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第20話 知らん、全部入れよう

「見て」


さつきの声だった。


手が止まった。エプロンを持ったまま、三人とも動かなかった。


文化祭まで、三日。本番仕込みを始めようとした夜に、さつきは鍋でも包丁でもなく、スマホを見ていた。



 ─ ─ ─


画面を覗いた。


別の大学のアカウントが投稿していた。「北山大の自炊研究会、文化祭で初出店するらしいけどやばそう」。リポストが回っていた。コメントが並んでいた。


「あのSNSのやつがリアルで食べられるの?」


「三層カレーって何、やばすぎ」


「フォロワー数一万超えてる、学生サークルで?」


「絶対行く、絶対行く、絶対行く」


三人、黙っていた。


コメント欄をスクロールした。応援だった。悪意はなかった。純粋に楽しみにしている声だった。画面を下に引くたびに、同じ熱量の言葉が次々と出てきた。知らない人間たちが、まだ存在しない料理を、すでに待っていた。


でもその中に一つ、こういうコメントがあった。


「じゃあ期待を超えてみろよ」


悪意のある言葉じゃない。むしろ期待の裏返しだ。煽りでも嘲りでもない。ただの、期待。


晃はそれを読んだ。


何かが外れた。


音がした気がした。頭の中で。小さい音だった。でもはっきりしていた。


─ ─ ─


「知らん」


晃が言った。


さつきが「え」と顔を上げた。


「全部入れよう」


「急に?」


「神Vは期待に応えるための料理じゃない。俺たちが作りたいものを作る」


さつきが少し間を置いた。晃を見た。


「昨日もそう言ってたじゃん」と澪が言った。「全部入れるって」


「言ってた」とさつきが言った。


また間があった。


さつきが笑った。疲れた笑いでも、苦い笑いでもなかった。決まったときの顔だった。


「じゃあやるか」


エプロンをつけた。


澪が棚から寸胴を出した。シンクに置いた。洗った。


さつきが冷蔵庫を開けた。鶏ガラの袋を取り出した。袋を開ける。生の匂いがする。


晃が玉ねぎを取った。まな板に置いた。包丁を持った。切り始めた。


「行くか」とは誰も言わなかった。


ただ手が動いた。


コンロに火がついた。


強火。


水面がじりじりと動き始めた。


─ ─ ─


「野菜は最初に全部切っとこう」とさつきが言った。「火つけたら眠くなって、絶対やらなくなる」


誰も否定しなかった。


野菜のカットは晃が仕切る。


玉ねぎ十個、人参八本、セロリ一束、トマト一箱。文化祭の二日間で捌く分を全部仕込む。まな板の上に並べて、端から順番に崩していく。切り方は揃えなくていい。どうせ長時間煮込む。形が残らなければいい。


ざくざくと音がする。


断面から汁が出る。繊維が裂ける。玉ねぎの揮発成分が目に入ってくる。滲んでくる涙をそのままにして、手を止めない。


「泣いてる」


さつきの声がした。


「玉ねぎ」


「知ってる」


さつきはにやりとして、鶏モミジの袋を冷蔵庫から出す。流水で下洗いしながら、指先で爪を確かめる。関節の折れ具合を触って確かめる。不要な部位を取り除いていく。丁寧で、速い。手が迷わない。


澪は別の鍋に向かっている。干し椎茸と昆布を水に浸す。冷水出汁。ゆっくり時間をかけて旨味を引き出す工程だ。沸かさない。沸かしたら雑味が出る。澪の手が静かに動く。音がしない。


