第14話 普通
名古屋の夏は、粘る。
梅雨が明けた途端に空気が固まる。湿度が高いまま気温だけが上がって、日差しが地面に反射して、どこにいても逃げ場がない。昭和区の坂道は、午後になると熱を蓄えたアスファルトが靴底から体温を奪う。木陰に入っても、風がない。風が来ても、熱い。覚王山から八事にかけての斜面は、夏になると緑が濃くなる。濃くなるほど、空気が重くなる。
七月の終わり、晃は実家に帰った。
新幹線ではなく在来線を乗り継いだ。時間はかかるが、金がない。名古屋から岐阜に出て、米原で乗り換える。電車が琵琶湖沿いに差しかかると、急に視界が開ける。水面が広がる。空が広くなる。光が水の上で跳ねて、車窓に反射する。名古屋の夏とは違う光だ。湿っているのは同じだが、重さが違う。どこか息ができる感じがする。
なのに、晃の胸は軽くならなかった。
車窓の外の景色を見ながら、ぼんやりと考えていた。あの部屋のことを。神IVの寸胴が、棚の端に置かれたままであることを。さつきが「止めよ」と言って、晃が答えられなかった夜のことを。電車が揺れるたびに、考えがほどけて、また戻ってきた。琵琶湖がどんどん遠ざかる。水面の光が、車窓の端に消えていく。
実家は滋賀の小さな街にある。
駅を出ると、空気が変わる。コンクリートの匂いがない。アスファルトはあるが、名古屋ほど照り返さない。田んぼが多い。稲が青く伸びている。夏の盛りの緑は、昭和区の植え込みとは色が違う。もっと素直な緑だ。手を入れていない緑。
自転車を漕いで、十分で家に着く。
玄関を開けた瞬間、冷房の冷気と、台所の匂いが混ざって出てきた。醤油と出汁の匂い。子供の頃から変わらない匂い。この匂いを嗅ぐたびに、体の力が抜ける感じがする。条件反射みたいなものだ。名古屋にはない匂いだ。
母親が台所にいた。
「おかえり」
振り向かずに言う。フライパンを揺らしながら。晃の帰省を、特別なことだとは思っていない口調だ。それが、どこか安心だった。
「ただいま」
椅子に座った。
出てきた飯を食った。
肉じゃがと、玉ねぎと豆腐の味噌汁と、白いご飯。単純な組み合わせだ。出汁の構造を考えなかった。玉ねぎの火の入り方を観察しなかった。スマホを取り出して写真を撮ろうとしなかった。ただ食った。箸を動かして、飲み込んで、また箸を動かした。
うまかった。
ただ、うまかった。それだけだった。
それが安心だった。安心したことに、少しだけほっとした。
ほっとしたあとで、落ち着かなくなった。
何かを考えていないと、自分が何者かわからなくなる気がした。料理のことを考えていないと、ここにいる理由がわからなくなる気がした。でも考えようとすると、嫌になる。考えたくない。でも考えないと落ち着かない。どちらに転んでも、落ち着かない。
母親が「食欲あるじゃん」と言った。
晃は「まあ」と返した。それだけだった。
外で蛙が鳴いていた。田んぼの方から、低く、一定のリズムで。子供の頃は気にならなかった音が、今年はやけに大きく聞こえた。部屋の窓を閉めても、聞こえた。
お盆が来て、お盆が終わった。
親戚が集まって、飯を食って、解散した。久しぶりに会う顔が並んで、近況を聞かれて、「大学、楽しいよ」と答えた。嘘ではなかった。でも本当でもなかった。「料理サークルに入ってて」と言うと、叔父が「え、男なのに?」と言った。晃は笑った。笑いながら、少しだけ腹が立った。腹が立ったことに、少しだけ驚いた。
夜、自分の部屋で寝転んで、スマホを見た。
さつきからラインが来ていた。
「花火大会、地元であるんだけど名古屋は?」
短い。料理の話ではない。晃は少し考えてから「知らん、調べてない」と返した。さつきから「そっか」と来た。それで終わった。
