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やんやん  作者: きじねこ
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5.縦横無尽


 放課後になり、ピロシキや広瀬くんと美術室前の廊下掃除に従事。勤労少年もかくやとばかりに身体を酷使したあと、先生のゆるしを得て、そこからようやく解放された。

 窓の外は薄闇に包まれていて、野球部やサッカー部、硬式テニス部やラグビー部といった――野外部活動専用組の為の設置ライトが、既に活躍する時間帯となっていた。

 外の暗がりを意識した僕たち三人は「こんな時間までなにやってたんだ」と改めて憂鬱な気分にさせられる。

 今日が部活のない日で良かった。顧問はとやかく言わない人だけど、たかが一日サボっただけで女子ソフトテニス部の部長さんは口煩いのだ。

 熱心に部活に打ち込んでいる彼女からすれば、お遊び程度でしか活動していない僕らの態度が腹立たしいのかもしれない。

 ちなみに我がソフトテニス部(軟式テニス)は、男女ともに大した実績も実力もないお荷物部だ。さらに付け加えると男子部員は最近公式戦に出た記憶がない。出たのは……去年の夏期地区予選だったかな?

 ピロシキや広瀬くんと部活についてブチブチ愚痴りながら校門まで到着。校門にて解放された同士たちと別れた僕は、姫風のことを考えながら、すっかり陽の落ちた寮へとそのを進める。

 姫風の転校をどうにか阻止する手段はなかったのだろうか、と改めて黙考してみた。

 僕が転校生の存在を知覚したのが先週の土曜日。つまり四日前。その時点では姫風だと思考しなかった。転校生がすべからく自分に関係している、と思うほど僕は自惚うぬぼれていないので、この時点でどうにかする手立てはなかっただろう。

 他に阻止するきっかけはなかっただろうか。

 家族の誰かに連絡を取る方法は真っ先に否定した。

 高校生になってから今日までの一年間は、僕からの音信をシャットアウトしていたのだ。

 椿さんとのメールやしぃちゃんとの電話&メールも自分から発信したことは一度たりともない。

 首を傾げたり、頭を掻いたりしながら脳内をあさる。漁って、ほじくり返して、一つだけ、引っ掛かった。

「……片桐先生は、なぜ僕に電話をかけてきたんだろう? そのあと寮にまで来たし」

 あれはもしかすると、姫風のことを報告・尋問しに来室したのではないだろうか……。

 他に考えられることは成績のことと【相庭梨華親衛隊】の勧誘くらいだ。

 あの時点での自分の判断に絶望するかもしれないけれど、明日、片桐先生にたずねてみよう。


 ◆◆◆


 寮の自室に戻って、靴を脱ぎ掛けたところで自分の鳥頭に悲嘆した。

 牛乳と朝食代わりのインスタントコーンポタージュが切れていて、帰宅ついでにコンビニへ寄る予定だったことをすっかり失念していたのだ。

 戻ってそうそう引き返す行為が面倒臭い。しかし、朝のポタージュは欠かさず飲みたい。十数年来続けてきた至福の時は捨てがたいよね。

「……ん〜」とポリポリ額を掻く。

 隣人に配達して貰う選択肢もあるけれど、横着は出不精でぶしょうの元。

 コンビニは徒歩で六分の距離だし、ちゃちゃっと行くとしよう。


 ◆◆◆


「あ、佐竹くんだ」

 クラスメイトの佐竹昂さたけのぼるくんとコンビニの前で出会でくわした。

 僕に気付いた佐竹くんが、コンビニ袋をブラブラさせながら近寄ってくる。

「やぁやぁ、どこの美少女かと思ったら鈴城嬢じゃないか」

 佐竹くんは僕の性別をよく間違える。

「こんな夜中に一人で出歩くなんて危ないぞ?」

 ちなみにまだ十九時です。

「色々突っ込みたいところがあるけど、どこから突っ込んで欲しい?」

「鈴城嬢に突っ込まれるだと!? 心の準備をするからちょっと待ってくれ!! くっ、ダメだ! 鼻血が!」

「なにを想像してそうなったの!?」

 ポケットティッシュを取り出して、佐竹くんのお望み通り鼻の穴にチョキ。

「くっ! 拡張プレイか!!」

「僕が理解できるレベルで話して」

「絶滅危惧種・僕っ娘萌え! 三次元のクセに恐るべきキャラだな鈴城嬢は!!」

「少しで良いから現実に目を向けようよ? ね?」

 見上げた佐竹くんは、鼻息を荒くしながら「はぁ、はぁ」と僕との距離を詰めていた。

「さ、佐竹……くん?」

「はぁ、はぁ……オレ、次元の壁を越えてみようかな?」

「ちょ!? 僕をよく見て! 女の子じゃないよ!?」

 佐竹くんが越えようとしているのは次元の壁じゃない! 性別の壁だ!!

「落ち着け佐竹くん!」

「はぁ、はぁ、お、オレは冷静だ。鈴城嬢は女の子。オレは男の子。ほら冷静だ」

「全然冷静じゃない! 僕は男だ!」

 姫風に続いてキサマもかブルータス!

「鈴城嬢が男? はは、可愛い冗談だ。俺が好みじゃないのは解るが、自分の性別に嘘はついちゃいけなぐわっ!?」

 僕に飛びかかろうとしていた佐竹くんが、突然悲鳴を上げて前のめりに倒れる。遅れてカランコロンとなにかがコンクリートを転がる金属音が聞こえた。

「不愉快だ。私の弟に手を出さないでくれ」

 言って投擲とうてきフォームでこちらを見据みすえていたのは、

「姫風っ!?」

 あとを付けられてたの!?

「……しまった」

 暗がりから呟かれた女の子の声は姫風に似ていた。似ていたけど少し違う。あの子は姫風じゃない。

 街灯の明かりが照らす容姿は、姫風より髪が短くて、纏っている雰囲気がどこと無く怖い。なにより無表情がデフォルトな姫風と違い、目の前の姫風にそっくりな女の子は、不機嫌そうな表情を隠そうともせず、見せ付けている様子だっだのだ。

 それと胸の大きさが全然違う。姫風と違い、まな板レベルでペッタンコだ。

 ん? ……不機嫌そうな表情で姫風によく似たペッタンコの人物?

 もしや、

「つ、椿つばきさん!?」

 双子である鈴城姫風の姉――義姉の椿さん?

