15
冷たい風が、木々の間を静かにすり抜けていった。
その風の音に混ざって、聞こえるはずのない泣き声が、ふと、ネコサウルスの耳元で囁くように蘇る。
自分の赤ちゃんを、守れなかった。
その記憶だけは、どれほど時間が過ぎても、消えてくれなかった。
何年経っても、ふとした拍子に心を締めつける。
またしても、同じ過ちを繰り返した。
自分が嫌になるほど、あの痛みは今でも鮮やかだった。
そして、トカゲくんの姿が、どこかで自分の子供と重なっていたことも、ネコサウルスを苦しめる要因となっていた。
トカゲくんを失った今、過去の喪失と現在の孤独が、交錯している。
あの記憶は、遠い過去に遡る。
まだ、ネコサウルスにはパートナーがいた頃のことだ。
野生の中で偶然出会ったその相手は、狩りも上手く、動きも俊敏で、何より、ネコサウルスと同じ毛色に、黒い線模様を持っていた。
頼もしさと美しさを兼ね備えたその存在は、ネコサウルスにとって特別だった。
そんな2匹の間に、新しい命が宿ったとき、ネコサウルスの胸は喜びでいっぱいだった。
大好きな相手との間に生まれる初めての命。それは、ネコサウルスにとって、奇跡のようなできごとだった。
だが、幸福の裏にはいつも影が潜んでいた。
身体が弱かったのか、それとも何か別の問題だったのか、子供たちは、十分に育ちきる前にこの世界に出てきてしまった。
未熟で、弱々しく、生まれた命たちは、
この過酷な世界では、あまりにも脆すぎた。
生き残れる確率は、限りなくゼロに近かった。
そして、パートナーは決断を下した。
弱き命たちを、噛み殺すという選択。
それは、野生の中で生きる者にとっては、合理的な判断だったかもしれない。
だが、ネコサウルスにとっては、あまりにも残酷だった。初めて授かった、大切な命たち。
それを、目の前で失った。
しかも、最も信じた存在の手によって。
自分の体が弱かったから、自分のせいで
ネコサウルスは、全ての責任を自分に向けていた。
パートナーの言うことに、間違いはなかった。
野生は、弱き者にやさしくはない。
多くを産めば、その分エネルギーも奪われる。
運よく生き延びたとしても、また病気や捕食者によって命を落とす可能性もあった。
だからこそ、自分が産んだ命は「不要」だったのだ。
そう、ネコサウルスは自分を責め続けた。
だが、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
再び命を授かった時も、同じことが起こった。
再び、弱く生まれてきた命たち。
今度こそ、育てたい。そう強く願って、パートナーに懇願した。
けれど、彼の表情は冷たく、重く沈んでいた。
そのときネコサウルスは気づかなかった。
この時点でもう、何かが決定的に変わっていたことに。
それからというもの、彼は距離を置き始めた。
やがて、完全に姿を消した。
そして、別のメスのもとへと移っていった。
見捨てられたのだ。
「メスとしての役割を果たせないなら、必要ない」
彼の性格を知っていたからこそ、それが真実だと分かってしまった。
ネコサウルスは、誰を責めることもできなかった。
それが、当たり前のことだったから。
それが、この世界のルールだったから。
わがままだったのは、自分の方だった。
守れもしない命に執着し、現実から目を背けた罰だった。
これが、受け入れるしかない「現実」。
そして、ネコサウルスは、再びひとりぼっちになった。
あの日の出来事のあと、ネコサウルスはようやく、自分自身に目を向けるようになった。
今までの不幸は、自分が弱かったからだ。
だから、自分を強くするしかない。そう信じて疑わなかった。
死にものぐるいで、生き残るための術を探し続けた。
食べられるものなら、何でも口にした。
できることなら、どんなことでもやった。
ひたすらに、身体を鍛えた。
孤独だった。
でも、ネコサウルスは自分しか信じなかった。
