第4話 うまい、けど
※晃視点
昼の中庭は、だらっとしていた。
四限前の空きコマ。ベンチはほぼ埋まり、階段状の石段にも学生が腰を下ろしている。陽に温められたコンクリートが、じんわりと背中に熱を返す。学食の換気口から流れてくる揚げ物の匂いが、春の風に乗って芝生の青い匂いと混ざる。どこか甘く、どこか油っぽい。
自販機の前で小銭が落ちる乾いた音。ペットボトルのキャップが開く軽い破裂音。
レポートの締切、バイトの愚痴、昨夜のゲームの勝敗。声はあちこちから聞こえるのに、どれも切実ではない。笑い声がふわっと浮かび、すぐに風に流される。
軽音サークルがアンプを鳴らしている。ギターのコードが一瞬だけきれいに揃い、次の瞬間に少しだけ濁る。スネアが乾いた音で弾けるが、リズムはまだ揃わない。その未完成さが、この時間の空気と妙に合っている。
空は薄く霞んでいる。強すぎない日差しがベンチの金属部分を白く光らせる。
風が吹くたび、地面に貼りついた花びらが一枚だけめくれ、また戻る。
その端のベンチに、俺とさつきと澪は腰を下ろしていた。
さつきは足を組み替えながら、空を見上げている。
澪は膝に肘を置き、何かを考えている顔で中庭を眺めている。
俺はというと、なんとなく、学食の匂いに釣られそうになっていた。
「腹減ったー」
俺の友人が芝生に寝転びながら言った瞬間、さつきがすっとトートバッグを引き寄せた。
ごそごそ、と迷いなくタッパーを取り出す。
「はい」
ぱかっと、軽い音。
湯気は立たない。でも、ふわっと香りだけが広がる。
スパイスより先に、出汁の匂いがくる。やわらかいのに、芯がある。
「え、なにそれ」
「昨日の残り。多めに作ったから」
あくまで軽い。
ドヤ顔ではない。善意の顔。
中身は神I。
透明な鶏清湯ベースのカレー。油は重くない。表面に浮く脂が、光を受けて静かに揺れる。
俺の心臓が、少しだけ速くなる。
三人目が一口食べて、少し考える。
「でもさ」
空気が、ほんの少しだけ静まる。
スプーンを持ったまま、友人が首をかしげる。
「文化祭で、並ぶかって言われたら……どうなんだろ」
さつきの笑顔が、そのままの形で止まる。
「どういうこと?」と聞く声は、まだ明るい。
「いや、うまいよ? ちゃんとうまい」
もう一人が慌ててフォローする。
「ちゃんとしてるっていうかさ。完成度高いっていうか」
「うん。優等生って感じ」
澪の視線が、ゆっくりと上がる。
「優等生?」と、低く返す。
「なんかこう……ガツンっていうのが、ない?」
「文化祭ってさ、もうちょっとテンション高いじゃん」
悪気はない。
むしろ、真面目に考えてくれている。
さつきは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく笑う。
「そっか」
声は軽い。軽いまま。
俺は、手元のタッパーを見る。
透明なスープ。きれいに溶けたルウ。
油は重くない。味も澄んでいる。
ちゃんとしている。
だからこそ。
その言葉は、きれいに刺さった。
さつきが笑う。
「なるほどねー。優等生かあ」
声は明るい。
けれど、笑い方がほんの少しだけゆっくりだ。
俺は苦笑する。
「文化祭向きじゃないってこと?」
「いやいや、全然うまいって」
友人が慌てて言う。
「たださ、文化祭ってテンションで食うじゃん? 友達と騒ぎながらさ」
「わかる」
さつきが素直にうなずく。否定しない。
澪がそこで、ようやく口を開く。
「整いすぎ」
短い。
それだけ。
友人が指を鳴らす。
「そう、それ! なんか完成してるんだよ。きれい」
きれい。
その単語が、やけに響く。
タッパーは空になる。
スプーンが底に当たる、軽い音。
ちゃんとうまい。
誰も残さない。むしろ、もっとないのかと覗き込むくらいだ。
それなのに。
三人のあいだに、ほんの少しだけ、静かな空気が落ちる。
さつきは蓋を閉めながら、にこっとする。
「ごちそうさまでしたって顔しないでよ。まだ試作だから」
澪は何も言わない。ただ、空になった容器を一度だけ見て、視線を逸らす。
俺は、わかってしまう。
褒められたのに。
どこか、足りない。
その違和感だけが、春の風の中に残った。
帰り道の勢いのまま、三人はそのまま部室に流れ込んだ。
夕方の光が斜めに差し込み、ホワイトボードの端がオレンジ色に染まっている。
寸胴鍋は棚の上。
まだ何も起きていない顔で、そこにある。
「で?」
さつきが机に腰をかける。
「優等生、どうやめる?」
俺はノートを開く。
「ガツン、が足りない」
「脂?」とさつき。
「いや、脂だけじゃ安い」と澪。
澪は鍋を見上げたまま言う。
「出汁は正しい。でも、優しい」
「優しいのだめ?」
さつきが首を傾ける。
「文化祭は戦場」
さらっと言う。
「こわ」
俺が笑う。
澪は続ける。
「白濁させる」
「さっきのやつ?」
さつきが目を細める。
「炊き続ける。乳化させる。透明やめる」
俺は眉を上げる。
「清湯じゃなくて、白湯?」
「そう」
さつきが手を打つ。
「あー、なるほど。軽いのやめるんだ」
「軽さは残す」
澪が即答する。
「でも、見た目から強くする」
俺は少し考える。
「つまり、ちゃんとしてるけど暴れてる?」
「整ってるけど、ちょっとやりすぎ」
さつきが笑う。
「それもう私たちじゃん」
一瞬、三人で顔を見合わせる。
「じゃあさ」
俺が言う。
「清湯版が一号で、白濁版が二号?」
「安直」
澪が言う。
「でもわかりやすい」
さつきがノートを引き寄せる。
さらさら、と書く。
神II。
その文字を見て、俺は少しだけ息を吸う。
「白濁でいくなら、炊き方変わるよな」
「時間もかかる」
「文化祭で回る?」
「回す」
即答。
さつきが笑う。
「言い切ったね」
澪は肩をすくめる。
「優等生はやめるんだろ」
俺はノートを見る。
清湯の横に、白濁と書く。
その横に、ぐつぐつ、と落書きする。
さつきがそれを見て吹き出す。
「字がうるさい」
「文化祭向き」
澪が、ほんの少しだけ笑った。
その瞬間、部室の空気が変わる。
優等生の神Iは、ちゃんとうまかった。
でも、三人はもう満足していない。
「炊くか」
澪が言う。
今度は、誰も冗談だと思わなかった。




