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第11話 さつき

 午後の光が、キャンパスの石畳に斜めに落ちていた。



 さつきはベンチに座って、スマートフォンの画面を眺めていた。フォロワー数が増えていた。昨日より四百人多かった。閉じる前に確認していた。確認してから閉じた。



 隣のベンチに女子が三人いた。名前は知らない。顔は見たことがある気がするが、どこで見たかは思い出せない。



 「インスタのやつでしょ、あれ」



 「うん。なんか本気すぎてちょっと引いた」



 「文化祭、並ぶのだるそうだよね。どうする?」



 「どうしようか。まあ行くだけ行く感じで」



 さつきは靴先を見た。



 刺さった、というより、なんか変だった。怒れない。傷ついたとも少し違う。「本気すぎる」と言われた。本気だった。でも本気を見られることと、本気でいることは——違うのか。違わないのか。わからなかった。



 アプリを開いた。さっき閉じたばかりだった。また開いた。



 "正直、普通にやってほしいです。最初のほうが好きだったな。商業化してからなんか違う気がして。"



 "次も逸般でお願いします! あのクオリティじゃないと意味ないんで。楽しみにしてます。"



 "期待してます。文化祭、絶対行きます。失敗しないでください。"



 「失敗しないでください」を二回読んだ。



 怖かった。でもそれだけじゃなかった。「絶対行きます」という部分を読んだとき、一瞬だけ、何かが持ち上がった。胸の中の、肋骨より少し前のあたりで。その感覚が気持ち悪かった。持ち上がるべきじゃなかった、と思った。でも持ち上がった。



 さつきは画面を閉じた。



 鞄を持って立ち上がり、少し歩いてから、また立ち止まった。建物のガラスに自分の姿が映っていた。インスタに上がっている写真の中の自分と、今ここに立っている自分。どちらが本物かということではなく、どちらが「見られている」のか、もうわからなかった。



 石畳に落ちた影が伸びていた。光の角度が変わっていた。



***



 夜、キッチンに晃がいた。



 まな板の前に立って、仕込みの量を計算していた。メモ帳を広げて、数字を書いて、また消して、書いて。食材の数、器の数、動線の確認。文化祭まであと二週間を切っていた。さつきが入ってきたのを見て、ちらりと顔を上げた。



 「文化祭、倍いけると思う」



 さつきは冷蔵庫を開けた。冷気が来た。特に何かが欲しいわけではなかった。



 「なんで」



 「今が波だろ。フォロワーも増えてるし、メディアからも声かかってきてる。こういうタイミングを逃すのはもったいない」



 「波って何」



 晃が少し間を置いた。「そのまんまだよ」と言いたそうな顔をして、もう少し言葉を探した。「伸ばせるときに伸ばす。タイミングっていつでもあるわけじゃない。追い風のときに動かないと、波は冷める」



 水を飲みながら、さつきは晃の横顔を見た。晃は数字を見ていた。目線がこっちに来なかった。メモ帳の上にいくつも消した跡があった。



 「もったいないって、何が」



 「せっかく届いたのに、縮めるのはもったいない」



 「届いたって、何が」



 晃が初めてさつきの方を向いた。「料理が、だよ」と言った。「三人で作ったものが、知らない人たちに届いた。それって普通はないことだろ」



 さつきは水のボトルをカウンターに置いた。晃の言っていることは間違っていない。でも何かがずれていた。そのずれが何なのか、さつきにはわからなかった。



 「誰の話してるの」



 「え」



 「料理の話? 私たちの話? それとも数字の話?」



 「全部の話だろ、つながってるんだから」



 「全部って何。一緒にしないで」



 「一緒じゃないのか」



 「違う。料理は料理で、数字は数字で、私は私でしょ」



 晃がメモ帳を置いた。さつきを正面から見た。何かを言おうとした。でも何かを感じ取ったのか、言葉を選んだ。



 「波が冷める前に、形にしたい。それだけだよ」



 さつきは何も言わなかった。



 「楽しかっただけじゃん、最初」



 「今も楽しいだろ?」



 「違う」



 空気が止まった。晃は何か言おうとして、やめた。カウンターの上の水のボトルが、少し傾いていた。



***



 澪が来たのは、それから少ししてからだった。



 エコバッグを床に置いて、ジャケットを脱いで、椅子に座った。二人を見た。



 「何の話してた」



 晃が「文化祭の規模」と言った。さつきは何も言わなかった。



 「さつきは嫌なの?」



 「嫌とか、そういうんじゃなくて」



 「じゃあ何」



 さつきは口を開いて、また閉じた。キャンパスの声のことを話せばいいのか。DMのことか。ガラスに映った自分のことか。どれも、話せば違う話になる気がした。「絶対行きます」を読んだときの、あの感覚のことは、話せなかった。話せる気がしなかった。



