第19話 系譜
文化祭まで、四日。間に合うかどうかという話ではなかった。
部室に一人だった。
さつきと澪は別の用事があった。三十分後に来るはずだった。晃は早めに来て、冷蔵庫の食材を確認していた。鶏ガラ。モミジ。有頭海老。干し椎茸、羅臼昆布、鰹節。豚肉、牛肉。舞茸。横濱舶来亭のルウ。
全部ある。それなのに、メモを開いた手が少し重かった。
メモを開いて、明日からの段取りを書き始めた。書いているうちに、手が止まった。
静かすぎた。
換気扇が止まっている。冷蔵庫の低い音だけがある。外から、自転車の音が一度通って、消えた。
冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。外から、自転車の音が一度通って、消えた。
晃はふと、六月の鶏ガラの匂いを思い出した。あの夜、誰も正解を知らなかった。
神Iを作ったのは、六月だった。
澪が「整いすぎ」と言った。あのとき意味がわからなかった。今夜は少しわかる気がする——ただそれが「わかった」なのか「慣れた」なのか、区別がつかない。どちらでもいいのかもしれない、とも思う。
あのとき澪は、完成に見えるものの中にまだ余白を探していた。怖がっている様子はなかった。ただ静かに、足りないものを見ていた。それがどういう感覚なのか、晃には今もよくわからない。
神IIで、さつきが「私たちの神IIだ」と言った。晃が塩を足すと言って、それが通った夜。「私たちの」に自分が入っていること。気づいていたかどうか、今もよくわからない。
さつきはあの夜、何かを確かめるような顔をしていた。喜んでいたのは確かだった。でもその奥に、もっと遠くを見ている何かがあった気がする。晃はそれを聞かなかった。聞けばよかったのかどうかも、今はわからない。
神IVで、初めて三人が同じものを目指している感じがした。
でも神IVの数字が動いたとき、怖くなった。「失敗したほうが楽だ」と思った。
その本音は今もある。消えていない。ただ怖さの形が変わっている。何が変わるのか、具体的には言えない。言い訳のために作った言葉かもしれない。
さつきも怖かったはずだ。澪も、たぶんそうだった。三人とも怖がりながら、でも誰もそれを理由に止まらなかった。それだけは、確かだと思う。
晃はメモ帳に書いた。
「どうして俺はここにいるのか」
少し考えた。
「味噌バターの匂いだったと思う」
書いた。それ以上、出てこなかった。
さつきが「届けたい人がいる」と言っていたことを、思い出した。
「でも届け方は違う」と続けていた。
「届けたい人」が誰なのか、晃はあのとき聞かなかった。今も知らない。「まだ料理が好きだと知らない誰かのことかもしれない」とノートに書いた。書いてから、横に線を引いた。消すのではなく、仮説だとわかるように。
そこで手が止まった。
怖いのは、今も変わらなかった。答えが出たわけでもなかった。
ただ、冷蔵庫の中には鶏ガラがあった。有頭海老があった。三日間を越えるだけの食材が、全部あった。
晃はメモ帳を一度閉じた。それから、また開いた。
明日からの段取りの続きを書き始めた。鶏ガラを何時間炊くか。海老の殻を剥くタイミング。昆布を引き上げる温度。書けば書くほど、手が速くなった。怖さは消えなかった。ただ手だけが、先へ進んだ。
頭の中で、何かが組み上がっていくような音がした。
ドアが開いた。
さつきが入ってきた。澪が続いた。
「早いじゃん」とさつきが言った。声は軽かった。でも晃には、その軽さが少し張っているように聞こえた。
「確認してた」と晃が言った。
「何の」
晃はメモ帳を見た。
「神Iのこと」
さつきが少し間を置いた。「急に懐かしい」と言った。懐かしいと言いながら、目が笑っていなかった。遠い場所を見るような、静かな顔だった。
澪が「あれは優等生すぎた」と言った。
さつきが「それ、初めて言ったね」と澪に言った。
「そうか」
澪は答えながら冷蔵庫を開けた。鶏ガラの袋を確認した。並びを見た。一瞬、動きが止まった。それからゆっくり扉を閉めた。何も言わなかった。言わなくても、晃にはわかった気がした。澪も同じものを見ていた。在庫ではなく、ここまで来た時間を。
晃はノートを閉じた。書きかけのまま、閉じた。
三人とも、何も言わなかった。
言わなくていい何かが、部屋の中にあった。
「明日から三日間か」とさつきが言った。
「そう」と澪が言った。
「全部入れるんだろ」
「全部入れる」
窓の外で、風が鳴った。十月の、少し乾いた風の音だった。




