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第6話 晃んち、煙と夜風

「無理」


 四限終わりのチャイムが、まだ天井で反響している。


 教室の扉が一斉に開き、廊下へと学生が流れ出す。椅子を引く音、プリントを鞄に突っ込む音、スマホの通知音。どれもが一日の終わりを急かしている。


夕方の光が、西側の窓から斜めに差し込む。白い蛍光灯の光と混ざって、廊下の空気が少しだけ橙色に染まる。コンクリートの床に、細長い影がいくつも伸びる。


 誰かが「飲み行く?」と笑い、誰かが「バイトだわ」とため息をつく。自販機の前で小銭が落ちる乾いた音。階段の踊り場で、風がひとつだけ強く吹き抜ける。


そんなざわめきの中で。


「無理」


 さつきが、教室を出た瞬間に言った。


壁にもたれるでもなく、鞄を乱暴に投げるでもなく、ただ普通に歩きながら。声だけが、きっぱりしている。


 髪をひとつにまとめた後れ毛が、夕方の光に透ける。目はまだ答案用紙の余韻を引きずっていて、少しだけ焦点が遠い。


「経済原論、記述多すぎ」


 そう言って、ふっと息を吐く。


 その吐息が、やけに人間らしい。


「経済原論、記述多すぎ」


 さつきはそう言って、鞄の持ち手をぎゅっと握った。怒っているわけでも、泣きそうなわけでもない。ただ、脳みそをフル回転させた人間の、素直な疲労がそこにある。さっきまで答案と格闘していた目が、まだ少しだけ鋭い。


「覚悟してたでしょ」


 澪は答案を丁寧に揃え、ファイルに差し込む。動きは無駄がなく、表情もほとんど変わらない。けれど、さつきの言葉をちゃんと受け止めてから返しているのがわかる。


「覚悟と処理能力は別」


 さつきが即座に返す。その返しの速さに、俺は思わず笑ってしまう。


「商法総論も来週だぞ」


 現実を追撃してみる。


「知らない。肉食べたい」


 唐突。でも、目は本気だ。


 さっきまで答案に向いていた集中力が、そのまま“肉”にスライドしたみたいに、まっすぐで迷いがない。その潔さが、なんだか可笑しい。


 澪が一拍置く。


ほんの一瞬だけ考える仕草をしてから、低く言う。


「タン塩」


 静かだけど、はっきりしている。好きなものを言うときの声だ、とわかる。表情は変わらないのに、微妙に口元が柔らいでいる。


「金ない」


 俺が言うと、二人が同時にこっちを見た。


 目が合う。


 さつきは「え?」という顔。澪は、ほんの少しだけ眉を上げる。


三秒。


その三秒が、やけに長い。


 俺は急に、自分が男一人で、目の前に女の子が二人いることを意識する。しかもこの二人、普通に美人だ。今さら気づくなよ、って自分で思う。


 喉が少し乾く。


「……うち来る?」


 言ってから、遅れて実感する。


え、待て。


女の子二人、家?


人生初。


さつきの目が丸くなる。


「いいの?」


驚きと、ちょっとした期待が混ざった声。断られたらそれはそれで笑うつもり、みたいな軽さもある。でも、ほんの少しだけ、嬉しそうだ。


澪は一瞬だけ俺を見る。


値踏みするわけでも、探るわけでもなく、ただ事実として受け止めるみたいに。


「行く」


即答。


迷いがない。


それが逆に、俺の心拍数を上げる。


さつきが小さく笑う。


「じゃ、決まり」


軽い。


でも、ほんの少しだけ頬が上がっている。


俺はというと、平静を装いながら、内心で大騒ぎしていた。


部屋、片付いてたっけ。


変なもの出てないよな。


いやそもそも、女の子を家に呼ぶってどういうテンション?


