第21話 神V
一日目。
鍋が動いていた。
仕込みはあらかた終わっていた。鶏白湯、和風出汁、海老ビスク、炒めた肉、舞茸。全部が主鍋の中に合流して、深夜の部室でぐつぐつと鳴っている。あとは煮込むだけだ。水が蒸発したら足す。火を維持する。それだけだ。
「暇だな」
さつきの声だった。
「暇じゃない」
晃が言った。鍋から目を離さずに。「鍋を見てる」
「鍋って見るものあるの」
「ある」
「何が」
「今は対流の起き方」
さつきが鍋を覗いた。表面がゆっくりと動いている。中心から外に向かって、また戻ってくる。しばらく見ていた。
「言われてみれば」とさつきが言った。「でも五分で飽きる」
澪がバッグからSwitchを取り出した。
「天才」
さつきが言った。
「この状況で三日間、鍋だけ見てろというのは無理だ」
澪の言い方は淡々としていた。でもその手つきはどこか嬉しそうだった。コントローラーを二つ持ってきていた。最初から持ってくるつもりだったんだと、晃は思った。
「晃もやる?」
「いい」
「なんで」
「鍋見てる」
「変なの」
さつきが言った。でも笑っていた。
二人がスマブラを始めた。コントローラーの操作音と、鍋の音が混ざった。晃は火の加減を確認して、椅子を引いた。
しばらくして、さつきが「負けた」と言った。澪が「当然」と言った。「もう一回」「いいよ」また始まった。
「晃って」
さつきが画面を見ながら言った。「もともと料理してたの」
「してない」
「全然?」
「米炊くくらい」
「じゃあなんで最初からあんなに鍋の前に立ってたの」
晃は少し考えた。
「成り行きだった」
さつきがコントローラーを持ったまま止まった。澪がその隙を突いた。
「あ」とさつきが言った。「反則」
「反則じゃない」
「成り行きって」
さつきが続けた。ゲームを再開しながら。声のトーンが少し変わっていた。
「神Iのとき、誰も鍋に火をつけなかった。だから俺がつけた。それだけだ」
「覚えてる」
澪が言った。画面を見たまま。
「そんなことあったっけ」
さつきが言った。
「あった」と澪が言った。「六月の夜。部室が静かすぎて、晃が黙って火をつけた」
「そっから鍋担当になったの?」
「なった」
さつきがゲームの手を止めた。今度は意図して止めた。
「成り行きって、悪くないと思う」
断言する声だった。さつきがそういう声を出すとき、本気で言っている。晃はそれを知っていた。
「成り行きで始まって、続いてるんだから」
晃は答えなかった。でも否定もしなかった。
水を足した。スープが少し揺れた。また静かになった。
───
深夜二時になった。
さつきが欠伸をした。澪がSwitchをバッグに戻した。三人とも椅子に座って、鍋を見ていた。コンロの火が部室をぼんやりと照らしている。窓の外は真っ暗だ。
「ねえ」
さつきが言った。深夜の声だった。昼間より少し低い。
「何が」と晃が言った。
「自炊研究会」
澪が「続けたかったからだろ」と言った。
「そんな単純?」
「単純でいい」
「澪はいつもそうやって終わらせる」とさつきが言った。「もっと複雑なはずなのに」
「複雑にする必要がない」
「ないかなあ」
「ないんじゃないか」
晃が言った。
さつきが晃を見た。
「続けたかったから続けた。それ以上でも以下でもない気がする」
「晃もそれでいいの」
少し間があった。
「今は」と晃が言った。「それでいい」
さつきが鍋を見た。何も言わなかった。でも何かを噛み締めているような顔だった。
鍋がぐつぐつと鳴っていた。三人分の沈黙を、その音が埋めていた。
夜中の三時になった。晃がうとうとしていた。椅子に座ったまま、首が前に落ちかけていた。
「寝てろ」
澪の声だった。
「起きてる」
晃が言った。目を開けないまま言った。
「どっちでもいい」
さつきが言った。
晃はそのまま五分ほどで本当に寝た。澪が鍋を見続けた。さつきも少し経って目を閉じた。
部室が静かになった。
ぐつぐつ。
ぐつぐつ。
朝になった。
白濁したスープが、朝の光の中で揺れていた。白い。重い。艶がある。昨夜と同じ鍋のはずなのに、光の当たり方が違うだけで別の顔をしている。
澪がお玉ですくった。傾けた。光を見た。
