表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/23

第3話 カレー、やってみる?

 サークル棟の廊下は、昼の熱をまだ抱え込んでいた。



 コンクリートの床に残った体温が、靴底からじわりと伝わる。窓は半分だけ開いているが、風はほとんど入ってこない。蛍光灯の白い光が天井に並び、低く小さく唸っている。ところどころ、光がわずかに瞬く。



 掲示板の前には、人が溜まっていた。履修変更の案内、軽音のライブ告知、ボランティア募集、アルバイトのチラシ。カラフルな紙が層になって重なり、端がめくれている。セロハンテープが黄ばんで、空気に剥がれかけているものもある。



 近くを通る学生の話し声が、廊下に反射して広がる。スニーカーの擦れる音。自転車の鍵がぶつかる金属音。遠くの階段から誰かが駆け下りる振動が、微かに床を震わせる。



 その中で、一枚だけ、赤いマーカーで大きく囲まれた紙が目に入った。



 大学祭出店団体募集。



 白地に黒い文字。その周囲をなぞる赤い線が、妙に強い。紙の端はまだ新しく、折れ目もない。貼られたばかりなのだとわかる。



 周囲のチラシが“今”を消費しているのに対して、その紙だけが“これから”を差し出しているように見えた。


「これか」



 俺が足を止めると、すぐ横に気配が近づいた。



 さつきが、俺の肩越しに掲示板を覗き込む。



 ただ、それだけの動きなのに、距離が近いと急に意識してしまう。腕が触れるか触れないか、そのぎりぎり。まとめた髪から、後れ毛が一本だけ落ちている。特別な匂いがするわけでもない。ただ、洗いたての空気みたいな清潔さがある。



