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第18話 外圧

カレーを一口食べて、俺は三秒間、何も言えなかった。


さつきが「自炊の範囲じゃない」と笑った。澪が「やりすぎたな」と言った。俺はまだ何も言えなかった。二口目を食べた。やっぱり言えなかった。


「美味すぎて怖い」


それしか出てこなかった。


三人で笑って、帰った。晃だけが部室に残った。スマホを出した。



カレーを一口食べて、俺は三秒間、何も言えなかった。


さつきが「自炊の範囲じゃない」と笑った。澪が「やりすぎたな」と言った。俺はまだ何も言えなかった。二口目を食べた。やっぱり言えなかった。


「美味すぎて怖い」


それしか出てこなかった。


三人で笑って、帰った。晃だけが部室に残った。


スマホを出した。


皿の上に、神Vがまだあった。鶏白湯の乳化した白さと、海老ビスクのオレンジが、和風出汁の琥珀に溶け込んで、深い茶色になっている。三日間かけて引き出した旨味が、全部ここに沈んでいる。ルウの香りが空気に残っていた。海老の甘さと、昆布の奥行きと、鶏の脂のコクが、まだ鼻の奥にある。


ライスにカレーをかけた状態で撮った。フラッシュなし。キッチンの蛍光灯だけ。オレンジと茶色が重なった色が、そのまま写っていた。加工はしなかった。この匂いも、この重さも、画面には乗らない。それでも撮った。「試作です」とだけ書いて、投稿した。



翌朝、さつきから連絡が来た。


「なんかコメント多い」


スマホを開いた。神Vの投稿に、いいねが1,800件ついていた。いつもは六十もいかない。



---


部室で三人が集まった。さつきのスマホを覗く。


コメントが並んでいた。


「三層カレーってどういうこと、気になりすぎる」


「大学の模擬店でこのクオリティはおかしい」


「これ本当に学生が作ってるの」


「文化祭いつですか場所どこですか絶対行きます」


「シェアしていいですか」


「もうした」


DMが届いていた。「場所教えてください」が十件以上あった。


晃がフォロワー数を見た。昨夜投稿した時点では二百四十人だった。今は六百を超えていた。


「一晩で倍以上じゃん」と晃が言った。笑いが声に混ざっていた。「当たり前だろ、俺たちがあれだけのもん作ったんだから」


さつきが「うん」と言った。スマホを持ったまま、画面をスクロールし続けていた。止まらなかった。


澪はスマホを一度見て、テーブルに置いた。「数字は数字だろ」と言った。冷蔵庫を開けて、昆布の残りを確認した。


晃はその背中を見て、「そうだけど」と言いかけて、やめた。


昨夜の試作の味が、まだ体の芯に残っていた。あれだけのものを作ったんだから、数字が動くのは当たり前だ。それだけのことだ。



---


昼、さつきは一人で学食にいた。


定食を頼んで、窓際の席に座った。外は曇っていた。八事の丘の上に、十月の光が薄く差している。山手通りの銀杏はまだ青かった。


スマホを伏せてトレーの隅に置いた。朝からずっと通知が来ていた。コメント、いいね、DM。画面を開くたびに数字が増えている。昼だけは見ないことにした。


「あの、すみません」


声をかけられた。同学年くらいの女子だった。見知らぬ顔だった。


「自炊研究会の人ですよね?インスタ見てます。三層カレー、気になりすぎて。文化祭、絶対行きます」


さつきが「ありがとうございます」と言った。


笑って、会釈して、女子は去った。


さつきは定食の前に戻った。


味噌汁を一口飲んだ。


少し間があった。


ただ、重かった。


コメント欄の「絶対行きます」は、文字だった。でも今のは声だった。顔があった。知らない人間の、本物の顔が、さつきを見ていた。画面の外に、待っている人間がいる。それが急に、輪郭を持った。


さつきは豆腐を箸でつついた。崩れた。温かかった。食べた。


伏せたスマホが、また震えた。



---


夕方、三人が部室に集まった。


明日から本番仕込みが始まる。食材の最終確認をしていた。


晃がスマホを取り出した。「また増えてる」と言った。画面を見せた。「今日だけで三百人くらい。別のアカウントが取り上げたみたいだ」


「自炊研究会、文化祭で神V出すらしいけどやばそう」という投稿だった。コメントがついていた。「三層カレー気になりすぎ」「学生でこれはおかしい」「場所どこ、絶対行く」。リポストが連鎖していた。元の投稿から派生して、知らないアカウントがまた知らないアカウントに広げていた。止まっていなかった。


「やばくない?」と晃が言った。少し前のめりになっていた。「俺たち、昨日あれ食べたじゃん。訳わかんないくらいうまかったやつ。だから動いてんだよ、数字。当然だろ」


部室の空気が、少しだけ硬くなった。


「ハードル、上がってない?」とさつきが言った。声は静かだったが、目が晃のスマホから離れなかった。


「上がってる」と晃が答えた。「でもあの味なら上がって当然だろ」


「鍋の中は変わらない」と澪が言った。


「そういう話じゃないんだけど」とさつきが言った。


「そういう話だろ」と澪が言った。


硬い沈黙があった。


部室の窓の外で、八事の街の音がする。仁王門通の交差点から、夕方の車の流れ。誰かのバイクのエンジン音。三人が昨夜この部屋で笑っていた時間から、まだ一日も経っていない。それなのに、外の景色だけが変わっていた。