「いい」
さつきが一口すくって飲んだ。
「旨い。昨日より旨い」
「本番だから」
「気持ちの問題?」
「素材の問題」
晃が目を覚ました。椅子から立ち上がって、伸びをして、鍋を覗いた。
昨夜仕込んだ野菜の形が、ほとんど消えていた。玉ねぎも人参もセロリも、長時間の熱でとっくに溶けている。スープに溶け込んで、もう見えない。残っているのは肉だけだ。牛肉と豚肉の塊が、スープの中でゆっくりと揺れている。繊維がほぐれかけている。触れれば崩れる手前の、ぎりぎりの状態だ。
「できてる」と晃が言った。
「できてる」と澪が言った。
三人、少しの間鍋を見ていた。言葉がなかった。でも沈黙が重くなかった。ただ、見ていた。
「一限行ってくる」
さつきの声だった。
「行ってこい」
「晃は」
「俺は残る」
「一人で大丈夫?」
「鍋と二人でいる」
「意味わからん」
さつきが出ていった。澪が続いた。ドアが閉まった。
部室に晃一人になった。
静かだった。換気扇が止まっている。外から、遠く自転車の音が一度通って、消えた。
ぐつぐつ。
それだけが残った。
水を足した。スープが少し揺れて、また静かになった。肉の塊がゆっくりと沈んで、また浮いてくる。野菜はもうどこにもない。全部がスープになった。形を失って、味だけになった。形がなくなるまで煮込む、というのはこういうことだ。玉ねぎが消える。人参が消える。セロリが消える。残るのは、それらが溶け込んだ液体だけだ。
晃は椅子に座った。特にすることがなかった。スマホを取り出した。少し見た。置いた。また鍋を見た。
ぐつぐつ。
時間が、妙にゆっくり進んだ。
───
二日目。
眠かった。
それが正直なところだった。三人が交代で番をしながら、講義に行って、帰ってきて、水を足して、また出て。その繰り返しだった。会話の量が減っていた。昨日の深夜みたいな話はしなかった。する気力がなかった。
帰ってくるたびに鍋を確認した。スープの色が少しずつ変わっていた。深くなっていた。でもその変化はゆっくりで、一時間見ていてもわからないくらいだった。
午後、さつきが課題のプリントを広げた。ペンが動いていた。少し動いて、止まった。また動いた。止まった。
「眠い」とさつきが言った。
「寝ろ」と晃が言った。
「課題がある」
「終わってから寝ろ」
「終わらないから眠い」
澪が何も言わなかった。ノートを開いていたが、そのページは一時間前から変わっていなかった。
鍋だけが動いていた。
ぐつぐつ。ぐつぐつ。
三人が止まっていても、鍋は止まらなかった。勝手に深くなっていく。肉の繊維がほぐれていく。野菜の残滓が完全に消えていく。誰も何もしなくても、時間だけが仕事をしていた。
昼過ぎ、晃が玉ねぎを炒め始めた。
弱火。油を薄く引いた。玉ねぎを入れた。透明になるまで炒める。透明になった。まだ炒める。
一時間。
「色、つき始めてる」とさつきが言った。
「まだ」と晃が言った。
一時間半。飴色に近づいていた。甘い匂いが広がり始めた。
「そろそろじゃない?」
「まだ」
二時間。フライパンの縁が少し濃くなっていた。
「これ以上は焦げる」と晃が言った。
「あと五分」と澪が言った。
「焦げるって」
「信じろ」
晃は続けた。一分。二分。三分。四分。
五分後、焦げなかった。
深い飴色になっていた。縁まで均一に。甘い香りが、部屋の奥まで届いた。課題のプリントから顔を上げて、さつきが鍋の方を見た。澪がフライパンを覗いた。
「これが神Vの底になる」と澪が言った。
さつきが少し笑った。澪は何も言わなかった。
主鍋に合流させた。飴色の塊がスープに沈む。かき混ぜる。スープが一段、色を深めた。匂いが変わった。甘さが加わった。底が据わった感じがした。
晃は一口飲んだ。
昨日の朝とは違う。昨日の深夜とも違う。確実に、前へ進んでいる。
深夜、疲労が蓄積していた。三人とも目の下が重かった。会話が短くなっていた。
スパイスの調整をしていた。さつきが「塩、もう少し上げる」と言った。
「上げすぎ」と澪が言った。
「でもここは立たせないと」
「焦ってる」
「焦ってない」
「焦ってる」