窓の外で花火が上がっていた。遠くの方で、音だけが遅れて届く。光が空に広がって、すぐに消える。次の光が来るまでの暗さが、やけに長く感じた。
澪からは何も来なかった。
晃から送ることもなかった。
でも、一度だけ澪のアイコンを長押しして、以前送ったメッセージを確認した。既読がついていた。返信はない。でも読んでいる。それだけがわかった。それだけで、少し安心した。
自分でも、何に安心しているのかわからなかった。
八月が続いた。
晃は実家でバイトを入れた。地元のスーパーで品出しをした。夜の時間帯。閉店前の棚を補充して、消費期限の近いものをシールで仕分ける。単純な作業だ。考えなくていい。体だけ動かしていれば終わる。
精肉コーナーの前を通るたびに、鶏ガラを探した。
意識していなかった。でも目が向いた。あった日もあった。なかった日のほうが多かった。あっても、買わなかった。買う理由がなかった。ここで買っても、炊く場所がない。炊く相手もいない。
それだけのことなのに、なかった日はなんとなく、損をした気がした。
馬鹿らしいと思った。でも毎回、探した。
深夜、バイトの帰り道に田んぼの脇を通る。稲が風で揺れる音がする。葉と葉がこすれる、細い音だ。空には星が多い。名古屋では見えない星が、ここでは見える。きれいだと思う。でも誰かに言いたいとは思わなかった。言っても、届く相手が今の自分にはいない気がした。
九月になって、名古屋に戻った。
在来線で米原を越えると、また空気が変わる。窓の外の景色が、少しずつ都市になっていく。田んぼが減って、工場が増えて、高速道路が見えて、街が広がる。名古屋駅のホームに降りると、地下鉄の風が顔に当たった。夏の終わりの、湿った風。
ここに戻ってきた、と思った。
滋賀は実家だ。でも今の自分の場所は、あっちじゃない気がした。かといって、名古屋が自分の場所かどうかも、まだわからない。どちらでもない場所に、今の自分はいる。そういう感じがした。
昭和区の坂道は、八月よりわずかに涼しかった。まだ暑いが、夜になると風が変わる。夕方、覚王山の商店街を歩くと、アーケードの中にコーヒーの匂いと揚げ物の匂いが混ざっていた。平日の夕方、商店街はまだ人が多い。地元の人間と、大学生と、観光客が入り交じって、それぞれの用事で歩いている。
どこかの店から出汁の匂いがした。
一瞬だけ足が止まった。
鶏の甘い匂い。昆布かもしれない。どちらかわからないが、確かに出汁の匂いだった。
止まったことに気づいて、また歩き始めた。
キャンパスに人が戻ってきた。前期の顔ぶれが、また揃い始める。サークルの話。バイトの話。夏休みどこ行ったという話。晃もそういう話をした。普通にした。普通にできた。笑った。笑いながら、どこか遠いところにいる感じがした。
でも部室には、なかなか行けなかった。
行こうとするたびに、足が重くなる。あの部屋に入ったら何かが動き出す。動き出したら、あの夜の続きが来る。まだ続きの言葉が出てこない。出てこないまま、また明日にしようと思う日が続いた。
十月に入った週、さつきからラインが来た。
「部室、来れる?」
短い。いつものさつきの文体だ。でも、いつもより少しだけ間があって送られてきた気がした。気のせいかもしれない。
「いつ?」と返した。「今日」と来た。
晃は少し考えた。考えて、「わかった」と返した。
スマホを閉じて、鞄を持った。外に出ると、十月の風が首筋に触れた。昭和区の坂道に、銀杏並木が続いている。葉がそろそろ色づき始めていた。まだ完全には黄色くなっていない。中途半端な緑と黄色が混ざって、どちらでもない色になっていた。
部室のドアを開けると、さつきがいた。