「……見付かったか」

 不機嫌な表情で呟いた黒髪ワンレングスの女の子が、傍にあった電信柱の陰にスススと身を隠す。しかし、身体を隠すだけで、髪で覆われていないエメラルドグリーンの左目――顔半分だけは、こちらに向けてチラリと覗かせていた。

「見えてる見えてる」

 僕に呼応した椿さんがフルフルと首を左右に振る。

 見えていない見えてないと訴えているようだ。

「いやいや、見えてますってば」

 僕が伝えると再び椿さんはフルフルと首を左右に振る。

 やっぱり見えていない見えてないと訴えているようだ。

「……はあ」

 らちが明かないと悟り、佐竹くんを放置して電信柱に歩み寄った。

「椿さん、なんでまたここに?」

 椿さんは東京にある鈴城宅から、電車で一時間半も乗車した先にある、中高一貫の学校に通学しているはずだ。

 今は中高一貫のブレザー姿ではなく、黒いジャケットを羽織り、Yシャツに赤いネクタイ、下はこれまた黒いパンツスーツを纏っていた。

 見た目、雰囲気ともに男装の麗人だ。

「いつから?」

「え?」

 僕の発言を無視した椿さんが抑揚のない声(姫風に似たハスキーボイス)でたずねてくる。

「いつから私に気付いてたんだ?」

 相変わらず感情のこもらない声音だった。

 そして姫風――双子の妹と同じく会話が噛み合わない。

 男の子は妥協だきょうの積み重ねで大人になるものらしい。ならば僕が譲歩して大人になろう。

「これを、投げてくれたあたりです」

 アスファルトに転がる紅茶のスチール缶(握り締めたあとがくっきりと残っている)を拾い椿さんに手渡した。

「付けていた私に気付いていた訳ではない?」

「え?」

藪蛇やぶへびだったか」

 ストーカーの片割れもストーカーですか……。

「い、いつから付けてたんですか?」

「付けてないよ」

 椿さんはフルフルと首を左右に振る。

「自白しといてそれはないでしょ?」

「……付けてない」

 この人あくまでシラを切るつもりだ。

「しょうがない。それじゃあ少しだけ電話をかけさせて貰いますよ?」

 ならば僕にも考えがある。椿さんにはちょっと悪い気もするけど、彼女の天敵を使い――脅すまでだ。

 携帯電話を取り出すとアドレス帳「は行」の九番目を呼び出し通話ボタンを押す――素振りを椿さんに見せた。

「弟くん、どこにかけてるんだい?」

「ん? 姫風にかけてますよぉ〜?」

 姫風と聞いて椿さんの身体からだがビクリと跳ねた。

「――あ、姫風? 椿さんから話があるって。今代わるよ」

 椿さんは戦々恐々な面持ちで、僕から携帯電話を受け取った。

 ――ドキドキ。

「……姫風? 私、椿。……な、なにか言ってくれ。無言は怖い。それとも、怒ってる? ご、ごめん。本当にごめん。私はゆうやを取ろうとしてる訳じゃない。本当。本当に取る気はないんだ。お願いだ、信じて欲しい。もうお弁当にモヤシだけは嫌だ。お願いだ、なにか言ってくれ」

 しぃちゃん――三女の紫苑しおんから椿さんの弱点は姫風だと聞いていたけど、ここまで効果的だとは思わなかった。

 姉妹間でいったいなにがあったんだ。

「ねえ、姫風……?」

 ――そろそろ良いかな?

 ドキドキしながらも僕は小細工こざいくがばれないように、椿さんから携帯電話を回収して、通話口に耳を押し当てる。

「――僕にはなにがなんだか。うん、椿さんが突然。うん。それじゃあね。バイバイ」

 適当に言葉を並べて早口で言い切り、通話を切る――振りをして、携帯電話をポケットにしまった。

「姫風は……なんて?」

「椿さんがここに居る理由を教えてくれたら、僕からフォローしますよ」

「……本当に?」

「ほんとに」

 怒ったような、けわしいような、不機嫌顔の椿さんがむぐむぐと言いよどむ。

 例えばこの世にオーラなんてものがあるのなら、現在椿さんは言いたくないオーラを最大放出中だったりする。

「本当に?」と再確認を取る椿さん。

 僕は首肯した。

 この細工は短期決戦なので、勢いに乗らないと頓挫とんざしてしまう。

 交渉に乗った椿さんが険しい表情でこう告げた。

「弟くんを見守っていたんだよ」

「へ?」

 意味が解りません。

「姫風に頼まれたんだ。接触しないように見守れって、ね」

 代理ストーキングですか……。

「いっ!?」

 椿さんに足を踏みつけられた。暗がりとはいえ初動作が全く見えなかった。

「今、失礼なことを考えたね?」

 妙に鋭い。堪らず苦笑いが出た。

「は、はは。考えてません考えてませいたたたたたっ!?」

 靴を踏まれたまま、ピンポイントで足の親指だけグリグリされる。

「弟くんは嘘をつく時、早口になる」

「え、そうなの!? 痛い痛いっ!」

 知らなかった。そうだったのか……そろそろグリグリをやめて下さい。

 以心伝心なのか、椿さんが靴から靴を退けてくれた。

「と言うことは、さっきの電話も、嘘?」

 あっさりバレた!

「うぐっ。しょんな、そんなことないでしゅよ?」

「噛んだ」

「うっ、しょんなことないですよ?」

「また噛んだ」

 椿さんに不機嫌そうな表情で眼光鋭く睨み付けられた。

「腹に力を込めなさい」

 いきなりボディーブロー宣言!?

「わわわっゴメンナサイ!」

 この人は空手有段者のクセに、素人へ対する暴力行為に躊躇ちゅうちょがない。

「逃げるな」

 ジリジリと後退あとずさるが、片手を取られて捕まってしまった。

 ボディーブローの射程距離だ。万事休す。

「殴らないから両手を出して」

 え、肝臓破裂じゃなくて、両手骨折? 今日の夕食は足で食べるのか……。

「……はい」

 この距離では逃げれないと悟り、手錠を掛けられる面持ちで両腕を椿さんに差し出す。

「手を開いて」

 言われるがままにグーからパーにして掌を突き出す。

 指を折るつもりだろうか。

「これ、家に忘れてた」

 なにかを掌に押し込まれた。

「……アイスピック」

 わざと置いてきたんですが……。

「あとこれも」

 反対の掌にも押し込まれた。

「……アイスピック」

 二本とも一年二ヶ月ぶり……息災でなによりだ。

 射殺されかねないくらい、しっかりとエメラルドグリーンの右目で睨み付けられて、コクリと頷かれた。

「大事に使って欲しい」

「命にかえても!」

 趣味は「生爪剥がし」と答えられても「やっぱり……」と納得してしまいそうなほどの眼力だった。ちびりそうだ。

 なにこのデジャビュウ。

 もうやだ。椿さんと同じ空間に居るのが辛い。椿さんワールドが怖い。

 現実逃避している僕を「…………」と無言で睨む椿さん。

 え、まだなにかあるの?

