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第5話 鶏白湯

「炊くか」



澪が言う。



夕方の部室は、昼よりも少し静かだった。窓から差し込む光が長く伸びて、床の上に細い影を落としている。ホワイトボードの端が橙色に染まり、寸胴鍋の金属部分が鈍く光っている。



その中で、澪の声だけが、やけにまっすぐに響いた。



低い。でも、ほんの少しだけ、弾んでいる。



「今から?」



さつきが目を丸くする。


驚いているふりをしているけれど、口元はもう笑っている。止める気はない。



それどころか、すでにエプロンを首にかけている。



その手つきが、迷いなく早い。


こういうときのさつきは、誰よりも乗りがいい。軽い顔をして、本気でついてくる。



「今から」



澪は寸胴を棚から下ろす。



がん、と机に当たる音が部室に響く。



躊躇がない。



「商法総論は?」



俺が一応聞く。


山下先生の顔が一瞬よぎる。



「あとで」



澪は迷わない。



「比較憲法は?」



さつきが首をかしげる。


問いかけながらも、目はもう寸胴の中を見ている。



「あとで」



「単位濁らせる気?」



さつきが言う。


茶化しているのに、ちょっと心配も混じっている。



「落単は透明」



即答。



さつきが吹き出す。



笑い声が、夕方の部室に柔らかく広がる。



俺はその光景を見て、少しだけ安心する。



神Iが「優等生」と言われたとき、さつきは笑っていたけれど、ほんの一瞬だけ目が伏せられた。澪は何も言わなかったけれど、あの「整いすぎ」は、本気だった。



今は違う。



二人とも、ちゃんと前を向いている。


蛇口をひねる。


勢いよく出た水が寸胴の底を打ち、金属に反響して部室に広がる。いつもより、その音がやけに大きく聞こえる。



澪は無言で鶏ガラの袋を開ける。


冷たい骨が、白い脂をまとったまま光る。



ごとり。



一つ、二つ。


躊躇なく放り込む。



水面が跳ねる。



「うわ、量多くない?」



さつきが寸胴をのぞき込む。


骨が重なって、ほとんど水面を埋めている。



「多いほうが濁る」



澪は淡々。



「理屈?」



「骨と脂。叩いて、炊いて、乳化させる」



「乳化って、あの理科のやつ?」



「油と水を混ぜるやつ」



俺は寸胴をのぞき込む。


まだただの水。鶏の匂いがほんのりするだけ。



「ほんとに白くなるの?」



さつきが聞く。



「なる」



即答。



火をつける。



青い炎が底を包む。



最初は静かだ。


やがて小さな泡が底から上がり始める。



ぐつ、ぐつ。



まだ透明。



「アク出るよね?」



「出る。最初は取る」



澪はおたまを構える。



しばらくして、表面に灰色の泡が浮き始める。


細かい泡が集まり、ふわっと広がる。



「うわ、きた」



さつきが嬉しそうに言う。



「くさい?」



「いや、ラーメン屋の匂い」



確かに、生臭さよりも、人気ラーメン店のような、どこか甘い香りが立ち上っている。



澪は丁寧にアクをすくう。


手元が静かで、無駄がない。



「最初にちゃんとやらないと雑味出る」



「ラーメン屋みたい」



「ラーメン屋のスープの仕込みだもん」



俺は横で腕を組む。



「これさ、カエシ入れたらラーメンになるよね」



「わかる。八事にこういうラーメンのお店ありそう」



さつきが言う。


目がきらきらしている。



一時間後。



沸騰が強くなる。



澪が火力を上げる。



「え、そんな強くして大丈夫?」



「白湯は強火」



「清湯と逆?」



「逆」



ぐつぐつが、ぶくぶくに変わる。


表面が大きく揺れる。



骨が鍋の中でぶつかり合う音がする。



白い脂が、少しずつ広がる。



「なんか……濁ってきてない?」



さつきが顔を近づける。



確かに、透明だった水が、ほんのり白みを帯び始めている。



「まだ足りない」



澪は鍋の縁を見つめたまま言う。



二時間。



部室は暑い。



窓を少し開けると、外の夕方の空気が入ってくる。



「これ、さ」



さつきが言う。



「ラーメンにしたら絶対おいしいよね」



澪が一瞬だけ目を動かす。



「何回言うの」



短いツッコミ。



「チャーシュー乗せて、ネギどばってやってさ」



「替え玉ほしい」



俺が言う。



「文化祭ラーメンでもよくない?」



