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第2話 春の匂い

 桜は、まだ残っていた。



 大学へ続く並木道の上で、花はすでに盛りを過ぎ、枝先にまばらに張りついている。淡い桃色は、どこかくすみ、午後の光に透けていた。地面には花びらが層になって溜まり、風が吹くたびに薄い膜のようにめくれ上がる。舞い上がるでもなく、ただ、はがれかけた紙片のように揺れて、また元の場所へ戻る。



 四月の終わり。



 昼間の熱がアスファルトに残り、靴底にじわりと伝わる。だが日が傾くと、川のほうから冷たい空気が流れてくる。首筋に触れる風は、思い出したようにひんやりしている。



 遠くで体育会の掛け声がかすかに聞こえる。ボールが弾む音。自転車のブレーキのきしみ。コンビニ袋を揺らしながら歩く学生たちの笑い声。



 桜の匂いは、もうほとんどしない。代わりに、湿った土の匂いと、刈られたばかりの芝の青い匂いが混ざっている。



 空は薄い水色で、雲は低く、ゆっくりと流れている。季節が一段、次へ進もうとしているのがわかる。



 俺は、その並木道の端で立ち止まっていた。



 花びらが一枚、肩に落ちる。払うほどでもなく、ただ、そこにある。



 春が終わりきる前の、どこか曖昧な時間。



 俺は大学のサークル棟の前で立ち止まっていた。



 鉄骨むき出しの古い建物で、外壁の塗装はところどころ剥がれ、階段の手すりには手垢が黒く残っている。ガラス扉の向こうには蛍光灯の白い光が滲み、廊下の奥に人影が揺れているのが見える。



 入口の横に立てかけられたホワイトボード。



 自炊研究会。



 黒のマジックで、やや傾いた文字。最後の「会」の払いがやけに長い。飾り気も説明もなく、ただそれだけが書かれている。端のほうには小さく「見学歓迎」と付け足されていた。



 軽い名前だと思った。



 料理サークル、らしい。



 サッカーや軽音のような派手さも、ボランティアのような使命感もない。ただ、飯を作るだけの集まり。そういう印象だった。



 正直、入るつもりはなかった。



 新歓の時期はもう過ぎかけている。いまさら顔を出すのも中途半端だ。講義は終わり、友人たちはそれぞれのサークルに吸い込まれていく。俺は特に所属もなく、履修登録だけはきっちり終え、あとはなんとなく日々を消化しているだけだった。