この世界で、自分を守れるのは自分だけ
それだけが真実だった。
だが、そうして孤独を極めるような日々を送るほど、なぜか心の中に空いた穴が、どんどん大きくなっていくような気がしていた。
一匹でも生きられるようになったはずなのに、その「穴」は、どんな努力をもってしても埋められなかった。
本当は、わかっていたのだ。
心の奥の声を、聞こえないふりをしていただけだった。
誰かに、自分の声を聞いてほしかった。
誰かに、守ってほしかった。
誰かと、幸せな日々を過ごしたかった。
けれど、この世界はそうではなかった。
不公平で、残酷で、誰かが望んだ通りに報いてくれる場所ではなかった。
なぜ、自分だけがこの世界に取り残されたような気持ちになるのだろう。
その時感じていた感情は、もしかしたら、
「生きる意味」に対する怒りだったのかもしれない。
そんな孤独のなか、ある日。
鳥に追われて逃げ惑う、一匹の小さなトカゲに出会った。
最初、ネコサウルスは何も思わなかった。
「また、自然の中でよくある出来事が起きている」としか思わなかった。
自分には関係のないことだと、そう思っていた。
だが、そのトカゲが地面に倒れ、今にも捕らえられそうになった瞬間。
その姿が、あまりにもかつての子猫たちの最期に重なった。
土に伏せ、冷たいまま、何も言わずに横たわっていた。あの姿に。
気づけば、ネコサウルスはもう走り出していた。
思考ではなかった。
本能でもない。
それは感情そのものだった。
鳥を追い払い、トカゲを救ったあと、
自分でも驚いた。
「自分がこんなふうに衝動的に動く生き物だったなんて」と。
そして、あの時。
トカゲくんが自分の尻尾を差し出してくれたとき、ネコサウルスは、胸の奥で何かがふっと溶けていくのを感じた。
まるであれは、死んでしまった子猫たちが、「もう大丈夫だよ」と言ってくれているようだった。
自分は許されたんだと、そう錯覚するほどに。
あの尻尾は、ネコサウルスにとって、
癒しであり、贖罪のご褒美だった。
何より「誰かの役に立てた」ことが、何より嬉しかった。
それからのトカゲくんとの日々は、夢のようだった。
無論、トカゲくんが自分の子供でないことはわかっていた。
でも、心が教えてくれた。
大事なのは血のつながりではなく、「一緒にいて心が癒される」その感覚だった。
だからこそ、守りたかった。
心から、大切だった。
夢のような日々だった。
亡くなった我が子が、生まれ変わって戻ってきたのではないかとさえ思った。
もちろん、トカゲくんは彼女と正反対だった。
無邪気で、好奇心旺盛で、器用で、生意気で
そして、愛おしかった。
ネコサウルスは、気づかぬうちにその魅力に深く惹かれていた。
だが、やはり、この世界に永遠はなかった。
嵐ひとつで、そのすべてが終わるとは、思いもしなかった。
またしても、自分のせいで、大切な存在を失ってしまった。
あの時、別々に動くことを選んでしまった
あれが、決定的な間違いだった。
もう一度やり直せるなら、あの時、絶対に離れなかった。
だが、それは叶わない。
現実は非情で、過去を塗り替えることはできない。
ただ、自分の過ちと、この世界の理不尽さに、怒りを覚えるしかなかった。
どれほどの時間が過ぎても、確かなのはトカゲくんとの日々が、決して消えない記憶として残り続けるということ。
今、彼が生きているのかはわからない。
弱い彼のことだ。すでに誰かに食べられてしまったかもしれない。
あるいは、病に倒れて、もうこの世にはいないのかもしれない。
仮に生きていたとしても、今のネコサウルスには何もできなかった。
どこにいるのかもわからないし、探す術もない。
だから、今のネコサウルスにできることは、
現実を受け入れ、トカゲくんとの記憶を、心の奥にしまって、それを抱えて、静かに死ぬまで生きていくことだけ。
まるで、あの時、我が子を失ったときのように