決定、早すぎる。


でも。


二人が当たり前みたいな顔で隣を歩き始めた瞬間、変な緊張より先に、妙な高揚感が込み上げてきた。


あ、これ。


今日、ちょっと特別だ。


そう思った。


***


夕方のスーパーは、値引きシールの時間帯だった。


 自動ドアが開いた瞬間、外の冷えた空気とは違う、少し湿った暖かさがまとわりつく。揚げ物売り場から漂う油の匂い、ベーカリーコーナーの甘い匂い、そしてどこか奥から流れてくるBGM。平日のはずなのに、店内は思ったより人が多い。


買い物カゴを持つ手が、みんな少しだけ速い。


「半額まだあるかな」


 さつきが小声で言う。その目はすでに獲物を探す猫みたいに鋭い。


 総菜コーナーには、赤いシールがいくつも貼られている。唐揚げ、コロッケ、焼き魚。値引きの数字に、ほんの少しだけ心が揺れる。


「今日は違う」


 澪が短く言う。


向かう先は、奥。


 冷蔵の空気が一段階冷たくなる。照明が強く、肉の赤がくっきりと浮かび上がる。


精肉コーナー。


 白いトレーに整然と並ぶ牛、豚、鶏。ラップの表面に店内の光が反射して、つやつやと光る。赤身の色の濃淡、脂の入り方、切り口の断面。どれも妙に生々しい。


 値引きシールを探す人の手が、あちこちで伸びる。


 ぺた、と新しいシールを貼る店員。


 それを待っていたかのように、すっとトレーを取る客。


「戦場じゃん」


 俺が言うと、さつきが笑う。


「文化祭より真剣」


 さつきが半額の豚バラを掴む。


「これ神」


 脂がきれいに層になっている。赤身と白身のコントラストがやけに整っていて、いかにも“焼いてください”みたいな顔をしている。


「今日は神って言わない」


 澪が静かに釘を刺す。


 その横で、値引きのついていない牛タンを迷いなくカゴへ入れる。薄切りで、表面に細かく切れ目が入っているやつ。


「それ定価」


 俺が言うと、澪は淡々と返す。


「必要経費」


 表情はいつも通り。でも、タンを選ぶときの目だけは、少しだけ真剣だ。


 さつきが棚の下段からカルビを引き抜く。


「これもいるでしょ? 焼肉って言ったら」


 脂が多めの、いかにも大学生向けのやつ。


「脂祭りだな」


 俺が言う。


「若さは今だけ」


 さつきが即答する。


 さらに、袋入りのウインナーをぽんとカゴに投げ込む。


「これは保険」


「何の」


「焦げてもおいしい保険」


 妙に理屈っぽい。


 野菜コーナーへ移動。


 ピーマン、玉ねぎ、もやし。


「野菜いる?」


 俺が聞く。


「いる」


 澪が即答。


「タンにネギ」


 その声が少しだけ早い。


 さつきが笑う。


「澪、タン塩ガチ勢」


「基本」


 ネギを一束。もやしもカゴへ。玉ねぎは焼いて甘くする用。


「ちゃんとしてるな」


 俺が言うと、さつきが肩をすくめる。


「焼肉って、意外とちゃんとやらないとおいしくないから」


 その言い方が、どこか自炊研究会っぽい。


 レジに向かう途中、俺はふと思い出す。


「米、いるよな?」


 二人が同時に止まる。


「いる」


 澪。


「絶対いる」


 さつき。


 炊飯器はある。けど、残量。


 俺は記憶をたぐる。


「たぶん、二合くらい」


「足りる?」


 さつきが覗き込む。


「足りなかったら?」


 澪が真顔で言う。


「肉が余る」


「それは困る」


 即決。


 米売り場へ。


 五キロは重い。二キロで妥協。


「これ、晃持ちね」


 さつきが軽く言う。


「なんで」


「家主」


 理不尽。


 でも、なんだか嬉しい。


 ビール売り場で俺は立ち止まる。


「何本?」


「晃は二本まで」


さつきが勝手に決める。


「なんで管理されてるんだ」


「顔赤くなるから」


 即答。


 澪は無言で6%のチューハイを選ぶ。


 アルコール度数を確認して、一本だけ多めに取る。


 顔はいつも通り。


 なんとなく、不安。


 カゴの中。


 豚バラ、カルビ、牛タン、ウインナー、ネギ、玉ねぎ、もやし、米、ビール、チューハイ。


 完全に大学生の焼肉セット。


 レジに並びながら、俺は思う。


 これ、ただの買い物なのに。


