第10話 逸般
北山大学の坂は、いつもより長かった。
正門から続くメインストリートは、緩やかに上りながら南北に貫いている。
朝の光は透明で、空は高く、雲は薄い。
風が吹くたびに、並木の影が石畳の上で揺れる。
葉の隙間を抜けた光が地面に落ちて、踏むたびに形を変えた。
コンクリートの校舎が尾根の稜線に沿って並び、北山の丘の緑の中に沈んでいる。
世界は整っている。
整いすぎている。
さつきは、自分の足音だけがやけに大きく聞こえた。
スニーカーのゴムが石畳をとらえる音が、坂を上るたびに前へ前へと鳴り続ける。
それ以外、何も聞こえない気がした。
バスを降りたのは、山手通の停留所だった。
本当は覚王山から歩いてもよかった。
でも今朝は、まっすぐ大学に向かう気になれなかった。
山手通沿いの喫茶店は、もう暖簾を出している。
名古屋に来た最初の春、モーニングに感動した。
コーヒー代だけなのに、こんなにものが来るのかと思った。
澪に話したら「合理的だから」とだけ言った。
晃は「名古屋人は合理的すぎて逆に怖い」と笑った。
三人で笑った。それだけの話だった。
コンビニの前を通ると、朝の空気にコーヒーの匂いが混じった。
昨夜まで三人でいたキッチンとは、別の世界の匂いだ。
さつきはそのまま通り過ぎた。
S棟3階。
食堂に入ると、空気がわずかに遅れる。
ざわめきは止まらない。止まらないけれど、半拍だけ間が空く。
その半拍を、身体が覚える。
換気扇の低い唸り。
トレーが重なり合う乾いた音。
赤味噌の匂いと、揚げ物の匂いが混ざって、一つの空気になっている。
窓の外、メインストリートを歩く学生の影がガラス越しに流れていく。
視線がある。
悪意ではない。
でも、好意でもない。
「昨日の見た?」
「自炊研究会の」
声は柔らかい。
柔らかいまま、距離を作る。
隣のテーブルで、知らない一年生が画面を見せ合っている。
「これ北山の子だって」「マジで? 同じ大学じゃん」。
さつきは一番奥の席に座った。
聞こえていないふりをして。
晃はスマホを見ている。
画面の光が、彼の目をわずかに照らす。
テーブルの上の水滴が一つ、静かに伸びた。
「フォロワー、四桁いった」
事実だけを言う声。
さつきは唐揚げを噛む。
音だけが鮮明で、味は遠い。
昨日まで、料理の話をするとき、晃はもっと違う顔をしていた。
出汁が澄んだときの、あの顔。
今の晃の顔は、数字を読む顔だ。
窓の外では、空が青い。
どうしようもなく、青い。
午後。
Q棟の後ろの席で、さつきはスマホを伏せていた。
新しい棟特有の、プラスチックと空調の混ざった匂いがする。
天板に埋め込まれたコンセントが、机の列を等間隔に区切っている。
それでも振動は伝わる。机越しに、骨まで伝わる。
通知は止まらない。
"やりすぎ"
"学生でそこまで?"
"逸般"
逸般。
称賛と、線引き。
近づけない場所へ、静かに押し上げる言葉。
笑えたのは、最初の一度だけだった。
晃はコメントを丁寧に読んでいる。
未来の地図を探すみたいに。
澪は窓の外を見ている。
雲の流れを測るように。
光は変わらない。
変わったのは、三人の重心だけだった。
文化祭実行委員との打ち合わせ。
C棟の会議室は、廊下の突き当たりにある。
陽が当たらない側。椅子は硬い。冷房が効きすぎている。
「本当に回せますか?」
晃は笑う。
「いけます」
言い切る。
実行委員の女子がペンの先でメモをなぞる。
かすかな、細い音。
「回せますか」という問いに、晃が答えた。
さつきと澪には、誰も聞かなかった。
それが当たり前のように、会議は進んだ。
"やる"前提の未来に、勝手に立たされている。
G棟の空き教室。
夕陽が西向きの窓から差し込み、机の上を橙色に染める。
グラウンドの声が届く。金属バットが球を打つ、乾いた音。
G棟のコリドーをガラス越しに学生が行き交い、やがて人が途絶える。
日が落ちはじめると、名古屋の空はやけに早く色を変える。
橙が深まり、丘の向こうの空だけが、まだ明るい。
三人は、前後に机を引いて向かい合った。
さつきは窓を背にして座る。
逆光の中の晃の顔が、読みにくい。
「仕込み、倍にする」
晃の声は静かだ。
「今、伸びてる。ここで外したら終わる」
終わる。
何が終わるのか、誰も言わない。
「勝ちにいく」
さつきは顔を上げる。
「料理だよね?」
「活動だよ」
返答は即座だった。
世界が少し、ずれる。
澪はノートに数字を書き込む。
火加減。量。時間。
ペン先が紙を走る音だけが、三人の間に確かにある。
さつきは澪の横顔を見る。
今日は、ペンを動かす速さが、いつもより少しだけ遅い気がした。
夜は、やけに澄んでいた。
アパートのキッチンの換気扇が回っている。
低い唸り。機械的で、一定で、今夜もずっとそこにある音。
窓の結露が細い線を引いて、ガラスを伝い落ちる。
その向こう、丘の夜景が小さくて、遠くて、他人事みたいに瞬いている。
神IVは、寸胴の中で静かに揺れている。
白濁は均一で、脂は乳化して、昨日より明らかに整っている。
澪が整えた構造。晃が求めた強度。
鍋底から持ち上がる対流が、表面に小さな波紋を作っては消えた。
完璧に近い。
でも、誰も笑わない。
さつきは、この鍋を最初に「好き」と言ったことを覚えている。
即答だった。理由なんてなかった。
うまかったから、好きだった。
それだけで、十分だった。
「仕込み量、倍な」
晃が言う。確認じゃない。決定だ。
「文化祭、並ばせる。回転上げる。出せる数を証明しないと」
さつきは玉ねぎを刻んでいる。
包丁の音が一定で、速い。
目が沁みる。でも止まらない。沁みていたほうが、都合がいい気がした。
「証明って、何」
晃は少し苛立つ。
「ここまで来たら、ただの趣味じゃないだろ」
「私は趣味でやってた」
「今は違う」
さつきの手が止まる。
包丁が、中断した動きのまま宙に留まる。
玉ねぎの断面が、蛍光灯の光を白く返した。
「誰が決めたの」
「決めたとかじゃない。流れだよ」
「流れって誰」
晃は答えられない。
代わりに、現実的な言葉を並べる。
「フォロワー四桁。DM。取材。文化祭の期待値。ここで止まったら、全部一発屋扱い」
一発屋。
冷蔵庫のモーター音が、ふいに大きく聞こえた。
また、元の低さに戻る。
「一発屋でもいいじゃん」
「よくない」
「なんで」
「勝てるから」
鍋がかすかに鳴る。ぐつ、と一度だけ。
「料理で?」
「違う」
「人生で」
その言葉は、まっすぐだった。
嘘じゃない。本音だった。
晃が「人生で」と言ったとき、さつきの中で何かが、静かに、音もなく落ちた。
砕けたわけじゃない。ただ、落ちた。
位置が変わって、もう元には戻らない感じがした。
自分は何を見ている?