 「ずっと見られてる感じがするんだよ」



 ようやく言った。



 澪は何も言わなかった。晃もまだ何も言わなかった。



 「失敗したらどうすんの。期待されてたら、失敗できないじゃん。最初は違ったのに。普通にごはん作って、三人で笑ってるだけでよかったのに。それだけでよかったのに、なんでこんなことになってるの」



 「でも外に出したのは俺たちだろ」



 晃が言った。さつきの目の温度が変わった。



 「出したのは料理でしょ」



 「は?」



 「料理が出た。私は出してない。なんで私が見られなきゃいけないの」



 「区別できないだろ、そんなの。料理を作った人がいるから料理があるんだから」



 「できる。料理は料理で、私は私。そこは区別できる」



 「普通の人にはできない。見てる側はそう分けて考えない」



 「普通の人に合わせないといけないの? 私が私を消して合わせないといけないの?」



 「合わせるとかじゃなくて、現実の話してる」



 「現実って何。数字のこと? フォロワーのこと? 誰かの期待のこと? それが現実なの?」



 「そういうことじゃなくて」



 「じゃあ何のこと!」



 さつきの声が割れた。キッチンの壁に跳ね返って、戻ってきた。自分の声がこんなに大きかったことに、さつき自身が驚いた。



 泣いていた。気づいたら泣いていた。



 晃の顔を見た。見ていると、また何かが持ち上がった。怒っているのに。泣いているのに。でも持ち上がった。それが一番わからなかった。



 「私、商品じゃない。料理も、料理のための場所も、私じゃない。でもなんか全部ごっちゃになってる。見られれば見られるほど、どこにいるかわかんなくなる。今日もキャンパスで知らない子たちが話してるの聞いてて、あの子たちは悪くないのに、でもものすごく遠かった。DMも全部重い。期待も批評も要求も、全部私にくる。誰の話してるんだろって思う。私の話? 料理の話? アカウントの話? 全部違う気がするのに、全部私にくる」



 息が荒くなっていた。



 「料理嫌いになりたくない。それだけは嫌。でもこのままいったら嫌いになりそうで、それが一番嫌なんだよ。料理だけは嫌いになりたくなかったのに」



 晃が「商品にしてない」と言いかけた。



 でも途中でやめた。



 「俺は……」



 出てこなかった。



 「ちゃんと、考えてた。料理のことも、三人のことも」



 「ちゃんと」が空中で崩れた。晃は続けようとした。続けられなかった。言葉を出すたびに、出した言葉が自分の足元を崩していった。さつきはそれを見ていた。止める気にはなれなかった。止めてあげる気にも、なれなかった。



