第3話 カレー、やってみる?
サークル棟の廊下は、昼の熱をまだ抱え込んでいた。
コンクリートの床に残った体温が、靴底からじわりと伝わる。窓は半分だけ開いているが、風はほとんど入ってこない。蛍光灯の白い光が天井に並び、低く小さく唸っている。ところどころ、光がわずかに瞬く。
掲示板の前には、人が溜まっていた。履修変更の案内、軽音のライブ告知、ボランティア募集、アルバイトのチラシ。カラフルな紙が層になって重なり、端がめくれている。セロハンテープが黄ばんで、空気に剥がれかけているものもある。
近くを通る学生の話し声が、廊下に反射して広がる。スニーカーの擦れる音。自転車の鍵がぶつかる金属音。遠くの階段から誰かが駆け下りる振動が、微かに床を震わせる。
その中で、一枚だけ、赤いマーカーで大きく囲まれた紙が目に入った。
大学祭出店団体募集。
白地に黒い文字。その周囲をなぞる赤い線が、妙に強い。紙の端はまだ新しく、折れ目もない。貼られたばかりなのだとわかる。
周囲のチラシが“今”を消費しているのに対して、その紙だけが“これから”を差し出しているように見えた。
「これか」
俺が足を止めると、すぐ横に気配が近づいた。
さつきが、俺の肩越しに掲示板を覗き込む。
ただ、それだけの動きなのに、距離が近いと急に意識してしまう。腕が触れるか触れないか、そのぎりぎり。まとめた髪から、後れ毛が一本だけ落ちている。特別な匂いがするわけでもない。ただ、洗いたての空気みたいな清潔さがある。
俺はポスターの文字を読んでいるはずなのに、視界の端が少し落ち着かない。
「やる?」
声は軽い。
本当に軽い。
何かを決めようとしている声ではなく、ただ思いついたことを口にしただけ、という響き。
目も、押してこない。試すようでもない。
ただ、俺がどう思うのかを待っている。
「文化祭だよ?」
俺が言うと、さつきは少しだけ首を傾ける。
「うん。だから?」
理屈じゃない、という顔だ。
冗談でも挑発でもない。ただ、本気で“やるかどうか”を考えている目。
その自然さに、少しだけ戸惑う。
俺は視線をポスターに戻す。
「屋台って、何出すの? 焼きそばとか? 唐揚げ?」
「被るでしょ、それ」
さつきは小さく笑う。
笑い方も、特別ではない。大きくもないし、媚びる感じもない。ただ、当たり前のことを言ったみたいに肩をすくめる。
でも、その肩の動きひとつで、場の空気が柔らかくなる。
俺は気づく。
この人は、自分がどれくらい空気を動かしているのか、たぶん知らない。
そしてたぶん、それがいちばん厄介だ。
少し離れたところで、澪が腕を組んでポスターを見ている。
さつきの周りに人の気配が集まるのに対して、澪のいる場所は静かだ。騒がしさの中で、そこだけ輪郭がはっきりしている。
背筋が伸びている。動かない。視線は一点に固定されたまま。話しかければ返すだろうが、自分からは入らない、という距離感。
「カレー」
ぽつり、と言う。
声は低くも高くもない。ただ、迷いがない。
俺とさつきがそちらを見る。
澪は腕を組んだまま、ポスターから目を離さない。
「どうせ出るなら」
それだけ。
冗談の空気に乗らない。笑いも混ぜない。
けれど、本気で言っているのは伝わる。
軽い提案ではなく、決めにいく言葉。
さつきが柔らかく場を動かすなら、澪は一度止めてから進める。
たぶん、その違いだ。
ぽつり、と言った。
「カレー」
「え?」
「どうせ出るなら、カレー」
間があった。
冗談にしては長い間だった。
「普通すぎない?」と俺。
澪は視線を外さない。
「普通じゃないやつにする」
