13
夜の空には雲がかかり、月明かりすら遮られたまま、冷たい風だけが雪の大地を這うように吹いていた。トカゲくんの心臓はドクン、ドクンと速く脈打ち、足の先まで緊張が走る。
さっきの枝を踏んだ音が、あまりに響きすぎた。
「やばい……」
動き出すペンギンたちの姿に、トカゲくんは青ざめた顔で、咄嗟に走り出した。だが、思ったようには足が動かなかった。
自作の羽毛の防寒着は暖かさこそ完璧だったが、布地が重く、足の可動域を狭めていた。
後ろを振り向くと、複数のペンギンたちが短い足をバタつかせながらも、意外な速さで迫っていた。雪を蹴り、重たい体を左右に揺らしながら、それでも確実に距離を詰めてくる。
「くっなんでこんな時に限って……!」
ペンギンの群れに囲まれるのは、一瞬の出来事だった。冷たい雪の上に倒れ込んだトカゲくんの周囲を、円を描くように十数羽のペンギンたちが取り囲む。もはや、逃げ道はなかった。
すると、群れの中からひときわ大きな一羽が前に出てきた。彼(あるいは彼女)は喉を震わせながら、空に向かって甲高い声を発した。まるで警報のようなその鳴き声に、周囲のペンギンたちはぴたりと動きを止めた。
それからしばらくして、あの――自分を温めていたペンギン。今や「親」として誤解されているその存在が、前に現れた。
そのペンギンはトカゲくんのすぐ目の前まで近づくと、くちばしを傾けてじっと見つめてきた。
その瞳には、怒りも困惑もなかった。ただ、そこにあったのは安堵と、かすかな笑みのような感情だけだった。
そのとき、周囲のペンギンたちは、きっとこう言いたかったのだ。
「その子はあなたの子供なんだから、しっかり見てなさいよ。」
確かに、このペンギンたちの目には、トカゲくんはただ“羽毛に包まれた未熟な子供”にしか見えなかった。体も小さいし、動きも遅い。下手に否定すれば、敵か餌と見なされるかもしれない。
結局、トカゲくんは再び巣に戻され、あの温かい体に包まれることになった。彼を見下ろすペンギンの瞳は、まるで「よかった、ちゃんと戻ってきてくれて」と語っているかのようだった。
「今更かよ……」
トカゲくんは、今の状況が気に入らない顔で小さくつぶやいた。
それでも、現状は受け入れなければならなかった。逃走は失敗したのだ。ならば、次に必要なのは“この群れの中でどう立ち回るか”という戦略だった。
その日から、トカゲくんはペンギンたちの群れの中で、できる限り馴染もうと努力することにした。
とはいえ、できることは限られていた。彼らの「遊び」は、寒さから身を守るために身を寄せ合い、静かに丸くなることだけ。そんな環境の中で、トカゲくんは一つのことに気づいた。
このペンギンの群れには、明確な階級があった。
トカゲくんが今いる場所には、健康的で活発なペンギンたちが集まっており、ほとんどの者が子供を持っていた。
だが、少し離れた場所には、痩せていて羽根の乱れた、孤立したペンギンたちが身を寄せていた。そこに子供はいなかった。
トカゲくんはゾッとした。
彼らはこの過酷な環境に適応できないと判断された“落ちこぼれ”たちだったのだ。
群れの生存率を上げるために、弱い個体を隔離するという選別。自然界の理、不合理なほどに合理的な掟。
そして、ふと気づいた。
今、自分を守っているこの親ペンギン、実はその「下層の群れ」に属していたのでは?
つまり、“仮の子供”を抱えて「子持ち」として振る舞うことで、この安全な上位集団に入り込んだのでは?
