10
あの事件があってからというもの、二匹は再び自分たちの安息の場所に戻っていった。
トカゲくんは無事、少し失った気を取り戻し、思いのほか早い段階で元の元気な姿に戻っていた。 その陰には、ネコサウルスがずっと傍らで見守り、必死にケアしてきた時間があった。
幸いにも、トカゲくんの体にはこれといった異変は見られなかった。 あの日のことを思い返すたび、トカゲくんは小さく肩をすくめて、そしてネコサウルスに向かって少し申し訳なさそうに笑った。
「……ほんとに、ごめんね。もう無茶はしないって約束するよ」
トカゲくんが少し弱々しく笑いながら言うと、ネコサウルスは優しく目を細めて答えた。
「…その言葉、何度目」
ネコサウルスはそう言いながらも、完全には怒ることができなかった。 半分はあきらめたような、けれど半分は心からの安堵の笑みが浮かんでいた。
心の奥ではもう分かっていた。 これ以上、トカゲくんの行動を完全に制御することはできないのだと。
(……仕方ない。何かあれば、私が守る。それが私の役割)
その日の夜、二匹は自分たちが集めた甘い果物を分け合いながら静かに過ごした。 一つ口に運ぶたび、トカゲくんは嬉しそうに目を細め、ネコサウルスもつられて微笑む。
「ねえ、ネコサウルス。この果物、甘くない?」
「………甘いかも。」
けれど不思議だった。 ひとりで食べる甘さよりも、二匹で分け合って食べる甘さの方が、何倍も深くて、あたたかかった。
……甘いものって、こういうものなのか。
ネコサウルスはトカゲくんが差し出した果実を噛み締めながら、ほんの少しだけ、甘さというものの意味が分かったような気がした。
二匹は食事を終えると、森の自然の音に耳を傾けながら木の上で横になった。 ときおりくだらない冗談を言い合い、笑い合う。 いたずら心でお互いの尻尾を軽く引っ張り合い、また笑う。 そうして過ごす時間は、どんなご馳走よりも心を満たした。 この何気ない一日こそが、かけがえのない宝物だった。
空が暗くなり、葉の隙間から差す月の光が柔らかく二匹を照らす。 眠りにつく前、ネコサウルスは背中で眠るトカゲくんの小さな寝息を感じながら、そっと呟いた。
「……明日も、トカゲくんと一緒に過ごせますように」
そして二匹は、優しい夜の風に包まれながら眠りへと落ちていった。
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あの出来事からしばらくの時が流れ、二匹は再び穏やかな日々を送っていた。
森での暮らしにもすっかり馴染み、食料や水を得ることも難しくはなくなっていた。
しかし、いつまでもこの森に留まるわけにはいかなかった。
そう考えた二匹は、そろそろ新しい場所を目指そうと話し合い、どこまでも続く森を抜ける計画を立てていた。
だが、問題は、この森の広さだった。
何週間も同じ方向へ進み続けても景色は変わらない。どこを見渡しても、果てしない緑の海が広がるだけだった。
以前、一度だけ森の最上部まで登り、周囲を見渡したことがあった。 けれど、その時に見えたのは、ただ圧倒的なまでの緑の連なり。どこにも森の“終わり”は見当たらなかった。
二匹は、結局一番単純で確実そうな方法を選ぶことにした。それは、ひとつの方向にひたすら進み続けること。 どれだけ時間がかかっても、いつかはきっと森の外に出られるはずだと信じていた。
その日も、空は重たい雲に覆われ、しとしとと雨が降っていた。
二匹はいつものように木の間を渡りながら、静かに進み続けていた。
雨で地面は水位が上がり、ぬかるんでいた。
だからこそ、二匹は決して地上に降りず、高い枝の上を選んで進んでいった。
「ねえ、こういう雨の日ってさ……僕たちが初めて出会った日のことを思い出さない?」
進んでいる途中、無邪気な声でトカゲくんが言った。
走ることに専念していたネコサウルスは少し沈黙した後、小さな声で答えた。
「……覚えてる」
その声はどこか淡々としていて、けれどほんの少し優しさが滲んでいた。首をかしげながら、トカゲくんは続けた。
「不思議だよね。あの時は、まさか一緒にこんな生活を送るなんて思わなかったのに……これが運命ってやつかもね。何も知らない二匹が、いつの間にか“仲間”になるって」
トカゲくんの言葉に、ネコサウルスはふっと小さく笑い、優しい声で返した。
「……そうかも」
だが、ネコサウルスの瞳は前を見据えながらも、どこか遠い記憶に浸っているようだった。
トカゲくんはその様子に気づき、一瞬だけ心配そうに目を細めた。けれど、すぐにまた柔らかな笑みを浮かべて、ネコサウルスの背中にしがみついた。
「大丈夫? ネコサウルス」
小さな声でそう尋ねると、ネコサウルスは穏やかに答えた。
「……うん、大丈夫」
その声は、どこまでも落ち着いていて、トカゲくんを安心させるには十分だった。けれどその内側で、ネコサウルスはほんの少しだけ、森に漂う異様な気配に神経を尖らせていた。