説明はない。
言い切るだけ。
その瞬間、さっきまで軽かった空気が、わずかに締まる。
さつきが小さく息を吐く。
「カレー、やってみる?」
軽い声のまま。
でも今度は、少しだけ様子をうかがっている。
澪が腕を解く。
「やるなら、本気で」
短い。
ただ、それだけ。
廊下のざわめきが、急に遠くなる。
赤いマーカーで囲まれたポスターが、さっきよりも現実味を帯びて見える。
俺は一瞬だけ考える。
やらなければ、何も起きない。
やれば、何かが起きる。
たぶん、ここが分かれ目だ。
さつきが笑う。
「じゃあ、カレーだね」
軽く言ったはずなのに、その言葉が決定になる。
澪はうなずく。
俺も、否定しなかった。
それで決まった。
たったそれだけで、俺たちは文化祭に出ることになった。
***
部室に戻ると、折りたたみ机の上にノートとペンが広がっていた。
六畳ほどの部屋。窓は西向きで、夕方の光が斜めに差し込んでいる。ブラインドの隙間から入る橙色の線が、机の上に細い影を落としている。
壁際には小さな流し台。ガスコンロは一口だけ。使い込まれたまな板が立てかけられ、乾ききらない布巾が蛇口にかかっている。棚の上には調味料のボトルが雑多に並び、蓋の縁に乾いた醤油の跡が残っている。
冷蔵庫のモーター音が、低く一定に響く。
折りたたみ机は少し傾いていて、足の一本に段ボールが挟まれている。机の表面には細かい包丁傷が無数に走っている。
その上に、大学ノートが三冊。ボールペン、シャーペン、消しゴム。誰かが置いたままのスマホが振動して、机がかすかに鳴る。
窓の外では、グラウンドから運動部の掛け声が聞こえる。ボールを打つ乾いた音。遠くで笑い声。
この部屋だけが、少しだけ別の時間で動いている。
さつきが椅子を引く。脚が床をこすり、細い音が響く。
澪は黙ってノートを自分の前に引き寄せる。
俺は立ったまま、机の上を見下ろす。
さっきまでただの学生だったのに、急に“何かを決める側”に立たされた気がした。
「カレーは?」
俺が言うと、澪が視線を上げる。
「普通のはやらない」
「じゃあ何。スパイスから?」
文化祭でカレーといえば、だいたいそういう方向だ。
澪は首を振る。
「違う」
「え」
「出汁から」
一瞬、間が空く。
「スパイスじゃなくて?」
「スパイスは後」
澪は淡々としている。
「まず土台。味の骨格」
さつきがペンを止める。
「それ、文化祭だよ?」
「だから」
澪は言う。
「スパイスで派手にするのは簡単。でも、それって誰でもできる」
少しだけ、間。
「出汁をちゃんとやったカレーのほうが、たぶん残る」
俺は苦笑する。
「いや普通、逆でしょ。スパイス研究会みたいになるやつだよ」
「それは面白くない」
きっぱり。
「じゃあルゥは?」
「市販」
「は?」
さつきが素で聞き返す。
「スパイスからやらないのに、市販ルゥ?」
「うん」
澪はあっさり言う。
「ルゥは完成品。そこをいじらない。その代わり、下を変える」
ひねくれている。
でも理屈は通っている。
俺は笑う。
「なんでそんな遠回りするの」
「近道だから」
澪は真顔のまま言う。
「出汁がうまければ、失敗しにくい」
さつきが小さく吹き出す。
「なにそれ。攻めてるのか守ってるのかわかんない」
「両方」
短い返事。
机の上に、少しだけ沈黙が落ちる。
スパイスからじゃない。
ルゥは市販。
でも出汁は本気。
王道をやらないくせに、手は抜かない。
ひねくれてる。
でも、たぶんこれが澪だ。
「……面白いかもね」
さつきがノートに書く。
カレー(出汁から)。
