第23話 プレリュード
後片付けが始まった。
テントを畳む。鍋を洗う。器を重ねる。コンロを拭く。
誰も指示しない。三人がそれぞれ手を動かす。さっきまでの喧騒が嘘みたいだった。行列がいた。人がいた。声があった。今は風の音だけがある。
でも体がまだ覚えていた。ライスを盛る動作。カレーをかける動作。「ありがとうございます」を繰り返した喉。全部がまだそこにあった。
鍋を洗いながら、さつきが言った。
「ねえ、完売したね」
「したな」と晃が言った。
「完売って言葉、初めて使った」
「俺も」
澪が「俺も」と言った。
三人とも手を動かしながらだった。顔を見合わせていなかった。でも笑っていた。たぶん三人とも、同じ顔をしていた。
晃がスマホを確認した。
フォロワーが増えていた。文化祭が終わってから、まだ三時間も経っていない。それでも増えていた。さっきより増えていた。さっきより前よりも増えていた。止まっていなかった。
「さつき、澪」と言って、画面を向けた。
二人が覗いた。
さつきの目が少し大きくなった。「すごいね」と言った。声が掠れていた。泣いたあとの声だった。
間があった。
「うん」と晃が言った。
澪は画面を一度見た。それから鍋洗いに戻った。
何も言わなかった。でも晃には、澪がちゃんと見たのがわかった。一秒だけ、手が止まっていた。澪が手を止めるのは、澪が何かを感じているときだ。晃はそれを知っていた。
それで十分だった。
作業が続いた。鍋が綺麗になっていく。テントが畳まれていく。今日の痕跡が、少しずつ片付いていく。
でも全部が終わっても、今日は消えない。晃はそう思った。体の中にある。腕の疲れの中に。喉の中に。今日ここに来た人たちの顔の中に。
風が通った。十月の終わりの、乾いた風が吹く。
───
後片付けが終わった。
三人がテントの端に座った。体が重かった。夕方の光が低くなっていた。秋の風が通った。
誰も立ち上がらなかった。立ち上がれた。でも立ち上がる必要がなかった。
さつきが「あの子ども、からいって言ってたね」と言った。
「うん」と晃が言った。
「でもおいしいって言ってた」
さつきが少し笑った。疲れた笑い方だった。でも本物だった。
澪が「豚肉、もう少し薄く切ってよかったかもしれない」と言った。
晃が「え、今その話?」と言った。
「今じゃないとしない」
さつきがまた笑った。今度は少し声が出た。
三人、しばらく黙っていた。空を見ていた。低い雲が西から流れていた。
「神I、覚えてる」とさつきが言った。
唐突だった。でも晃には、なぜ今その話になったかわかった気がした。
「覚えてる」と晃が言った。
「焦げたね」
「焦げた」
「でも三人で全部飲んだ」
「飲んだな」
澪が「あれは失敗だった」と言った。「でも必要だった」
さつきが「神IIで、私たちのって言ったの覚えてる?」と晃に言った。
「覚えてる」
「あのとき晃、変な顔してた」
「してない」
「してた。なんか、急に気づいたみたいな顔」
晃は否定しなかった。たぶん、してた。私たちの、という言葉に自分が入っていると気づいた瞬間だった。それまで成り行きで鍋の前に立っていた自分が、いつの間にかそこにいた。
「神IIIで澪が整いすぎって言ったとき」とさつきが続けた。「あれ最初意味わかんなかったけど、今はわかる」
「何がわかった」と澪が言った。
「完璧にしようとしてたんだよね、私。でもそれって、怖かっただけで」
澪が何も言わなかった。否定もしなかった。
「神IVの夜、数字が動いたとき怖かった」とさつきが言った。声が少し低くなった。「あれから、しばらくおかしかったと思う。自分でもわかってた」
「わかってた」と晃が言った。
「言ってくれればよかったのに」
「言えなかった」
「なんで」
晃は少し考えた。「言葉がなかった」と言った。「でも、いなくなろうとは思わなかった」
さつきが晃を見た。
「そっか」とさつきが言った。小さい声だった。
澪が「SNSで神IVの投稿を見てたって人、来てたな」と言った。
「気づいてた」と晃が言った。
「どんな気持ちだった」とさつきが聞いた。
「重かった」と晃が言った。「神IVを作ったあの夜のこと、全部思い出した。でも、今日渡せた。それでよかった」
さつきが「うん」と言った。
澪は何も言わなかった。でも晃には、澪が同じことを思っていると分かった。
三人の会話が止まった。
同じ場所に座っているのに、それぞれが少し遠くを見ていた。でも向いている方向は、たぶん同じだった。