 俺はポスターの文字を読んでいるはずなのに、視界の端が少し落ち着かない。



「やる?」



 声は軽い。



 本当に軽い。



 何かを決めようとしている声ではなく、ただ思いついたことを口にしただけ、という響き。



 目も、押してこない。試すようでもない。



 ただ、俺がどう思うのかを待っている。



「文化祭だよ?」



 俺が言うと、さつきは少しだけ首を傾ける。



「うん。だから?」



 理屈じゃない、という顔だ。



 冗談でも挑発でもない。ただ、本気で“やるかどうか”を考えている目。



 その自然さに、少しだけ戸惑う。



 俺は視線をポスターに戻す。



「屋台って、何出すの? 焼きそばとか? 唐揚げ?」



「被るでしょ、それ」



 さつきは小さく笑う。



 笑い方も、特別ではない。大きくもないし、媚びる感じもない。ただ、当たり前のことを言ったみたいに肩をすくめる。



 でも、その肩の動きひとつで、場の空気が柔らかくなる。



 俺は気づく。



 この人は、自分がどれくらい空気を動かしているのか、たぶん知らない。



 そしてたぶん、それがいちばん厄介だ。


 少し離れたところで、澪が腕を組んでポスターを見ている。



 さつきの周りに人の気配が集まるのに対して、澪のいる場所は静かだ。騒がしさの中で、そこだけ輪郭がはっきりしている。



 背筋が伸びている。動かない。視線は一点に固定されたまま。話しかければ返すだろうが、自分からは入らない、という距離感。



「カレー」



 ぽつり、と言う。



 声は低くも高くもない。ただ、迷いがない。



 俺とさつきがそちらを見る。



 澪は腕を組んだまま、ポスターから目を離さない。



「どうせ出るなら」



 それだけ。



 冗談の空気に乗らない。笑いも混ぜない。



 けれど、本気で言っているのは伝わる。



 軽い提案ではなく、決めにいく言葉。



 さつきが柔らかく場を動かすなら、澪は一度止めてから進める。



 たぶん、その違いだ。



 ぽつり、と言った。



「カレー」



「え?」



「どうせ出るなら、カレー」



 間があった。


冗談にしては長い間だった。



「普通すぎない?」と俺。



 澪は視線を外さない。



「普通じゃないやつにする」



 説明はない。


言い切るだけ。



 その瞬間、さっきまで軽かった空気が、わずかに締まる。



 さつきが小さく息を吐く。



「カレー、やってみる?」



 軽い声のまま。



 でも今度は、少しだけ様子をうかがっている。



 澪が腕を解く。



「やるなら、本気で」



 短い。



 ただ、それだけ。



 廊下のざわめきが、急に遠くなる。



 赤いマーカーで囲まれたポスターが、さっきよりも現実味を帯びて見える。



 俺は一瞬だけ考える。



 やらなければ、何も起きない。


やれば、何かが起きる。



 たぶん、ここが分かれ目だ。



 さつきが笑う。



「じゃあ、カレーだね」



 軽く言ったはずなのに、その言葉が決定になる。



 澪はうなずく。



 俺も、否定しなかった。



 それで決まった。



 たったそれだけで、俺たちは文化祭に出ることになった。



***



 部室に戻ると、折りたたみ机の上にノートとペンが広がっていた。



 六畳ほどの部屋。窓は西向きで、夕方の光が斜めに差し込んでいる。ブラインドの隙間から入る橙色の線が、机の上に細い影を落としている。



 壁際には小さな流し台。ガスコンロは一口だけ。使い込まれたまな板が立てかけられ、乾ききらない布巾が蛇口にかかっている。棚の上には調味料のボトルが雑多に並び、蓋の縁に乾いた醤油の跡が残っている。