 僕としては事情聴取を行い転校についての詳細を余すことなく訊き出したかったけれど、精神にドクターストップがかかり、えなく戦略的後方移動――身体が撤退を余儀なくしている。

 相手は僕にとって苦手な椿さんだ。詳細内容を訊き出す人物として最適だと言いがたい。

 曖昧あいまいな笑顔を張り付けた僕はコンビニへと向き直る。

「えと、それじゃあ僕はこれで……」

 き出しのツインアイスピックを尻ポケットにしまい込み、そそくさと歩き出す。

「あ」と椿さん。

「はい?」

 呼び止められたのかな? と椿さんに振り向くと、不機嫌そうな表情の椿さんと目が合う。

 なぜか睨まれている。

「私になにか言うことはないのか?」

 咄嗟とっさには出てこない。

「特にはないです、はい」

 いやあるにはあるけど気軽に開口できない。例えば転校の件や住まいの件。前者は共犯を問い詰めたいし、後者は素朴な疑問だ。どこから通うのだろうか、と。

 臨機応変に対応できない僕は、どう見ても気圧けおされポジションなので、

「……それじゃあ、おやすみなさい」

 一方的に会話を切って、逃げだしを再開する。

「あ」とまた椿さん。

 聞こえないフリ聞こえないフリ。

「ダルシム」

「どこっ!?」

 スト?のダルシムコスプレイヤーって超レアだよ!

 親父のゲンコツが見たい僕は周囲を必死で捜索する。

「嘘」

「解ってたさ!」

 内心ではそう思ってました!

 椿さんにあっさり騙された僕は下唇を噛んで憤りを抑える。

 してやったりと椿さんの表情が物語っていた。

「先ほどのお返しだ」

「すみませんでした!」

「弟くんの瞳から血の涙が」

 一縷いちるの望みに賭けたんだよ!

 悔し涙をぬぐい、周囲の捜索を打ち切って、今度こそ最寄もよりのコンビニへ逃げ込んだ。


 車道側に設けられた内外を仕切る窓ガラス越しに、コンビニの外を望んで見たけれど、ここから椿さんの姿は確認できなかった。

 暗がりの死角から監視されているのか、姫風を呼び寄せているのか、どちらにしても籠城している以上こちらの分が悪い。

 妙に姫風を恐れている椿さんのことだ、後者はないだろうけど。そう思考しながらも、よくよく暗がりに目を凝らす。

 万が一にも姫風を召喚されていたら、目も当てられない惨状に(僕が)なるのでそれだけは避けたかった。

 車道の脇、歩道に等間隔で設けられた街灯は、夕陽の落ちた街中をポツポツと照らしている。

 どんなにここから望んでも椿さんの姿は見付けられず、代わりと言ってはなんだけど、街灯の明かりに照らされた佐竹くんの足だけが、放置された遺体のように転がっているくらいだった。

 今更アレだけど佐竹くんは大丈夫だろうか。

 頭のすみに佐竹くんを捨て置き、隔週誌、コーンポタージュ、牛乳パック(二リットル)、おにぎり(ツナマヨ)を手に取りレジで会計を済ませて、恐る恐るコンビニから出た。

 辺りにストーカー姉の所在は一見できず、視線も感じない。

 安堵あんどの溜め息をつく。

 ストーキングは中止して引き上げたのかな? だったら良いな、と自分に言い聞かせて、寮へテクテク歩き出す。

「ジジイが言ってた転校生の二人は姫風と椿さんだったのか」

 記憶が正しいなら土曜日の部活中にジジイが転校生の話題を振ってきたはずだ。

 スキル「思い出す」で脳内をフル活用させた。するとジジイの音声で『わしらのクラスに女、隣のD組にも女と、片桐先生が言っておったのぉ』と脳内再生。そしてリフレイン。『わしらのク(以下略)』そうか、このことだったのかと今更ながらに納得。

「僕のクラスに姫風が来た時点で気付ける事実だよね、これ」

 つくづく洞察力どうさつりょくと注意力が足りない脳だ、と自嘲じちょうしながら佐竹くんをまたぎ、数歩進んでピタリと止まる。

「……やっぱり連れて帰ろう」

 佐竹くんは寮仲間だ。四部屋隣だ。放置自転車ばりにこのままここに置いておくのもはばかられる。後味が悪い。こうして彼の倒れている行為事態が自業自得の末路とは言え、原因は少なからず僕にもあるし。

 ゴンビニで在庫を搬入する際に使用する手押しのガラガラ(ジジイに『台車』と言う名前をあとで教えてもらった)を借りて、佐竹くんをリフトアップ。乗せて発進したは良いけど、気絶中の彼はふにゃふにゃしていて、少し進むだけで何度もガラガラからこぼれ落ちてしまった。

 慎重に運搬しても、二、三メートルの進度で転落する。

 寮は目と鼻の先なのに、果てしなく遠い道のりに感じた。

 なにかの本で読んだけど、人間は意識があれば無意識に重心を調節する生き物だそうだ。

「……意識がないとこんなに厄介やっかいなんだね」

 学校でピロシキを椅子にくくりつけた時は、ジジイにヤツの身体からだを固定させてグルグル巻きにしたけれど、助力なしで気絶した人間を運搬することがこんなにも大仕事だとは思わなかった。

 実感してどうしよう、と立ち尽くす。立ち尽くすけど、都合つごうよく誰かが助けてくれない世の中なので「ちょっと進んでは佐竹くんを零す」を繰り返して帰路についた。

 その間脳内では、「24時間テレビ」の「走者へエールを送る名曲」がエンドレスリピートで流れていた。

 ――今にも負けそうで、ゴールは遠かった。


 ◆◆◆


 佐竹くんを連れて、どうにか僕は寮に戻った。

 鍵をあさって佐竹くんの自室に放り込むことも考慮したけれど、最終的には寮生がたむろするリラクゼーションルームに彼を転がして、僕は自室に戻った。

 誰か優しい人があとの面倒をみてくれるはず、と勝手に決めつけて。

 ガラガラは明日返してくれれば良いとコンビニの店長が言質げんちをくれたので、その言葉に今日は甘えることにする。

 購入してきた牛乳パックとおにぎりを冷蔵庫に入れて、隔週誌とコーンポタージュと携帯電話と財布とツインアイスピックを丸机の上に置いた。

 時間も時間だし、寮の地下にある共同浴場へ行こうかな? と思ったけれどやめた。

 手足が伸ばせるお風呂場は魅力的だけど、姫風について話のタネにされていることは僕の脳でも考え付く。

 浴場に行けば、質問責めを受けるか、腫れ物扱いされるか解らない。どちらにしても苦痛なのが考え物だ。

 よって、今日は各部屋備え付けのこじんまりとしたシャワールーム(ユニットバス)で我慢しよう。取り敢えず汗を流したい。

 制服の上衣うわぎを脱いでハンガーに掛けようとしたところで気が付いた。内ポケットの膨らみに。

「……忘れてた」

 ある意味怒濤どとうの日々で、これを二日も忘れていた。

「これ、どうしよう?」

 これとは二日前に投下されていた水色の便箋「自体」の処遇ではない。これの差出人に対しての態度のことだ。

 僕の推理では愉快犯。どうやってあぶり出すかが問題だけど、報復はどうしようか悩んでいる。

 やっぱり「目には目を歯には歯を」にのっとって「便箋には便箋を」だろうか? やり方はさっぱりだけど。

 ジジイとピロシキ曰く「大切に保管しておけ」とのたまっていた。

 証拠は残しておけ、と言う解釈で良いよね。

 手元の便箋をめつすがめつして財布から取り出したレシートと一緒にお菓子の箱(ブリキ製)――通称「大切な物入れ」に閉まっておく。

 早期な解決を考えていない懸案事項その一は後回しにするとして、その二とその三に着手しよう。その二の方は、合コンの件で、新海さんへの未練を断ち切るお話。その三の方は、新海さんとジジイを恋人にするお話だ。

