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第22話 文化祭

列ができていた。


開店は十一時だった。でも十時四十分には、テントの前に人が立っていた。


晃が気づいたのは、さつきがソーセージを焼いている最中だった。鉄板の上で弾ける音。香ばしい匂い。その向こうに、スマホを持った学生が三人、テントを見ていた。


「もう来てる」とさつきが言った。鉄板から目を離さずに。


「まだ開いてない」と晃が言った。


「わかってると思う。でも来てる」


澪が温度計を見た。「八十五度。維持できてる」


神Vが鍋の中にあった。三日間かけて作ったものが、今ここにある。昨夜部室で保温しておいたものを、朝一番で火にかけ直した。移した瞬間、匂いが広がった。隣のテントの人が振り返った。「何ですかそれ」と聞いてきた。「カレーです」と晃が言った。「普通のカレーの匂いじゃない」とその人が言った。


晃は何も言わなかった。そうです、と言うのが照れくさかった。


「準備、いい?」とさつきが言った。


「いい」と澪が言った。


「晃は」


「いつでも」


さつきがエプロンの紐を一度引き直した。


油の跡が散っている。三日間の跡だ。でも晃には、もっと古いものに見えた。


最初に会ったとき、さつきのエプロンにはすでに跡があった。誰かと料理をしてきた跡が。あのとき晃は、このサークルに長居するつもりはなかった。成り行きで入って、成り行きで関わって、そのうち離れると思っていた。


でも鍋に火をつけた。誰も動かなかったから、ただそれだけの理由で。


神Iは焦げた。神IIで三人という形が少し見えた。神IIIで澪が「整いすぎ」と言った。神IVの数字が動いた夜、晃は怖くなった。失敗したほうが楽だと思った。距離が崩れることが怖かった。でも誰も止まらなかった。さつきも、澪も、怖がりながら止まらなかった。


だから晃も止まらなかった。それだけだった。


さつきが壁越しに「怖い」と言った夜があった。澪が「俺もだよ」と返した。あのとき晃は何も言えなかった。言葉がなかった。今も言葉はない。でも今は、言葉がなくていいと思っている。


塩で口論した深夜があった。澪とさつきが鍋を挟んで黙っていた。晃が間に入った。なぜ入れたのかわからない。ただ、そうするのが自分の役割だと思った。成り行きで決まった役割だった。でも今は、それでいいと思っている。


「どうして自分がこのキッチンにいるのか」と問い続けてきた。


答えはまだ出ていない。


でも今は、出なくていいと思っている。


さつきはエプロンの跡を見なかった。見る必要がなかった。三日間分の跡は、確かにそこにある。それで十分だった。


さつきが前を向いた。


「開けよう」



───




十一時。



最初の一人が来た。大学生らしい女性だった。スマホを手に持っていた。



「神Vですか」



「そうです」とさつきが言った。



「インスタ見てました。一杯ください」



盛った。ライスにカレーをかけた。渡した。



その人が一口食べた。



動きが止まった。



三秒、止まっていた。



「……やばい」と言った。小さい声だった。自分に言い聞かせるような声だった。「何これ」



次の人が来た。その後ろにもいた。



十分後、列ができていた。



晃が列を見た。想定では三十分後に行列が伸びる計算だった。十分で崩れた。



喜ぶ暇がなかった。列が来た瞬間に、頭が切り替わった。嬉しいとか、やったとか、そういう感情が浮かぶより先に、手が動いていた。



「売り切れる」と晃が言った。



「量は足りる」と澪が言った。



「本当に?」



「足りる。信じろ」



「……わかった」



手を動かし続けた。ライスを盛る。カレーをかける。トッピングを乗せる。渡す。受け取る。また盛る。



気づけば列が折れ曲がっていた。



「ちょっと」とさつきが晃の袖を引いた。一瞬だけ。ソーセージを焼きながら。「見た?あの列」



「見てる」



「想定の倍ある」



「わかってる」



「笑っていい?」



「笑うな、手が止まる」



さつきが「うっ」と言った。笑いを堪えている音だった。堪えきれていなかった。口角が上がったまま次の客に「いらっしゃいませ」と言っていた。



澪がちらりとさつきを見た。「なに笑ってる」と言った。



「だって」とさつきが言った。「だってこれ、さすがにおかしくない?」



澪が列を一度だけ見た。それから鍋に視線を戻した。



「おかしい」と澪が言った。



それだけだった。でも澪にしては珍しい言い方だった。晃には、それが澪なりの「笑い」だとわかった。



ライスを盛る。カレーをかける。渡す。



「ありがとうございます」



また次が来る。



手だけが動いていた。感情は後回しだった。でも三人の間に、確かに何かが流れていた。言葉にならない、でも確かにある何かが。喜びとも興奮とも違う。もっと静かで、もっと熱いもの。