 なんでこんなに、ちょっと特別なんだろうな、と。


レジに並びながら、俺はカゴの中を確認していた。


豚バラ。カルビ。タン。ソーセージ。もやしとキャベツ。ピーマン。しいたけ。


それから米二合。


完全に焼肉パーティの絵面だ。


さつきはスマホで何か見ながら、俺の肘に軽く体重を預けている。距離が近い。近いけど、本人は無自覚。


澪は一歩前で、無言。


その澪が、ふと立ち止まった。


「ちょっと」


低い声。


振り返ると、澪は酒の棚の前に立っている。


焼酎コーナー。


ずらっと並んだ瓶を、真剣な顔で見比べている。


さつきが首を伸ばす。


「え、なに見てるの?」


澪は少し考えてから言った。


「せっかくなら」


そして、迷いなく一本取る。


いいちこ。


紙パックじゃなくて、ちゃんとした瓶のやつ。


さつきが目を丸くする。


「澪、焼酎飲むの?」


「飲む」


即答。


俺は思わず笑う。


「急に大人じゃん」


澪は瓶を持ったまま、ちらっとこっちを見る。


「肉には、これ」


理由はそれだけ。


さつきがくすっと笑う。


「なにそれ、通っぽい」


「通じゃない」


「じゃあ何」


「気分」


短い。


でも、その言い方が妙にかっこいい。


レジで会計になると、澪はそのいいちこだけ別に出す。


「これ、私の」


財布を開く動作に一切の迷いがない。


さつきが言う。


「割り勘じゃないの?」


「飲みたいのは私」


澪は淡々。


俺は内心ちょっと動揺する。


女の子がさらっと焼酎買ってる。しかも自分の金で。


強い。


外に出ると、夕方の風がひんやりしていた。


袋を持って歩きながら、さつきが澪の横に並ぶ。


「澪ってさ、絶対酒強いでしょ」


「普通」


「絶対“普通”じゃないやつ」


澪は否定しない。


俺が聞く。


「どれくらい?」


少し考えてから。


「記憶は飛ばない」


「それ基準なの怖いんだけど」


さつきが笑う。


「私はすぐ顔赤くなるタイプ~」


澪が即座に言う。


「知ってる」


さつきがぴたっと止まる。


「え、なんで?」


「前、ゼミの飲み会」


「あ……」


思い出したらしい。


さつきの耳がほんのり赤くなる。


俺はそれを横目で見て、なんだか落ち着かなくなる。


澪は前を向いたまま、ぽつり。


「今日は、楽しく飲むだけ」


声は低いけど、どこか柔らかい。


さつきが元気よく言う。


「焼肉だしね!」


俺も続ける。


「米も炊くし」


澪がちらっと俺を見る。


「晃、忘れたら許さない」


「忘れない」


「ほんと?」


「ほんと」


さつきが笑う。


風が吹いて、スーパーの袋がかさっと鳴る。


澪が小さく言う。


「まだ」


間。


「当たり前じゃない」


その言い方が、妙に真面目で。


俺は、胸の奥がちょっとだけざわついた。


焼肉と酒と、よくわからない緊張感。


たぶん、今夜は長くなる。


***


俺のワンルームに、三人。


玄関のドアが閉まった瞬間、世界が一気に狭くなる。


いや、部屋はいつも通りだ。六畳。ユニットバス付き。キッチンは申し訳程度。


でも。


女の子二人。


急に、空気の密度が違う。


「おじゃましまーす」


さつきが軽やかに言って、靴を脱ぐ。


スニーカーを揃える動きが妙に丁寧で、余計に落ち着かない。


「意外とちゃんとしてる」


部屋をぐるっと見渡す。


「もっと散らかってると思った」


「どんな偏見だよ」


「床にレポート山積みで、カップ麺の容器が三つくらい転がってる系」


「俺を何だと思ってる」


「大学生男子」


ひどい。


澪はそのやり取りに口を挟まず、静かに部屋を観察している。


視線が、本棚で止まる。


「六法ある」


淡々。


「一応な」


「真面目」


「やめろ」


澪は本の背表紙を指でなぞる。


「ちゃんと線引いてる」


「やめろ(二回目)」


さつきが横から覗き込む。


「ほんとだ、付箋もある。うわ、勉強してる人だ」


「してるわ」


「へえ〜」


にやにやしている。


なんだこの空気。


俺の部屋なのに、完全にアウェー。


「キッチンちっさ」


さつきが覗き込む。


「ここで神やってるの?」


「今日は神やらない」


