



鍋の中は、まだ温かい。


湯気は消えていない。



でも、料理はもう自分たちだけのものじゃない。



通知が鳴る。



短い振動が、テーブルの木目を伝う。



いいねはまだ二桁にも届かない。


コメントも数えるほど。



数字だけ見れば、たいしたことはない。



それでも、


画面の向こう側に“知らない誰か”が現れたという事実だけが、


部屋の空気をわずかに歪ませる。



「レベル高すぎ」


「学生じゃない」


「逸般」



褒め言葉だ。


疑いようもなく、賞賛だ。



さつきが声を弾ませる。



「ほら、言ったじゃん。強いって」



晃も口元だけを動かす。



「盛りすぎだろ」



笑いはある。


だが長く続かない。



画面の光が晃の顔を白く照らす。


その中で、目だけが静かに揺れている。



「期待してます」



新しい通知。



期待。



その二文字が、ひどく重い。



期待は、喜びの裏返しだ。


同時に、約束でもある。



“次もある”という前提。



晃の指が止まる。


スクロールできない。


閉じることもできない。



料理は、今までは自分たちのものだった。


作って、食べて、笑って終わる。


それだけでよかった。



だが今は、


画面の向こうに人がいる。


顔の見えない誰かが、


次を待っている。



澪が言う。



「成功が怖いんでしょ」



問いではない。


事実の提示。



さつきがすぐに言葉を重ねる。



「大げさだって。まだ全然じゃん」



声は明るい。


けれど、その明るさは少し硬い。



晃は画面を伏せない。



しばらくの沈黙のあと、


低く言う。



「……怖えよ」



冗談の響きはない。



成功が怖いんじゃない。


成功してしまったあとの自分が、怖い。



やめられなくなるかもしれない。


求められ続けるかもしれない。


楽しいだけでは済まなくなるかもしれない。



その夜は、


それ以上大きな変化は起きなかった。



三人は片付けをして、


風呂に入って、


それぞれベッドに潜り込んだ。



スマホは伏せたまま。



———



翌朝。



晃のスマホが震える。



──いいね 47



通知欄が一気に伸びている。



誰かが引用したらしい。


知らないアカウント。


知らない界隈。



“自炊研究会”というタグが、


思わぬところに拾われていた。



昼休み。



──いいね 213



「見た?」



さつきのメッセージ。



──コメント 38



“これ学生?”


“普通に店出せる”


“どこで食べられますか?”



放課後。



──いいね 612



澪からスクショが届く。



『料理垢で回ってる』



晃の指が冷える。



そして一週間後。



画面の上に表示された数字。



──いいね 1023



三人で集まったキッチン。


誰も最初は声を出さない。



千を超えた数字が、


静かにそこにある。



さつきが笑う。



「……ねぇ、これさ」



言葉を探している。



澪は腕を組んだまま言う。



「もう遊びじゃないね」



晃は何も言えない。



期待は現実になり、


現実は責任に変わった。



あの夜の“外出ちゃった”は、


ただの冗談じゃなかった。



三人は、


はっきりと境界線を越えてしまっていた。



通知は、今も鳴っている。



でもその音は、


もう祝福じゃない。



未来がノックしている音だった。

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