第17話 白湯と出汁と海老の夜
朝、鶏白湯が完成していた。
寸胴の中で、白く濁ったスープが静かに揺れている。ぐつぐつという音は消えていた。夜通しかけていた火は弱火に落とされたまま、ごくかすかに動いている。部屋はまだ暗い。キッチンの蛍光灯だけが白く点いている。
澪が最初に近づいた。
お玉を沈めて、すくい上げる。白い液体が、蛍光灯の光を拾う。傾ける。流れを見る。色を見る。厚みを見る。
何も言わない。
お玉を戻して、鍋の縁を軽く拭いた。それだけだった。
晃はそれを見て、できた、と思った。澪が何も言わないときは、たいていそういうことだ。褒めない。騒がない。ただ、次に進む。晃はそのリズムを、この三日間でようやく覚えた。
「飲んでいい?」とさつきが言った。
澪が「まだ熱い」と言った。
「熱くていい」
「火傷する」
「すると思う」
それでもさつきはスプーンを取って、少量すくった。唇に触れる手前で止まって、息を吹きかける。それから、飲んだ。
目を閉じる。
数秒。
「……ほんとに、ちゃんと白湯だ」
「当たり前だろ」と澪が言った。
「でも、なんか不思議。昨日の夜は透明だったのに」
「乳化した。脂と水が混ざった」
「それが一晩で起きるんだ」
「起こした」
さつきが「そっか」と言った。「起こしたのか」と繰り返した。
小さい違いだ、と晃は思った。「起きた」と「起こした」。受動と能動のたった一文字。でも澪が言うと、その一文字に全部が入っている気がした。意図。準備。時間。
晃も一口すくった。熱い。でも奥に甘さがある。鶏の脂の丸い甘さ。昨日の夜とは、明らかに違う。透明だったスープが、白くなった。骨の中にあったものが、時間をかけて溶け出している。コラーゲンが、脂が、旨味が。見えなかったものが、見えるようになった。
「これがベースになるのか」と晃が言った。
「ここに重ねる」と澪が言った。
─────
昼前、澪が昆布を冷蔵庫から取り出した。
ボウルの中で、昆布が水に浸かっていた。昨夜の仕込みの前から、ずっとそこにあった。十二時間以上、低温の水の中に置かれていた。昆布の表面がゆるくふやけている。水は、薄い茶色に染まっていた。
「触っていい?」とさつきが聞いた。
「触るだけなら」
さつきが昆布の端をそっと持ち上げた。水が滴る。昆布は重くなっていた。吸い上げた水の分だけ、重い。
「なんか、柔らかい。昨日とぜんぜん違う」
「グルタミン酸が溶け出してる」と澪が言った。「低温で長く置くと、旨味の成分が傷まずに出る。沸騰させると濁る。この水出しは、旨味だけを引き出す方法だ」
さつきがボウルを覗き込んだ。「この茶色い水が昆布出汁か」
「まだ途中。ここから温度を上げる。六十度くらいまで。ゆっくり」
晃が「それ、感覚でわかるの」と言った。
「温度計を使う」
「ああ」
澪が小鍋に昆布ごと水を移した。弱火にかける。温度計を差し込む。針がゆっくりと上がり始める。
「なんか、手術みたい」とさつきが言った。
澪が少し間を置いた。
「手術よりは優しい」
さつきが「それはそうか」と笑った。
晃は笑えなかった。澪がそういう返し方をするのが、少し意外だった。優しい、という言葉が出てきたことが。澪は料理について話すとき、感情の言葉をほとんど使わない。工程を言う。因果を言う。温度を言う。それだけだ。なのに今、「優しい」と言った。
澪が温度計を見ている。鍋を見ている。交互に見ている。動かない。鍋が揺れても、姿勢が変わらない。
四十度。五十度。
針が上がるたびに、澪の手が少しだけ火加減を調整する。目盛りを見る。また鍋を見る。見ていない人間には何もしていないように見えるかもしれない。でも晃には、澪の指先が少しずつ動いているのがわかる。微調整を重ねている。温度と鍋と火と、三つを同時に読んでいる。
部屋に、昆布の匂いが立ち始めた。海の匂い。磯の重い匂いではなく、もっと薄い。水に溶け出した旨味の匂い。教室では絶対にしない匂い。
「これだけで飲めそう」とさつきが言った。
「飲むな」と澪が言った。
「飲まない。でも飲めそうって言っただけ」
五十五度。