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雨は止み、森は再び湿気に包まれていた。
水たまりがいくつも出来て、太陽の光がそこに反射して輝いている。
「わあ、雨上がりって気持ちいいなぁ…」
トカゲくんは楽しそうに呟きながら、水たまりの縁にしゃがみこみ、小さな指先で水面を揺らした。 波紋が広がり、小さな虫たちが驚いて飛び立つ。
この時間は、トカゲくんにとって森でのひとときの休息だった。
一方、ネコサウルスは高い枝の上に座り、じっと森を見渡している。その瞳は普段より鋭く、耳がピクリと動いていた。
(……何かがいる)
さっきから感じるこの違和感。まるで誰かに見られているような、背筋がぞわりとする感覚が消えない。
トカゲくんは無邪気に遊んでいたが、ネコサウルスは全神経を研ぎ澄ませていた。
その時だった。ほんの一瞬、どこからともなく微かな「ギィ…ギギギ…」という音が森の奥から響いた。
森で暮らしてきたこの二匹が、今まで一度も聞いたことのない異様な音だった。
(……この音…ただの風じゃない)
ネコサウルスはトカゲくんに気づかれないよう、枝の上を音もなく移動し、視線をあちこちに走らせた。
そしてその瞬間、瞳孔が一気に開いた。
視界の端に映ったのは、木の幹と見間違えるほど見事に擬態した巨大な昆虫。
それはカマキリだった。
木の表面にぴたりと張り付いた体、宝石のように光る目、そして枝のように見える長い鎌がゆっくりと動いていた。
(……あれが気配の正体か)
その刹那、カマキリの目が二匹の方を向いた。そして不気味な音を響かせる。
(まずい…!)
ネコサウルスは一気に木の下へ飛び降り、無邪気に遊ぶトカゲくんに駆け寄る。
口で優しくその胴体をくわえ、そのまま高い枝の上へと跳び上がった。
「え!? ネコサウルス、いきなりどうしたの!?」
トカゲくんは驚きの声を上げたが、ネコサウルスは何も答えず、枝の上で鋭い視線をカマキリに向け続けていた。
枝が折れるような音を立て、鬼のような顔をした巨大なカマキリが、鋭い鎌をゆっくりと動かしている。
「……危ない。じっとして」
ネコサウルスの声は低く、けれど優しかった。
だがその瞬間、カマキリは羽を広げ、恐ろしい速度で二匹に向かって飛びかかってきた。
ネコサウルスは寸前で体をひねり、鋭い鎌を避ける。枝に当たったカマキリの鎌は、太い木の枝を一撃で切り裂いた。
ネコサウルスは必死に枝から枝へと飛び移り、トカゲくんを守りながら距離を取った。
「ネコサウルス…これからどうするの…!?」
「……まだ、わからない」
ネコサウルスの脳裏には、枝が一瞬で切断された光景が何度もよぎる。
その瞳孔は開ききり、全身の筋肉が張り詰めていた。
目の前のカマキリは、ただじっと二匹を見つめているだけなのに、その視線だけで息が詰まるような圧迫感があった。
(真正面からは無理だ…あの鎌に捕まれば…終わり)
ネコサウルスは、木の幹ほどの太い枝を一撃で断ち切る鎌の破壊力を思い出していた。
その上、鎌の形は鋭い鉤爪のようで、一度絡め取られれば決して抜け出せない。
(あの武器に触れたら…もう二度とトカゲくんを守れない)
頭の中で何度もそのイメージが繰り返される。鎌に引っかかり、引き裂かれる自分の姿。
体が先に覚悟してしまうかのように、ネコサウルスの胸は強く締めつけられた。
無邪気な瞳がこちらを見返す。ネコサウルスはその顔を見下ろし、静かに言った。
「……トカゲくん、ここから離れて。」
「えっ…? な、何で…?」
「私が相手する。トカゲくんは絶対にここから動かない。」
微笑みながらも真剣な声だった。
ネコサウルスはそっとトカゲくんから目を離すと、その背を守るように前足を広げ、カマキリの方を見据えた。
「…一匹でなんて無理だよ! あの…あのカマキリの目を見てみてよ…!」
トカゲくんの視線の先には、黒く光る宝石のような目があった。
それはまるで狩人のように冷たく、二匹のすべてを見透かしているようだった。
「ダメ…これは危険すぎる。」
ネコサウルスは必死に、優しくも決意のこもった声でトカゲくんに言い聞かせた。
「お願い…トカゲくんまで巻き込むわけにはいかない。」
「でも…でも僕…!」
トカゲくんの脳裏に、花の中で溺れかけた記憶がよぎる。
あのとき、助けてくれたのはネコサウルスだった。
今度は、今度こそ自分の番だ。
トカゲくんは深呼吸をし、小さく決意を固めたように目を閉じる。
ゆっくりと葉っぱでできた小さな包みを懐から取り出すと、震える手でそれを開いた。
「ネコサウルス、ちょっと待ってて。」
「トカゲくん……!?」
ネコサウルスの声が驚きに染まる中、トカゲくんは包みの中に入った液体を一気に飲み込んだ。
そして、小さく震える声で呟いた。
「今回は…僕がネコサウルスを助ける番だから…」
その声に、ネコサウルスの目がかすかに見開かれた。
今、二匹の小さな戦いが、この森で始まろうとしていた。