椅子に座って、両手でマグカップを持っていた。湯気が出ている。コーヒーか、お茶か、遠目にはわからない。窓から午後の光が差し込んで、さつきの横顔を照らしていた。逆光で、表情が読みにくい。
「久しぶり」
さつきが言った。声は普通だ。普通に明るい。でも少しだけ、試している感じがする。この空気が壊れないかどうかを、確認している感じ。
「久しぶり」
晃も言った。
澪はまだ来ていなかった。
三人で話すのは、あの夜以来だった。晃はそれを意識した。意識しないようにして、できなかった。
さつきがカップを置いた。
「元気だった?」「まあ」「実家、帰ったんだっけ」「うん」「どうだった」「普通」
さつきが少しだけ笑った。「普通か」と言った。笑い方が、どこか懐かしかった。三ヶ月前と同じ笑い方だった。三ヶ月前と同じなのに、少しだけ遠く見えた。
澪が来た。ドアを開けて、コートを脱いで、椅子に座った。「久しぶり」とだけ言った。二人が「久しぶり」と返した。
三人が揃った。
会話はあった。講義の話。バイトの話。食堂のメニューが変わったという話。さつきが笑った。澪が短く返した。晃もたまに口を挟んだ。窓の外では、グラウンドから運動部の声が届いた。ボールが弾む音。誰かが叫ぶ声。いつもの午後だ。
料理の話は、出なかった。
誰も出さなかった。出さないことを、誰も指摘しなかった。その空白だけが、三人の間に静かにあった。
悪くはなかった。
ただ、物足りなかった。
何が物足りないのかは、言えなかった。言えないまま、時間が過ぎた。
帰り際、晃はキッチンの前を通った。
トイレに寄った帰りに、廊下の突き当たりにあるキッチンの前を通っただけだ。電気は消えていた。でも、ドアが少し開いていた。
晃は足を止めた。
暗いキッチンの中を、廊下の光が細く照らしている。その光の中に、棚の端が見えた。
神IVの寸胴が、逆さに置かれていた。
逆さ、ということは洗われている。水が切れるように、逆さに置いてある。あの夜から、誰も触っていないと思っていた。でも誰かが洗っていた。終わらせたのではなく、次に使えるようにしてある。その違いが、見ただけでわかった。
誰が洗ったか、聞かなかった。
聞く必要はなかった。
晃はドアから離れた。廊下を歩いた。外に出ると、夕方の風が頬に触れた。昭和区の坂が、夕方の光の中で長い影を落としていた。銀杏の葉が、一枚だけ風に舞い上がって、また戻った。どこかの家の台所から、醤油と出汁が混ざった匂いが漂ってきた。誰かが飯を作っている。普通の、夕方の匂い。
晃は坂を下りながら、スマホを取り出した。
さつきでも澪でもなく、ただ画面を開いた。アカウントを見た。最後の投稿。神IV。いいねの数は止まっている。コメントも増えていない。数字は動いていない。
閉じた。ポケットに入れた。
坂の下まで来ると、地下鉄の駅が見えた。仁王門通の交差点。信号が赤になる。止まった。
向かいのビルのガラスに、夕焼けが映っていた。昭和区の空が、西の方だけ赤く染まっている。八事の山の稜線が、その赤の中に黒く浮かんでいた。
信号が青になった。
晃は歩き始めた。
深く息を吸った。夕方の空気は、少しだけ出汁の匂いがした。気のせいかもしれない。でも、した気がした。
地下鉄の入口に吸い込まれていく人の流れに、晃も混ざった。階段を下りると、街の音が遠くなった。ホームに出ると、風が来た。電車が来る前の、地下鉄特有の風だ。どこか遠くから押し出されてくる風。
電車が来た。
乗り込んだ。
ドアが閉まった。
車窓の外、ホームが流れていく。暗いトンネルになって、自分の顔が窓に映った。
晃はその顔を、少しの間見た。
それから、目を逸らした。




