表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/24

16

雪の園に落ちてから、もうおよそ一週間が経っていた。


ネコサウルスは、いつの間にかこの過酷な白の世界に、少しずつ順応し始めていた。


最初に見つけた倒れた大木を拠点とし、周囲の地形も把握していた。


北には、かろうじて食べられる草の生える小さな草原があり、東には、小さな川と、そこに群れるわずかな動物たちがいた。


それ以外の方角は、びっしりと針葉樹に覆われ、進むことすら困難な密林が広がっていた。


ここに来てから、ネコサウルスは食料探しと環境の探索に集中していた。


しかし、問題は明白だった。


食べられるものが、あまりにも少ないということだ。


食べられるのは草、そして運が良ければ小動物くらいだった。


この一週間、口にしたのは草と、たった一度だけの肉だけだった。


この地には、生き物の数が明らかに少なかった。


それゆえ、狩りの成功率も著しく低く、肉を食べる機会はほぼ絶望的だった。


だが、それでもネコサウルスは肉を欲しがっていた。


それは単なる嗜好ではなかった。


この極寒の地で生き延びるには、肉に含まれる大きなエネルギーが不可欠だったのだ。


草では、空腹が癒えない。


満腹感のない日々は、体力だけでなく心もすり減らしていく。


「今日は、必ず肉を食べる。」


そう強く決意して、ネコサウルスは狩りに出た。


しかし、周囲に生き物の気配はなかった。


小さな虫の羽音すら、聞こえない。


ここは、それほどまでに厳しく、冷酷な世界だった。


この環境での狩りは、もはや賭けに近い。


だが、ネコサウルスには経験があった。


この森の「静かすぎる日常」に慣れた今、小さな変化を察知できるようになっていた。


変化の少ない森では、わずかな違いがあるだけで、生き物の存在を示していた。


昨日まではなかった雪の上の足跡。


それを見つけたとき、ネコサウルスは即座に追跡を開始した。


その主は、一匹のリスだった。



リス一匹では満たされないと分かっていても、今は何より肉を欲しがっていた。


しかし、この地のリスはとても素早く、狩りは容易ではなかった。


針葉樹の上を自在に動き回る姿は、追う気力すら奪われるほどだった。


ネコサウルスも一度は木に登ろうとしたが、寒さと疲労のせいで断念せざるを得なかった。


そして考えた。

長期戦に持ち込もう。

警戒心が解けるまで、じっと距離を保ち、時を待つという作戦だった。


それからしばらくの間、ネコサウルスはリスの動きに合わせて静かに追跡を続けた。


徐々に、リスの警戒は緩み始めた。


木の上から、ふと地面へと降りた。


その瞬間だった。


ネコサウルスの牙が、リスの首元に突き立った。


リスはもがき、暴れ、逃れようとしたが、すでにその顎の力から逃れる術はなかった。


ネコサウルスは、リスの行動パターンを見極めて、あらかじめ草むらに身を潜め、そこへと誘導していたのだ。


狩りは成功した。


その場で、ネコサウルスはリスの肉を噛みしめる。


温かい血と肉の味が、疲れた体にしみわたった。


だが、その味とともに、彼女は思い出してしまう。


あの香ばしい匂い。


トカゲくんが、自分のために焼いてくれたあの肉の味だった。


長い時間が経った今でも、決して忘れられない。


目を閉じて、その記憶と味を重ね合わせる。


まるで心が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。


食事を終えたあと、ネコサウルスはゆっくりと安息場所へと戻った。


この世界では、無駄な動きは命取りになる。


寒さは、体力を奪い、思考を鈍らせる。


そのため、ここでは、じっと身を潜めるか、狩りに出るか、その二択しかなかった。


いつの間にか、陽は沈み、雪を青白く照らしていた光も消え、静かな夜が訪れていた。


ネコサウルスは、風の音を聞きながら眠りについた。


凍てつく夜、枝を鳴らす風の音だけが、世界を満たしていた。


そのときだった。


空気が破裂するような音が聞こえてきた。


一瞬だけ、何かがとんでもない速度で駆け抜けたような感覚。


ネコサウルスは驚きながら目を覚まし、あたりを見渡した


しかし、周りには何もなかった。


風も音も、さっきまでと同じように静かだった。


こんな音は、初めてだった。


一瞬、気のせいかとも思ったが、疲れた体と心が過敏に反応していただけかもしれない。


見回しても、何もない。


自分が鋭くなりすぎているのだろうと、ネコサウルスは結論づけた。


再び、木の中に戻り、丸まって、ゆっくりと目を閉じた。


だが、その夜の「音」は、


この静かな森に、確かに何かが起ころうとしている前触れのようにも思えた。


---


最近、ネコサウルスは森の空気に微かな異変を感じていた。


静かすぎる風の中に、違和感のようなものが混ざっている。


正確に言えば、ネコサウルスは、一つの「気配」を察知し始めていた。


それは、かつてトカゲくんと旅していたとき、カマキリに襲われる前に感じたものと酷似していた。


そして、ついにその正体を突き止めた。


空だ。


この森の空を、大きく羽ばたきながら円を描いている影。


それは、一羽の巨大なタカだった。


その目は、明らかにネコサウルスを捉えていた。


上空から、じわじわと距離を詰めながら、獲物が気を緩めるその瞬間を待ち続けていた。


だが、あのタカは勘違いしている。


