17
ネコサウルスは、大木の反対側にある開口部から、そっと身を滑り出した。
そして、背を低くし、雪を踏みしめる足音を極限まで殺す。
一歩ごとに「サク…サク…」と小さな雪の音が響き、やけに大きく感じられた。
今は、どんな小さな音も命取りになる。
ネコサウルスは白虎から逃げながら、せっかく見つけた安息の地を再び捨てなければならないと思い、胸の奥に悔しさとわずかな悲しみを覚えた。
だが、そんな思いに駆られながらも、あの白虎に勝てる自信はなかった。
いや、そもそも勝てるはずがない。
生き残るためには、この場所を離れるしかなかった。
ネコサウルスは時折後ろを振り返り、白虎の位置を確かめる。
幸い、まだ気づかれてはいないようだった。
だが、油断はできない。
この森は獲物が少ない。皆が飢えている。
あの白虎も、間違いなく腹を空かせているはずだった。
あの眼光と放たれる威圧感からして、すでに数日は何も食べていないのだろう。
だからこそ、今は一層慎重にならなければならなかった。
やがて、十分な距離を取ったと感じたネコサウルスは、完全に立ち去る前にもう一度だけ、自分のねぐらだった場所を振り返った。
(さようなら)
そのつもりで目を向けた、その瞬間だった。
白虎と目が合った。
鋭く研ぎ澄まされた双眸が、氷のように冷たくネコサウルスをいた。
それと同時に、背筋を、凍りつくような悪寒が駆け抜けた。
ということはもう、自分は見つかっているということだった。
白虎はネコサウルスと視線を合わせた後、空を仰向ぎ、大きな声で咆哮した。
野獣の声は殺気を帯び、空気を震わせる。
それは、まるでこの場所が自分の縄張りだと、高らかに宣言しているかのようだった。
遠くからその姿を見守っていたネコサウルスは、その覇気に押しつぶされそうになり、一瞬、意識が遠のきかけた。
必死に意識をつなぎ止め、足に力を込める。
今にも白虎が自分に向かって突進してくるのではないかと、ネコサウルスは無意識のうちにそう感じた。
だが、どれほど時間が経っても、白虎が飛びかかってくることはなかった。
むしろ、何事もなかったかのように、ゆっくりと歩みを進め、周囲を巡るだけだった。
白虎の予想外の行動に、ネコサウルスは首をかしげるしかなかった。
(私を狩る気がない…?)
血の匂いも、動物の死臭も、このあたりには漂っている。
白虎ならば、すでにネコサウルスの存在に気づいており、すぐにでも自分を追えるはずだった。
それでも襲いかかってこないのは、何か理由があるのだろうか。
だが、その理由は、このときのネコサウルスには知る術がなかった。
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結局、ネコサウルスは白虎を自分の安息の場所から追い出すことはできず、新しい場所を探すことにした。
あそこ以外にも、もっと安全で暖かい場所があるはずだった。
だが、問題があった。
それは——時間だった。
夜になる前に新しいねぐらを見つけなければ、気温はさらに下がり、吹きつける風が体温を奪い尽くす。
その前に、身体にぴったり合い、風を遮ってくれる隠れ家が必要だった。
ネコサウルスは、疲れた脚を動かし、新たな安息の地を求めて歩き出した。
雪に覆われた森は、相変わらず静かで、ただ白一色だった。
何度見ても、ネコサウルスはこの風景に慣れることができなかった。
歩きながらも、あの白虎の行動が頭から離れなかった。
なぜ自分を見逃したのか。
狩りをする気がなかったのか、それともただ疲れていただけなのか。
理由は分からなかった。だが、あの瞬間はネコサウルスにとって、まるで「死刑宣告」が取り消されたような感覚だった。
そうしている考え込んでいるうちに、空からは細かな雪が舞い始めていた。
ネコサウルスは、最初にそれを見たとき、ただの降雪だと思った。
だが、その勢いは刻一刻と増し、やがて視界が白く閉ざされていった。
これはただの雪ではなかった。
吹雪だったのだ。
その瞬間、ネコサウルスの頭の中には警報が鳴り響いた。
この吹雪は致命的だ。
今すぐ身を隠せる場所を見つけなければ、命は短時間で尽きる。
ネコサウルスは風向きを確認した。
南から冷たい風が押し寄せてくる。
ならば北へ少しでも暖かい方向へ走るしかなかった。
雪原に足跡が無数に刻まれた。
だが、果てしない白の中、終わりは見えない。
時間が経つごとに、足取りは重く、鈍くなっていった。
このままでは死ぬ。
ネコサウルスが焦りに駆られた、そのときだった。
遠くに黒い影が見えた。洞窟だった。
彼女は、何も考えず、全力でそこへ向かって走った。
生きるために。ただそれだけのために。
洞窟に飛び込んだとき、ネコサウルスの全身は雪に覆われ、体は凍りつく寸前だった。
だが同時に、中は外よりもずっと暖かかった。
ネコサウルスは素早く身体を振り、毛についた雪を払い落とした。
毛づくろいで冷えた体を少しでも温める。
本来なら、入る前に安全かどうか確かめるべきだった。だが、そのときはそこまで気が回らず、それよりも体温を守ることを優先していた。