その括弧が、妙に挑発的に見えた。
***
その日の夕方、俺たちは駅前のスーパーを出たところだった。
「ないね」
さつきがスマホをしまう。
精肉コーナーの端から端まで見た。冷蔵ケースの下段まで覗いた。手羽元、むね肉、ささみ、モモ肉。きれいに並んだパックはあるのに、欲しいものだけがない。
鶏ガラ。
「今どき置いてないのか」
「需要ないでしょ」
澪は淡々としている。
二軒目は少し古い商店街の店だった。店内は狭く、通路が人ひとり分しかない。天井からぶら下がる蛍光灯が白く強い。揚げ物の油の匂いがこもっている。
「ガラ? ああ、今日はもう出ちゃったね」
店主が言う。
出るんだ。
俺は少し驚く。
三軒目は郊外の大型店だった。自動ドアが開くたびに冷気が流れ出る。広い精肉コーナー。整然と並んだパック。値札の赤いシール。
奥の、ほとんど見られていない棚の下段。
「あった」
澪が短く言う。
透明な袋の中に、骨の形がそのまま見える。白く、少し赤みが残る断面。
さつきがしゃがみ込む。
「ほんとに買うの?」
「買う」
澪はカゴに入れる。
ごとり、と重い音がする。
野菜や菓子パンの軽い重さとは違う。明らかに“仕込み”の重さだ。
レジに並ぶ。前の客は冷凍食品とアイスだけ。俺たちのカゴの中身は、ガラ、玉ねぎ、にんじん、ローリエ。
店員が袋詰めをしながら、少しだけ視線を止める。
俺はレシートを受け取りながら思う。
ほんとにやるんだな。
軽口じゃない。
部室に戻れば、寸胴を出して、水を張って、アクをすくう。
文化祭の屋台のために。
さつきが袋を持ち直す。
「重っ」
笑う。
澪は何も言わない。
でも歩く速度は少しだけ早い。
俺はその背中を見て訊いた。
「ほんとにやるんだな」
ビニール袋の中で、鶏ガラがぶつかる。ごと、と鈍い音がする。
俺は半分冗談のつもりで言ったはずなのに、声が少しだけ低くなった。
「もう戻れないよ?」
さつきが笑う。
重たい袋を両手で持ちながら、いつも通りの顔で。
でも、その言い方は軽くても、目は少しだけ真面目だ。
「まだ今日だよ?」
俺が言う。
「まだ仕込みもしてない」
「うん」
さつきはあっさりうなずく。
「でもガラ買ったし」
事実だけを言う。
それが妙に現実的で、逃げ道を消していく。
「戻る気あるの?」
澪が言う。
横を歩きながら、視線は前のまま。
責める調子ではない。ただ、確認している。
俺は少しだけ言葉に詰まる。
やめようと思えばやめられる。
文化祭の締切はまだ先だ。
誰かに迷惑をかけるわけでもない。
でも。
袋の中で、骨がもう一度鳴る。
ごと。
俺は笑う。
「ない、たぶん」
さつきが肩をすくめる。
「だよね」
その一言で、空気が決まる。
澪は何も言わない。
ただ、歩幅が少しだけ揃う。
夕方の風が、スーパーの袋を揺らす。ビニールがぱさ、と鳴る。
俺はその音を聞きながら思う。
戻れないんじゃない。
戻らないことにしたんだ。
部室の小さなキッチンに、寸胴鍋が置かれる。蛇口をひねり、水を張る。澄んだ水面に、鶏ガラを沈めていく。骨が底に触れるたび、鈍い音がする。
火をつける。
青い炎が鍋底をなめる。
しばらくは何も起きない。ただ、静かに温度が上がっていく。
やがて、鍋肌に細かな泡がまとわりつく。底から、小さな気泡がひとつ、ふたつと浮き上がる。水面がわずかに揺れる。
アクが浮く。
灰色がかった泡が、ゆっくりと広がる。
「地味だな」
俺が言う。
見た目はただの湯だ。
「地味な作業の先にしか、派手なのはない」
澪は黙ってお玉を差し入れる。表面だけを静かにすくう。揺らさない。濁らせない。