「言ってないのに否定された」


澪がすでにホットプレートを見つけている。


「出す?」


「出す」


俺が押し入れから引っ張り出すと、コードが絡まっている。


「あーそれある」


さつきがしゃがみ込む。


「ちょ、待て、自分でやる」


「いいから貸して」


するする、と解く。


手際がいい。


なんでそんな慣れてるんだ。


ホットプレートをテーブルに置く。


がん。


思ったよりでかい。


テーブルがほぼ埋まる。


三人で座ると、距離が強制的に近い。


「近くない?」


さつきが笑う。


「物理的に」


澪は椅子に座らず、床に座る。


「この方が楽」


結果、三角形。


距離、近い。


俺は内心で深呼吸する。


落ち着け。


ただの焼肉だ。


ただの。


「晃」


「はい」


「米、研いだ?」


まだだ。


「今やる」


さつきが吹き出す。


「家主、仕事多くない?」


「家主だからな」


澪がさらっと言う。


「合理的」


それ言われると反論できない。


炊飯器に米を入れながら、俺は思う。


さっきまでスーパーで肉選んでて。


今は俺の部屋で、三人でテーブル囲んでて。


なんだこれ。


普通に、楽しい。


そしてちょっとだけ、緊張してる。


ホットプレートの電源が入る。


じわっと赤くなるランプ。


さつきが手をこすり合わせる。


「よし」


澪が肉のパックを開ける。


「始める?」


その声が、少しだけ嬉しそうに聞こえた。


肉を並べる。


じゅわ。


一瞬で油が跳ねる。


薄い煙が立ちのぼって、部屋の匂いが一気に“肉”に塗り替えられる。


「テンション上がる」


さつきが真顔で言う。


でも目はきらきらしてる。


いつの間にかトングを握って、焼き係になっている。


妙に真剣。姿勢がプロっぽい。


「それまだ」


澪が低く言う。


「え?」


「あと三秒」


三。


二。


一。


「今」


さつきがひっくり返す。


完璧な焼き色。


「うわ、指示厨きた」


「最適解」


「やだこの子、焼肉を理詰めでやってくる」


でも、ちゃんと従う。


さつきが一口。


「……うま」


声が低くなる。


目が細くなる。


肩の力が抜ける。


一杯目のビールが、気づけば半分消えている。


「早くない?」


「焼肉は別腹」


「腹とは」


俺も箸を伸ばす。


タン塩。


レモンを絞る。


じゅわっと肉汁。


「うわ」


言葉が消える。


「な?」


澪が小さくドヤる。


「必要経費」


「定価の正義」


カルビも焼く。


脂が落ちる。


火がちょっとだけ強くなる。


「やば、火」


「水ある?」


「ない」


三人でちょっと騒ぐ。


それだけで、妙に楽しい。


ソーセージを転がす。


「それ子どもみたい」


「うるさい」


ぱん、と弾ける。


さつきが笑いながらよける。


「危なっ」


「猫みたい」


「誰が」


でも頬が赤い。


ビール、もう一本目空きそう。


二十分後。


空き缶が増える。


テーブルの上、肉の脂、レモンの皮、タレの小皿、笑い声。


「経済原論、終わった感ある」


「終わってない」


「佐伯先生、絶対記述鬼だよ」


「鬼って言うな」


「商法総論どうする?」


「焼けた?」


「今それじゃない」


でも誰も本気で心配してない。


今は肉。


今は酒。


今はこの六畳。


さつきがチューハイを開ける。


ぷしゅ。


「なんかさ」


酔いが回ってきてる。


声が少しだけ柔らかい。


「こういうの、いいよね」


「何が」


「なんか、ちゃんと大学生してる感じ」


一瞬、静かになる。


澪が肉を裏返しながら言う。


「してるよ」


淡々。


でも少しだけ、口元がゆるい。


俺は思う。


女の子二人と焼肉して、酒飲んで、単位の心配して。


これ、たぶん。


人生のどこかで思い出すやつだ。


さつきが急に言う。


「ねえ、カルビ焦げてる」


「誰のせい」


「澪が経済の話するから」


「因果関係が飛躍してる」


また笑う。


煙で少し目が痛い。


でも誰も窓を開けない。


この空気、逃がしたくないみたいに。