「鰹節は」と晃が聞いた。
「六十度になったら入れる。少し置いてから漉す。沸騰させると旨味が濁る。温度が低すぎると出が悪い。六十度前後が一番いい」
六十度。
澪が鰹節を取り出した。両手でひとつかみ。鍋に入れる。
鰹節が水面に広がった。ゆっくりと、沈んでいく。
部屋の匂いが変わった。昆布の海の匂いに、鰹の燻した匂いが重なった。別々の匂いが、重なって、一つになる。
「変わった」とさつきが言った。
「旨味の軸が増えた」と澪が言った。「昆布はグルタミン酸。鰹はイノシン酸。二つは別の軸にある。混ざると、相乗効果が起きる。三倍とか四倍とか言われる」
「別の軸?」と晃が聞いた。
「同じ方向の力じゃない。違う角度から来て、ぶつかることで強くなる。和音みたいなもんだ」
晃は少し止まった。和音。澪が音楽の比喩を使うのは珍しかった。
五分ほどで、澪が漉し布を取り出した。鍋を傾けて、ゆっくりと漉す。透き通った、淡い琥珀色の出汁が、別の鍋に落ちていく。静かな音がした。
「これが和風出汁か」と晃が言った。
澪がスプーンを差し出した。
晃が飲んだ。
うまい。軽い。でも奥行きがある。透明なのに、重層的だ。味の後ろに、また味がある。
「こんなにはっきり違うんだな」
「素材が違う。引き方が違う。出汁はごまかせない」
さつきが「私も」と言って手を伸ばした。澪がもう一本スプーンを出した。
さつきが飲んだ。「……なんか、落ち着く」と言った。
「和だから」と澪が言った。
「それだけ?」
「それだけじゃないけど、それが大きい」
─────
夕方、さつきが海老を取り出した。
有頭海老を十尾。頭がついたまま、殻がついたまま。昨日の夜にイオンで買ってきたものだ。袋から出すと、濡れた磯の香りがした。
「頭と殻、外すんだよね」
「そう。身は後で使う」とさつきが言った。自分に言い聞かせるように。
頭をひねる。ぶち、という音がした。殻を剥く。身を別のボウルに入れる。頭と殻をフライパン用のボウルに集める。作業を繰り返すうちに、さつきの動きが少しずつ速くなった。慣れてきた。慣れたくて、やっている。
「これを炒めるのか」と晃が言った。
「炒めると、赤くなって、脂が出る。そこにトマトと白ワインを足して、煮詰めて、漉す。アメリケーヌだ」
さつきがフライパンにオリーブオイルを引いた。中火にかける。油が温まる。
海老の頭と殻をフライパンに入れた。
ジュ、という音がした。
オレンジ色の脂が染み出した。殻が縮む。頭が赤くなる。焦げる寸前の、甘い香りが上がる。生の海老にはなかった香りだ。熱が素材を変えている。
「いい匂い」と晃が言った。
「海老の旨味が出てきてる」とさつきが言った。声が少し高い。自分でも気づいていないかもしれない。でも晃には聞こえた。興奮している。
二分ほど炒めた。殻が全体的に赤くなった。
トマトの缶を開けて、半量をフライパンに入れた。ジュワ、と音がした。トマトの酸味が、海老の甘さにぶつかる。色が変わる。香りが変わる。
「白ワインを入れる」とさつきが言った。「フランベする」
晃が「初めてだろ」と言った。
「だから今やる」
澪が「フライパンを傾けすぎるな。炎が大きくなったらすぐ戻せ」と言った。
「わかった」
さつきが白ワインを瓶から直接注いだ。シュ、という音がした。アルコールの香りが立ち上がった。
さつきがコンロの火を傾けた。
炎が、一瞬大きくなった。
「やばい!」
フライパンを持った手が、反射的に引いた。炎が揺れる。
「倒すな」と澪が言った。静かな声だった。
炎は二秒ほどで消えた。
フライパンの中で、トマトと海老のソースが煮立っている。アルコールの角が取れた、甘い香りが部屋に広がった。
晃は息を吸った。
「……できてる」と澪が言った。
さつきが息を吐いた。長い息だった。「心臓止まるかと思った」
「止まってない」と晃が言った。
「止まりかけた」
「止まりかけてない」
さつきがフライパンを見た。ソースが静かに煮えている。海老の赤とトマトのオレンジが混ざって、深い色になっている。
「でも、できた」と言った。
「できた」と晃が言った。
