16
雪の園に落ちてから、もうおよそ一週間が経っていた。
ネコサウルスは、いつの間にかこの過酷な白の世界に、少しずつ順応し始めていた。
最初に見つけた倒れた大木を拠点とし、周囲の地形も把握していた。
北には、かろうじて食べられる草の生える小さな草原があり、東には、小さな川と、そこに群れるわずかな動物たちがいた。
それ以外の方角は、びっしりと針葉樹に覆われ、進むことすら困難な密林が広がっていた。
ここに来てから、ネコサウルスは食料探しと環境の探索に集中していた。
しかし、問題は明白だった。
食べられるものが、あまりにも少ないということだ。
食べられるのは草、そして運が良ければ小動物くらいだった。
この一週間、口にしたのは草と、たった一度だけの肉だけだった。
この地には、生き物の数が明らかに少なかった。
それゆえ、狩りの成功率も著しく低く、肉を食べる機会はほぼ絶望的だった。
だが、それでもネコサウルスは肉を欲しがっていた。
それは単なる嗜好ではなかった。
この極寒の地で生き延びるには、肉に含まれる大きなエネルギーが不可欠だったのだ。
草では、空腹が癒えない。
満腹感のない日々は、体力だけでなく心もすり減らしていく。
「今日は、必ず肉を食べる。」
そう強く決意して、ネコサウルスは狩りに出た。
しかし、周囲に生き物の気配はなかった。
小さな虫の羽音すら、聞こえない。
ここは、それほどまでに厳しく、冷酷な世界だった。
この環境での狩りは、もはや賭けに近い。
だが、ネコサウルスには経験があった。
この森の「静かすぎる日常」に慣れた今、小さな変化を察知できるようになっていた。
変化の少ない森では、わずかな違いがあるだけで、生き物の存在を示していた。
昨日まではなかった雪の上の足跡。
それを見つけたとき、ネコサウルスは即座に追跡を開始した。
その主は、一匹のリスだった。
リス一匹では満たされないと分かっていても、今は何より肉を欲しがっていた。
しかし、この地のリスはとても素早く、狩りは容易ではなかった。
針葉樹の上を自在に動き回る姿は、追う気力すら奪われるほどだった。
ネコサウルスも一度は木に登ろうとしたが、寒さと疲労のせいで断念せざるを得なかった。
そして考えた。
長期戦に持ち込もう。
警戒心が解けるまで、じっと距離を保ち、時を待つという作戦だった。
それからしばらくの間、ネコサウルスはリスの動きに合わせて静かに追跡を続けた。
徐々に、リスの警戒は緩み始めた。
木の上から、ふと地面へと降りた。
その瞬間だった。
ネコサウルスの牙が、リスの首元に突き立った。
リスはもがき、暴れ、逃れようとしたが、すでにその顎の力から逃れる術はなかった。
ネコサウルスは、リスの行動パターンを見極めて、あらかじめ草むらに身を潜め、そこへと誘導していたのだ。
狩りは成功した。
その場で、ネコサウルスはリスの肉を噛みしめる。
温かい血と肉の味が、疲れた体にしみわたった。
だが、その味とともに、彼女は思い出してしまう。
あの香ばしい匂い。
トカゲくんが、自分のために焼いてくれたあの肉の味だった。
長い時間が経った今でも、決して忘れられない。
目を閉じて、その記憶と味を重ね合わせる。
まるで心が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。
食事を終えたあと、ネコサウルスはゆっくりと安息場所へと戻った。
この世界では、無駄な動きは命取りになる。
寒さは、体力を奪い、思考を鈍らせる。
そのため、ここでは、じっと身を潜めるか、狩りに出るか、その二択しかなかった。
いつの間にか、陽は沈み、雪を青白く照らしていた光も消え、静かな夜が訪れていた。
ネコサウルスは、風の音を聞きながら眠りについた。
凍てつく夜、枝を鳴らす風の音だけが、世界を満たしていた。
そのときだった。
空気が破裂するような音が聞こえてきた。
一瞬だけ、何かがとんでもない速度で駆け抜けたような感覚。
ネコサウルスは驚きながら目を覚まし、あたりを見渡した
しかし、周りには何もなかった。
風も音も、さっきまでと同じように静かだった。
こんな音は、初めてだった。
一瞬、気のせいかとも思ったが、疲れた体と心が過敏に反応していただけかもしれない。
見回しても、何もない。
自分が鋭くなりすぎているのだろうと、ネコサウルスは結論づけた。
再び、木の中に戻り、丸まって、ゆっくりと目を閉じた。
だが、その夜の「音」は、
この静かな森に、確かに何かが起ころうとしている前触れのようにも思えた。
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最近、ネコサウルスは森の空気に微かな異変を感じていた。
静かすぎる風の中に、違和感のようなものが混ざっている。
正確に言えば、ネコサウルスは、一つの「気配」を察知し始めていた。
それは、かつてトカゲくんと旅していたとき、カマキリに襲われる前に感じたものと酷似していた。
そして、ついにその正体を突き止めた。
空だ。
この森の空を、大きく羽ばたきながら円を描いている影。
それは、一羽の巨大なタカだった。
その目は、明らかにネコサウルスを捉えていた。
上空から、じわじわと距離を詰めながら、獲物が気を緩めるその瞬間を待ち続けていた。
だが、あのタカは勘違いしている。
ネコサウルスは、ただの獲物ではない。