空き缶がまた一つ、増えた。


さつきはいつの間にか椅子を降りて、床に座り直していた。


テーブルの端に膝を立てて、俺のほうに体を向けている。


距離が、近い。


さっきまで煙と笑い声でごまかせていたのに、急に静かになったみたいに感じる。


「ねえ晃」


唐突に呼ばれる。


声が少しだけやわらかい。


さっきよりも、近い。


「ん?」


変な声が出ないように、わざと普通を装う。


「タン残して」


真顔。


「取ってない」


「でも警戒はする」


意味がわからない。


けど、袖をつかまれる。


ちょん、と。


指先だけ。


軽い。


本当に軽いのに、やけに重い。


心臓がうるさい。


なんでこんな近いんだ。


さつきは何も考えてない顔をしている。


ただ、焼けていく肉をじっと見ているだけ。


「それ、私のだからね」


「はいはい」


「“はいはい”って言った」


「言った」


「軽い」


「さつきが重い」


「なにそれ」


くすっと笑う。


その笑い方が、無防備すぎる。


酔ってるのか。


いや、たぶん素だ。


距離を詰めている自覚、絶対ない。


袖をつかんだまま、もう片方の手でビールを持つ。


「晃ってさ」


「なに」


「家、思ったよりちゃんとしてるよね」


「それさっきも言った」


「うん。でもさ」


少し顔を上げる。


目が合う。


近い。


やめろ。


「ちゃんとしてる人なんだなって」


言い切って、また肉に視線を戻す。


俺は何も返せない。


ちゃんとしてる、なんて言われると思ってなかった。


袖は、まだつかまれたまま。


澪が向こう側から冷静に言う。


「焦げる」


「え?」


さつきが慌てて手を離す。


「うわ、ごめん」


タンをひっくり返す。


俺は、ほっとする。


でも、ちょっとだけ、残念な自分がいる。


さつきがまた一口食べる。


「やっぱ神」


「今日は言わないんじゃなかった?」


「焼肉は別枠」


「勝手」


笑いながら、また俺の腕に軽く触れる。


無意識。


そのたびに、心臓が仕事しすぎる。


これ、たぶん。


酔ってるのは、俺のほうだ。


澪が無言でトングを動かす。


焼き網の上でじゅっと音を立てていたタンを、ひっくり返すでもなく、迷いなく二枚すくい上げる。


そのまま、さつきの皿へ。


とん、と静かに置く。


「取らない」


短い。


宣言みたいに。


さつきは一瞬きょとんとして、それからぱっと笑う。


「澪、やさしい」


「違う」


即否定。


でも声は少しだけ柔らかい。


完全に切り捨てる感じじゃない。


「取らないって言っただけ」


「それを優しいって言うんだよ」


さつきは満足そうにタンをかじる。


頬がゆるむ。目が細くなる。


幸せが顔に出すぎだ。


俺は缶を置きながら澪を見る。


「澪、強くない?」


三本目のチューハイ。


いいちこも、さっきから水みたいな顔で飲んでいる。


顔色、変わらない。


「普通」


「絶対嘘」


さつきがずいっと身を乗り出して、澪の顔を覗き込む。


近い。


めちゃくちゃ近い。


でも澪は目を逸らさない。


「酔ってるの、そっち」


「酔ってないし」


言いながら、さつきはくるっと向きを変える。


そしてそのまま、俺の肩にもたれる。


軽い。


ほんとに軽いのに、重力がおかしくなる。


肩に、体温。


髪が触れる。


シャンプーの匂いが近い。


俺は動けない。


動いたら何かが崩れそうで。


「おい」


澪が言う。


低い。


でも怒ってない。


「焼ける」


「あ、やば」


さつきはもたれたまま、手だけ伸ばしてトングを取ろうとする。


危ない。


「危ないから」


俺が慌ててトングを持つ。


距離、さらに近い。


さつきは俺の肩に顎を乗せたまま、網を見る。


「晃、ちゃんと見て。三秒」


「なんで俺が」


「さっき澪がやってたじゃん」


真似しようとしてる。


顔、ちょっと赤い。


たぶん酔ってる。


「……三、二、一」


俺が言うと同時に、澪が静かに肉を裏返す。


完璧なタイミング。


煙がふわっと上がる。


「ほら」


澪は淡々としている。


けど、ほんの一瞬だけ視線が俺たちに止まる。