 ただ、時間が余っただけだ。



 掲示板の隅に貼られていたチラシを、ふと思い出しただけ。



 文化祭で屋台、出します。



 その一文が、なぜか頭に残っていた。



 俺はガラス扉に映る自分を見る。肩からかけたリュックがやけに重く見える。ここで引き返せば、何も変わらない。今日もただの四月の一日で終わる。



 それでいいはずだ。



 なのに、足が動かない。



 ドアの向こうから、かすかに鍋のふたが触れ合う音がした。



 その音だけが、妙に具体的だった。



 ドアの向こうから、音がする。



 包丁がまな板に当たる、乾いて澄んだ音。一定の間隔で、刻むたびに小さく跳ねる。


 次に、鍋のふたが縁に触れる金属音。カン、と短く鳴って、すぐに蒸気の逃げる低い息が続く。



 油が弾ける、かすかな破裂音。


 誰かの笑い声が、その隙間を縫うように漏れてくる。声は壁に吸われ、柔らかく曇っている。



 そして、匂い。



 最初に届くのは味噌の温い塩気。湿った土のような発酵の香りが、鼻の奥に広がる。


 そのあとを追うように、溶けたバターの甘い脂が重なる。焦げる直前の、少しだけナッツのような香り。



 湯気が隙間から流れ出ているのか、ドアの前の空気がわずかに温かい。頬に触れる温度が、外気より一段高い。



 喉の奥がきゅっと縮む。



 腹が鳴る。



 自分の体の中から出たその音が、やけに大きく聞こえた。



 匂いは逃げない。


 鼻先にとどまり、もう一歩近づけ、と言ってくる。



 俺はチャイムに手を伸ばして、やめた。



 指先がボタンの数センチ手前で止まる。


 押せば鳴る。ただそれだけのことなのに、距離がやけに遠い。



 廊下は静かだ。蛍光灯が小さく唸っている。


 外からは自転車の走る音が一瞬聞こえ、すぐに消える。



 俺の呼吸だけが、やけに大きい。



 掌に汗がにじむ。指先が冷たい。心臓の鼓動が、耳の奥で直接鳴っているように響く。



 押せば、中の空気に触れる。


 押さなければ、何も起きない。



 引き返してもいい。



 知り合いはいない。


 ここに入らなくても、大学生活は普通に続く。講義に出て、レポートを書いて、バイトをして、適当に飲んで、適当に就活して、適当に社会人になる。



 何も間違っていない。



 このドアは、ただのドアだ。



 なのに。



 一度入ってしまったら、もう「入らなかった自分」には戻れない気がする。



 たったそれだけのことが、喉を締めつける。



 チャイムの白いボタンが、やけに明るく見える。



 押すか。



 やめるか。



 けれど、匂いは逃がしてくれなかった。



 腹の奥が、勝手に一歩前に出る。



 ノックをする。



 中から、足音。



「はーい」



 ドアが開く。


 ドアが開いた。



 最初に目に飛び込んできたのは、白いエプロンだった。



 紐をきゅっと腰で結び、胸元には小さな油の跳ね跡がいくつか残っている。その奥から、顔がひょいと現れた。



 髪を後ろでひとつにまとめた女子が、少しだけ首をかしげる。


 大きくも小さくもない目が、まっすぐこちらを見る。



「新歓?」



 声は軽い。けれど、探るような響きはない。



 俺は一瞬、言葉を忘れる。



「……え、あ、はい。たぶん」



「たぶん?」



 口元がゆるむ。



 しまったと思ったときには遅い。



「いや、その、見学っていうか……」



「見学か新歓か、どっちかにしよ?」



 くすっと笑う。



 からかっているわけではない。ただ、純粋に面白がっているだけだ。



 ドアの向こうから湯気が流れてきて、彼女の頬を少しだけ曇らせる。味噌とバターの匂いが、近くなる。



「入る?」



 その一言が、思ったより近い距離で落ちる。



 うなずこうとして、声が裏返る。



「は、はい」



「緊張しすぎじゃない?」



 小さく笑う。



 その瞬間、廊下の冷たい空気が途切れた。



「さつき。二年」



 彼女はあっさり名乗る。



 俺も慌てて名乗る。



「晃です。一年」



「じゃあ、先輩だね」



「え?」



「一年生の春は、みんな一年だよ」



 意味のわからない理屈をさらっと言って、体を横にずらす。



「どうぞ。鍋、今ちょうどいいとこ」



 道をあける仕草が、自然すぎて、断る隙がない。



 俺はその隙間を通る。



 エプロンの布が、かすかに腕に触れた。



 その距離の近さに、心臓がまた一段跳ねた。



 俺はようやく、うなずく。



「……見学、いいですか」



 思っていたより声が小さい。最後のほうはほとんど空気に溶けた。



 さつきは一瞬だけ瞬きをして、それからあっさり笑う。



「いいよ。そんなに改まらなくて」



 ドアをもう少し開ける。湯気がふわりと流れ出る。



「いまちょうど味噌バター鍋。味見係、足りてないんだよね」



「味見係……?」



「重要ポジションだよ?」



 真顔で言う。



 たぶん冗談だ。でも、否定もしていない。



 俺は一瞬迷ってから、小さく息を吸う。



「じゃあ、その……やります」



「即決?」



 さつきはくすっと笑う。



「いいね。うち、ノリで入る人、嫌いじゃない」



 ノリで来たわけじゃない、と言いかけてやめる。


 理由をうまく説明できないのは事実だ。



 さつきは一歩下がり、体を横にずらす。



「どうぞ。あ、段差あるから気をつけて」



 言われた瞬間につまずきかける。



「あ」



「ほら」



 腕を軽くつかまれる。



 一瞬だけ、指の温度が伝わる。



 離れるのも、思ったより早い。



「緊張しすぎ」



 小さく笑って、さつきはキッチンのほうへ戻る。



 俺はその背中を追いながら、ようやく部屋の中に足を踏み入れた。


 


 部屋は想像より狭い。六畳ほどの空間にコンロと流し台が無理やり置かれている。壁際に折りたたみ机。ホワイトボード。三人いればいっぱいだ。



 コンロの前に立っていた男が振り向く。



「新入り?」



 長い黒髪。エプロンの紐をきつく結び直す。目が、やけにまっすぐだ。



「澪」



 名乗るでもなく、ただ言う。



 俺も名乗る。



「晃です」



「料理できる?」



「まあ、家では」



「包丁、使えるなら十分」



 それだけで、もう作業に戻る。



 さつきが小さく笑う。



「いつもこんな感じだから。気にしないで」



 気にしないで、と言われても、気になる。二人の動きは無駄がない。澪は味を見て、すぐに何かを足す。さつきはそれを見て、火加減を変える。



 会話は少ないのに、呼吸は合っている。



 鍋が煮える。味噌の香りが濃くなる。



「食べる?」



 さつきが器を差し出す。



 断る理由が見つからない。



 湯気が顔に当たる。ひと口すくう。



 熱い。だが、その奥に甘さがある。味噌の塩気のあとに、バターの丸みが来る。白菜が柔らかい。



 うまい。



 思わず顔を上げると、澪がこちらを見ている。



「どう?」



 試すような目だ。



「……ちゃんと、うまいです」



 曖昧な感想しか出ない。



 澪は鼻で笑う。



「ちゃんと、ね」



 悔しさが、少しだけ湧く。



 何か言い返したくなる。



「でも、」



 口が勝手に動く。



「もう少し、塩、立たせてもいいかも」



 空気が、止まる。



 言ってしまった。



 さつきが澪を見る。澪は鍋を見下ろす。数秒。



「入れてみるか」



 澪は塩をひとつまみ加える。かき混ぜる。さつきが味を見る。



 もう一口、俺にも回ってくる。



 さっきより、輪郭がはっきりしている。



 澪が小さくうなずく。



「入部?」



 唐突に言う。



 俺は一瞬、答えに詰まる。



 入る理由なんて、考えていなかった。ただ匂いに引っ張られて、ここにいるだけだ。



 けれど。



 この鍋の前に、もう一度立ちたいと思っている自分がいる。



「……お願いします」



 そう言った瞬間、さつきが笑った。



「歓迎。人手は足りないから」



 澪はもう鍋に向き直っている。



「文化祭、やるから」



 その一言が、妙に重く響いた。



 あのときは、まだ知らなかった。



 文化祭まで、半年。



 この小さな部屋で作る一杯が、俺たちの距離を変えることも。



 成功が怖くなる夜が来ることも。



 ただ、匂いに引き寄せられて、俺はそこに立っていた。

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