もしそうなら、このペンギン、天然のドジかと思っていたが、実はものすごく頭がいいのかもしれない。
そこまで考えが及ぶと、トカゲくんは、自分の中にぞくりとした寒気を感じた。
だがそれは、寒さのせいではなかった。
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冷たい風が吹きすさぶ雪原で、トカゲくんは子どもを持つペンギンたちの群れに紛れ、身を寄せ合って暮らしていた。
寒さから身を守るため、皆でぎゅっと体を寄せ、親ペンギンのパートナーから運ばれてくる餌を分け合う毎日は、厳しくも温かかった。トカゲくんは次第に群れの一員として受け入れられ、子どもたちとともに成長していった。
しかし、ペンギンの成長はあまりにも早かった。数日もすれば、最初は同じくらいの大きさだった子どもたちが、もうトカゲくんをはるかに超えていた。彼だけが取り残されていく。トカゲくんは徐々に、その視線の変化に気づいた。あれは無関心ではなく、警戒だった。自分たちとは違う種の存在。
どれほど長く一緒にいたとしても、やはり異質であるという壁は残っていた。
親ペンギンは変わらずトカゲくんを抱き、世話をしてくれていた。
だが群れの配置は徐々に変わり、ついにはトカゲくんとその親ペンギンは、隊列の最後尾――外側へと追いやられてしまっていた。
そこは風が強く、最も寒さに晒される場所だった。子どもを持たないペンギンたちと同じく、下位の階層へと落とされたのだ。
自分のせいで親ペンギンまで苦しい立場に追い込んでしまった。その事実が、トカゲくんの胸に重くのしかかっていた。
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それから数日後、ペンギンたちは集団で新たな場所を目指して移動していた。先頭と最後には、階級の低い子どもを持たないペンギンたちが並び、その間を高い階級の親ペンギンたちが占めていた。万が一、捕食者に襲われたとき、最も守るべき命を守るための、生存戦略だった。
吹雪は容赦なく吹き荒れていた。ほんの一瞬でも列を外れれば、たちまち視界を失い、孤立してしまうような状況だった。ペンギンたちは隙間なく密集し、雪原を列をなして進んでいった。
そんな中、事件は起きた。
先頭のペンギンが突然立ち止まり、首を空に向けて高く鳴き喚いた。その視線の先には、四足でゆっくりと歩く、巨大な白い影があった。
分厚い毛皮、鋭い牙、揺れる肩。白熊だった。
一瞬で群れ全体に緊張が走った。ペンギンたちはざわめき、列が崩れていく。子どもを抱えた親たちはすぐに反応し、群れの中心から雪の中へ逃げ始めた。
前方にいたペンギンの一羽が白熊に跳びかかられ、雪の上に赤いしぶきが舞った。ちぎれた羽と肉片が、空気を引き裂くように吹雪の中を舞い散る。その様子に、後方にいたトカゲくんの体は硬直した。状況はすぐには理解できなかったが、目の前で起きていることがただならぬ事態であることは直感していた。
次々に逃げていくペンギンたち。よちよちと動けずに取り残される小さな子どもたち。さっきまで一緒にいた子どもペンギンたちの中には、もう滑りながら遠ざかっていく姿もあった。
その時だった。何かが、トカゲくんの中でぷつんと切れた。白熊から逃げていくペンギンたちの姿が、これまでの自分の情けない姿と重なったからだ。
もう逃げたくなかった。ずっと逃げ続けてきたのだ。いつまでこうして追われなければならないのか。トカゲくんは心の中で、そう問いかけていた。
なぜ、自分はこんなにも弱いのか。
なぜ、大切なものを守る力がないのか。
あのときネコサウルスと離れ離れになってしまったのも、あのカマキリに抗うことができなかった自分のせいではないだろうか。悔しさと怒りが、トカゲくんの胸を焼き尽くすように込み上げてきた。
気づけば、熱い涙が頬を伝っていた。それは悲しみではなかった。自分の無力さに対する怒りだった。
拳を握りしめたその瞬間、トカゲくんの視界の端には小さな命が見えた。
白熊の前に、ぽつんと立ち尽くして泣いているその赤ちゃんペンギンは、動けず、誰も守ってくれなかった。
もう間に合わないかもしれない。
だが、トカゲくんは迷わなかった。
気づけば、全身を使って雪を蹴り、その子に向かって走っていた。
たとえこれが最後になるとしても、あの小さな命だけは、絶対に守らなければならないとトカゲくんはそう思った。