これを作った。俺たちが、これを作った。



それだけだった。それで十分だった。


───





十二時。



行列が、テントの外まで出ていた。



学祭のメイン通りは南北に伸びている。出店が並んで、人が流れて、どのテントも賑わっている。その中で北山大の自炊研究会のテントだけ、列の向きが違った。通りを横切るように、折れ曲がっていた。



通りを歩いていた人が足を止めた。「何の列?」と連れに聞いていた。「カレーらしい」「カレー?」「なんか有名なやつ」。その二人が列の後ろについた。



晃はそれを横目で見た。見ただけで、手を止めなかった。



テントを撮影しているスマホが見えた。鍋を撮っている人がいた。器を持ったまま写真を撮っている人がいた。食べながら動画を撮っている人がいた。その画面の向こうに、何千人かがいる。



晃のスマホが震えた。ポケットの中で、さっきから断続的に震え続けていた。取り出す暇がなかった。



「晃」とさつきが言った。すれ違いざまに。



「わかってる」と晃が言った。



何がわかってるのかは言わなかった。でもさつきは「うん」と言った。それで十分だった。



ライスを盛る。カレーをかける。渡す。



「ありがとうございます」



また次が来る。



「ちょっと待ってください、今すぐお出しします」



また次が来る。



晃のポケットのスマホが震え続けていた。通知が来ていた。インスタのフォロワーが増えていた。リポストが回っていた。コメントが増えていた。



「並んでる」「この匂いやばすぎ」「海老が強い、何これ」「三層カレーって本当にあったんだ」「泣きそう、美味しすぎて」「北山大どこ?」「来年絶対行く」「もう完売してたらどうしよう」



見ていない。でも震えが止まらないからわかった。



澪が「晃」と呼んだ。



「何」



「ライスの量、今から少し絞る。後半が持たない」



「わかった」



「さつきに伝えろ」



「さつき」



「聞こえてた」とさつきが言った。三人とも、互いを見ていなかった。鍋と列と客を見ていた。でも全員が繋がっていた。



さつきが試食用の小皿を持って、列の前に出た。「お待ちの方、少しどうぞ」と言いながら配り始めた。



待っている人たちの顔が変わった。一口食べた瞬間、動きが止まる。また動き出す。隣の人に何か言う。隣の人も食べる。また止まる。その連鎖が列の中を伝わっていった。



子どもが一人いた。小学生くらいだった。母親と一緒に並んでいた。さつきが小皿を差し出した。子どもが一口食べた。



「からい!」



「ごめん」とさつきが言った。



「でもおいしい!」



さつきが笑った。



作った笑いではなかった。それは晃にもわかった。さつきがこの顔をするとき、本当に嬉しいときだ。人に届いたとき。届けたかった誰かに、届いたとき。



でも晃には、さつきの顔を見ている時間がなかった。一秒だけ見て、また鍋に向いた。



ライスを盛る。カレーをかける。渡す。



腕が痛くなってきていた。気づかないふりをした。



───


十三時。


ピークが、少し落ち着いていた。


少しだけだ。列はまだある。でも十二時の折れ曲がり方ではなくなっていた。流れが生まれていた。晃の腕の痛みが、ようやく意識に上がってきた。さっきまでは気づく暇もなかった。


「ちょっと待って」と澪が晃に言った。


「何」


「今整える。三分待て」


鍋の中を見ていた。煮詰まっていた。三時間近く保温し続けた鍋は、少し塩気が上がっていた。澪はすぐに気づいていた。水を少量加えた。かき混ぜた。温度を確認した。


「列が止まる」と晃が言った。


「三分でいい」


澪の手が止まらなかった。かき混ぜながら、スプーンで一口確認した。また少し水を足した。もう一口確認した。


晃はその間、列に向かって「少々お待ちください」と言い続けた。並んでいる人たちが、鍋を覗き込んでいた。何をしているんだろうという顔をしている人もいた。でも誰も離れなかった。


さつきが晃の隣に来た。小声で「大丈夫?」と言った。


「澪が直してる」と晃が言った。


「そっか」


それだけで、さつきは列の方を向いた。「お待たせしております」と明るい声で言った。列の空気が少し緩んだ。さつきにはそれができる。晃にはできない。


「いい」と澪が言った。


それだけだった。でもその三分で、鍋は最初の状態に戻っていた。最後の一杯まで同じ味で出す。それが澪のやり方だった。三日間ずっとそうだった。深夜も、疲れていても、澪だけは鍋から目を離さなかった。