やがて足先の感覚が戻り始めたとき、ネコサウルスはようやく自分の無防備さに気づいた。
洞窟の奥を振り返ったが、暗すぎて何も見えない。
不安が頭をよぎった。
外は猛吹雪で出られない。
だが、この暗闇の奥に何が潜んでいるのかも分からなかった。
結局、ネコサウルスは入り口近くにとどまることにした。
危険を感じれば、すぐに飛び出せる位置だ。
入口付近は雪解け水が溜まり、氷が張っていたため、ネコサウルスは少し離れた乾いた場所を選んで身を横たえた。
すると同時に、急に、眠気が押し寄せてきた。
その疲労は、ここまでの旅と長い警戒心の積み重ねによるものだった。
思わず、瞼が閉じる。
暗闇と吹雪の音に包まれながら、ネコサウルスは深い眠りへと落ちていった。
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目を覚ましたときには、すでに深い眠りから何時間も経っていた。
警戒しながら寝るつもりだったのに、ネコサウルスはそんなことはすっかり忘れて、ただ眠ってしまっていた。
洞窟の外では、相変わらず吹雪が荒れ狂っていた。
止む気配はない。
入口から吹き込む冷たい風が洞窟の奥まで届き、雪が溶けてる水音が微かに響いた。
それが、この閉ざされた空間で聞こえる唯一の音だった。
この天候では外に出るのはほぼ不可能だった。
短時間なら出られるかもしれないが、獲物を探すことなど夢のまた夢だ。
この中でやれることといえば、洞窟の探索くらいだろう。
だが、問題があった。
洞窟は暗く、何が潜んでいるのかも分からなかった。
確認せずに進むのは危険だった。
それでも、生き延びるには中を確かめるしかなかった。
ネコサウルスはため息をひとつ漏らす。
なぜ自分はこんな状況に陥ったのか。
彼女の頭に浮かぶのは、やはり白虎の姿だった。
あの白虎が現れなければ、今もあの安息の地にいられたはずだったのだ。
だが同時に、白虎があそこに現れた理由にも思い当たる。
実は、あの白虎も吹雪を避けるためにあの場所まで来たのではないだろうか。
その可能性が高かった。
吹雪の吹く方向と、白虎の現れた方向が一致していたからだ。
運が悪かった、とネコサウルスは苦笑する。
だが、もしかすると、あの時白虎が咆哮するだけで自分を狙わなかったのは、嵐の存在を周囲の動物に知らせるためだったのではないか——ネコサウルスはしばらくそう考えた。
それから少し時間が経つと、ネコサウルスは空腹ではなかったが、将来のために洞窟の中を少し探索してみることにした。
中を進むと、想像以上に広く、そして奥深いことが分かった。
声を出せば、遠くまで響いた。
湿気が高く、そのせいか外よりも暖かい。
ただ一つ、残念なことがあった。
匂いや音から察するに、小さな虫はいても、小型の動物も大型の動物もいないということだった。
敵もいなければ、獲物もいない。
安全ではあるが、肉を得られないのは寂しかった。
ネコサウルスは、これ以上奥へ進めば道を見失うと判断し、探索は一旦やめることにした。
その後は、吹雪が止むまで洞窟内で昆虫を食べながら過ごした。
味は最悪で、吐きそうになることもあったが、栄養はあり、少量でも体を保つことができた。
やがて、吹雪は徐々に弱まり、雪が止み始めた。
ネコサウルスはそれに合わせて、久しぶりに外へ出る準備をした。
狩りに出られると思うと心が躍ったが、出口は降り積もった雪で半分塞がれていた。
その量は想像を超えていた。
雪をかき分けて外に出ると、ふかふかとした雪は柔らかいクッションのようで、体を動かすたびに形に沿って沈んだ。
ネコサウルスはしばらくの間そうして遊んでみたが、すぐに洞窟へ戻った。
この積雪では狩りは不可能だと判断したからだ。
そこでネコサウルスは、雪がある程度溶けるまで洞窟の中で待つことにした。
こうしてまた、雪解けを待つ日々が始まった。
腹が減った時は、昆虫を食べ、水分は積もった雪で補った。
生活を営みながら、ネコサウルスは暗くて狭いこの環境が気に入らなかったが、それだけを除けば意外と悪くない生活だった。
そんな生活の中で、ネコサウルスは奇妙なことに気づいていた。
それは、この洞窟に来てから、同じ夢を何度も見るようになったことだった。
夢の中には、必ずトカゲくんがいた。
離れ離れになったあの日の記憶。
危険にさらされるトカゲくん。
そして、この洞窟の中で、息絶えて倒れているトカゲくんの姿が、何度も繰り返し映し出された。
だが、ネコサウルスにもなぜこの場所でそんな夢を見るのか、その理由は分からなかった。
環境の変化によるストレスなのか、それとも孤独からくるものなのか。
忘れようとしていたはずの記憶が、日に日に強くなっていった。
ネコサウルスは、そんな自分が怖かった。
やっと記憶の鎖から自由になれたと思っていたのに、また過去に縛られてしまうのではないかと。
だが、その怖さの裏には、確かに変わらぬ気持ちがあった。
——トカゲくんに会いたい。
その想いこそが、ネコサウルスの心を揺さぶり続けていた。