 はからずも合コンの日にちと新海さんとの処刑デートの日にちがかぶってしまっている。

 いや、処刑デートの件(夢を見るくらい良いよね?)は確約していないので僕だけが盛り上がっているんですけど、もし、そう仮に、新海さんが心待ちにされているケースがあるかもしれない。一億分の一くらいの確率で。だから、予め、処刑デートの断りを入れておこうかと思う。メールで。

「え〜と『土曜日のデートの話ですが、諸事情で無理になりました。すみません』と」

 メールの文面にこう打ち込んだけれど、ちょっと待ってよ? はなから僕の勘違いだった場合、新海さんはこう思わないだろうか?

「なにこのメール? わたし最初からデートなんてする気ないし。鈴城弟って、自意識過剰じゃね? キモッ」と。

 あのやり取りの間に超絶勘違いをしていたら僕が痛い。痛いし立ち直れないし切腹ものなので、相手の声が生で訊けないメールはやめよう、と理性が囁いた。それに素直に従って、言葉は悪いが電話でサグリを入れてみよう、と手段変更を試みる。

 さっそくアドレス帳から新海さんを呼び出して、コールボタンをポチッとな。

 押した途端、『は、はひ!』と新海さんがコールなしで出た。僕はポニ天の超絶反応にビビった。驚いた。驚き過ぎて心臓が痛い。

 だ、誰かにメールでも打ってたのかな?

「い、今電話しても大丈夫?」

『はひ!』

 新海さんの声音は上擦うわずっていた。明らかにタイミングが悪い感じだ。

「かけ直した方が良い?」

『はひ!』

 かけ直した方が良さそうだ。

 土曜日まではまだ日にちがある。明日処刑デートの件についてサグリを入れても充分間に合うよね。口下手でもないのに、咄嗟の切り返しが思い付かない僕。

「えと、えと、どうしてるかな? と思って電話してみたんだけど、タイミングが悪いみたいなんで、切るね」

『はひ!』

 上擦った声で元気よく返事をされて、少し微笑ほほえましかった。

「それじゃあ、お休み」

『はひ!』

 切る間際に『は、ちょ、ま、んい!?――』と通話口から聴こえた。

 新海さんは格闘技かなにかをされているのだろうか。失礼だけど、見掛けに寄らないと言うか、ちょっと想像がつかなかった。


 ◆◆◆


 快眠中だった僕は、脳からの尿意信号をキャッチして、ベッドからむくりと起き上がり、毛布を押し退けてトイレへ出発。用を済ませて、ベッドへ戻り、毛布を引き寄せながら中へ潜り込んだ。

 横になったところで寝るポジションを気にして、反対側にゴロリと寝返りをうつと――長い黒髪をだらりと広げた生首と目が合った。死んだ魚みたいな目がまばたきせずにこちらを見ている。

「んぎゃあああぁぁぁむぐっ!?」

 生首から生えた蒼白い両手に口元を押さえられる。

 ガチャダッダッダッゴンゴンゴン!

「鈴城嬢! 鈴城嬢大丈夫か!? 鈴城嬢なにがあったんだ!? 貞操は!? 貞操は大丈夫なのか!?」

 扉の外には恐らく復活した佐竹くんが居る。僕と佐竹くんは四部屋離れているはずなんだけど、いち早く駆け付けてくれたみたいだ。凄い地獄耳。んなことは別にして相も変わらず僕の性別を勘違いしているようだった。

「くそ! ドアが開かない! 今助けるから待っててくれ! すぐに鍵を借りてくる!」

 タッタッタッ……と佐竹くんの足音が遠ざかって行った。

 僕は口元の両手を引き剥がしてそのままベッドの上に立ち上がる。立ち上がって生首をビシッと指差した。

「なんでここにいるんだよ!?」

 生首の正体は、

「ゆう成分の補充にきた」

 痴女だった。痴女がベッドの上で毅然きぜんと正座する。

「どこから来たの!? 寝る前に扉には鍵をかけたし、この部屋は四階で窓からは入れないし!」

 セキュリティー上一階のロビーは全面オートロック。常識的に考えて侵入は不可能。だとすると、この痴女は幽霊か粒子りゅうしたぐいだ。

「登ってきた。窓から」

 痴女は幽霊でも粒子でもなく、垂直な壁を楽々攻略する驚異のロッククライマーだった。

 窓の傍――真下にはとても頑丈そうなロープと、数本の変な形状をした巨大な釘と、小さなハンマーが転がっていた。

「あのロープは登山用のナイロン製ザイル。頑丈で伸縮性もある。あの釘はかぎと言って、岩の割れ目に打ち込む釘の役目。あのハンマーはピッケルと――」

「パッケルだかピッケルだか知らないよ! それに誰も登山道具について語ってくれなんて言ってない! 帰れよ! 正直怖いんだよ姫風が!」

 痴女が獲物を前にした猫のように距離をつめてきた。

「吊り橋効果狙い」

 下半身へ抱きつかれそうになったので、急いでベッドから飛び退く。

「不法侵入者と恋人狙いが同一人物って意味解んないよ!?」

「ならばストックホルム症候群」

「解らない。姫風がなにを言ってるかさっぱり解らない! 帰れ! 帰って下さい!」

 部外者、ましてやここは女人禁制の男子寮なのだ。

 抱きつこうとする痴女と押し退けようとする僕の構図――この原状は明らかに寮の規則違反だ。言い訳を並べても苦言になる。

 すぐに訪れるであろう佐竹くんと寮長を前にしてどんな発言をすればペナルティーを喰らわないか、僕には皆目検討が付かない。

「やだ」

「やだじゃなくて! そろそろ佐竹くんが寮長を連れて部屋に来るかも知れないんだ!」

「浮気?」

 また話がぶっ飛んだ。

「誰とだよ!?」

「佐竹及び寮長と」

「初めてが男でしかも3P!?」

 全力でトラウマ直行だった。

「違うの?」

「違うに決まってるよ!!」

 一方的に断定しないでほしい。

「そう」と無表情で頷く姫風。

「安心した。帰る」

「……助かるよ」

 不快指数百パーセントの人物が窓に手をかけながら、「それと」とこちらへ振り向いた。

「私の着信を無視しないで」

「善処する」

 僕の肯定に頷いた姫風が、手際てぎわよくロープを体に結び付けると、開け放った窓から音もなく飛び降りた。止める間もなく視界から消えた。

 投身自殺そっくりだったので、さすがに胆が冷える。

 嫌な汗を袖で拭いつつ、死体になってたらヤダなぁ、と恐る恐る下を覗いたけれど、既に姫風の姿は忽然こつぜんとその場から消失していた。

 ……ここは四階だよ?