部室の中に、三種類の音がある。


晃の包丁。さつきの水。澪の、ほとんど無音。


三人とも黙っている。でも黙り方が違う。さつきの黙り方には熱がある。澪の黙り方には静けさがある。晃の黙り方には、たぶん、さっきのコメントの残像がある。


期待を超えてみろよ。


その言葉を、晃はまだ咀嚼している。


怒りじゃない。不快でもない。ただ、ずれている。何かとずれている。


俺たちは超えるために作ってきたわけじゃない。


でも、じゃあ何のために作ってきたのか。


包丁が止まる。一瞬だけ。


「晃、人参そこ置いといて」


さつきが言う。振り向かずに。モミジを処理しながら。


「どこ」


「まな板の右」


晃は人参をずらす。さつきの手が一瞬伸びてきて、一本取っていく。それだけだ。会話というほどのものじゃない。ただ、キッチンが動いている。


次の玉ねぎを引き寄せる。また包丁を動かす。


涙が出る。玉ねぎのせいだ。それだけだ。


 ─ ─ ─


鶏ガラが鍋に落ちる。


水から火にかける。最初は何も起きない。ただ水が鍋の中にあるだけだ。それが少しずつ、温度を持ち始める。底から細かい気泡が立ち始める。まだ沸いていない。沸く手前の、静かな予兆だ。


灰汁が浮いてくる。


さつきが玉杓子を持って、鍋の縁をぐるりと回す。灰汁をすくう。また浮く。またすくう。繰り返す。雑味を全部取る。この工程を丁寧にやるかどうかで、五時間後のスープが変わる。


澪がシンク横の袋を漁る音がした。ポテチの袋だ。開ける。一枚取る。また閉める。


「これ、絶対うまくいく」


さつきが言う。鍋を見たまま。


「根拠は」


澪が言う。口の中に何か入っている。


「なんとなく」


「最悪だ」


「そういう夜ってあるじゃん」さつきが続ける。「感覚でわかる夜。今日がそれ」


澪が何も言わない。否定もしない。それが澪なりの同意だと、晃は知っている。


晃はにんにくをまな板に置く。背の厚い包丁を握る。体重をかけて、押しつぶす。


皮がはじける。


匂いが広がる。鋭い。刺激的だ。でもその奥に、何か腹が据わるような芯がある。この匂いが部室に満ちると、晃の中で何かが切り替わる感覚がある。毎回そうだ。料理が始まる匂いだ。