灰色の泡が消えていく。
水が、少しずつ澄んでいく。
生っぽい匂いが、ゆっくりと変わる。骨の奥から、やわらかい甘さが立ち上る。鶏の脂が、薄い膜になって光を反射する。
香味野菜を入れる。
玉ねぎの皮、にんじんの端、セロリの根。水面に浮き、やがて沈む。
湯気の匂いが一段変わる。
さっきまでただの熱湯だったものが、少しずつ“出汁”になっていく。
鍋の中は、騒がない。
強く沸かせない。
静かに、ゆっくりと。
透明なまま、旨味だけを引き出していく。
派手さはない。
でも、確実にうまくなる匂いがしている。
***
数時間後。
透明な鶏清湯ができあがる。
寸胴の中は、澄んだ琥珀色。底まで見える。湯気がゆらりと立ち、鶏の甘い匂いが部室いっぱいに広がっている。
「うわー、成功じゃん!」
さつきが身を乗り出す。顔が近い。
「ちゃんと透明! すごくない?」
テンションが高い。素直に喜ぶ。
澪はお玉でそっとすくい、光にかざす。
「濁ってない」
短い評価。
でも目が少しだけ柔らかい。
俺がすすってみる。
「……あ、うま」
塩も入れてないのに、ちゃんと甘い。
「ね? ね?」とさつき。
「これもうスープとして売れるよ」
「売らない」
澪が即答する。
「今日は実験」
「実験って言い方やめなよ。なんか怖い」
さつきが笑う。
隣のコンロにフライパンを置く。
「玉ねぎ担当いきます!」
宣言してから油を引く。じゅ、と音が鳴る。
刻んだ玉ねぎを広げる。
「今日は焦がさないからね」
「前焦がしただろ」
「焦がしてない、攻めただけ」
澪が横から見る。
「弱火」
「はいはい」
でもちゃんと火を落とす。
玉ねぎがゆっくり透明に変わる。甘い匂いが立ち上る。
俺は別鍋で肉を焼く。
「強火でいい?」
「焼き目つけて」
澪が言う。
肉が音を立てる。脂が跳ねる。部室の空気が一気に変わる。
「うわ、急に飯だ」
さつきが笑う。
フライパンの底に残った茶色い旨味。
「それ、残して」
澪が清湯をお玉一杯すくう。
じゅわ、と音が弾ける。
香りが跳ねる。
「やばっ」
さつきが声を上げる。
「急にプロっぽい!」
「ただの理科」
澪は淡々としている。
でもほんの少しだけ口元が上がる。
炒めた具材を、寸胴に合流させる。
透明だった清湯が、ほんのり色づく。
香ばしさと甘さが重なり、部室の空気が完全に“食べ物の匂い”になる。
さつきが鍋をのぞき込む。
「これさ、文化祭関係なくない?」
「関係ない」
澪は即答する。
「まず自分たちが納得するやつ」
俺は笑う。
「じゃあこれは何」
「練習」
「壮大すぎる練習だろ」
さつきが吹き出す。
「でも楽しいからいい!」
その一言で、空気がまた軽くなる。
これはまだ屋台のカレーじゃない。
ただ、三人が面白がってるだけの鍋だ。
でも。
その匂いは、もう後戻りできない感じがしていた。
そこに、市販のルウを溶かす。
火を止める。
澪が袋を開ける。横濱舶来亭、中辛。粉末がさらりと器に落ちる。
「市販です」
さつきがわざとらしく言う。
「うん、市販」
澪は気にしない。
お玉で清湯を少しすくい、別椀で溶く。いきなり鍋に入れない。
「慎重だな」
「ダマになるの嫌い」
淡々と返す。
溶けたルウが、とろりと濃い茶色になる。
それを、ゆっくりと寸胴へ戻す。
透明だったスープに、茶色が落ちる。
くるり、と渦を巻く。
さつきが鍋をのぞき込む。
「うわ……」
清湯の琥珀色が、ゆっくりと深まっていく。
さっきまで“出汁”だった匂いが、一段変わる。
スパイスの香りが立つ。
玉ねぎの甘さと、鶏の旨味が、ひとつの方向にまとまり始める。