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深夜になった。
三層のスープが、それぞれ鍋の中で待っていた。
白い鶏白湯。琥珀色の和風出汁。オレンジ色の海老ビスク。
三つが、同じキッチンの中にある。まだ混ざっていない。それぞれが別のものとして、別の温度で、別の匂いを持っている。朝から夜まで、この部屋で積み上げてきたものが、今、それぞれの鍋に入って待っている。
澪が小鍋を出した。
「試す」
鶏白湯を一口分すくう。和風出汁を半口分。海老ビスクを少量。
小鍋の中で、三つを合わせた。かき混ぜる。白とオレンジが混ざる。琥珀色が溶け込む。
ルウを少量割り入れた。溶けるのを待った。かき混ぜた。色が深くなった。スパイスの香りが立った。
小皿に取って、三人の前に置いた。
晃が先にスプーンを取った。
一口、食べた。
何かが来た。
表現できなかった。表現しようとして、できなかった。舌の上に乗っているものの名前が、出てこない。鶏、昆布、鰹、海老、ルウ。材料はわかっている。工程も見ていた。でも今、口の中にあるのは材料ではなかった。それらが溶けて、別の何かになっていた。
口を閉じたまま、晃は動かなかった。
飲み込む。
まだある。余韻が残っている。余韻の奥に、また余韻がある。
隣で、さつきが息を止めた。飲み込む音がした。そのまま動かない。スプーンを持ったまま、テーブルの一点を見ている。何かを見ているというより、何も見ていない。内側を向いている。
澪だけが、もう一口食べた。食べながら、小皿を見ている。眉が少し動いた。それだけだった。でも晃には、それが澪にとってのほぼ最大値だとわかった。
「……何、これ」とさつきが言った。
声が小さかった。驚いたときの声じゃなかった。どこか遠くで言っているみたいな声だった。
澪が三口目を食べた。
何も言わない。
晃が言った。「これ、ずるくない?」
澪が少し間を置いた。「ずるくない」
「いや、ずるい。こんなのが存在していいのか」
さつきがようやくスプーンを置いた。「……一個だけじゃ説明できない」
「説明できないのが正しい」と澪が言った。声が、わずかに低かった。「三つの旨味の軸が重なってる。どれかひとつを取り出せない。どれが主役かわからない。でも全部がいる」
「全部がいる」とさつきが繰り返した。
誰も次の言葉を出せなかった。
晃はもう一口食べた。やっぱり来た。同じ衝撃が、また来た。慣れない。一口目と同じ場所を、同じ重さで叩かれる。
「ライスにかけたら」と晃が言った。
「全部変わる。でも全部が支える」と澪が言った。
また、黙った。
三人が、小皿を見ていた。試作だ。ソフリットもない。具材もない。ライスもない。骨格だけだ。それでも骨格だけで、これだ。骨格だけで、こんなに来る。
「神Vになる」と晃が言った。
声に出してから、自分で少し驚いた。根拠なら、ある。今、口の中にある。
誰も否定しなかった。
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後片付けをしながら、さつきが言った。
「名前、もったいなくない?」
「何が」と晃が聞いた。
「海山フーガ。こんなのがフーガで済むかな。もっと大げさなもんじゃない」
澪が漉し布を干しながら言った。「プレリュードよりは大きい」
「でも完成形じゃない」と晃が言った。
「まだ始まりってこと?」
「まあ」
さつきが少し考えた。「じゃあフーガでいいか」と言った。「始まりならフーガだ」
洗い場の水が流れている。蛍光灯が低く唸っている。深夜の建物は静かだ。外から音はしない。
朝からずっとここにいた。鶏の骨を煮て、昆布を漉して、海老を炒めた。何時間かかったかよく分からない。でも今、それが全部、小鍋の中に入っていた。そして小鍋の中に入ったものは、確かにそれだけの時間の分だけ、うまかった。
三人の手の中に、「いける」という感触があった。
言葉にはならない。でも、ある。試作のカレーが、鍋の中で静かに冷めていく。明日、本番の仕込みが始まる。




