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第16話 再定義

八事の交差点は、夜になると人が増える。


地下鉄の出口から吐き出される人の流れ、イオンに向かう主婦、塾帰りの中学生、どこかに飲みに行く大学生。昭和区と天白区の境目にあるこの交差点は、夜の顔が昼とまるで違う。ファミレスの看板が光っている。居酒屋の呼び込みが声を上げている。ラーメン屋から湯気が出ている。


赤からの暖簾をくぐると、鍋の匂いが来た。


辛さと旨味が混ざった匂い。脂の甘さ。出汁の奥行き。晃は暖簾をくぐりながら、少しだけ息を吸った。


テーブルに座って、鍋を頼んだ。辛さは三番。さつきが「五番いける」と言って、澪が「三番でいい」と言って、三番になった。


鍋が来た。



赤いスープが煮立っている。白菜、豆腐、豚肉、きのこ。シンプルな構成だ。でもスープが旨い。辛さの奥に旨味がある。複数の素材が溶け出して、重なっている。



さつきが一口飲んだ。



「このスープ、構造あるよね」



独り言のように言った。



晃が「え」と言った。



「なんか、辛さの後ろに何かある。旨味が何層かある感じ」



澪がスープをすくった。一口飲んだ。少し考えた。「鶏ベースに唐辛子と味噌。あと何か魚介系が入ってる」と言った。



「魚介?」



「かな。奥にある」



さつきが「そういうことか」と言った。「辛いのに飲み続けられるのって、旨味が支えてるからか」



三人が鍋を食べていた。食べながら、話していた。



料理の話だった。



三ヶ月ぶりに、自然に料理の話が出ていた。



豚肉を追加した頃、晃が言った。



「神V、そろそろやるか」



鍋を見ながら言った。さつきでも澪でもなく、テーブルに向かって言った。



沈黙が一拍あった。



さつきが箸を止めた。澪がスープをすくったまま、止まった。



「やる」とさつきが言った。



間を置かなかった。即答だった。



澪がスープを飲んだ。「やろう」と言った。



それだけだった。長い話し合いはなかった。宣言もなかった。ただ、三人が同じ方向を向いた。文化祭まで二週間。今やらなければ間に合わない。それだけのことだった。



「何入れる」とさつきが前のめりになった。



「鶏白湯はベースとして確定」と澪が言った。「神IVと同じ出発点。でもそこに重ねる」



「何を重ねる」



「出汁。和風の。昆布と椎茸と鰹節」



さつきが「カレーに?」と言った。



「合う。旨味の方向が違うから、ぶつからない。鶏の旨味と昆布の旨味は別の軸にある」



「じゃあ海老は」と晃が言った。



澪が晃を見た。「海老、考えてたの」



「赤からのスープ飲んでたら。奥に魚介があるって言ったじゃん。海老のビスクみたいなの作って入れたらどうなる」



澪が少し考えた。「アメリケーヌ的な処理か」



「そう。有頭海老の殻と頭を炒めて、トマトと白ワインで煮詰めて、濾す」



「鶏白湯と和風出汁と海老ビスクの三層か」とさつきが言った。



「三層を合流させる」



「訳わかんなくなる」



「なる」と澪が言った。「でも旨くなる」



さつきが「やばい」と言った。嬉しそうな声だった。三ヶ月前の声だった。いや、三ヶ月前よりもっと前の声だった。神Iを作った夜の声に近かった。



鍋が煮立っている。辛さが鼻に来る。三人の声が重なっている。



隣のテーブルのサラリーマンが、こっちを見た。気にしなかった。



「具材はどうする」と晃が言った。スマホを出してメモを開いた。



「玉ねぎはソフリット」と澪が言った。「弱火で一時間以上炒める。飴色にする」



「一時間」とさつきが言った。「長い」



「旨味が全然違う。急ぐな」



「はい」



「トマトは?」と晃が聞いた。



「缶で入れる。酸味を残す方向で」



「肉は」



「豚と牛、両方」とさつきが言った。「神IIIが豚ジャンクションだったじゃん。あれに牛を足したら」



「後入れか」と澪が言った。



「牛は後入れにして、炒めてデグラッセして入れる。豚は最初から煮込む。役割が違う」



「舞茸も入れたい」と晃が言った。



「なんで」



「旨味。グアニル酸。昆布と鰹節とは別の旨味の軸がある」



澪が「それ本当に訳わかんなくなるやつ」と言った。



「訳わかんないのが神Vでしょ」とさつきが言った。



「そうだな」



「ルウは」と晃が聞いた。



「横濱舶来亭」と澪が即答した。



「それ高くない?」



「文化祭だから。出し惜しみしない」



さつきが「かっこいい」と言った。



メモが埋まっていく。鶏ガラ、モミジ、長ネギ、生姜、ニンニク。干し椎茸、昆布、鰹節。有頭海老、玉ねぎ、人参、トマト、白ワイン。豚肉、牛肉、舞茸。横濱舶来亭。追加スパイス。