しばらく黙っていた。
さつきが「晃、覚えてる」と言った。
「何を」
「入ってきたとき私が言ったこと。一年生の春は、みんな一年だよって」
「覚えてる。意味わかんなかった」
「今もわかんなくていいんだけど」
少し間があった。
「なんか、思い出しただけ」
晃は「そっか」と言った。
その言葉だけが、夕方の空気に浮いたまま、どこへも行かなかった。
でも晃は、意味を聞かなかった。聞かなくてもいい気がした。
神Iから始まった。焦げたスープから始まった。怖かった夜があった。壁越しの声があった。整いすぎた料理があった。溶けた野菜があった。空の寸胴があった。
全部が今日に繋がっていた。
今日という日に、それで十分だった。
───
帰り道、晃はスマホを見た。
コメントが増えていた。「神V食べた、一生もの」「来年も絶対行く」「YouTube始めてほしい」。
DMが来ていた。「次は何ですか?」
次。
まだ今日が終わっていないのに、次の話をしている人がいる。晃は少しおかしかった。おかしいというより、そうか、と思った。続くんだ、と思った。
晃はアプリを閉じた。
LINEのグループに通知が来ていた。
澪から「次どうする」。
さつきから「次何作る?」。
神Vが終わった夜に、もう次の話をしていた。ほぼ同時だった。
晃はしばらく画面を見ていた。
今日一日のことが、まだ体の中にあった。腕の疲れ。足の痛み。あの子どもの「でもおいしい!」。さつきがテントの端で泣いていたこと。澪が空の鍋にお玉を入れたこと。全部出た、という一言。
全部、まだそこにあった。
坂を下りた。信号が赤だった。止まった。
十月の終わりの風が、首筋に触れた。
スマホを出した。LINEを開いた。
「考えてる」と打った。
送信した。
既読がついた。二人同時に。
信号が青になった。
晃は歩き始めた。
その夜、自炊研究会のインスタグラムのアカウントに、見知らぬ誰かが動画をタグ付けした。
文化祭当日の映像だった。来場者が撮ったらしかった。
行列。神Vのカレーを受け取る人たちの顔。子どもが一口食べて「からい!」と言う場面。さつきが笑う場面。澪が鍋をかき混ぜている背中。晃が器を渡している手。湯気。並ぶ人。また湯気。
三人は撮られていたことを知らなかった。
その夜、三人はそれぞれの部屋で寝ていた。
疲れ切っていたから、すぐに眠れたと思う。
動画は回り始めた。
三人が眠っている間も、止まらなかった。
三日後、三人がファミレスにいた。
ドリンクバーのコーヒーが、それぞれのカップに入っていた。窓の外は昼の昭和区だった。銀杏がある。黄色くなりかけていた。
「YouTube、やるか」と晃が言った。
「やる」とさつきが言った。迷わなかった。
澪がコーヒーを一口飲んだ。
「チャンネル名、どうする」とさつきが言った。
「自炊研究会でいい」と澪が言った。
「そのままか」
「そのままがいい」
変えなくていい。変える必要がない。晃もそう思った。
晃がスマホを出した。YouTubeのアプリを開いた。チャンネル作成のページに進んだ。
「名前、自炊研究会」と打った。
さつきが覗き込んだ。「説明文は」と聞いた。
「あとでいい」と澪が言った。
「作成、押すぞ」と晃が言った。
「押せ」とさつきが言った。
「押せ」と澪が言った。
澪も言った。晃は少し驚いた。でも何も言わずに、押した。
画面が切り替わった。
自炊研究会のYouTubeチャンネルができた。
登録者数、ゼロ。
三人でその画面を見た。
誰も何も言わなかった。
神Iを作った夜も、こんな感じだった。何もなかった。鶏ガラと水と、誰も正解を知らない三人だけがいた。それでも火をつけた。スープは焦げた。でも飲んだ。三人で全部飲んだ。
あの夜もゼロだった。
「ゼロから始まるんだな」とさつきが言った。
「当たり前だろ」と澪が言った。
「神Iもゼロから始まったしな」と晃が言った。
誰も返さなかった。
でも返す必要がなかった。三人とも、同じことを思っていたから。
窓の外で、銀杏の葉が風に揺れていた。
晃がスマホをテーブルに置いた。画面が上を向いていた。チャンネルのページが開いたままだった。
登録者数、ゼロ。
インスタグラムのフォロワーは、今も増え続けていた。文化祭の動画はまだ回っていた。「次いつやるの」というコメントが、毎日積まれていた。
でも今この瞬間、画面の中にあるのはゼロだけだった。
それだけがそこにあった。
また、始まる。
───続きは「いただきますのフーガ」へ。




