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第15話 塩だけ

十月の半ば、部室のキッチンに澪の出汁が残っていることが増えた。



毎朝ではない。週に二回か三回。蓋をした小鍋が、コンロの端に置いてある。誰が作ったとも書いていない。メモもない。ただ、置いてある。



さつきが最初に気づいて、飲んだ。晃は少し遅れて知った。ある日、部室に寄ったときに鍋があって、蓋を開けたら昆布出汁だった。澪だとわかった。飲んだ。うまかった。それだけだった。



三人はそのことについて、何も言わなかった。言わないまま、鍋は時々置かれた。





その週の木曜日、晃が部室に来たのは夕方だった。



四限が終わって、食堂に寄ろうとして、なんとなくやめた。覚王山方面に出て、商店街を少し歩いて、結局部室に向かった。昭和区の夕方は、この時期になると風が冷たくなる。イチョウの葉が黄色くなっていた。先週より確実に色が濃い。踏むと乾いた音がした。



ドアを開けると、さつきがいた。



キッチンに立っていた。コンロの前に立って、小鍋を見ている。澪の出汁だ。今日も置いてあった。さつきはそれを温め直しているところだった。



「あ」



さつきが振り向いた。



「来たんだ」



「うん」



それだけだった。晃はコートを脱いで、椅子に座った。さつきはまたコンロに向き直った。



鍋が温まる音がする。小さな気泡が立つ音。換気扇の唸り。それだけが続く。



しばらくして、さつきが棚を開けた。冷蔵庫を確認して、豆腐を取り出した。まな板を出して、包丁を取った。



切り始めた。



小さく、均一に。急いでいない。丁寧でもない。ただ、切っている。



晃はその背中を見ていた。三ヶ月前と同じ背中だ。同じキッチンで、同じように立っている。でも何かが違う。強いて言えば、軽い。三ヶ月前の重さがない。重さがない代わりに、派手さもない。ただ、立っている。



豆腐が出汁の中に落ちた。静かに沈んで、浮いた。



さつきが火を止めた。





さつきが棚からエプロンを取った。



壁のフックにかかったままだったエプロンだ。停滞期の間、ずっとそこにあった。晃は気づいていた。気づいていて、触れなかった。さつきも触れなかった。澪も触れなかった。



さつきはそれを広げて、頭からかぶった。後ろで紐を結んだ。



それだけだった。台詞はなかった。説明もなかった。ただ、エプロンをつけた。



晃はそれを見た。何も言わなかった。言葉にしてしまうと何かが壊れる気がした。だから黙って見た。さつきも何も言わなかった。エプロンをつけたまま、鍋を器に盛り始めた。



豆腐の味噌汁が、湯気を上げている。



さつきが一口飲んだ。少し考えた。



「塩、少し足す?」



晃に向かって言った。独り言に近かった。



「いらない」



「そう」



それだけだった。言い争いではない。確認でもない。ただ、会話だった。料理についての、普通の会話。三ヶ月ぶりの、普通の会話だった。





澪が来たのは、それから三十分後だった。



ドアを開けて、コートを脱いで、鍋を確認した。出汁が減っているのを見て、何も言わなかった。冷蔵庫を開けて、残り物を確認した。棚から米を出した。



「炊く」



一言だけ言った。



さつきが「うん」と言った。晃も「うん」と言った。



澪が米を研ぎ始めた。水が白く濁る。研いで、流して、また研ぐ。その音だけが続く。晃はぼんやりとそれを聞いていた。



三人が同じキッチンにいる。一緒に作っているわけじゃない。さつきは味噌汁を作った。澪は米を研いでいる。晃は何もしていない。それぞれが別々に動いている。でも同じ空間にいる。それだけで、何かが違った。



「それ、どこで買ったやつ」とさつきが澪に聞いた。米のことだ。



「生協」



「いくら?」



「五キロで二千円くらい」



「高くない?」



「それなりのやつ」



「なんの米」



「あきたこまち」



さつきが「へえ」と言った。それで終わった。



料理の話ではなかった。食材の話だった。でも食材の話は、料理の話に近い。三ヶ月前には出てこなかった会話が、今日は自然に出てきた。



晃は二人の会話を聞きながら、立ち上がった。冷蔵庫を開けた。卵があった。ネギもあった。だしパックが一箱、棚の端に置いてあった。



「卵焼き、作っていい?」



澪が「どうぞ」と言った。さつきが「作れんの?」と言った。



「一応」



「甘い派?」



「どっちでもいい」



「私は甘くないほうがいい」



「じゃあ甘くしない」



「澪は?」



澪が炊飯器をセットしながら「どっちでも」と言った。



晃はボウルを出した。卵を三個割って、菜箸で溶いた。だしパックを破いて、出汁粉を少し加えた。塩を少し。醤油を少し。混ぜた。フライパンを出した。火をつけた。油を薄く引いた。