晃は何も言わなかった。言う必要がなかった。


列が再び動いた。


さつきが戻ってきた。「澪ってすごいな」と小声で言った。


「最初からそうだった」と晃が言った。


さつきが「そうだね」と言った。少し間を置いて。「晃もそうだよ」と言った。


晃は答えなかった。ライスを盛った。カレーをかけた。渡した。


「ありがとうございます」


また次が来た。


───


十四時。


列が落ち着いてきた。


折れ曲がっていた行列が、テントの前だけになっていた。流れが見えるようになっていた。一人に向き合う時間が、少しだけ生まれていた。


一人の女性が来た。二十代くらいだった。スマホを胸の前に持っていた。


「あの」と言った。「フォローしてます。ずっと見てました」


さつきが「ありがとうございます」と言った。


「神IVの投稿、何回も見ました。合宿で作ったやつ。あれ見て、絶対食べたいって思って。文化祭に出るって知って、今日来ました」


さつきの手が、一瞬だけ止まった。


神IV。合宿の夜。三人で作ったあのカレー。投稿したら数字が動いた。怖くなった夜。さつきが崩れていった始まりの夜。あの投稿を、この人はずっと見ていた。


「来てくれたんですね」とさつきが言った。


「はい」と女性が言った。「遠かったけど来ました。名古屋じゃないので」


さつきが器を手に取った。ライスを盛った。カレーをかけた。ゆで卵を乗せた。チーズをかけた。渡した。


女性が一口食べた。


止まった。


「神IVの投稿で想像してた味と」と女性が言った。「全然違う。もっとすごい」


「ありがとうございます」とさつきが言った。


女性が「また来ます」と言って離れた。


さつきがしばらく、その背中を見ていた。晃も見ていた。


「さつき」と晃が言った。


「うん」とさつきが言った。前を向いた。


次の人が来た。大学生らしい男性だった。「インスタ見て来ました。鶏と海老が同時に来るってコメントにあって」と言った。


「そうです」とさつきが言った。「鶏が底にいて、海老が後ろから来ます」


「え、そんな説明できるんですか」


「三日間作ってたので」


男性が「三日間」と繰り返した。少し目が変わった。「それ、全部手作りなんですか」


「全部です」


男性が受け取った器を見た。それからさつきを見た。「すごい」と言った。感想ではなかった。確認するような声だった。


さつきが笑った。


また次が来た。今度は女性二人組だった。「コメントで泣いたって書いてる人いて、どういうことか確かめに来ました」と言った。


「確かめてください」とさつきが言った。


二人が食べた。一人が「わかった」と言った。もう一人が黙っていた。黙ったまま、もう一口食べた。


晃はそれを見ながら、手を動かし続けた。


SNSで見ていた人たちが、今日ここに来ている。画面の向こうにいた人たちが、目の前に立っている。名前も知らない。どこから来たかも知らない。でも神IVの投稿を見ていた。神Vを待っていた。