「仕込み地獄」



即答。



ぐつぐつ。



白が濃くなる。



さっきより、明らかに濁っている。



表面の脂が、細かく分散している。



「これ、乳化してる?」



「してる」



澪はおたまでスープをすくう。


光にかざす。



さっきの透明感はない。


とろっとしている。



「うわ……すご」



さつきが声を漏らす。



「なんか一気に“それっぽい”」



「まだ途中」



澪はおたまを戻す。



「皮、入れる?」



俺が聞く。



「入れる」



追加で鶏皮を放り込む。



脂が溶け出す。



泡が荒くなる。



「うわ、もう完全にラーメン屋」



「静かに」



澪は火を微調整する。



時間が経つにつれ、白が濃くなる。


骨の周りが崩れ、スープが濁る。



「これ、文化祭でやるの?」



「やる」



「三日間炊き続けるの?」



「やる」



「商法総論落とすよ?」



「あとで」



さつきが笑う。



「ほんとにバカだよね」



でも楽しそうだ。



三時間目。



スープは完全に乳白色になっている。



最初の透明な姿はもうない。



澪が火を止める。



「一回、濾す」



ざると大きなボウルをセットする。



重い鍋を持ち上げると、白いスープがとろりと落ちる。



どろり、と音がする。



骨の残骸がざるに残る。



ボウルにたまったスープは、はっきり白い。



「うわ……」



さつきが声を漏らす。



「これ、ほんとにカレーにするの?」



「する」



「ラーメンにしたい」



「だめ」



即答。



俺はスープをすくって匂いを嗅ぐ。



濃い。


鶏の甘い香りが、はっきり立っている。



「やばいな、これ」



さつきが頬をゆるめる。



「なんかさ、ちゃんと“やってる”感じする」



澪は小さくうなずく。



「清湯とは別物」



寸胴の中身は、もう別の存在だ。



神Iの透明さはない。


荒くて、強くて、重い。



でも。



三人の顔は、さっきより明るい。



「これ、絶対うまくなるよ」



さつきが言う。



「まだ途中」



澪はそう言うけれど、目は少しだけ満足している。



白いスープが、ボウルの中で静かに揺れている。



まな板を二枚並べる。



「はい、助手くん」


さつきがにんじんを晃の前に転がす。



「誰が助手だ」



「包丁持ってる時点で助手」



軽い。声が弾んでいる。



澪は白湯の様子を見に鍋へ戻っている。


部室には、こと、こと、と小さな包丁の音だけが残る。



玉ねぎを半分に割ると、つんとした匂いが立つ。



「うわ、目にくる」



晃が顔をしかめる。



「ほら、ちゃんと繊維に沿って。雑にやると食感バラバラになるよ」



さつきは手元が早い。


薄く、均一に、迷いなく刃を動かす。



「なんでそんな慣れてんの」



「だって好きだもん」



さらっと言う。



にんじんは薄切り。


白湯に負けないよう、存在感は残す。



玉ねぎはあとでソフリットにする。


狐色までいく前の、甘みが立つところまで。




「これ、ほんとに文化祭の試作?」



晃が言う。



「違うよ。これは“私たちの”神II」



さつきが笑う。



その横顔は、いつもより少しだけ真剣だ。


澪が黙って冷蔵庫から豚肉を取り出す。



ラップを外し、まな板の端に置くと、ふと自分のリュックを開けた。



「え、なに出すの」



さつきがのぞき込む。



銀色のケースから、細長い包丁が現れる。



「……私物」



澪は淡々と言って、刃を光にかざす。



細身の筋引き。


柄のロゴが静かに光る。



「ちょっと待って、それ部室のじゃないよね?」



「うん。Zwilling」



さらっと言う。



晃が思わず吹き出す。



「なんでサークルにマイ包丁持参してんの」



「切れ味が違うから」



迷いがない。



豚肉に刃を入れると、抵抗がほとんどない。


すっと引くだけで、繊維に沿ってきれいに落ちる。



音が静かすぎる。



さつきが小声で言う。



「なんか……急にプロっぽいんだけど」



「さっきまで単位の話してた人と同一人物?」



晃も笑う。



澪は顔色ひとつ変えずに、一口大に切りそろえていく。



「カレーやるんでしょ」



それだけ。



でも、その横顔には、少しだけ誇らしさがあった。



別鍋をコンロにかける。



澪が静かに油を落とす。


薄く広がる透明な膜。



「いくよ」