高校の文化祭で、豚汁を作った。
めちゃくちゃだったけど、うまかった。
「向いてるじゃん」と言われた。
それだけだった。ずっと、それだけだったはずだ。
「私は、勝ちたくて料理してない」
震えているのは声じゃない。呼吸だ。
「でも評価は欲しいだろ」
「欲しいよ」
「じゃあ」
「でも」
さつきは、晃をまっすぐ見る。
「晃、私のこと、利用してる?」
換気扇の音が、やけに大きくなる。
鍋だけが、音を立て続ける。
その音だけが、不釣り合いなほど大きい。
「は?」
「料理、私が作って、澪が整えて、晃が前に出る」
涙はまだ出ていない。
だから声が、妙に平らだ。
「数字、晃が見る」
「それは役割だろ」
「違う」
まな板の上の玉ねぎが、乱れたまま放置されている。
包丁は、斜めに置かれたままだ。
「晃、勝ちたいだけでしょ」
晃の喉が動く。反論を探す。見つからない。
「それの何が悪い」
「悪くないよ」
さつきは即座に返す。
「でも」
一呼吸。
「私、晃の"証明"の材料になりたくない」
ここで初めて涙が落ちる。
ぽた、と。
まな板の、玉ねぎの断面の隣に落ちた。
怒鳴らない。責め立てない。ただ、言い切った。
それが一番、重かった。
晃は否定しようとする。でも、口が開かない。
なぜなら一瞬でも思ったから。
さつきが鍋の前に立つ横顔を見て、「これ、いける」と思った夜があったから。
あの横顔が、コンテンツになると。
さつきの「好き」という即答が、拡散力になると。
澪の無言が、本格感になると。
三人全員を、そういう目で見ていた瞬間があった。
その一瞬があるから、黙る。
沈黙が続く。
その間に、スマホの画面が光った。
テーブルの上で、通知が一つ届いた。
晃の目が、一瞬だけ、そちらへ動いた。
さつきはそれを見た。
見てしまった。
涙が、また一滴落ちた。
今度は、何も言わなかった。
澪はコンロの前に立ったまま、動かない。
木べらを持った手が、鍋の縁で止まっている。
視線は上げない。
「そんなつもりじゃ」
「わかってる」
さつきが遮る。
「晃が悪い人じゃないのは、わかってる」
泣きながら、それだけは言う。
悪人と断じてくれたほうが、まだ楽だった。
「でも」
さつきは手の甲で目を拭う。乱暴に、一度だけ。
「なんか、ずっと、そういう気がしてたんだよ」
「S棟で見られるたびに。C棟で"回せますか"って言われるたびに。晃が"勝ちにいく"って言うたびに」
「私、誰のために料理してたんだろって」
晃は床を見ている。
さつきの言葉が、正確に、胸に刺さっている。
抜けない。覚えがあるから。
名古屋で育って、ずっと何かを証明したかった。
何を、誰に、とは言えないが。
鍋が伸びた夜、震えたのは、料理がうまくいったからじゃなかった。
「俺は」
言いかける。でも、続かない。
澪が静かに木べらを置いた。
かん、と乾いた音。
「三人でやってる」
澪の声は低い。
今夜初めて、その言葉が晃だけに向いていた。
さつきの嗚咽が、小さく、始まる。
肩が震える。手で口を覆う。それでも、音は漏れる。
窓の外の丘の街灯が、ガラス越しに揺れている。
地下鉄の最終が通る時間になると、遠くの踏切が一度だけ鳴って、また静かになる。
鍋の湯気が揺れる。
白い揺らぎが天井に向かって伸びて、蛍光灯の光に溶ける。
さつきの涙の筋に、スマホの通知の光が当たった。
晃はそれを見ていた。
見ながら、頭のどこかで思っていた。
タイミングが悪い。
その考えが浮かんだ瞬間、晃は自分が何者かを知った。
知って、黙った。
外では通知が鳴る。
数字は伸びる。
神IVだけが、完璧だった。
三人は、同じ部屋にいた。
それだけだった。