声が一段だけ大きくなった。部屋の空気が硬くなった。疲れた人間が深夜に言い合うと、こうなる。どちらが正しいかより、どちらが折れるかの話になる。
「待って」と晃が言った。
二人が止まった。
晃がスプーンを取った。一口飲んだ。少し考えた。小皿に少量取って、塩をひとつまみ足した。飲んだ。
「こっちでいい」
澪が飲んだ。間があった。「そうだな」と言った。
さつきが「うん」と言った。
硬さが溶けた。誰も謝らなかった。ただ次の作業に戻った。疲れているときの三人はこうだった。引きずらない。それだけだった。
「トッピングの確認していいか」と晃が言った。しばらくして。
「チーズ、ソーセージ、ゆで卵」とさつきが言った。
「チーズはシュレッドをその場でかけてもらう形にしたい。チーズなしの人にも対応できる」
「ゆで卵は半熟で」と澪が言った。「七分固定。前日に仕込んで氷水で止める」
「ソーセージは当日の朝に焼く。香ばしさを出したい。さつきに頼んでいいか」
「わかった。ソーセージ係ね」
「当日の朝は八時半集合」と澪が言った。「ソーセージを焼いてる間にゆで卵を切る。盛りつけは俺が量を管理する。足りなくなったら終わりだから」
「晃は」とさつきが言った。
「鍋と接客」
「一番大変じゃん」
「そういう役割だろ」
「なんで」
「成り行きで」
さつきが「また成り行き」と言った。少し笑いながら。疲れた笑いだったけど、本物だった。
鍋はまだ動いていた。ぐつぐつと、変わらない音で。
───
三日目。
仕上げの日だった。
鍋が三日間、動き続けていた。水を足すたびに深くなっていった。今朝のスープは昨日より確かに重い。色が違う。昨日より濃い。三日分の時間が全部、この鍋の中にある。
澪が一口飲んだ。止まった。
「いい」と言った。
さつきが飲んだ。
「やばい」とさつきが言った。「これだけで完成してる」
晃が飲んだ。何も言わなかった。言う必要がなかった。
「あとはルウだけ」とさつきが言った。
「スパイスを最終調整してから」と澪が言った。
カルダモン、クミン、コリアンダー。少量ずつ足していく。香りが変わる。海老の甘さが引き立ってくる。鶏の丸さが底に安定してくる。複雑なはずなのに、一つの方向に向かっていく。
「これ」とさつきが言った。「鶏も鰹出汁も海老のビスクも全部入ってるって、やっぱり信じられない。ちゃんとまとまってるじゃん」
「カレールウが抱えるから」と晃が言った。
「それが神Vか」
「それが神Vだ」
ゆで卵を仕込んだ。沸騰した湯に卵を沈めた。七分。タイマーをセットした。氷水に移した。殻を剥く。断面が半熟になっていた。黄身がとろりと光っている。
「完璧」とさつきが言った。
「七分で固定」と澪が言った。
ソーセージは明日の朝に焼く。チーズは当日に出す。準備は揃った。全部、揃った。
「ルウ、入れる」
さつきが言った。
確認ではなかった。宣言だった。
箱を開けた。横濱舶来亭、中辛。板を割るように一片ずつ取り出す。固い。重さがある。手の中にある間は、ただの固形物だ。でもこれが溶けると、神Vが完成する。
鍋の前に立った。
誰も喋らなかった。
晃も澪も、さつきの後ろに立っていた。三人が鍋を囲んでいた。部室の中が静かだった。コンロの火だけが、低く燃えていた。
さつきがルウを鍋に沈めた。
固形のまま、スープの中に消えていく。すぐには溶けない。表面から少しずつ、茶色が滲み出してくる。じわじわと、じわじわと。
木べらで底から持ち上げるようにかき混ぜる。
ゆっくりと色が変わっていく。
琥珀色が、深い茶色になる。
香りが来た。
スパイスが前に出る。海老の甘さが奥から押してくる。鶏の丸さが底に張っている。和風出汁の静けさが全体を繋いでいる。全部が、一つの匂いになっていく。部室の空気が変わった。さっきまでと違う匂いだ。これは、神Vの匂いだ。
晃がかき混ぜを引き継いだ。腕が疲れても止めなかった。均一になるまで続けた。鍋の中が一色になるまで。
誰も話さなかった。
鍋の音だけがあった。ぐつぐつという低い音。沸騰ではなく、煮えている音。生きている音だ。
「できた」
さつきの声だった。
澪がスプーンを取った。一口飲んだ。
止まった。
動かなかった。