玉ねぎを投入。



じゅわ、と甘い音が立つ。


白かった薄切りが、ゆっくり透けていく。



さつきが木べらを握る。



「狐色いくよー」



声は明るい。でも手元は本気だ。


焦がさない。逃さない。火加減を細かく触る。



「弱火弱火、急ぐと負ける」



「誰に?」



「自分に」



さつきが笑う。



玉ねぎは透明から淡い飴色へ。


甘い香りが部室を満たす。



俺は横で米を研ぐ。


しゃっ、しゃっ、と水の中で白い粒が転がる。



「てかさ」



「なに」



「経済原論、佐伯先生だよな」



「うん」



「記述らしい」



「終わったね」



澪が即答する。



「今カレー炊いてる場合じゃなくない?」



「ある」



迷わない。



玉ねぎがきつね色に差しかかったところで、


にんじん、きのこを投入。



じゅっと水分がはねる。


一気に香りが立つ。



「焼き目つけたい」



澪が言う。



木べらを止める。



しばらく触らない。



じり、と底が鳴る。



野菜の端が色づき始める。



「お、いい匂い」



さつきが顔を近づける。



「触らないで」



「見てるだけ」



焼き色がついたところで、


すべてを一度、大皿によける。



鍋底に、茶色い旨味がこびりついている。



「これが本体」



澪がつぶやく。



次は豚肉。



強めの火。



じゅわっと一気に広がる音。


肉の表面がすぐに色を変える。



「動かさないで」



「はい」



焼き色がついた瞬間、


さっきの野菜を戻す。



そして、寸胴から白濁スープを注ぐ。



どろり、とした液体が鍋底を満たす。



こそげる。



木べらで、底をゆっくり削る。



茶色い旨味が、白いスープに溶けていく。



「うわ、色変わった」



さつきが声を上げる。



「全部混ざった」



ぐつ、ぐつ、と弱火で煮込み始める。



泡がゆっくり弾ける。



香りが変わる。



さっきまで別々だった甘みと脂と出汁が、


ひとつの匂いになる。



澪は鍋を見つめる。



「これ」



短く言う。



「整わないほうが、たぶんいい」



さつきが笑う。



「濁していこ?」



白い湯気が、部室の蛍光灯をぼかした。



澪が火を弱める。



鍋の縁に立ちのぼる湯気が、ゆらりと揺れる。



俺は箱からルゥを取り出す。



銀のパックを破る音が、やけに乾いて響く。



ぱき。



固いブロックを二つに割る。



その感触が、なんだか儀式みたいだと思った。



「結局これなんだよな」



俺が言う。



何時間も炊いて、濁らせて、炒めて、こそげて。



でも最後に握ってるのは、市販のルゥ。



さつきがにやっと笑う。



「そこがいいんじゃん」



軽い口調。でも目は真剣だ。



「出汁は本気、仕上げは庶民派。バランス」



澪は何も言わない。ただ、鍋の中心を見ている。



俺はルゥをそっと沈める。



どろ、と白濁スープに茶色が溶け出す。



最初はまだ境目がある。



白と茶。



はっきり分かれている。



木べらで、ゆっくり混ぜる。



とろ、とろ、と色が混ざっていく。



白いスープが、だんだんと深い茶色に染まる。



「うわ」



さつきが小さく声を上げる。



「変わる瞬間って、ちょっと怖いね」



濁りが、意志を持つ。



透明でもない。



ただの白湯でもない。



出汁の強さと脂の厚みが、ルゥの香りと結びつく。



部室の空気が、一段だけ甘く、濃くなる。



スパイスの匂いが立ち上がる。



鶏の旨味が底から押し上げる。



「きた」



澪が、低く言う。



木べらを止める。



表面に、小さな泡がぷつぷつと弾ける。



さっきまでの白濁とは違う。



今は、明らかにカレーの顔をしている。



さつきが身を乗り出す。



「もう匂いがさ、文化祭じゃん」



「まだ試作」



俺が言うけど、声が少しだけ上ずる。



胸が、変に高鳴っている。



米が炊ける匂いも重なる。



湯気の向こうで、鍋がゆっくり呼吸している。



「いく?」



さつきがスプーンを持つ。



「まだ」



澪が一度だけ混ぜる。



とろみを確認するみたいに。



その横顔は静かだけど、ほんの少しだけ口角が上がっている。



「いま、カレーになった」



澪がそう言った瞬間。



達成感が、遅れて押し寄せる。



ただの白いスープが。



ただの市販ルゥが。