 「せっかく届いたのに」



 声が細くなった。



 「止めたら。止めたら全部……」



 「全部って何」



 「……わかんない」



 晃が言った。



 さつきの知る晃には珍しい言葉だった。でも珍しいと思ったことを、さつきはすぐ打ち消した。珍しいとか、そういう話じゃない。



 間があった。



 「ただの大学生に、戻りたくなかった」



 低い声だった。どこかに向けて言った声ではなかった。晃がこういう声を出すのを、さつきは聞いたことがなかった。



 「誰にも届かない料理を作って、それで終わるのが。評価がなくなったら。いや、違う。違うか。でも」



 言葉が途切れた。また始まろうとして、また途切れた。



 「料理を守りたかったんじゃなくて……」



 その先を、晃は言わなかった。言えなかったのか、気づかなかったのか、さつきにはわからなかった。口が開いたまま、止まっていた。



 「……わかんない」



 もう一度言った。同じ言葉だった。同じ場所に戻ってきた。



 さつきは晃を見た。晃はさつきを見なかった。視線がどこかに落ちていた。カウンターでも、床でも、メモ帳でもない場所に。



 晃の口が開いたままだった。次の言葉が来なかった。呼吸が少し乱れていた。



***



 澪は動かなかった。



 しばらくして、さつきの方を見た。「昨日の出汁、飲んだ」と言った。「ちゃんとしてた」



 それだけだった。



 晃が澪の方を見た。澪は晃を見なかった。



 さつきが嗚咽した。



 「一回、止めよ」



 泣きながら言った。晃を見た。



 晃は答えなかった。否定もしなかった。肯定もしなかった。ただ立っていた。さっきより少し小さく見えた。



 「晃」



 さつきが呼んだ。



 「……うん」



 何への「うん」かわからなかった。晃にも、おそらくわからなかった。



 澪は何も言わなかった。晃のメモ帳に目を向けた。数字が書いてあって、消されていた。それを見てから、また顔を上げた。



***



 キッチンに油の匂いが残っていた。古い油の、少し甘い匂い。換気扇を止めると、それが戻ってくる。



 寸胴は空だった。ステンレスが冷えていた。さつきが手を触れると、指先が痛かった。



 布巾が濡れたままシンクに落ちていた。誰も拾わなかった。



 晃のメモ帳がカウンターに開いていた。数字が書いてあって、消されていた。その下に別の数字。それも消されていた。消した跡が紙をへこませていた。



 冷蔵庫が鳴っていた。一定ではなかった。たまに音が変わった。高くなったり、低くなったりした。



 三人はその場にいた。



 さつきは椅子に座っていた。晃は立ったままだった。澪は澪のいる場所にいた。晃は一度だけ椅子の方を見た。でも座らなかった。



 誰も動かなかった。



 窓の外に街の光があった。ガラスに三人の影が映っていた。薄くて、重なっていた。誰がどれかよくわからなかった。



 油の匂いが続いていた。



***



 翌朝。



 さつきは一人でキッチンに来た。



 誰もいなかった。布巾はまだシンクに落ちていた。昨夜のままだった。



 椅子に座って、テーブルに肘をついた。両手で顔を覆った。暗闇の中で自分の呼吸だけが聞こえた。



 「失敗しないでください」という文面を思い出した。「絶対行きます」も思い出した。そのとき何かが持ち上がった感覚も、思い出した。消えていなかった。持ち上がるべきじゃなかったと昨夜思った。でも今朝また、そのことを考えていた。



 見られたかったのか、自分は。



 思ってから、思ったことが嫌だった。でも思った。昨夜もこれを思ったのか思わなかったのか、もう思い出せなかった。



 寸胴が見えた。空だった。



 何かを作りたいとは思わなかった。でも手が冷えていた。何かを触りたかった。寸胴の柄を掴んだ。冷たかった。指先が白くなった。



 布巾を拾った。湿っていた。絞る気にもなれなかった。そのまま、しばらく持っていた。



 何も出てこなかった。



 寸胴を見ていた。空だった。空のまま、そこにあった。火もなく、水もなく、食材もなく。壊れていなかった。



 それだけが、少し変だった。



***



 晃は夜中に目が覚めた。



 理由はわからなかった。夢を見たわけでもなかった。ただ目が開いて、天井があった。



 「ただの大学生に戻りたくなかった」



 自分で言った言葉が、頭の中でもう一回流れた。また流れた。また流れた。



 違う。いや、でも。



 でも何だ。



 違う、と思う。でも何が違うのかを言おうとすると、また「ただの大学生に」に戻ってくる。ループしていた。出口がなかった。論理を積もうとすると、積む前に崩れた。別の言葉を探そうとすると、また同じところに戻ってきた。



 料理が好きだった。それは本当だ。最初から好きだった。でも届き始めてから——届き始めてから、何が変わったのか。評価が怖くなった、のか。評価が、怖い? 評価が消えることが怖い? 違う、それも違う気がする。いや、違わないのか。でも。



 止まった。



 「一回、止めよ」とさつきが言った。晃は答えなかった。今もまだ答えられなかった。止めることが正しいのかもわからなかった。止めないことが正しいのかもわからなかった。さつきが「料理嫌いになりたくない」と言っていた。晃も同じだと思った。でも同じかどうかも、本当はわからなかった。同じだと思うのと、同じであることは違う。



 止めたら何が消えるのか。消えて、それで。



 また「ただの大学生に」が来た。



 晃は天井を見ていた。外が少しずつ明るくなっていた。眠れなかった。眠ろうとしていなかった。部屋の中に物音はなかった。



 「ただの大学生」が、まだそこにいた。

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