フライパンが温まる。卵液を流す。端から巻いていく。うまくはない。きれいな形にはならない。でも、手が動いた。久しぶりに、コンロの前に立っている。フライパンの熱が顔に届く。油の匂いがする。卵が固まる匂いがする。



悪くない、と思った。



「焦げてない?」とさつきが横から覗いてきた。



「大丈夫」



「端、焦げかけてる」



「巻けばいい」



「そういう問題?」



「問題ない」



「強がり」



晃は返事をしないで巻いた。端が少し焦げたが、形にはなった。まな板の上に出して、切った。断面が雑だ。層になっていない。



皿に盛った。



「これ、どっちが表?」



さつきが笑った。久しぶりに聞いた笑い方だった。作った笑い方ではなく、出てきた笑い方。そういう笑い方を、さつきはする。晃はそれを知っていた。知っていたのに、三ヶ月で忘れかけていた。



「うるさい」



澪がタイマーをセットした。「十五分」と言った。




炊飯器が蒸気を上げ始めた頃、キッチンの温度が上がっていた。



コンロの余熱と、炊飯器の湯気と、三人分の体温が混ざって、十月のキッチンが少しだけ暖かくなっていた。窓ガラスが薄く曇り始めた。さつきが換気扇を回した。唸りが始まって、湯気が流れていく。



さつきが冷蔵庫を開けた。「なんか、もう一品いけない?」



「何がある」と澪が振り向かずに聞いた。



「えーと。しめじ。ハーフベーコン。あとピーマンが二個」



「ピーマンの肉詰め、肉ないけど」



「肉なしでできんの」



「ベーコン刻んで詰めればいける」



さつきが少し考えた。「やってみる」と言った。



「何したらいい」と晃が立ち上がった。



「ピーマン、半分に切って種取って」



晃はピーマンを二個取った。まな板の上に置いた。包丁を取った。縦に切る。種をスプーンでこそいで取る。それだけの作業だ。難しくない。でも、包丁を持ったのは久しぶりだった。手に馴染む感じがした。



「ベーコン、細かく刻んでいい?」とさつきが澪に聞いた。



「しめじも混ぜたら?」



「あ、それいいね」



さつきがベーコンを切り始めた。包丁のリズムが速い。細かく、均等に刻んでいく。隣でしめじをほぐす音がする。澪が手伝い始めていた。



三人が並んでいた。狭いキッチンに三人が並んで、それぞれ手を動かしている。誰かが指示したわけじゃない。役割を決めたわけじゃない。自然にそうなっていた。



「塩胡椒、どこだっけ」「右の棚」「あった」



ベーコンとしめじを炒める音が始まった。じゅわっという音。油の弾ける音。豚の脂の甘い匂いと、しめじの土っぽい匂いが混ざって、キッチンに充満し始めた。



「いい匂いじゃん」とさつきが言った。嬉しそうな声だった。三ヶ月前の声に近かった。



さつきがベーコンとしめじをスプーンでピーマンに詰め始めた。ぎゅっと押し込む。はみ出す。また押し込む。



「多すぎ」と晃が言った。



「多いほうが美味しいじゃん」



「崩れる」



「崩れたら崩れたでいい」



「論理が雑」



「料理は勢い」



澪が小さく笑った。気づかないくらい小さな笑いだったが、晃は聞いた。澪が笑うのを聞いたのも、久しぶりだった。




炊飯器が鳴った。三人が同時に顔を上げた。



蓋を開けると、湯気が一気に上がった。白い湯気がキッチンの天井に向かって広がる。炊きたての米の匂いが、一瞬でキッチンを満たした。甘い、重い、確かな匂いだ。



「いい匂い」とさつきが言った。今度は声が大きかった。



「あきたこまちはこうじゃないと」と澪が言った。



「なんで急に米の説明してんの」



「美味しい理由を言っただけ」



「澪って、たまにそういうこと言うよね。急に情報量増えるやつ」



「そういうこと、ってどういうこと」



晃がご飯をよそった。三人分。大きい茶碗に、こんもり盛った。



ピーマンの肉詰めもどきが皿に並んでいた。形は不揃いだった。詰めすぎて崩れたものもあった。でも、焼き色がついていて、ベーコンの脂が光っていた。澪の出汁の味噌汁は、豆腐が柔らかく煮えていた。晃の卵焼きは、端が焦げていた。