 冷蔵庫のモーター音が、低く一定に響く。



 折りたたみ机は少し傾いていて、足の一本に段ボールが挟まれている。机の表面には細かい包丁傷が無数に走っている。



 その上に、大学ノートが三冊。ボールペン、シャーペン、消しゴム。誰かが置いたままのスマホが振動して、机がかすかに鳴る。



 窓の外では、グラウンドから運動部の掛け声が聞こえる。ボールを打つ乾いた音。遠くで笑い声。



 この部屋だけが、少しだけ別の時間で動いている。



 さつきが椅子を引く。脚が床をこすり、細い音が響く。



 澪は黙ってノートを自分の前に引き寄せる。



 俺は立ったまま、机の上を見下ろす。



 さっきまでただの学生だったのに、急に“何かを決める側”に立たされた気がした。


「カレーは?」



 俺が言うと、澪が視線を上げる。



「普通のはやらない」



「じゃあ何。スパイスから?」



 文化祭でカレーといえば、だいたいそういう方向だ。



 澪は首を振る。



「違う」



「え」



「出汁から」



 一瞬、間が空く。



「スパイスじゃなくて?」



「スパイスは後」



 澪は淡々としている。



「まず土台。味の骨格」



 さつきがペンを止める。



「それ、文化祭だよ?」



「だから」



 澪は言う。



「スパイスで派手にするのは簡単。でも、それって誰でもできる」



 少しだけ、間。



「出汁をちゃんとやったカレーのほうが、たぶん残る」



 俺は苦笑する。



「いや普通、逆でしょ。スパイス研究会みたいになるやつだよ」



「それは面白くない」



 きっぱり。



「じゃあルゥは?」



「市販」



「は?」



 さつきが素で聞き返す。



「スパイスからやらないのに、市販ルゥ?」



「うん」



 澪はあっさり言う。



「ルゥは完成品。そこをいじらない。その代わり、下を変える」



 ひねくれている。



 でも理屈は通っている。



 俺は笑う。



「なんでそんな遠回りするの」



「近道だから」



 澪は真顔のまま言う。



「出汁がうまければ、失敗しにくい」



 さつきが小さく吹き出す。



「なにそれ。攻めてるのか守ってるのかわかんない」



「両方」



 短い返事。



 机の上に、少しだけ沈黙が落ちる。



 スパイスからじゃない。


ルゥは市販。


でも出汁は本気。



 王道をやらないくせに、手は抜かない。



 ひねくれてる。



 でも、たぶんこれが澪だ。



「……面白いかもね」



 さつきがノートに書く。



 カレー(出汁から)。



 その括弧が、妙に挑発的に見えた。



***


 その日の夕方、俺たちは駅前のスーパーを出たところだった。



「ないね」



 さつきがスマホをしまう。



 精肉コーナーの端から端まで見た。冷蔵ケースの下段まで覗いた。手羽元、むね肉、ささみ、モモ肉。きれいに並んだパックはあるのに、欲しいものだけがない。



 鶏ガラ。



「今どき置いてないのか」



「需要ないでしょ」



 澪は淡々としている。



 二軒目は少し古い商店街の店だった。店内は狭く、通路が人ひとり分しかない。天井からぶら下がる蛍光灯が白く強い。揚げ物の油の匂いがこもっている。



「ガラ? ああ、今日はもう出ちゃったね」



 店主が言う。



 出るんだ。



 俺は少し驚く。



 三軒目は郊外の大型店だった。自動ドアが開くたびに冷気が流れ出る。広い精肉コーナー。整然と並んだパック。値札の赤いシール。



 奥の、ほとんど見られていない棚の下段。



「あった」



 澪が短く言う。



 透明な袋の中に、骨の形がそのまま見える。白く、少し赤みが残る断面。



 さつきがしゃがみ込む。



「ほんとに買うの?」



「買う」



 澪はカゴに入れる。



 ごとり、と重い音がする。



 野菜や菓子パンの軽い重さとは違う。明らかに“仕込み”の重さだ。



 レジに並ぶ。前の客は冷凍食品とアイスだけ。俺たちのカゴの中身は、ガラ、玉ねぎ、にんじん、ローリエ。



 店員が袋詰めをしながら、少しだけ視線を止める。



 俺はレシートを受け取りながら思う。



 ほんとにやるんだな。



 軽口じゃない。



 部室に戻れば、寸胴を出して、水を張って、アクをすくう。



 文化祭の屋台のために。



 さつきが袋を持ち直す。



「重っ」



 笑う。



 澪は何も言わない。



 でも歩く速度は少しだけ早い。



 俺はその背中を見て訊いた。



「ほんとにやるんだな」



 ビニール袋の中で、鶏ガラがぶつかる。ごと、と鈍い音がする。



 俺は半分冗談のつもりで言ったはずなのに、声が少しだけ低くなった。



「もう戻れないよ?」



 さつきが笑う。



 重たい袋を両手で持ちながら、いつも通りの顔で。



 でも、その言い方は軽くても、目は少しだけ真面目だ。



「まだ今日だよ?」



 俺が言う。



「まだ仕込みもしてない」



「うん」



 さつきはあっさりうなずく。



「でもガラ買ったし」



