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白熊の巨大な前脚が雪の地面に叩きつけられ、冷たい雪粒が空へと派手に舞い上がった。
その瞬間、トカゲくんは赤ちゃんペンギンを庇うように飛び込み、その小さな身体の上に覆いかぶさった。そして強く目を瞑った。
「.........」
しばらくの間、静寂が続いた。
しかし、衝撃は来なかった。
恐る恐る目を開けたトカゲくんは、自分の身体も、下のペンギンも無事であることに気づいた。
どうやら、ほんの数センチの差で白熊の一撃を避けていたようだった。
すぐ目前には、倒れたままの赤ちゃんペンギンの姿があった。
徐々に雪煙が晴れていくと、その向こうから白熊の姿がくっきりと浮かび上がった。
それは、まるで岩山のように巨大で、全身から冷気と圧迫感を放っていた。
トカゲくんの体は自然と凍りついた。言葉にならない恐怖に飲み込まれ、指一本動かすことすらできなかった。
本能が告げていた——この相手には、絶対に敵わない、と。
だが、それでも拳に力が入った。
逃げるつもりはなかった。
自分は、この小さな命を守るために来たのだ。だったら、恐怖に膝をつくわけにはいかない。
そう覚悟を決めると、トカゲくんはゆっくりと立ち上がり、全身を震わせながら白熊の前に立ちはだかった。
白熊はその様子に少し意外そうな顔を見せ、わずかに目を見開いた。だが次の瞬間、その瞳は再び鋭く獲物を狙う者の目へと戻った。
巨大な腕が空高く持ち上げられる。その手は今まさに、目の前にいるトカゲくんを押し潰そうとしていた。
その瞬間、トカゲくんは口を大きく開き、冷たい空気を全身に吸い込んだ。
水も飲めず、準備も整わないまま放つ炎、口内が焼けてしまう危険すらあったが、それでも構わなかった。
彼は全身に力を込め、一気に炎を吐き出した。
ぷぁあっ
小さな火柱が空中に生まれた。焚き火のように儚く、短い炎だった。
それは一瞬だけ白熊の目前に光をともしたかと思うと、次の瞬間、吹雪にかき消された。
もちろん、トカゲくんもわかっていた。
この程度の炎で白熊を倒せるはずがない、と。
むしろ、白熊を怒らせるだけかもしれない、と。
それでも良かった。
これは白熊との戦いではない。
それは、トカゲくん自身との戦いだったのだ。
しかし、次の瞬間、不思議なことが起きた。
白熊の動きが止まったのだ。
その瞳からは獰猛な光が消え、何かに怯えるような気配すら感じられた。
しばらくして白熊は腕を下ろし、トカゲくんとは反対の方向へと体を向け、そのまま逃げるように雪の奥へと消えていった。
あまりにも予想外な展開に、トカゲくんはぽかんと口を開けたまま、立ち尽くしているだけだった。そして、ふと後ろを振り返えってみた。
すると、そこには誰もいなかった。トカゲくんの背後には、ただの雪と風だけがあった。
では、白熊が怯えたのは他でもなく、トカゲくん自身なのだろうか。
理由は分からなかった。だが、今はそれを深く考える余裕もなかった。
白熊が逃げていった後、トカゲくんは視線を下げ、自分に抱かれた赤ちゃんペンギンの様子を確認した。
小さな命は無事だった。怯えながらも、しっかりと息をしていた。
それからやがて、雪原の奥からは、逃げていたペンギンたちが一羽、また一羽と戻りはじめていた。
そして、赤ちゃんを庇うように立つトカゲくんの姿を見た瞬間、彼らはざわめき始めた。
まるであれ、この子って、悪者じゃなかったんじゃない?そんな空気。
そのざわめきはやがて歓声へと変わり、トカゲくんの周囲にはペンギンたちが集まってきた。
そして彼を囲み、声にならない叫びで称え始めた。
一方で、最初に逃げ出した群れのリーダーだったペンギンは、他のペンギンたちに突かれ始めていた。
仲間を見捨てた罪。それが、くちばしの裁きとして彼に向けられたのだった。
体中が穴だらけになるまで、責めは止まらなかった。