 アレは人間だろうか? 時々本気でサイボーグとか超人と言った非現実的キャラクターの可能性を疑う僕が居る。こんな想像をするなんて、脳は相当お眠なようだ。

 頭を振り、窓を施錠してからベッドに潜り込み、姫風の懇願もあって傍らの携帯電話を確認した。

 彼女の着信は夕方から今現在まで無視し続けていたのだけど、

「……着信履歴、ろ、六十三件。メール二十一件」

 その成果が不法侵入。なし崩し的と言うか、小さいことからコツコツと、と言うか……。

 恐怖を通り越して茫然とした。そして720°回転してやっぱり恐怖した。なぜ二回転?

 姫風は「考えうる最高を常に行なう」シューマッハみたいな思考の持ち主だ。常々痛感していたけれど、改めて考えられる事象を全てやってのける人間だと思い知った。

 痴女が、いやストーカーが、いつでも殺人犯にクラスチェンジできることを確認させられた一夜だった。


 翌朝、寮を出るとそこには姫風が居た――なんてことはなく、心底ホッとした。住まいを押さえられて居たことは、驚愕だったけれど、もうなにも言うまい。ストーカーの情報収集能力なら可能なレベルだろう。僕涙目だけど。

 それはそれとして、今日は朝から憂鬱だ。

 コンビニから借りたガラガラを返さなきゃいけない。これは当然のことなんだけどね。

 なにが憂鬱かと言うと、ガラガラに鞄を乗せて押す姿を、寮生は勿論のこと、市道を歩く登校中の小中学生やサラリーマンに奇異な目で見られていることがだ。

 これじゃあまるで羞恥プレイだ。しかもセルフプレイだ。コンビニの店長さんが、ガラガラ返却を指定してきた時間帯が午前だったので、届ける時間帯はおのずと朝の登校時になる。

 どこからともなく送られてくる視線が痛い。

 通勤・通学による衆人監視の目をくぐり抜ける方法を僕は知らない。回避方法があるならば早急に知りたい。羞恥に目頭が熱くなる。こうなってくると佐竹くんが呪わしい。勝手に借りたのは自分なのだけれど、あとでモンクの一つでも言おうと心に誓った。


 クラスメイトに挨拶しながら2‐C――教室の自席へ着く。着いたは良いけど、

「……なにこれ、水?」

 僕の机の下が濡れていた。

 局地的な雨に見舞われて、床下浸水になった感じでびしょびしょだった。

 イジメが始まったの? と思ったのもつかの間で、あっさりと違うことが判明した。

 お隣さんが原因だった。お隣さんの周囲八方は水浸しである。

 そのお隣さん――右隣に座る新海さんは、ダバダバ涙を流しながら、ずびびびびびっとティッシュで鼻をかんでいらっしゃった。花粉症かな?

 おはようと声をかけると、滂沱中ぼうだちゅうの新海さんが「んいっ!?」と跳ねた。

「んいっ!?」って声に出しづらくないかな?

「び、びっくりしたぁ〜……急に声をかけるのは禁止だよぉ〜。声をかけるときは『キミのプリティー貴公子鈴城が推参。ご機嫌いかがかな? 愛する仔猫ちゃん(髪をかき上げる仕草)』でお願いします!」

 ハードル高いなそれ。

「キャラが完全に崩壊してるよ! そんなことより、新海さんは風邪でもひいたの? それとも花粉症? 猪木花粉いのきかふん?」

 今の季節だと、猪木花粉とイネ花粉だったかな?

「い、イノキカフン?」

 僕から顔を隠すように、取り出したハンカチで急いで目元をぬぐう新海さん。あれ、もしかして泣いている原因は花粉じゃない?

 涙の指摘は、空気の読めないヤツがすることだったのかも知れない。

「猪木花粉と違うの?」

「鈴城くん、イノキカフンじゃなくて、ヒノキ花粉だよ?」

 新海さんが泣きながらクスクス微笑ほほえむ。

 猪木花粉じゃなかったのか。恥ずかちぃ。でも新海さんが笑ってくれたのでまずは満足。

 涙をき終えた新海さんに処刑デートの件を振ろうとして、背中に激痛が走った。

 痛みに顔をしかめる僕に、朝の挨拶を交えながら広瀬くんが前の席に座る。

「鈴城は嘘つきだな!」

「はい?」

 叩かれて嘘つき呼ばわりとはこれいかに。

「その喧嘩、格安で買うよ」

「うわっ! 待て! 今のは俺が悪かったから!」

 広瀬くんの喉元のどもとえぐろうとした僕の手刀は、冷や汗混じりに彼によって受け止められた。

 手を引っ込めた僕は、腹に溜まった熱いものを吐き出しながら言う。

「それで、嘘つきってなんの話?」

「鈴城は瞬間湯沸し器だな!」

 語る気なしだね!

「うがあああぁぁぁっ!!」

「うわあああぁぁぁっ!?」

 広瀬くんの悪態に飛びかかったけど、僕は背後から襟首を掴まれて、その場で宙吊りにされた。

 数日前にもこれと同じことがあったような……。

 隣の広瀬くんも同じように宙吊りにされている。

 マッチョで重量級の広瀬くんは信じられないとばかりに、自分を吊るす相手を、口を半開きにしたまま見つめていた。

「二人ともおはよう」とジジイ。

「「……お、おはよう」」

「うむ。お主ら朝から五月蝿いぞ。喧嘩なら外でやることを強く推奨する」

 ストッパー役のジジイが僕と広瀬くんを下ろして、自分の席へ戻って行った。

 顔を見合わせた僕と広瀬くんは、改めて自席に座り直す。

「……俺らなんの話をしてたっけ?」

「……確か、僕が嘘つき呼ばわりされた話」

「あ、それだそれ」と広瀬くん。

 曰く、ブロンドのチワワが担任する2‐Dに転校してきた、女子生徒についての件らしい。

 きっと椿さんのことだ。

「昨日は双子っつったのに、本当は三つ子じゃないか」

「あぁ、その話ね。姫風とはイチランセイで、僕とはニランセイなんだ。だから三つ子になるね。こちらにもう一人の姉が越してきていたことを、僕も昨日初めて知ったんだ」

 これは広辞苑とウィキペディアを閲覧して昨日得たばかりの知識です。

「そうなのか。意思の疎通がない家庭なんだな」

 広瀬くんの瞳は可哀想な子を見る目だった。

 僕の家庭に言葉のキャッチボールを期待してはいけない。

「慣れるか、諦めるしかないよね」と僕は嘆息する。

「おはよう」と、唐突に姫風の声。

「「うわっ!?」」

 広瀬くんと驚愕をユニゾン。

 彼との会話をぶった切るように、気配もなく姫風がぬぅっと顔を近付けてきた。僕と姫風の唇はキスできそうな距離で、二人を隔てる空間は目測一センチしかない。急いで顔を引く。セルフむち打ち。