 事実だけを言う。



 それが妙に現実的で、逃げ道を消していく。



「戻る気あるの?」



 澪が言う。



 横を歩きながら、視線は前のまま。



 責める調子ではない。ただ、確認している。



 俺は少しだけ言葉に詰まる。



 やめようと思えばやめられる。


文化祭の締切はまだ先だ。


誰かに迷惑をかけるわけでもない。



 でも。



 袋の中で、骨がもう一度鳴る。



 ごと。



 俺は笑う。



「ない、たぶん」



 さつきが肩をすくめる。



「だよね」



 その一言で、空気が決まる。



 澪は何も言わない。



 ただ、歩幅が少しだけ揃う。



 夕方の風が、スーパーの袋を揺らす。ビニールがぱさ、と鳴る。



 俺はその音を聞きながら思う。



 戻れないんじゃない。



 戻らないことにしたんだ。



 部室の小さなキッチンに、寸胴鍋が置かれる。蛇口をひねり、水を張る。澄んだ水面に、鶏ガラを沈めていく。骨が底に触れるたび、鈍い音がする。



 火をつける。



 青い炎が鍋底をなめる。



 しばらくは何も起きない。ただ、静かに温度が上がっていく。



 やがて、鍋肌に細かな泡がまとわりつく。底から、小さな気泡がひとつ、ふたつと浮き上がる。水面がわずかに揺れる。



 アクが浮く。



 灰色がかった泡が、ゆっくりと広がる。



「地味だな」



 俺が言う。



 見た目はただの湯だ。



「地味な作業の先にしか、派手なのはない」



 澪は黙ってお玉を差し入れる。表面だけを静かにすくう。揺らさない。濁らせない。



 灰色の泡が消えていく。



 水が、少しずつ澄んでいく。



 生っぽい匂いが、ゆっくりと変わる。骨の奥から、やわらかい甘さが立ち上る。鶏の脂が、薄い膜になって光を反射する。



 香味野菜を入れる。



 玉ねぎの皮、にんじんの端、セロリの根。水面に浮き、やがて沈む。



 湯気の匂いが一段変わる。



 さっきまでただの熱湯だったものが、少しずつ“出汁”になっていく。



 鍋の中は、騒がない。



 強く沸かせない。



 静かに、ゆっくりと。



 透明なまま、旨味だけを引き出していく。



 派手さはない。



 でも、確実にうまくなる匂いがしている。



***



 数時間後。



 透明な鶏清湯ができあがる。



 寸胴の中は、澄んだ琥珀色。底まで見える。湯気がゆらりと立ち、鶏の甘い匂いが部室いっぱいに広がっている。



「うわー、成功じゃん!」



 さつきが身を乗り出す。顔が近い。



「ちゃんと透明! すごくない?」



 テンションが高い。素直に喜ぶ。



 澪はお玉でそっとすくい、光にかざす。



「濁ってない」



 短い評価。



 でも目が少しだけ柔らかい。



 俺がすすってみる。



「……あ、うま」



 塩も入れてないのに、ちゃんと甘い。



「ね? ね?」とさつき。



「これもうスープとして売れるよ」



「売らない」



 澪が即答する。



「今日は実験」



「実験って言い方やめなよ。なんか怖い」



 さつきが笑う。



 隣のコンロにフライパンを置く。



「玉ねぎ担当いきます!」



 宣言してから油を引く。じゅ、と音が鳴る。



 刻んだ玉ねぎを広げる。



「今日は焦がさないからね」



「前焦がしただろ」



「焦がしてない、攻めただけ」



 澪が横から見る。



「弱火」



「はいはい」



 でもちゃんと火を落とす。



 玉ねぎがゆっくり透明に変わる。甘い匂いが立ち上る。



 俺は別鍋で肉を焼く。



「強火でいい?」



「焼き目つけて」



 澪が言う。



 肉が音を立てる。脂が跳ねる。部室の空気が一気に変わる。



「うわ、急に飯だ」



 さつきが笑う。



 フライパンの底に残った茶色い旨味。



「それ、残して」



 澪が清湯をお玉一杯すくう。



 じゅわ、と音が弾ける。



 香りが跳ねる。



「やばっ」



 さつきが声を上げる。



「急にプロっぽい!」



「ただの理科」



 澪は淡々としている。



 でもほんの少しだけ口元が上がる。



 炒めた具材を、寸胴に合流させる。



 透明だった清湯が、ほんのり色づく。



 香ばしさと甘さが重なり、部室の空気が完全に“食べ物の匂い”になる。



 さつきが鍋をのぞき込む。



「これさ、文化祭関係なくない?」



「関係ない」



 澪は即答する。



「まず自分たちが納得するやつ」



 俺は笑う。



「じゃあこれは何」



「練習」



「壮大すぎる練習だろ」



 さつきが吹き出す。



「でも楽しいからいい!」



 その一言で、空気がまた軽くなる。



 これはまだ屋台のカレーじゃない。



 ただ、三人が面白がってるだけの鍋だ。



 でも。



 その匂いは、もう後戻りできない感じがしていた。



  そこに、市販のルウを溶かす。



 火を止める。



 澪が袋を開ける。横濱舶来亭、中辛。粉末がさらりと器に落ちる。



「市販です」



 さつきがわざとらしく言う。