何も言わない。


言わないけど、見ている。


それからまた、肉に戻る。


プロみたいな落ち着きで。


「澪すご」


さつきが笑う。


でも、もたれたまま。


俺の肩から、離れない。


「晃あったかい」


やめろ。


「暑いだけだろ」


「違うもん」


小さく笑う。


子どもみたいな言い方。


心臓がうるさい。


澪が静かにビールを一口飲む。


「酔ってる」


「酔ってない」


「判断力落ちてる」


「落ちてない」


さつきは俺の袖をまたつかむ。


今度は、ちょっと強い。


「タン、あと一枚ね」


「はいはい」


「“はいはい”禁止」


「なんで」


「軽いから」


さっきと同じことを言う。


でも今度は、少しだけ照れてる。


俺は、笑うしかない。


網の上で脂が弾ける。


煙が立つ。


夜のワンルームは狭いはずなのに、妙に広く感じる。


さつきは笑っている。


澪は静かに焼いている。


俺は、たぶん今までで一番落ち着かない。


それなのに。


帰ってほしくないと思っている自分がいる。


***


夜。


窓を開けると、さっきまで部屋にこもっていた煙が、ふわっと逃げていく。春の風が一気に流れ込んで、カーテンがばさっと揺れた。


「うわ、きもちいい」


さつきが床に手をついて、体を伸ばす。髪が少し乱れている。頬はまだ赤い。


澪は壁にもたれて座っている。缶を持ったまま、窓の外を一瞬だけ見る。顔はいつも通り。でも、まぶたが少しだけ重そうだ。


三人とも床。


テーブルの上は空き缶だらけ。ホットプレートはまだ温かい。


「なんかさ」


さつきがぽつりと言う。


「こういうの、普通に楽しくない?」


軽い声。でも、ちょっと本音。


「うん」


澪は短く答える。


俺は缶を持ったまま立ち上がる。


意味もなく冷蔵庫を開けて、閉める。


落ち着かない。


さつきがこっちを見る。


「なにそわそわしてんの」


「してない」


即答。声ちょっと裏返る。


「うるさい」


「うるさくない」


さつきが笑う。


「晃、今日ずっと変だよ?」


「普通」


「嘘」


近い。


距離、近い。


心臓だけがやけに元気だ。


俺はビールを飲む。


ぬるい。


でも、悪くない。


さつきがくすくす笑う。


「晃、さっきからずっとテンション高いよ?」


「当たり前だろ」


「なにが当たり前なの」


「青春してる感、やばくない?」


言った瞬間、ちょっと恥ずかしくなる。


でも止まらない。


「だってさ、普通に考えてさ、大学生っぽくない? これ」


「今さら?」


澪がほんの少しだけ口角を上げる。


「嫌いじゃない」


その一言で、空気が変わる。


軽く、でも確実に。


さつきが床にごろんと横になる。


「晃んち、意外と落ち着く」


「意外いらん」


「ほんとに。なんか、ちょうどいい」


ちょうどいい。


その言葉、反則だろ。


俺は立ち上がって、もう一回窓の外を見る。


夜の街。遠くの信号。バイクの音。


なんでもない夜。


でも、俺の中では事件。


この距離は、昨日より近い。


さつきはすぐ横にいる。


澪は少し離れているけど、同じ空気を吸っている。


でも、まだ触れない。


触れない距離。


それが、ちょうどいい。


「なあ」


俺は振り向く。


「今日の夜、たぶん覚えてるわ。ずっと」


「大げさ」


さつきが笑う。


「酔ってるだけ」


澪が言う。


「違うって」


俺は空き缶を片付けながら言う。


「たぶんさ、あとで思い出すやつなんだよ。あの夜さ、肉焼いて笑ってたよなって」


さつきが静かに笑う。


「なんか、いいね、それ」


澪は窓の外を見る。


「名前つける?」


「いらん」


「神焼肉」


「今日は神禁止」


また笑う。


床に転がる空き缶。


肉の残り香。


春の夜風。


三人の笑い声。


俺は思う。


文化祭も。


カレーも。


神も。


全部大事だけど。


今、この瞬間をちゃんと味わってる俺、ちょっと誇らしい。


青春って、こういうやつだろ。


たぶん。

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