 前席の広瀬くんが姫風を腫れ物扱いで、教卓の方へ身体を向けて逃げた。見捨てられた。

 姫風は僕の膝に上半身を預けながらまた顔を近付けてくる。

 膝小僧さんに温かくて柔らかいモノの感触が広がっていく。ぷ、ぷにぷに〜。

「ち、近い近い!」

「遠慮しないで。目覚めのコーヒー代わりだと思えば良い」

「思えないし思いたくもない!」

「ゆうは私とキスしたい。そう思ってる。願ってる」

 本心を捏造ねつぞうされた。

 捏造されたままでは心情的にたまらないので、僕は強く抗弁する。

「姫風とキスしたい訳がない!」

「それはあり得ない」

「断定!?」

 なにその自信!?

「あ〜……そろそろ良いか、鈴城姉弟?」

 やや困惑した声音でさとすのは、我らが2‐C担任の片桐先生。教卓の前で出席簿を開いて朝の出欠を取り始めていた。いつの間にやらSHRに突入していたらしい。

 僕から身体からだを離して立ち上がった姫風が周囲を一瞥いちべつ。朝の長閑のどかなざわめき風景が一瞬にして静寂に変わる。

 ある意味イリージョンだ。姫風は魔術士イリュージョニストかなにかに違いない。いやただの痴女か。

 悪い意味で人を惹き付ける能力があるこの痴女は、僕が促してやっと、しずしずと廊下側最後尾の自席へ戻っていった。

「欠席は沢村さわむら平坂ひらさかだけだな。今日は特に通達事項もなし。期末テストまであと一ヶ月だから、各授業の板書はしっかり取るように、ぐらいか……」

 テキトーで覇気はきがない担任はフラフラと教室から出ていった。覇気のなさと言うより、疲れ気味に近いかもしれない。

 廊下から「片桐せんせぇ、一限目は空いてらっしゃいますよね? 一緒にお昼ゴハンを買いに出掛けませんか?」とチワワの声。

 気配けはいから察するに、どうやら朝のSHRを終える片桐先生を待ち伏せしていたらしい。

 片桐先生は「え、エリザベス先生……一限目は空いてますけど、自分は昼食を持参してますんで」とたじたじな声。続いて「そ、そうですか……」としょんぼりするチワワの声。

『頑張れチワワ!』と我がクラスの生徒の心は数名を除き一つになったに違いない。

 しかし、当の片桐先生は我がクラスの相庭あいばさんにしか興味がない。

 決して手は出さず、一年生の時からアイドルとして祭り上げているのだ。もはや崇拝の領域である。先生として教え子を崇拝するのはどうなんだ、とツッコミどころ満載なのだけど。それが周知の事実だけに仕方がない。

 そのせいで、自然と、健気けなげかつ、積極的なチワワを応援したくなる。でたくなる。人間て不思議。

 片桐先生は気まずくなったようで「小テストの採点をしなければならないので、それでは!」と逃げ出した。

 残されたチワワは、か細い声で「……リズ、頑張る」と呟いて、涙を拭っていたと、あとで噂を耳にした。

 チワワの想いが報われると良いなぁ。

 それは別として、健気なチワワになら、なつかれて追い回されても良い、と僕は心底思った。

 ――あ! 片桐先生に僕の部屋へ訪れた件を訊きそびれた! まぁ急ぎでもないし、帰りのSHRのあとに訊くことにしよう。


 姫風はなにを思ったか、片桐先生のあとを追うように教室から出ていき、それを黙視していたクラスメイトたちは同様に安堵の溜め息を漏らすのだった。


 姫風が居なくなったことで教室内は平穏とざわめきを取り戻した。

 気持ちをふるたせた僕は、一限目までの僅かな空き時間を利用して、どうにかこうにか新海さんにデートの件を訊ねてみた。

 訊ねている最中、「んいっ」と奇声を連発していたポニ天は見ていて怖かったけれど、やっとの思いで土曜日の予定を聞き出すことに成功する。

「そ、その日は、特になにもないよ? んいっ」

 それまで背の高さの関係で、上目使いで僕と視線を合わせていた新海さんが、目元を微かに赤く染めて、チラチラこちらを見るように変化した。手元はしきりにポニーテールの先っぽをもてあそんでいる。

「そっか、新海さんは暇人なんですな」

「ひどっ! んいっ、わ、わたしはそんなに暇人じゃないんだよ?」

 新海さんがぷくっと頬を膨らませる。どこかブロンドのチワワに通じるモノがあって、ハムスターみたいで可愛らしい。ぷくぷく部分をナデナデしたいなぁ。

「鈴城くん……?」

 新海さんに目の前で手を振られた。僕はポニ天の魅力にあらがえず、トリップしていたらしい。

「え、あ、僕も醤油派しょうゆはだよ?」

「醤油派?」

「ラーメンの話だよね?」

「ち・が・い・ま・す!」

 新海さんにムッとされてしまった。

「すみましぇん」

 収集した新海さん情報を脳内でジグソーパズルのようにめていく。

 新海さんは土曜日が空いている。特に約束がない。つまりは、僕の処刑はなかったことになっている構図、だよね?

 デートだと勝手に妄想して、デレデレとウカれていただなんて、今となっては穴があったらその中で油田でも掘り当てたい気分だ。目指せ一攫千金!

「……と言うことは、僕は合コンに行くべきなんだよね」

 僕の口からちょっぴりセンチメンタルな苦笑いが出た。

「んい? 合コン……?」

「なんでもないッスなんでもないッス」

 なんでもないことなので二回言いました。

 新海さんにねたようなジト目で睨まれた。小さなピンク色の唇をつんと突き出してアヒル口にされてます。

「なんでもなくないよ。“やっぱり”合コンの“方へ”鈴城くんは行っちゃうんだ……」

 やっぱり? 方へ?

