第12話 無音
更新は、なかった。
いつもの時間になっても、投稿は上がらない。ストーリーズの輪は灰色のまま。フォロワー数は横ばいだった。数字はそこにある。動かないだけだった。
晃はキッチンのドアの前まで来て、引き返した。
三回目だった。
廊下の蛍光灯が低く唸っている。壁に手をついて、少しだけ体重を預ける。ドアノブに手が届く距離。届くのに、触らない。コンクリートの壁は冷たい。掌だけが、じわりと温もりを返す。
あの部屋に入れば続きがある。寸胴がある。コンロがある。メモ帳もある。わかっている。でも続きの言葉が出てこない。言葉が出てこないのではなく、言葉の前にあるはずの何かが、まだ見つからない。見つからないまま、また廊下に立っている。
部屋に戻る。
机の前に座る。ノートを開く。
「神V 改良案」
書いた。矢印を引いた。丸で囲んだ。「鶏白湯の炊き時間を延長」「豚骨の比率を上げる」「玉ねぎの層を四段に」「トマトの投入タイミングを後ろへ」。構造は組める。ペンが動く。考えられる。論理は通る。
でも手は汚れない。
包丁を持っていない。フライパンも温めていない。まな板の上には何もない。ページだけが増えて、鍋は空のままだ。設計図だけが積み上がって、一口も食べていない。
スマートフォンを開く。
通知欄を見る。
「最近更新ないですね」
一行だけ。それだけで閉じる。
言い訳をしようとして、やめた。反論しようとして、やめた。謝ろうとして、やめた。何をしようとしても、その前に止まる。自分が何を言いたいのかまだわからないから。わからないまま何かを書いても、嘘になる気がする。
さつきに電話しようとして、やめた。発信画面まで出して、閉じた。
澪にメッセージを打ちかけて、やめた。「今どうしてる」と打って、全部消した。
結局、天井を見た。
「ただの大学生に戻りたくなかった」
自分で言った言葉が、また頭の中を回った。また回った。また回った。違う、と思う。でも何が違うのか言おうとすると、また同じところに戻ってくる。ループしていた。出口がなかった。論理を積もうとすると、積む前に崩れた。別の言葉を探すと、また同じところに戻ってきた。
料理が好きだった。それは本当だ。最初から好きだった。味噌バターの匂いに引き寄せられて、あのドアを叩いた日から。でも届き始めてから何かが変わった。変わった、と思う。でも何が変わったのか、名前がつけられない。名前がつけられないまま、夜が深くなっていく。
止まった。
「一回、止めよ」とさつきが言った夜を思い出す。晃は答えなかった。今もまだ答えられなかった。止めることが正しいのかもわからなかった。止めないことが正しいのかもわからなかった。どちらが正しいかより先に、自分が何を望んでいるのかがわからなかった。
止めたら何が消えるのか。消えて、それで。
また「ただの大学生に」が来た。
晃は天井を見ていた。外が少しずつ暗くなっていた。眠ろうとしていなかった。ノートのページが、また一枚増えた。手は、汚れていない。
「ただの大学生」が、まだそこにいた。
さつきは学食でカレーを食べていた。
普通の、業務用のカレー。湯気が上がっている。色も匂いも、普通。スプーンを入れると、粘度が軽い。味は薄い。可もなく不可もない。文句をつける理由もない。
写真は撮らなかった。
撮ろうと思えば撮れた。スマホはポケットの中にある。いつもなら反射的に取り出していた。角度を考えて、光を確認して、湯気のタイミングを待って。でも今日は取り出さなかった。それが普通に戻ることのはずだった。普通のごはん、普通の昼、普通の学生。
隣のテーブルで友達が笑っている。さつきも笑った。笑えた。普通に楽しかった。声を上げて笑った瞬間もあった。誰かの話が面白くて、お茶を吹きそうになった。それだけで十分だと思っていた。
でも帰り道、自分が何も考えずに食べていたことに気づいた。
スプーンを動かすたびに何かを考えていたはずなのに、今日は何も考えていなかった。出汁の構造を考えていなかった。ルウの溶け方を観察していなかった。ただ、食べていた。それが安心なのか損失なのか、まだ判断できなかった。判断しようとすること自体が、もう普通じゃない気がした。普通に戻ろうとしているのに、普通の基準が変わっている。
アパートに帰って、キッチンの前を通った。
電気を点けなかった。
暗いままのキッチンを、一秒だけ見た。神IVの寸胴がそこにある気配だけが、暗闇の中にあった。エプロンは壁のフックにかかったまま。見えないのに、あることはわかった。触らなかった。
ベッドに座って、スマホを手に取った。
アカウントを開いた。
最後の投稿。神IVの写真。白い皿、艶のある茶色、湯気。コメントが並んでいる。「完成度えぐ」「店出せるやろ」「次は販売?」「学生でこれ?」「逸般」。読んだ。全部読んだ。スクロールした。また読んだ。
「失敗しないでください」という文面を探した。あった。少し前のコメント欄の中にあった。「絶対行きます」も、その少し上にあった。
そのとき何かが持ち上がった、あの感覚。
消えていなかった。まだそこにあった。
見られたかったのか、自分は。