届いていた。


ずっと前から、届いていた。


「ありがとうございます」


また次が来た。


───




十五時。



列が、なくなっていた。



一人、また一人と来てはいるが、並ぶほどではなくなっていた。波が引いていた。



晃はスマホを取り出した。初めて、ちゃんと画面を見た。



フォロワーが三千増えていた。今日一日で。通知の赤い数字が、まともに読めないくらい積み上がっていた。コメントが溢れていた。リポストが止まっていなかった。



「バズってる」とさつきが耳打ちしてきた。



「わかってる」



「三千って」



「ああ」



「一日で?」



「一日で」



さつきが「うわあ」と言った。感嘆でも驚きでもない声だった。疲れた人間が出す、もう笑うしかないときの声だった。



澪がさつきの隣に来た。三人並んで、コンロの前に立った。客が途切れていた。初めてだった。



「見る?」と晃がスマホを差し出した。



澪がちらりと見た。「フォロワーか」と言った。



「三千増えた」



「今日だけで」とさつきが言った。



澪が少し間を置いた。「そうか」と言った。それだけだった。でも晃には、澪が何かを噛み締めているのがわかった。



さつきがスマホを取り出した。自分のアカウントを開いた。コメント欄を眺め始めた。しばらく無言だった。



「ねえ」とさつきが言った。



「何」



「泣いてくれてる人がいる」



晃は何も言わなかった。



「美味しすぎて泣きそうって。何人も書いてる」



澪が「そうか」と言った。



「うん」とさつきが言った。「そうなんだよ」



三人、しばらく黙っていた。コンロの火が低く燃えていた。鍋の中に、まだ神Vが残っていた。



晃は腕を伸ばした。肩が鳴った。腰が重かった。足の裏が痛かった。朝八時半から動き続けていた。途中で水を飲んだ記憶がほとんどなかった。



「疲れた」と晃が言った。



「疲れた」とさつきが言った。



澪が「疲れた」と言った。



三人同時だった。それで三人とも笑った。笑ったら余計に疲れた。



「足が死んでる」とさつきが言った。



「腕も死んでる」と晃が言った。



「全部死んでる」と澪が言った。



さつきが「澪も死んでるじゃん」と言った。「生きてるかと思ってた」



「生きてない」と澪が言った。



また笑った。



どうもしない。今は料理を出すだけだ。数字は後でいくらでも見られる。でも今並んでいる人に出せる時間は、今しかない。それはわかっていた。



でも今だけは、少し笑っていてもいいと思った。



「神V、どうだった」とさつきが言った。



誰に聞くでもない声だった。



晃は鍋を見た。残りが少なくなっていた。深い茶色が、静かに揺れていた。



「よかった」と晃が言った。



「うん」とさつきが言った。



澪が鍋を見た。スプーンを取った。一口すくった。飲んだ。



「まだいい」と言った。



それだけだった。でもその一言で、三人が同じものを見た気がした。



手を動かし続けた。


───




十五時半。



最後の器を渡した。



「ありがとうございました」とさつきが言った。



「ありがとうございました」と晃が言った。



澪は鍋の底を見ていた。空だった。



少し間があった。



「ありがとうございました」と澪が言った。



人が散った。テントの中に三人だけ残った。



誰も動かなかった。



外では別のサークルの音楽が鳴っていた。秋の午後の光が、テントの布を薄く染めていた。風が少しあった。十月の終わりの、乾いた風だった。



しばらく、誰も何も言わなかった。



言葉が出てこなかった。出てくる前に、何か別のものが来ていた。



「やったな」と晃が言った。



声が、少し掠れていた。自分でも気づかなかった。



「うん」とさつきが言った。



うんだけだった。でもその一言に、全部入っていた気がした。神Iから始まって、失敗して、作り直して、怖くなって、それでも止まらなかった全部が。



澪は何も言わなかった。その場に座り込んだ。



さつきが「澪、疲れた?」と聞いた。



「疲れてない」と澪が言った。座り込んだまま言った。



三人が笑った。



おかしくもなかった。でも笑えた。疲れ切っていた。手が痛かった。足も痛かった。腰も、肩も、全部重かった。朝からずっと動き続けていた。水を飲む暇もろくになかった。それでも笑えた。笑ったら、止まらなくなった。さつきが「もう無理」と言いながら笑っていた。澪が座り込んだまま、珍しく声を出して笑っていた。晃は笑いながら、なんで笑えるのかわからなかった。わからないまま笑い続けた。



笑い声が収まった頃、さつきが地面に座った。澪の隣に。



「ねえ」とさつきが言った。



「何」



「神Iって、どんな味だったっけ」



晃も地面に座った。三人、テントの中に並んで座っていた。



「焦げてた」と晃が言った。



「焦げてたね」とさつきが言った。



「飲めたものじゃなかった」と澪が言った。「でも飲んだ」



「飲んだね」とさつきが言った。「三人で全部飲んだ」



少し間があった。



晃はスマホを取り出した。インスタを開いた。フォロワーが増えていた。コメントが溢れていた。「完売してた」「並んで良かった」「また来年も来る」「海老が忘れられない」「泣きそうだった、本当に」。



見ていたら、さつきが横から覗き込んできた。



「すごい」とさつきが言った。声が少し震えていた。



今度は泣くのを堪えていなかった。堪える必要がないと思ったのか、気づいていないのか。どちらでもよかった。



「ああ」と晃が言った。



澪が立ち上がった。鍋の底をもう一度見た。完全に空だった。お玉を入れた。何もすくえなかった。それでも一度、持ち上げた。



「全部出た」と澪が言った。



それだけだった。



でもその一言が、何よりもはっきりしていた。



三日間が、全部出た。神Iから数えれば、もっと長い時間が。焦げたスープが。怖かった夜が。壁越しの声が。深夜の口論が。溶けた野菜が。全部がこの鍋を通って、今日ここにいる人たちの口に入った。



さつきが空の鍋を見た。それから澪を見た。それから晃を見た。



「ありがとう」とさつきが言った。



誰に言ったのかわからなかった。二人に言ったのか、鍋に言ったのか、今日来てくれた全員に言ったのか。



晃は答えなかった。澪も答えなかった。



でもそれでよかった。



鍋は空だった。ライスも切れていた。空の鍋が、秋の光の中で静かに光っていた。




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