「うん、市販」



 澪は気にしない。



 お玉で清湯を少しすくい、別椀で溶く。いきなり鍋に入れない。



「慎重だな」



「ダマになるの嫌い」



 淡々と返す。



 溶けたルウが、とろりと濃い茶色になる。



 それを、ゆっくりと寸胴へ戻す。



 透明だったスープに、茶色が落ちる。



 くるり、と渦を巻く。



 さつきが鍋をのぞき込む。



「うわ……」



 清湯の琥珀色が、ゆっくりと深まっていく。



 さっきまで“出汁”だった匂いが、一段変わる。



 スパイスの香りが立つ。



 玉ねぎの甘さと、鶏の旨味が、ひとつの方向にまとまり始める。



 澪がゆっくりとかき混ぜる。



 とろみが出る。



 表面に小さな泡が立ち、重みのある湯気が立ち上る。



 さつきが両手を叩く。



「きたきたきた!」



 さっきまで理科室みたいだった鍋が、一瞬で“カレー”になる。



 俺は思わず笑う。



「すげえな」



 澪は小さく言う。



「完成形はルウの形をしてる」



 その声は静かだが、どこか満足している。



 濁りすぎない。



 軽い。



 でも、香りは立っている。



 出汁が下で支えているから、スパイスが暴れない。



 ただのスープが、カレーになる。



 部室の空気が、一気に“家の匂い”に変わる。



 さつきがスプーンを差し出す。



「味見!」



 俺たちは顔を見合わせる。



 この瞬間だけ、三人とも少しだけ笑っていた。



「いくよ」



 三人でスプーンを持つ。



 さつきが一番に口に入れる。



 少しだけ目を見開いて、それから笑う。



「好き」



 即答。



「早っ」



「だって普通に好きだもん」



 遠慮がない。



 俺も続く。



 口に入れた瞬間、出汁の甘さが先にくる。あとからルウの香りが広がる。重すぎない。ちゃんとしてる。



「ちゃんとうまい」



 思わず言う。



「ちゃんとって何」



「ちゃんと」



 語彙が死ぬ。



 澪が最後にすくう。



 一口。飲み込む。



 表情は変わらない。



「悪くない」



「出た」



「澪の“悪くない”は最高評価だから」



 さつきが笑う。



「でもさ」



 俺が鍋を見ながら言う。



「なんかさ、これ……神がかり的じゃない?」



 勢いで言っただけだった。



 一瞬、沈黙。



 さつきが吹き出す。



「なにそれ」



「神がかり的に美味しいカレー?」



 わざとらしく言う。



 澪が小さく鼻で笑う。



「長い」



「じゃあ“神がかり的に美味しくて、狂気的な手間のかかったカレー”」



「さらに長い」



「めんどくさ」



 さつきがペンを持つ。



「神のカレーでよくない?」



「急に雑」



「いいじゃん、神がかり的なんでしょ」



 俺は笑う。



「神のカレー」



 口に出すと、妙にしっくりくる。



 澪が小さく言う。



「神」



「は?」



「もうそれでいい」



「いや雑すぎるだろ」



 さつきが爆笑する。



「メニュー“神”って何」



「強すぎ」



 三人で笑う。



 でも。



 誰も否定しない。



 さつきがノートに書く。



 神がかり的に旨いカレー


 ↓


 神カレー


 ↓


 神



「略されすぎ」



「最終形態」



 わちゃわちゃしたまま、笑いが止まらない。



 そのときは、ただの内輪ノリだった。



 でも。



 ノートの端に書かれたその一文字は、やけに強く見えた。



 神。



 ふざけて決めたはずなのに、消さなかった。



 片付けの途中、澪がぽつりと言う。



「もう一回、やるか」



 流し台で手を洗いながら、振り向かないまま。



 その声は、さっきより少しだけ低い。



「え、明日?」



 さつきが笑う。



「今日で満足しないの?」



「してない」



 短い。



 俺はタオルで手を拭きながら言う。



「まだルウ一種類だしな」



「そこじゃない」



 澪が言う。



「出汁、もう少し伸びる」



 さつきが目を丸くする。



「なにそれ、もう次の話?」



 でも楽しそうだ。



 誰も否定しない。



 神Iは、ちゃんとうまかった。



 だから、このときはまだ怖くなかった。



 ただの試作。



 ただの遊び。



 ただの“ちょっと本気”。



 文化祭まで、あと四ヶ月。



 その四ヶ月で、俺たちは何回この鍋をやるんだろう。



 そのときはまだ知らなかった。



 この一文字が、Iになり、IIになり、


 気づけば引き返せないところまで行くことを。



 そして。



 それが楽しいだけじゃなくなる日が来ることも。



 部室の灯りを消す。



 廊下に出ると、もう夜だった。



 けれど、鼻の奥にはまだ、鶏の甘い匂いが残っている。



 あの匂いは、しばらく消えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