思ってから、胃の奥が冷えた。嫌だと思った。でもその「嫌だ」が、持ち上がったことへの嫌悪なのか、持ち上がりたかった自分への嫌悪なのか、どちらなのかがわからなかった。わからないまま、どちらも本当だった。両方が同時に本当だった。どちらかを消せば楽になれるのに、消せなかった。
スマホを伏せた。画面を下にして、枕の横に置いた。
止めたいと言ったのは自分なのに、止まると落ち着かない。その矛盾を誰にも言えなかった。言葉にした瞬間に、自分でも意味がわからなくなりそうで。言葉にしてしまったら、本当にわからなくなる気がして。
通知の振動だけが、時折、枕を伝わった。
窓の外に街の光があった。どこかで誰かが笑っている声が、遠くから届いた。さつきは目を閉じた。眠れなかった。
澪は図書館にいた。
出汁の本を開いていた。昆布のグルタミン酸。鰹節のイノシン酸。温度帯と成分の変化。乾物の産地による風味の差異。真昆布と羅臼昆布と利尻昆布。それぞれの特性。水温による抽出速度の違い。ページをめくる。知識は増える。でも、味は確かめられない。文字が増えるだけで、舌には何も届かない。
立ち上がった。
本を棚に戻した。司書カウンターの前を通った。自動ドアが開いた。
夜の空気が冷たかった。十月の風が首筋に触れた。キャンパスの並木が揺れている。葉が落ちかけていた。足元に、乾いた葉が一枚貼りついていた。夏が終わっていた。気づけば、終わっていた。
帰り道、部室の前を通った。
電気は消えている。廊下に漏れてくる音もない。換気扇の唸りも、包丁の音も、誰かの笑い声も、鍋が鳴る音も、何もない。このドアの向こうから、いつも何かが聞こえていた。今は静かだった。静かすぎた。
一瞬だけ立ち止まった。
ドアに手をかけようとした。
やめた。
今夜ではない、と思った。理由は言えない。ただ、そう思った。確かにそう思った。
通り過ぎた。
アパートに戻って、コートを脱いで、椅子に座った。
何もしなかった。しばらく、ただそこにいた。部屋の中に音はない。冷蔵庫だけが、一定の低い音で鳴り続けていた。
「俺もだよ」
あの夜、さつきに言った言葉が、自分の声で頭の中に戻ってきた。壁越しに言った。説明しなかった。できなかった。でも嘘じゃなかった。あのとき確かに怖かった。
三人の構造が変質することが怖かった。さつきの軽さ、晃の推進力、澪の設計。その三つが噛み合っているから機能する。外の世界がそこに入り込んで、構造が別の何かに変わることが。評価という名前の力が、三人の間にあるものを上書きすることが。
でも今、構造はすでに変質していた。外からではなく、内側から。三人がそれぞれ違う方向を向いたまま、動けなくなっている。外部化を恐れていたのに、内側から壊れていた。恐れていたものとは別の形で、壊れていた。
それが一番、応えた。
澪は立ち上がった。
コートをもう一度手に取った。出るつもりはなかった。でも手が動いた。体が先に決めていた。
夜のキッチンは、誰もいなかった。
蛍光灯を点けると、白い光が一気に広がった。換気扇の唸り。シンクの縁についた水滴。棚の上に並んだ調味料のボトル。まな板が立てかけられたまま。布巾が乾いてシンクの縁にかかっている。誰かが使った形跡が残っているのに、誰もいない。生活の抜け殻みたいな空間だった。
何も変わっていない。変わっていないのに、どこか遠い。
神IVの寸胴が、棚の端にある。
澪はそれを見た。しばらく見た。動かなかった。
鍋肌に薄く脂が残っている。乾いて、固まっている。あの夜の名残だけが、そこにあった。誰も洗っていない。終わらせていない。でも続けてもいない。完成したはずのものが、中途半端なまま置かれている。片付けることも、次に使うことも、誰もしていない。
手を触れなかった。
まだその時間ではない。そう思った。今夜ではない。今夜やるべきことは、別にある。
棚から小さなボウルを出した。蛇口をひねった。冷たい水が落ちる音が、静かなキッチンに広がった。水位が上がっていく。透明な水面が、蛍光灯の光を細く返した。
棚の引き出しを開けた。昆布が入った袋を取り出した。一枚だけ引き出した。厚みがある。表面に白い粉が浮いている。グルタミン酸の結晶。図書館で読んだ文字が、指先に戻ってくる。
水に浸けた。
静かに沈んだ。昆布が水を吸い始める。まだ何も出ていない。ただ、浸かっているだけだ。
火はつけない。今夜は待つだけでいい。時間に任せる。急がない。急ぐ必要がない。
ボウルを冷蔵庫に入れた。扉を閉めると、また冷蔵庫の唸りが戻った。中で、昆布が冷たい水の中に沈んでいる。誰も知らない。誰にも言わない。ただ、そこにある。
蛍光灯を消した。
暗くなったキッチンの中で、冷蔵庫だけが低く鳴り続けた。ボウルの中で、昆布がゆっくりと水を染め始めていた。
誰も見ていない。誰にも言わない。
でもそこで、静かに何かが始まっていた。
止まっていた。
三人とも、それぞれの場所で止まっていた。
晃はノートのページを増やしながら、手を汚さなかった。さつきはエプロンに触れないまま、キッチンの電気を点けなかった。澪は昆布だけを水に浸けて、火をつけなかった。
動いていない。
でも、澪だけが、冷蔵庫の中に何かを置いてきた。
夜は続いた。