澪がゆっくりとかき混ぜる。
とろみが出る。
表面に小さな泡が立ち、重みのある湯気が立ち上る。
さつきが両手を叩く。
「きたきたきた!」
さっきまで理科室みたいだった鍋が、一瞬で“カレー”になる。
俺は思わず笑う。
「すげえな」
澪は小さく言う。
「完成形はルウの形をしてる」
その声は静かだが、どこか満足している。
濁りすぎない。
軽い。
でも、香りは立っている。
出汁が下で支えているから、スパイスが暴れない。
ただのスープが、カレーになる。
部室の空気が、一気に“家の匂い”に変わる。
さつきがスプーンを差し出す。
「味見!」
俺たちは顔を見合わせる。
この瞬間だけ、三人とも少しだけ笑っていた。
「いくよ」
三人でスプーンを持つ。
さつきが一番に口に入れる。
少しだけ目を見開いて、それから笑う。
「好き」
即答。
「早っ」
「だって普通に好きだもん」
遠慮がない。
俺も続く。
口に入れた瞬間、出汁の甘さが先にくる。あとからルウの香りが広がる。重すぎない。ちゃんとしてる。
「ちゃんとうまい」
思わず言う。
「ちゃんとって何」
「ちゃんと」
語彙が死ぬ。
澪が最後にすくう。
一口。飲み込む。
表情は変わらない。
「悪くない」
「出た」
「澪の“悪くない”は最高評価だから」
さつきが笑う。
「でもさ」
俺が鍋を見ながら言う。
「なんかさ、これ……神がかり的じゃない?」
勢いで言っただけだった。
一瞬、沈黙。
さつきが吹き出す。
「なにそれ」
「神がかり的に美味しいカレー?」
わざとらしく言う。
澪が小さく鼻で笑う。
「長い」
「じゃあ“神がかり的に美味しくて、狂気的な手間のかかったカレー”」
「さらに長い」
「めんどくさ」
さつきがペンを持つ。
「神のカレーでよくない?」
「急に雑」
「いいじゃん、神がかり的なんでしょ」
俺は笑う。
「神のカレー」
口に出すと、妙にしっくりくる。
澪が小さく言う。
「神」
「は?」
「もうそれでいい」
「いや雑すぎるだろ」
さつきが爆笑する。
「メニュー“神”って何」
「強すぎ」
三人で笑う。
でも。
誰も否定しない。
さつきがノートに書く。
神がかり的に旨いカレー
↓
神カレー
↓
神
「略されすぎ」
「最終形態」
わちゃわちゃしたまま、笑いが止まらない。
そのときは、ただの内輪ノリだった。
でも。
ノートの端に書かれたその一文字は、やけに強く見えた。
神。
ふざけて決めたはずなのに、消さなかった。
片付けの途中、澪がぽつりと言う。
「もう一回、やるか」
流し台で手を洗いながら、振り向かないまま。
その声は、さっきより少しだけ低い。
「え、明日?」
さつきが笑う。
「今日で満足しないの?」
「してない」
短い。
俺はタオルで手を拭きながら言う。
「まだルウ一種類だしな」
「そこじゃない」
澪が言う。
「出汁、もう少し伸びる」
さつきが目を丸くする。
「なにそれ、もう次の話?」
でも楽しそうだ。
誰も否定しない。
神Iは、ちゃんとうまかった。
だから、このときはまだ怖くなかった。
ただの試作。
ただの遊び。
ただの“ちょっと本気”。
文化祭まで、あと四ヶ月。
その四ヶ月で、俺たちは何回この鍋をやるんだろう。
そのときはまだ知らなかった。
この一文字が、Iになり、IIになり、
気づけば引き返せないところまで行くことを。
そして。
それが楽しいだけじゃなくなる日が来ることも。
部室の灯りを消す。
廊下に出ると、もう夜だった。
けれど、鼻の奥にはまだ、鶏の甘い匂いが残っている。
あの匂いは、しばらく消えなかった。