ネコサウルスは、ただの獲物ではない。


彼女もまた、タカを「獲物」として見ていた。


もしタカが本気で仕留めに来るなら、こちらも命を懸ける。


これは、どちらかが倒れるまで終わらない戦いになるのだ。


一撃でも成功すれば、数日は肉に困らない。


それほどの大物だった。


それから、ネコサウルスは、じっと木の中で作戦を練った。


正面からの戦いは危険すぎると判断した。


体格ではわずかにタカの方が勝り、しかも、上空からの急襲に備えるのは難しい。


だが、状況を利用すれば勝機はあった。


ネコサウルスは、逆にその「心理」を突く作戦を立てた。


弱っている獲物を演じることで、タカを誘き寄せるのだ。


作戦を立てると、ネコサウルスはそれ以来、いつも通りに振る舞い、わざと足を引きずって帰巣した。


狩りから戻るときは必ず苦しそうな動きを見せ、タカの目に「チャンスだ」と思わせる。


一方で、逃げ道も用意していた。


森の南には、木々が密集した区域がある。


そこではタカは翼を広げることができず、機動力を奪われる。


そのエリアにタカを誘導できれば、勝負はネコサウルスに傾くだろう。


そしてすべてが、計画通りに進み始めた。


空からの視線を無視しながら日々を過ごし、演技を繰り返すうちに、タカの動きにも変化が現れ始めていた。


そして、ついにその時が来た。


狩りからの帰り道、空を裂く風の音とともに、タカが襲いかかってきた。


ネコサウルスは、あたかも驚いたかのように走り出し、南の密林へ一直線に逃げ込んだ。


タカは空から獲物を狙い、距離を詰めてくる。


すぐ背後にいる。翼が風を裂く音が、耳元で唸る。


だが、それこそがネコサウルスの狙いだった。


森の入口まで辿り着いたとき、ネコサウルスは一瞬ためらう素振りを見せた。


タカの欲を煽る、最後のひと押し。


そしてその直後、タカが甲高く鳴いて森へ突入した。


それが運命の分かれ目だった。


タカは羽を十分に広げることができず、速度を落とした。


対して、ネコサウルスは森の構造を熟知していた。


木と木の間をジグザグに走り抜け、タカの行動を完全に封じ込めた。


逃げ場を失ったタカは、ついに地面へと降りた。


それを見たネコサウルスは、すぐさま木を駆け上り、背後から忍び寄る。


タカが振り返って威嚇の声を上げたときには、もう遅かった。


ネコサウルスの牙が、首元に食い込む。


タカは鋭い足で反撃しようとしたが、翼には無数の傷があった。


そして、すでに空へ舞い上がる力もなかった。


これは、どちらが先に力尽きるかの戦いだった。


だが、勝者は明らかだった。


タカの目が、白く濁っていく。


さっきまで空を支配していた猛禽の命が、静かに絶えていく。


戦いの後、ネコサウルスの体にもいくつか傷ができていた。


だが、その痛みを感じることはなかった。


喜びが、すべてを打ち消していたからだ。


血に濡れたタカの首を咥えたまま、ネコサウルスは巣へと戻った。


まるで、勝利を誇る獣のように。この雪と静寂に包まれた世界で、たったひとつの生命が、確かに生き延びたという証だった。


---


タカとの壮絶な戦いから、いくつかの夜が経ち、雪の森には久しぶりの静けさが戻っていた。


氷の大地を覆う寒さは相変わらずだったが、ネコサウルスにとって、その冷たさすらも心地よく思えるほど、平和な時間が流れていた。


狩りの必要も、身を潜める緊張もない。ただ、しっかりと眠り、ゆっくりと肉を噛み、一日を無事に終えるだけの日々だった。


それは、生まれてから初めて味わうような、穏やかな幸福だった。


だが、その平穏は、ある朝、突然終わりを告げた。


その日も、ネコサウルスは木の中で静かに眠っていた。雪の重みでしなる枝の音、遠くの風のささやき。すべてがいつも通りで、異変はなかった。ただひとつ、空気に染みついた、見えない「気配」を除いては。


その「なにか」が、ネコサウルスを眠りから引き剥がした。目を開けた瞬間、身体がかすかに震えていた。最初は夢の余韻かと思った。


だが、視界に入った“それ”を見た瞬間、ネコサウルスの呼吸は止まった。


信じられないほど巨大な獣が、目の前に立っていたのだ。全身が雪のように白く、その体に走る無数の黒い縞模様。呼吸するたびに、鼻先から白い蒸気を吐き、その瞳は、鋭く、深い夜のように冷たかった。


それは白虎だった。


ネコサウルスの体が凍りついた。


自分の何倍もあるその巨体は、見るだけで脚がすくむほどの威圧感を放っていた。


それは「出会ってはならない存在」だった。


似たような姿をしていても、同じ生き物ではない。


分かり合えないどころか、喰う側と喰われる側その関係がすでに決まっている。


ただ幸運だったのは、まだ気づかれていなかったことだ。


ネコサウルスは、木の中にうずくまったまま、白虎の視線の外にいた。


だが、それも時間の問題だった。


白虎が周囲の臭いを嗅ぎ、足音も立てずに忍び寄るその様子は、まるで“殺しを知り尽くした狩人”そのものだった。


逃げなければ。本能が、警鐘を鳴らした。


鼓動が早くなり、息が荒くなる。


あの脚力と鋭い爪に追いつかれたら、終わりだ。そうなる前に、決断しなければならない。


ネコサウルスは、覚悟を決めた。


まだ見つかっていない今が、唯一のチャンスだった。


その小さな体に、かつてタカに挑んだときの戦略と経験を刻みながら、ネコサウルスは木陰の奥で静かに身体を伸ばし、次の行動へと移った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