俺たちの時間と、火加減と、焦りと笑いを全部吸い込んで。



ひとつの鍋にまとまった。



さつきが小さく息を吐く。



「やば」



短い。



でも、それで十分。



炊飯器が、ぴ、と控えめに鳴る。



ふたを開けた瞬間、湯気が一気に立ちのぼる。白い蒸気が顔に当たって、思わず目を細める。米の甘い匂いが、さっきまでのスパイスと混ざる。



「うわ、いい匂い」



さつきが身を乗り出す。



しゃもじを差し込むと、ふわりとほぐれる。粒が立っている。艶がある。湯気の向こうで、光が反射する。



茶碗に盛る。



とん、と軽く底を叩いて形を整える。白がまぶしい。



鍋からカレーをすくう。



とろり、と落ちる。



白い山の斜面を、ゆっくりと茶色が流れ落ちる。縁で止まり、少しだけ溜まり、また静かに広がる。



「やば」



さつきが小さく笑う。



湯気の向こうで、澪が無言で皿を受け取る。



白と茶。



境目が、じわじわと溶けていく。



ただのごはんと、ただのルゥだったはずなのに。



今はもう、ちゃんと“俺たちのカレー”の顔をしている。




一口。



さつきが、ちょっとだけ目を見開く。



「……重っ」



間を置いて、吹き出す。



「なにこれ、攻撃力高すぎじゃない?」



スプーンをもう一度すくう。



「でも好き!」



言い切る。元気に。



俺も口に運ぶ。



白濁スープのコクが、いきなり前に出る。さっきの清湯とは別物だ。舌にまとわりつく。旨味が濃い。



「うわ、確かに優等生じゃないな」



「優等生どころか体育会系」



さつきが笑う。



「文化祭の屋台で出てきたら、“お前誰だよ”ってなるやつ」



澪はゆっくり飲み込む。



表情は変わらないけど、目が少しだけ細い。



「荒いけど完成」



ぽつり。



そのあと、間を置いて続ける。



「文化祭はこれじゃない」



さつきがスプーンを止める。



「え、だめなの?」



「だめじゃない。けど違う」



「どこが?」



「重い」



即答。



俺はうなずく。



「昼からこれ食ったら、午後の商法総論死ぬな」



「佐伯先生の声、白濁で聞こえなくなるね」



さつきが肩を揺らして笑う。



「単位ごと濁る」



「それは困る」



三人で笑う。



でも、どこか真面目だ。



さつきが皿を見下ろす。



「おいしいよ? ほんとに」



「うん」



「でも、文化祭ってさ、みんなテンション高いじゃん。写真撮って、わーってなって」



「これは“うまい”で終わる」



澪が言う。



「“やばい”にならない」



一瞬、沈黙。



でも重くはならない。



「じゃあさ」



俺が言う。



「優等生でもなく、体育会系でもないやつ?」



「何系?」



「文化祭系」



さつきが即答する。



「雑すぎ」



澪が小さく笑う。



「でも、方向は見えた」



「マジで?」



「濃さじゃない」



「じゃあ?」



「印象」



短い。



俺とさつきが同時に「うわ、かっこつけ」と言う。



「事実」



澪は淡々。



さつきがスプーンを掲げる。



「よし。とりあえずこれは神IIってことで」



「確定?」



「確定。荒いけど完成だから」



俺は皿を見て言う。



「荒完成カレー」



「ダサ」



「却下」



三人でまた笑う。



空の皿が並ぶ。



重い。でもちゃんと完食。



誰も落ち込んでいない。



むしろ、ちょっと楽しい。



「次どうする?」



さつきが前のめりになる。



「やるんでしょ?」



澪は迷わない。



「やる」



俺はため息をつく。



「単位やばいって言ってたよな、さっき」



「あとで」



「また“あとで”かよ」



さつきが笑う。



「でもさ」



「なに」



「なんかさ、今ちょっと青春っぽくない?」



俺は一瞬考えてから言う。



「白濁してるけどな」



澪が、ほんの少しだけ口角を上げる。



「まだ透明には戻らない」



その言い方が、なんか悔しいくらい楽しそうで。



俺たちはまた、鍋を見た。



寸胴の底が見える。



単位はやばい。


文化祭も遠い。


カレーもまだ途中。



それでも。



なんか、楽しい。



ぐつぐつしているのは、鍋だけじゃない。



文化祭まで、あと二ヶ月半。



神IIは、まだ暴れる。

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