「これ、全部合わせたら何時間かかる」とさつきが言った。



「試作なら一日」と澪が言った。「本番は三日」



「三日」



「文化祭の三日前から仕込む。当日の朝に最終調整」



「それ俺たちの三日間が消える」と晃が言った。



「そう」



沈黙が一拍あった。



「やろう」と三人が、ほぼ同時に言った。



さつきが笑った。澪が珍しく口角を上げた。晃はメモを閉じた。



鍋を食い終えた。



締めの雑炊を頼もうとして、さつきが「待って」と言った。



「このまま仕込み始めない?」



晃が「今夜?」と言った。



「鶏ガラだけでも炊き始めたい。五時間かかるんでしょ。今から始めたら朝に白湯ができる」



澪が時計を見た。「八時半」と言った。



「イオンまだ開いてる。鶏ガラ買える」



「昆布と椎茸も買っとく?」



「海老は?」



「今夜は白湯だけでいい。明日以降に重ねていく」



晃が「雑炊は」と言った。



さつきが「帰りにコンビニ」と言った。「おにぎりでいい」



「それでいいの?」



「神V作りながら食べるおにぎりのほうが旨い」



澪が立ち上がった。財布を出した。「行くか」と言った。



イオンの地下食品売り場は、閉店一時間前だった。



三人で食材コーナーを回った。鶏ガラを三袋。モミジを一袋。長ネギを二本。生姜と、ニンニクを一玉。



「モミジ、コラーゲンのやつ」とさつきが言った。「乳化に効く?」



「効く」と澪が言った。「足先の部分。皮膚と関節が多い。長時間炊くと溶け出す」



「気持ち悪い説明をありがとう」



「事実だから」



晃がカゴを持って二人の後をついていく。昆布を手に取った。羅臼と真昆布、どちらにするか少し迷った。



「どっち」と澪に聞いた。



澪が両方を見た。「羅臼。旨味が強い。カレーに負けない」



「真昆布は?」



「上品すぎる。今回の構造には合わない」



晃が羅臼昆布をカゴに入れた。



干し椎茸を探した。「どこだ」とさつきが言った。「乾物コーナー」と澪が言った。三人で乾物コーナーに移動した。椎茸を二袋取った。



レジで会計をした。三人で割った。一人千五百円ほどだった。



「これで試作か」とさつきが言った。



「本番はもっとかかる」



「まあいいか。文化祭だし」



コンビニでおにぎりを買った。さつきは明太子。澪はしゃけ。晃はツナマヨを二個。



部室のキッチンに着いたのは、九時過ぎだった。



蛍光灯を点けた。白い光が広がる。



澪が最初に動いた。寸胴を出した。棚から取り出して、シンクに置いた。洗った。神IVのときと同じ寸胴だ。あの夜以来、ずっとそこにあった。洗われて、逆さに置かれて、また今夜使われる。