彼女もまた、タカを「獲物」として見ていた。
もしタカが本気で仕留めに来るなら、こちらも命を懸ける。
これは、どちらかが倒れるまで終わらない戦いになるのだ。
一撃でも成功すれば、数日は肉に困らない。
それほどの大物だった。
それから、ネコサウルスは、じっと木の中で作戦を練った。
正面からの戦いは危険すぎると判断した。
体格ではわずかにタカの方が勝り、しかも、上空からの急襲に備えるのは難しい。
だが、状況を利用すれば勝機はあった。
ネコサウルスは、逆にその「心理」を突く作戦を立てた。
弱っている獲物を演じることで、タカを誘き寄せるのだ。
作戦を立てると、ネコサウルスはそれ以来、いつも通りに振る舞い、わざと足を引きずって帰巣した。
狩りから戻るときは必ず苦しそうな動きを見せ、タカの目に「チャンスだ」と思わせる。
一方で、逃げ道も用意していた。
森の南には、木々が密集した区域がある。
そこではタカは翼を広げることができず、機動力を奪われる。
そのエリアにタカを誘導できれば、勝負はネコサウルスに傾くだろう。
そしてすべてが、計画通りに進み始めた。
空からの視線を無視しながら日々を過ごし、演技を繰り返すうちに、タカの動きにも変化が現れ始めていた。
そして、ついにその時が来た。
狩りからの帰り道、空を裂く風の音とともに、タカが襲いかかってきた。
ネコサウルスは、あたかも驚いたかのように走り出し、南の密林へ一直線に逃げ込んだ。
タカは空から獲物を狙い、距離を詰めてくる。
すぐ背後にいる。翼が風を裂く音が、耳元で唸る。
だが、それこそがネコサウルスの狙いだった。
森の入口まで辿り着いたとき、ネコサウルスは一瞬ためらう素振りを見せた。
タカの欲を煽る、最後のひと押し。
そしてその直後、タカが甲高く鳴いて森へ突入した。
それが運命の分かれ目だった。
タカは羽を十分に広げることができず、速度を落とした。
対して、ネコサウルスは森の構造を熟知していた。
木と木の間をジグザグに走り抜け、タカの行動を完全に封じ込めた。
逃げ場を失ったタカは、ついに地面へと降りた。
それを見たネコサウルスは、すぐさま木を駆け上り、背後から忍び寄る。
タカが振り返って威嚇の声を上げたときには、もう遅かった。
ネコサウルスの牙が、首元に食い込む。
タカは鋭い足で反撃しようとしたが、翼には無数の傷があった。
そして、すでに空へ舞い上がる力もなかった。
これは、どちらが先に力尽きるかの戦いだった。
だが、勝者は明らかだった。
タカの目が、白く濁っていく。
さっきまで空を支配していた猛禽の命が、静かに絶えていく。
戦いの後、ネコサウルスの体にもいくつか傷ができていた。
だが、その痛みを感じることはなかった。
喜びが、すべてを打ち消していたからだ。
血に濡れたタカの首を咥えたまま、ネコサウルスは巣へと戻った。
まるで、勝利を誇る獣のように。この雪と静寂に包まれた世界で、たったひとつの生命が、確かに生き延びたという証だった。
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タカとの壮絶な戦いから、いくつかの夜が経ち、雪の森には久しぶりの静けさが戻っていた。
氷の大地を覆う寒さは相変わらずだったが、ネコサウルスにとって、その冷たさすらも心地よく思えるほど、平和な時間が流れていた。
狩りの必要も、身を潜める緊張もない。ただ、しっかりと眠り、ゆっくりと肉を噛み、一日を無事に終えるだけの日々だった。
それは、生まれてから初めて味わうような、穏やかな幸福だった。
だが、その平穏は、ある朝、突然終わりを告げた。
その日も、ネコサウルスは木の中で静かに眠っていた。雪の重みでしなる枝の音、遠くの風のささやき。すべてがいつも通りで、異変はなかった。ただひとつ、空気に染みついた、見えない「気配」を除いては。
その「なにか」が、ネコサウルスを眠りから引き剥がした。目を開けた瞬間、身体がかすかに震えていた。最初は夢の余韻かと思った。
だが、視界に入った“それ”を見た瞬間、ネコサウルスの呼吸は止まった。
信じられないほど巨大な獣が、目の前に立っていたのだ。全身が雪のように白く、その体に走る無数の黒い縞模様。呼吸するたびに、鼻先から白い蒸気を吐き、その瞳は、鋭く、深い夜のように冷たかった。
それは白虎だった。
ネコサウルスの体が凍りついた。
自分の何倍もあるその巨体は、見るだけで脚がすくむほどの威圧感を放っていた。
それは「出会ってはならない存在」だった。
似たような姿をしていても、同じ生き物ではない。
分かり合えないどころか、喰う側と喰われる側その関係がすでに決まっている。
ただ幸運だったのは、まだ気づかれていなかったことだ。
ネコサウルスは、木の中にうずくまったまま、白虎の視線の外にいた。
だが、それも時間の問題だった。
白虎が周囲の臭いを嗅ぎ、足音も立てずに忍び寄るその様子は、まるで“殺しを知り尽くした狩人”そのものだった。
逃げなければ。本能が、警鐘を鳴らした。
鼓動が早くなり、息が荒くなる。
あの脚力と鋭い爪に追いつかれたら、終わりだ。そうなる前に、決断しなければならない。
ネコサウルスは、覚悟を決めた。
まだ見つかっていない今が、唯一のチャンスだった。
その小さな体に、かつてタカに挑んだときの戦略と経験を刻みながら、ネコサウルスは木陰の奥で静かに身体を伸ばし、次の行動へと移った。