鍋に入れる。ネギを折って入れる。生姜を叩いて入れる。


水面が揺れる。


晃はモンスターを一口飲んだ。甘くて、炭酸が強い。にんにくの後に飲むものじゃない。でも手が自然に伸びていた。缶はもう半分以下だった。いつ開けたか覚えていない。


「ここから五時間」


さつきが言う。


「わかってる」


「寝るの」


「寝ない」


「寝たほうがいい」


「お前は寝ろ」


さつきがカフェラテの紙パックを手に取る。ストローを刺す。一口飲む。また鍋に目を戻す。


少し間があった。


「一緒に寝ない」


さつきが言う。疑問形じゃない。確認だ。


晃は答えない。でも否定もしない。


窓際の段ボール箱に、モンスターの空き缶が二本並んでいる。コーヒーの缶が一本。開封済みのビスケットが一袋。まだ夜は長い。


鍋の中で、水面がじりじりと動いている。まだ沸いていない。でももう、始まっている。


 ─ ─ ─


時刻は深夜一時を回った。


鶏白湯の鍋が白く濁り始めている。蛋白質が溶け出している証拠だ。温度を下げない。乳化させる。このまま強火圏で維持する。


別鍋では、椎茸と昆布の出汁が完成に近づいていた。澪がすっと火を止める。濾す前に少し蒸らす。その間に鰹節の用意をする。


さつきが床に置いた袋を引っ張り出した。


「これ全部やんの」と晃が言った。


「全部」とさつきが言った。「業スーで三袋買った」


冷凍の有頭バナメイだ。解凍済みのやつをボウルに開ける。海老の匂いが広がる。磯臭い。悪い意味じゃない。これが出てくれば正解だ。


さつきが一尾取る。頭をもぎ取る。ぱきっと音がする。殻を剥く。竹串を背に当てて、黒い線を引き抜く。ボウルに投げる。次。また次。


「手伝う」と晃が言った。


「いい、慣れてる」とさつきが言った。「晃は鍋見てて」


「慣れてるって何で」


「家で何回もやった」


澪が「なんで家で」と言った。


「練習」


二人とも何も言わなかった。さつきは手を止めない。頭をもぎる。背ワタを取る。ボウルに投げる。リズムが速い。


モンスターの缶が一本、いつの間にか空になっていた。誰のかわからない。


フライパンを出す。油を薄く引く。海老の頭と殻だけを並べる。強火。殻が色づき始める。赤から橙へ。焦げる寸前で動かす。


匂いが変わる。


生臭さが消えて、香ばしさが出てくる。この瞬間が好きだと、晃は毎回思う。素材が変わる匂いだ。


にんじんを足す。セロリを足す。玉ねぎを足す。炒め続ける。野菜がしんなりしてくる。海老の旨味が滲み出てくる。


白ワインを入れる。


じゅっと音がする。湯気が上がる。アルコールが飛ぶ。トマトを入れる。煮詰める。


「鶏も、鰹出汁も、海老のビスクも全部入れるって」さつきが言う。「大丈夫なの。まとまる?」


晃はフライパンを揺らしながら少し間を置く。


「知らん」


「知らんって」


「全部入れよう。カレールゥ入れればまとまる」


「それ根拠?」


「ルゥが全部抱える。それが神Vだ」


さつきが一秒、晃を見た。


「わかった」


澪が出汁を漉し始める。白い布越しに、澄んだ琥珀色が滲んでくる。鰹節を沈めて、絞らずに引き上げる。雑味を入れない。手つきだけが静かだ。


「これ全部主鍋に入るの」


「入る」


「計算してる?」


「してない」


「してない」と晃も言う。


澪が小さく息をつく。


「まあいいか」と澪が言った。


さつきが「澪が言うとおもしろいな、それ」と言った。


「そうか」


「うん」


誰かが笑った。誰が最初かわからなかった。三人とも少し笑っていた。深夜一時すぎの、疲れと勢いが混ざったやつだった。


鍋が三つ、同時に動いている。


 ─ ─ ─


深夜三時。


主鍋に液体が集まった。


鶏白湯の白さ。


和風出汁の透明さ。


海老ビスクの橙の濃さ。


それぞれが別の言語を話している。まとまらないはずだった。でも鍋の中で、ゆっくりと混ざり始めている。火が通るたびに輪郭が曖昧になっていく。


牛肉を炒める。強火で表面を焼いて、フライパンに残った焦げをワインでこそいで、全部主鍋に落とす。豚肉も同じ工程で入れる。舞茸は手で裂いて、そのまま入れる。


さつきが鍋を覗き込む。目が半分閉じている。


「眠い?」と晃が言った。


「眠くない」とさつきが言った。「目が乾いてる」


「同じだろ」


「違う」


澪がビスケットの袋を開ける音がした。二枚取って、一枚を晃の方に差し出す。何も言わない。晃は受け取る。それだけだ。


「これ明日の朝には」


澪が鍋を見たまま言う。


「さらに煮込む」さつきが言う。「三日目に仕上げる」


澪が頷く。


三人、鍋を囲んでいた。部室のコンロの前に立って、湯気を見ている。言葉がない。でも沈黙が重くない。深夜三時の沈黙は、昼間のそれと質が違う。余計なものが全部落ちている。


窓の外は真っ暗だ。名古屋の夜が静かにそこにある。


晃は鍋を見ていた。


期待を超えてみろよ、と言ったやつは、俺たちのことを何も知らない。でもそれでよかった。知らなくていい。俺たちが作るのは、そのコメントに応えるためじゃない。


でも、何のためだ。


鍋の中が動いている。対流が起きている。三つの液体が、少しずつ一つになろうとしている。


なんとなく、わかった気がした。答えは出なかった。でもそれでいいと思った。深夜三時には、それくらいの解像度でちょうどいい。


「うまそう」


さつきが言う。


まだスパイスも入っていない。ルゥも入っていない。完成には程遠い。でも確かにそう言いたくなる何かが、鍋の中にある。


「三日後に言え」


「言う。絶対言う」


「俺も言う」と澪が言った。


少し間があった。


「澪が絶対言う、って言うの珍しくない?」とさつきが言った。


澪が「そうか」と言った。


それだけで三人笑った。理由はよくわからなかった。でも深夜三時には、それくらいのことで笑える。


部室の窓が、湯気で少し曇っていた。モンスターの空き缶が三本になっていた。誰も片付けていなかった。

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