そしてその後、静けさが訪れた。
その光景を、トカゲくんはどこか当惑した表情で眺めていた。
それでも今の状況が嫌ではなかった。少なくとも今、自分は必要とされていた。
役に立てた。それだけで、心が満たされた。
そして、自然な流れのように、トカゲくんはペンギンたちの新たなリーダーとして群れに迎え入れられた。誰もが、それを望んでいた。そしてトカゲくん自身も、もう逃げる理由がなかった。
こうして、トカゲくんの「リーダーとしての第二の生」が、静かに始まった。
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長いあいだ眠っていたかのような深い感覚のあと、ネコサウルスは静かに目を覚ました。
瞼の裏に残る重たさと、全身を刺すような痛み。誰かに何度も殴られたかのような苦しさが、筋肉と骨をゆっくりと蝕んでいた。
起き上がろうとするも、身体はまるで鉛のようだった。寒さが皮膚を突き刺す。息を吐くと、白い霧が空中に溶けていった。
気づけば、周囲は一面の雪に覆われていた。あの緑深いジャングルの風景はどこにもなかった。代わりに広がるのは、音もなく降る雪と、氷のように静まり返った空気だった。
意識を取り戻してすぐ、ネコサウルスは無理やり身体を起こそうとしたが、うまくいかなかった。足に力が入らず、体の奥に眠る気力がまったく呼び出せなかった。
だが、骨は折れていない。それが唯一の救いだった。
どれほどの距離を運ばれたのだろう。それを考えるだけで恐ろしかった。こんな雪と氷の世界があるなんて、知らなかった。あのジャングルを超えてまで、自分はいったいどこまで流されたのだろう。ネコサウルスはしばらくの間、そのことを考え続けた。嵐の力は想像を超えていた。もう、あの場所には二度と戻れないのかもしれない。
さらに、トカゲくんは、もう、いなかった。そう思うたびに、ネコサウルスの胸の奥にずっしりと重たい石が沈んでいった。
言葉にはならない痛みが、静かに背骨を這い上がってくる。
ここで生きるしかない。そう覚悟を決めると、ネコサウルスはひとまず近くに見えた森の方へと足を運んだ。雪を踏みしめるたびに、じわりと体力が奪われていく。だが、歩くしかなかった。
森の中で、倒れた大木を見つけた。その根元には空洞があり、どうにか身を隠すには十分な大きさだった。ネコサウルスはそこに身体を滑り込ませ、ゆっくりと腰を下ろした。
しばらくの間、何も考えずにいた。ただ、冷たい空気と体の痛みに、じっと耐えていた。
この森でなら、なんとか生き延びることはできるかもしれない。草を食べて、休んで、気力を回復させて、獲物が現れれば狩りをすればいい。それは問題ではなかった。これまでも、そうして生きてきたからだ。
でも、それよりも問題なのは、ネコサウルス自分の中にぽっかりと空いたこの心の穴だった。
そう、問題は生き方ではなく、喪失感だったのだ。
トカゲくんを守れなかった。あの嵐の中で、彼を見失ってしまった。守りきれなかった。すべては、自分の体力が足りなかったからだ。もしもっと強かったら、あのカマキリにも負けないし、嵐からも逃げきれたかもしれない。結局、自分が弱かったから、トカゲくんを危険に晒してしまった、とネコサウルスは、自分自身のことを責め続けた。
実は、これは初めてではなかった。大切なものを守れなかったのは。
気づけば、ネコサウルスの目からは静かに涙がこぼれていた。泣こうとして泣いてるわけではなかった。ただ、胸の奥に溜まり続けた想いが、自然と形を変えて流れ出ているだけだった。
ネコサウルスは静かに空を見上げた。遠い昔の記憶がよみがえるとき、いつもそうしていたのだ。
そこに何かがいるわけじゃない。でも、空を見れば、なぜかあの存在のぬくもりを少しだけ感じられる気がした。
空を通して、自分はまだ誰かとつながっているような、そんな感覚だけが、ネコサウルスをわずかに救っていた。