「え?」

 うつむいて自分の胸元むなもと辺りを見つめる新海さん。

「んいっ、やっぱり男の子はオッキナ方が良いんだ……」

「オッキナ方が良い?」と首を傾げる僕。

 おもてを上げた新海さんに、キッと鋭い眼光で射抜かれた。

「……な、なに?」

「わた……って……ないんだ……ね」

 言いにくそうにモゴモゴむぐむぐと口ごもるポニ天。

 僕が訥々(とつとつ)な新海さんの単語を聞き取れた順に繋げて「私って胸ないんだからね?」と訊き返すと「違う!」と新海さんがシャウト。ついで「ち、違わないケド……」と蚊の鳴くような声で囁く。僕は心中で「へ〜着痩せするタイプなんだ」と呟くと涙目で睨まれてしまった。心中が読めるとは貴女もエスパーかはたまた偶然か。

 赤面症もかくやと言うくらい顔を真っ赤に染めた新海さんが、モゴモゴむぐむぐを止めると意を決したように、

「わ、わたしだって! わたしだって負けないんだからね!」

 言い放ち、ピロシキの名を呼びつけながら、彼の方へとズンズン歩いて行った。

「……宣戦布告?」

 なんのだろう?

 首をひねるが特に思い当たるふしはない。

 不意に教室内が静かになった。

 なんだろう、と周囲に目を配ると、無表情な姫風が静かに室内へ戻ってきたところだった。

 あいつは台風か天災かなにかか。いや痴女か。

 クラスメイトの視線が自然と痴女に集まる。

 その痴女は僕の席に真っ直ぐくるなり頭を下げて謝った。

「ゆうごめんなさい。土曜日のデート、行けなくなった」

「……僕が行く前提で断られた」

 ※そもそも姫風とは約束していません。

「いや、良いよ」と速攻で最大級の爽やかな笑顔(当社比一四〇%)。

 むしろ一方的なデートを阻止してくれた対象に感謝したい。ありがとう、と。

 姫風に興味がない僕は一方的なデートが中止になった理由を知ろうとしないし、知りたくもなかった。

 姫風が無表情をわずかにゆるませて微笑む。

 周囲にはまなじりがやや下がった程度にしか見えないけれど。

「ゆう、優しい」

 マズイ。姫風の中で僕の株が急上昇だ。痴女的には理解ある彼氏の構図に映ったらしい。やっちまったZE。

 座っていた椅子から降りた僕は、四つん這いになってorzの体勢で項垂れる。

 しだいに視線が僕に集まるけれど、空気を読んだ広瀬くんがわざとらしくネタを振って、彼らのコミュニティー内で騒ぎ始めた。ありがたい。それに当てられた周囲も、波紋が伝わるように、ゆっくりと喧騒が戻り始める。

 痴女はそれを気にした風もなく僕に声をかけた。

「ゆう? 気持ち悪い? 吐きそう?」

 姫風に背中をナデナデされる。これが新海さんだったら素直に喜べるのになぁ。

「どさくさまぎれに服の中へ手を突っ込むな。右乳首先端をコリコリするな。気持ち悪くないよ自分自身に腹がたっただけ」

 爆弾男で開始早々自爆した時みたいな気分だった。

「腕は大丈夫?」

「腕?」

 なんのことだろう、と首を傾げると、姫風に腕を指摘された。現在は五月で冬服学生服に隠れて見えないけど、手首から肘関節まで真紫に変色しているのだ。

「昨日打ち身になってた腕。痛まない?」

 僕は「痛くない」と応えた。

 と言うより刺激を感じない。

 姫風は「良かった」と頷いた。

 ほどなくして、窓側最前列の辺りで慄然りつぜんとした声が上がる。

「……他人事ひとごとだ」

「……代理ミュウヒハウゼン症候群シンドロームじゃ」

 声の主はこちらに背を向けて座る新海さんではなく、彼女に捕まって席を占領されたピロシキと、その隣で立ち尽くすジジイだった。

 凄い地獄耳だ。

 三人はなにやら揉めているように見える。

 しかしピロシキとジジイは、新海さんとの会話の合間をうように、姫風と僕をチラチラ眺めているみたいだ。

 けれど、今やその目は点に変わっている。

「ゆう? どこを見てるの?」

「キュートでぷりちーな新海さんの後ろ姿をでておりました」

 僕の瞳の保養であります。眼福眼福。

「――新海?」

 ピシッと周囲の空気がてついた。

「はっ!?」と僕は姫風に振り向く。

 僕の机の両端りょうはしに手を置いていた姫風が、バキメキグシャッと、その机の両端をえぐり、むしり、握り潰してしまった。

 遠巻きから注視していたクラスメイトは、この一瞬の出来事に目をく。

 今更ながら僕は盛大な自爆をしてしまったことに気付いた。

 机破壊とともに、無表情だった姫風の顔に変化が起こったからだ。変化は微々たるモノだったけれど、瞳が鋭利で剣呑なモノに変わっているのが証拠だ。

「坂本の椅子に座る――あの女が新海?」

 姫風の発声は椿さんばりに低く、そして小さく抑揚のないものだった。

 これは問い掛けではなく確認に違いない。

 誤魔化しようもなくて、僕は仕方なしに頷く。頷くや、姫風が目を細めて新海さんを不躾にジロジロ眺め始めた。

 触れれば刺されそうな眼力だ。やばい。完全に殺気だっている。かつて一度だけこの状態をの当たりにしたことがあるけれど、前例通りならこの状態の姫風がなにをするか解ったものではない。

 僕は姫風の無表情な顔と新海さんのぷりちーな背中を交互に瞳へ映して、ただただ狼狽うろたえるばかり。

「ひ、姫風、顔が怖いよ〜? どうしたのかな〜?」

 僕のせいで新海さんに危害が加えられるかも知れない。それだけは避けなければ。

 しかし、僕の杞憂きゆう他所よそに、無表情から一変した姫風が、クスリと笑みをこぼした。

「私と闘うなんて、あのタヌキには力不足も良いところ。精々噛ませタヌキで終わる程度」

 新海さんを眺めながらの冷酷な笑みだった。

 どこから湧くんだその自信は。

 意表を突かれた僕は「タヌキ?」と新海さんの方を視線で促して質問。そう、とばかりに「タヌキ」と姫風が頷く。

 ――なぜタヌキ?

 凍てついた雰囲気も緩和されて、僕の緊張が解けていく。

 新海さんが攻撃対象にならなくてホッとした。

「安心した?」

 心を読むな!