全部が雑だった。全部が、それぞれの手から出てきたものだった。




三人で食べた。



「卵焼き、思ったよりまし」とさつきが言った。



「思ったより、ってなんだよ」



「褒めてる」



「褒め方が悪い」



「細かい」



「お前が雑なんだよ」



「ピーマン美味しいでしょ」



「まあ」



「まあ、ってなんだよ」



「褒めてる」



さつきが「うわ」と言って笑った。澪が「おいしい」とだけ言った。晃は少し間を置いてから「ありがとう」と言った。



誰も評価しなかった。数字の話も、次の投稿の話も、出なかった。ただ、食べた。ただ、笑った。



窓の外が暗くなっていた。昭和区の街灯が、一本ずつ灯り始めていた。換気扇が回っている。お茶が温かい。キッチンがうるさかった。三ヶ月前とは違ううるささだった。誰かが何かを言って、誰かが返して、また誰かが言う。それだけのことが、今夜はずっと続いていた。



さつきがお茶を一口飲んで、ふと言った。「文化祭、いつだっけ」



「来月の頭」と澪が答えた。



「もうそんな時期か」



それで終わった。続かなかった。でも、出た。文化祭という言葉が、三人の間に置かれた。誰もそれを拾わなかった。でも、そこにあった。



「ご飯、おかわりする?」と澪が言った。



「する」とさつきが茶碗を差し出した。「俺も」と晃が続けた。



澪が二つの茶碗にご飯をよそった。炊きたての米の匂いが、またキッチンに広がった。



食後。



三人で洗い物をした。誰かが洗って、誰かがすすいで、誰かが拭いた。役割を決めたわけじゃない。自然にそうなった。



さつきが洗いながら「ピーマン、また作りたい」と言った。「次は肉入れよ」と澪が言った。「合いびきがいい」とさつきが言った。「豚だけのほうがいい」と澪が言った。「なんで」「脂の甘さが違う」「詳しい」「当たり前」。



晃はそれを聞きながら、皿を拭いた。こういう会話だ、と思った。こういう会話が、三ヶ月なかった。料理の話でも、数字の話でもない。ただ、次に何を食べたいかという話。それだけの話が、今夜は自然に続いていた。



澪が最後にコンロを拭いた。



さつきがエプロンを外して、フックに戻した。



晃はそれを見た。フックに戻ったエプロンは、さっきまでとは違って見えた。ずっとそこにあったエプロンと、一度外されて戻ってきたエプロンは、同じ場所にあっても違う。何が違うのかは、うまく言えない。でも、違った。使われた跡がある。今夜の跡がある。



「じゃあ」とさつきが言った。「また」と澪が言った。「うん」と晃が言った。



三人がそれぞれ帰った。



---



夜、晃はアパートへの坂道を下りながら、スマホを取り出した。



アカウントを開いた。最後の投稿。神IV。いいねの数は止まっている。コメントも増えていない。フォロワーは、先月より少し減っていた。更新が止まると、減る。当たり前のことだ。知っていた。



でも今夜は、その数字を見て、前とは違う感じがした。



先月見たときは、止まっている数字が重かった。動かさなければという感覚と、動かしたくないという感覚が、同時にあった。どちらにも動けなかった。



今夜は、ただ止まっていた。



重くはなかった。軽くもなかった。ただ、今夜の三人とは別の場所にある数字だった。



コメント欄を少しスクロールした。「次の更新楽しみにしてます」というコメントがあった。二週間前についていた。返信していなかった。



晃はしばらくそれを見た。



楽しみにしている人がいる。それは本当だ。でも今夜、さつきがピーマンに具材を詰めすぎて崩した瞬間に、晃が笑った。あの笑いと、このコメントは、同じ場所から来ていない。どちらが大事か、という話じゃない。ただ、違う、と思った。



スマホを閉じた。ポケットに入れた。



坂の下の交差点で、信号が赤になった。止まった。昭和区の夜の風が、首筋に触れた。銀杏の葉が一枚、街灯の光の中を落ちていった。黄色い葉が、アスファルトの上に静かに着いた。



信号が青になった。晃は歩き始めた。



頭の中に、今夜のキッチンの温度が残っていた。換気扇の唸り。炊きたての米の匂い。さつきの笑い声。澪の「おいしい」。



数字じゃない何かが、今夜はそこにあった。それだけが、確かだった。

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