さつきが澪を見た。澪はリストを見ていた。鶏ガラの数を確認していた。指が一本ずつ数えている。鶏ガラ、モミジ、昆布、海老。三日間で使い切る食材が、全部そこにある。外の話には、もう戻らなかった。


晃はコメント欄を閉じた。スマホをポケットに入れた。


数字は止まらない。リポストも止まらない。知らない人間が増え続けている。でも明日の朝、この部室で火をつけるのは俺たちだ。鍋に水を張るのも、鶏ガラを沈めるのも、俺たちだ。それだけは変わらない。


「やるだけじゃん」とさつきが言った。


晃が見ると、さつきは食材リストを見ていた。こっちを見ていなかった。独り言に近い声だった。


さつき自身にも根拠はないはずだった。でも、声は揺れていなかった。


「そうだな」と晃は言った。今度は、少し前と違う声で言った。昨夜の試作の味が、もう一度だけ舌の奥に戻ってきた。




---




---



部室で三人が集まった。さつきのスマホを覗く。



コメントが並んでいた。



「三層カレーってどういうこと、気になりすぎる」


「文化祭で食べられるの!?絶対行く」


「大学の模擬店でこのクオリティはおかしい」


「これ本当に学生が作ってるの」


「場所どこですか」



DMが届いていた。「場所教えてください」というものが複数あった。



晃がフォロワー数を見た。昨日より増えていた。数十人単位ではなく、百人単位で。



「動いてる」と晃が言った。笑いが声に混ざっていた。「当たり前だろ、俺たちがあれだけのもん作ったんだから」



さつきが「うん」と言った。



澪はスマホを見て、テーブルに置いた。「数字は数字だろ」と言った。冷蔵庫を開けて、昆布の残りを確認した。



晃はその背中を見て、「そうだけど」と言いかけて、やめた。



昨夜の試作の味が、まだ体の芯に残っていた。あれだけのものを作ったんだから、数字が動くのは当たり前だ。それだけのことだ。



---



昼、さつきは一人で学食にいた。



定食を頼んで、窓際の席に座った。外は曇っていた。八事の丘の上に、十月の光が薄く差している。山手通りの銀杏はまだ青かった。



「あの、すみません」



声をかけられた。同学年くらいの女子だった。見知らぬ顔だった。



「自炊研究会の人ですよね?インスタ見てます。文化祭、絶対行きます」



さつきが「ありがとうございます」と言った。



笑って、会釈して、女子は去った。



さつきは定食の前に戻った。



味噌汁を一口飲んだ。



少し間があった。



ただ、重かった。



名前を呼ばれたわけじゃない。でも、顔を見られた。画面の外で。知らない人間に。



さつきは豆腐を箸でつついた。崩れた。温かかった。食べた。



---



夕方、三人が部室に集まった。



明日から本番仕込みが始まる。食材の最終確認をしていた。



晃がスマホを取り出した。「また増えてる」と言った。画面を見せた。「今日だけで三百人くらい。別のアカウントが取り上げたみたいだ」



「自炊研究会、文化祭で神V出すらしいけどやばそう」という投稿だった。コメントがついていた。「三層カレー気になりすぎ」「学生でこれはおかしい」「場所どこ、絶対行く」。



「やばくない?」と晃が言った。少し前のめりになっていた。「俺たち、昨日あれ食べたじゃん。訳わかんないくらいうまかったやつ。だから動いてんだよ、数字」



「ハードル、上がってない?」とさつきが言った。



「上がってる」と晃が答えた。「でもあの味なら上がって当然だろ」



「鍋の中は変わらない」と澪が言った。



「そういう話じゃないんだけど」とさつきが言った。



「そういう話だろ」と澪が言った。



硬い沈黙があった。



部室の窓の外で、八事の街の音がする。仁王門通の交差点から、夕方の車の流れ。誰かのバイクのエンジン音。



さつきが澪を見た。澪はリストを見ていた。鶏ガラの数を確認していた。外の話には、もう戻らなかった。



晃はコメント欄を閉じた。スマホをポケットに入れた。



「やるだけじゃん」とさつきが言った。



晃が見ると、さつきは食材リストを見ていた。こっちを見ていなかった。独り言に近い声だった。



さつき自身にも根拠はないはずだった。でも、声は揺れていなかった。



「そうだな」と晃は言った。今度は、少し前と違う声で言った。昨夜の試作の味が、もう一度だけ舌の奥に戻ってきた。



夜、本番仕込みの段取りを三人で確認した。


一日目は白湯。二日目は出汁と海老ビスク。三日目に合流。当日の朝に最終調整。


澪がリストに線を引いた。鶏ガラ、モミジ、昆布、海老。一つずつ確認して、一つずつ潰していく。手が止まらなかった。


さつきがエプロンを棚から出した。明日のために、フックではなく手元に置いた。


晃は寸胴を見た。空だった。明日の朝にはここに水が入る。火がつく。三日後、この中に神Vが完成する。


「全部入れるんだろ」とさつきが言った。


「全部入れる」と澪が言った。


誰も余計なことを言わなかった。言う必要がなかった。


外で風が鳴った。仁王門通の交差点の向こうから、十月の乾いた音が届いた。

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