「水、何リットル入れる」と晃が聞いた。



「最初は三リットル。煮詰まったら足す」



水を張った。



鶏ガラを取り出した。袋を開ける。生の匂いがする。血の匂いが少しある。さつきが「臭い」と言った。澪が「下処理する」と言った。



ボウルに鶏ガラを入れた。水を張って、血抜きをする。赤い水が出る。捨てる。また水を張る。三回繰り返した。



「モミジも同じ」と澪が言った。さつきがモミジを洗い始めた。



「これ本当に足先だ」とさつきが言った。



「言ったじゃん」



「言ったけど、見ると違うな」



「慣れる」



「慣れたくないかも」



「料理してたら慣れる」



晃がネギを切った。斜め切りにした。生姜を輪切りにした。ニンニクを潰した。包丁の腹で、ドンと叩いた。皮が剥けた。香りが出た。



キッチンに香りが広がり始めた。



生姜とニンニクの鋭い匂い。鶏の生臭さ。これから何時間もかけて、この匂いが変わっていく。



寸胴に鶏ガラとモミジを入れた。水を足した。



火をつけた。



強火。



水面がじりじりと動き始めた。



「アクが出る」と澪が言った。「最初は強火で、アクを一気に出す。丁寧に取る」



「どのくらい取る」



「徹底的に。アクを残すと雑味になる」



沸騰が始まった。白い泡が上がってきた。灰色の、濁った泡だ。澪がすかさずお玉でアクを取り始めた。



「俺もやる」と晃が言った。



「交代でやろう」とさつきが言った。



三人でアクを取った。お玉を動かすたびに、濁った泡がすくえる。取っても取っても出てくる。



「これ終わる?」とさつきが言った。



「終わる。最初だけ多い」と澪が言った。



十分ほどで、アクが落ち着いてきた。スープが白く濁り始めていた。まだ透明感がある。これが五時間後には、白く乳化した鶏白湯になる。



火を中火に落とした。



ぐつぐつという音が、キッチンに満ちた。



おにぎりを食べた。



寸胴の前に椅子を並べて、三人で座った。ぐつぐつという音を聞きながら、おにぎりをかじった。



明太子、しゃけ、ツナマヨ。コンビニのおにぎりだ。百三十円のおにぎりだ。



でも、うまかった。



「なんでこんな旨いんだろ」とさつきが言った。



「腹が減ってるから」と晃が言った。



「それだけじゃないと思う」



澪が寸胴を見ながら言った。「作ってる途中だから」



さつきが「そういうことか」と言った。



鍋が鳴っている。白い湯気が上がっている。昆布が冷蔵庫の中で水に浸かっている。明日には和風出汁を引く。明後日には海老ビスクを作る。それが全部合流したとき、神Vになる。



まだ見えていない。でも、見えてきそうだった。



「役割、どうする」とさつきが言った。



「何が」



「神V作るとき。誰が何をやるか」



澪が少し考えた。「和風出汁は俺がやる。昆布の抽出は温度管理が細かい」



「海老ビスクは私がやりたい」とさつきが言った。「フランベやってみたい」



「火の扱い、ちゃんとできる?」と晃が言った。



「できる。たぶん」



「たぶん、か」



「やってみなきゃわからないじゃん」



晃が「じゃあ俺は」と言った。「玉ねぎのソフリットと、全体の火加減か」



澪が「そう」と言った。



「それだけ?」



「ソフリットを一時間以上やり続けるのは、意外と難しい。焦がしたら終わり。火加減を保ち続けるのが仕事」



「地味だな」



「地味なのが一番重要」とさつきが言った。



「晃って、そういうの得意だよね」と澪が言った。



晃が「え」と言った。



「派手なことより、ずっと同じことを続ける。地道なやつ。それが一番料理に出る」



晃は少し間を置いた。



そんなふうに見られていたのか、と思った。数字を追って、次の手を考えて、常に前に出ようとしていた自分が、澪にはそう見えていた。



「普通、ってことじゃないの」と晃が言った。



「普通にできることが、一番難しい」と澪が言った。



さつきが「名言じゃん」と言った。



澪が「名言じゃない。事実」と言った。



晃はおにぎりの残りをかじった。ツナマヨの味がした。百三十円の味がした。



でも何かが、胸の中で少しだけ動いた。



深夜になった。



寸胴はまだ火の上にある。ぐつぐつという音が続いている。スープが少しずつ白くなってきた。乳化が始まっている。鶏の脂が水と混ざって、白濁した液体になっていく。



「旨そうになってきた」とさつきが言った。



「まだ序盤」と澪が言った。「ここから三時間以上かかる」



「見てる」



「見てなくていい。交代で寝ろ」



「でも見たい」



澪が「好きにしろ」と言った。



晃は寸胴の前に座って、ぐつぐつという音を聞いていた。白い湯気が上がる。鶏の旨味が部屋に満ちている。



スマホを取り出した。



アカウントを開こうとして、やめた。



代わりにメモを開いた。



「神V:海山フーガ」



打った。



それから、今夜決まったことを書き連ねた。三層のスープ。具材の構成。役割分担。仕込みのスケジュール。文字が増えていく。でも今夜のメモは、七月のノートとは違った。手が汚れている。鶏の匂いがまだ指先に残っている。



さつきが「晃、何書いてんの」と覗いてきた。



「メモ」



「見せて」



スマホを渡した。さつきが読んだ。「海山フーガ、いいじゃん。名前もう決めたの」



「今決めた」



さつきがスマホを澪に渡した。澪が読んだ。「フーガ、か」と言った。



「だめ?」



「いい。対位法だろ」



「そう。複数の旋律が絡み合う」



「このカレーそのものだな」とさつきが言った。



寸胴がぐつぐつと鳴り続けていた。



白い、濁った、旨そうなスープが、今夜も煮えていた。

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