「にゃ、にゃんにょことでしゅか!?」

「噛んでる」

 仕切り直す為に僕は咳を一つして言い直す。

「なんのこと?」

「ゆうは嘘と早口言葉が苦手」

 低脳と言われた気がする。

「でも、可愛らしい顔と可愛らしい存在感がある」

 愛嬌あいきょうしか取り柄がないと言われた気がする。

「ちょっとばかし頭が良いからって人をバカにするな! どちくしょぉっーーーーっ!!」

「あ、青春ダッシュッ」

 追いすがる姫風をかわして弾丸ライナーよろしく、僕は教室から飛び出し、クラスメイトの視界から消え去った。


 しかし、五分もしないうちにストーカーに発見されて、教室に戻されてしまった。

 ストーカーに呼びつけられた舎弟その1とその2が、捕獲した宇宙人のように僕を教室まで連行したのだ。なにこのイジメ。

 教室の自席に戻ると、破壊された机は肘置きに変わっていた。どこのたくみの仕業だ。


 余談だけど、今日もまた、片桐先生が、深夜に寮へ訪れたことを訊きそびれた。

 理由は簡単。帰りのSHRが終了した直後に、チワワによって片桐先生が拉致されたからだ。

 冗談のような本当の話で吹き出してしまった。チワワ、アグレッシブ過ぎ。


 ◆◆◆


 なんやかんやあって、いやほんど(ことあるごとに巻き起こる姫風の痴女行為とチワワの暴走を除いて)特筆すべきこともなく、週末の土曜日がやって来た。

 時刻は午前九時。空模様は晴天で、疎らに白い雲が流れているくらいだ。

 普段なら教室に居る時間帯だけれど、本日は綾喃高校の創立記念日で祝日扱いだ。

 テレビから流れるニュースを右から左の耳へ流しつつ、クローゼットにしまってある姿見を引っ張り出す。

 今日は合コンだ。

 意気揚々と寮の自室にて、ワックス片手に、鏡の前で髪を立てたりひねったり波打たせたりしてみたところで、やめた。はっきり言ってこれらの髪型は耳が隠れる程度まで伸ばしているだけの自分には似合わない。いつもの額分け(5:5)にしておこう。

 自分にダメ出しをして服装に手をかける。去年の春休みにバイトして買ったジャケットとパンツを取り出して、一人頷く。「次にパーカーとジーンズをいてきたら殺す」と前回の合コン(サクラ役)の時に坂本寛貴さかもとひろき――ピロシキから口を酸っぱくして言われてしまったのだ。

「ダサい人間は死ね理論」を持つピロシキは、ファッションと女の子に関する気配りが厳しい。その厳しさを僕にまで要求するな、と言いたい。言いたいけれど、今回はメインで呼ばれる立場上、愚痴は次回のサクラ役の時の為に取っておこう。

 おっと、鳳祐介おおとりゆうすけ――ジジイと待ち合わせをしていたんだ、そろそろ寮を出なきゃね。


 叔母さんから拝借している愛車・スーパーフォア(普通二輪)を駆って三分ちょっとで駅前に到着。

 駐輪場でそれを駐車して、待ち合わせ時刻よりも十五分前に到着した僕は、噴水と銅像を尻目に駅構内の喫茶店に入り、コーヒーに口をつけながら、ぼけ〜と行き交う人の群れを眺める。

 二分ほどしてそこへジジイがやってきた。普段よりも服装――お洒落に気を使っているジジイの姿にコーヒーを吹いてしまった。

「汚いのぉ……言いたいことは解るが」

「……に、似合ってるよ? その背広」

 ジジイの姿は外回りの保険外交員だった。これから「社長出勤じゃ」と言われても全く違和感がない灰色の背広姿に青いネクタイ、黒光りする革靴。スーツ姿の似合う高校生の写メはきっちりと連写・保存しておいた。

 合コンの場所はこの駅から約二十キロ先にあるお隣の某市・複合アミューズメント施設だ。

 自動車免許を持たない高校二年生に取っての最短コースは、電車とバスの併用だ。電車で四駅。時間にすると十七〜二十分かけて某市へ赴き、降車駅からバスを使用して、複合アミューズメント施設に到着することが、本日の第一ミッションだ。

 携帯電話のサブディスプレイを覗くと《09:47》だった。時間的にはまだまだ余裕でピロシキとは現地集合。彼との待ち合わせ時刻は十一時。

 僕は、相手を待たせるよりも自分が待つ方が良い主義なので、早速行こう、とジジイを促す。

いささか早くないかのぉ?」

「そう? 単車転がして来たからニケツで行けば時間的に丁度じゃないかな?」

 僕は尻ポケットからバイクのキーを取り出して見せた。

「タンデムは三年以上乗らねばできぬはずじゃろ? 道交法的に」

「ジジイってば頭が固いなぁ」

 ジジイが駅構内へと僕の誘導を始める。

「ならば警察に止められた場合どうするのじゃ。お主は免停じゃぞ?」

「その時はジジイを振り落として逃げる」

「鬼畜じゃ!」

「冗談だよ冗談」

「目が本気じゃ!」

「冗談だよ。半分は」

「本性を出しおったな!」

 ジジイが券売機前で目を点にした。僕を見ながら。

 買った切符を改札機に通しながら、運行状況を電光掲示板で確認。「伯備線経由の方が先か」とジジイが首を絞めていた青いネクタイを外した。暑苦しいとのこと。

「クールビズだね!」

「意味は?」

「涼しいことは良いことだ!」

「お主は当てずっぽで的を射る天才じゃな」

 あっさり見抜かれた。

「伯備線で行くの? 山陽本線の方が早くない? あ、桜前線と梅雨前線と寒冷前線にも乗ってみたいな」

「取り敢えず後ろ三つには乗るな」

「お勧めは寒冷前線かな?」

 空いていた待合椅子に腰掛けながら、ジジイが盛大に嘆息した。

馬耳東風ばじとうふうと言う故事成語こじせいごを知っておるか?」

「婆痔踏夫に古寺静護ってなに?」

「稀にお主は天才じゃないかと疑うことがある」

 おだてられるとテレますよ。むしろデレますよ?

「学年首席に褒められると嬉しいな!」

「褒めておらん」

「褒めてよ! 褒めて伸ばしてよ!」

 わかったわかった、とジジイが投げやりに言う。

「お主はちょー賢いのぉ」

 ちょー棒読みだった。


 電車とバスを乗り継ぎ、少し歩いたところで、目的地の複合アミューズメント施設に着いた。時刻は集合時間の三十分前。

 ジジイはクレーンゲームコーナーに消えたので、僕は格ゲー(格闘ゲーム)コーナーへ移動。各所から漏れる大音量のBGMに顔をしかめながら、各対戦台を横切り、目的の台へテクテク。

 午前中から対戦台を占拠している人はまばらで、目的の台も人が居なかった。

 さっそく台に硬貨を投入してキャラクターを選択。

「……スーファミ(SFC)の頃から比べると、グロいなぁ」

 画面の対戦NPCに小さく呟く。僕の格ゲーレベルはショボいので、ラストラウンドまでクリアーできたら御の字だ。対人スキルは皆無で、乱入――挑戦者が現れたら、操作するキャラクターの虐殺シーンを、固唾かたずを飲んで見守るしかない。なので、プレイ中は乱入されませんように、とひたすら心中で祈るばかり。

 そんな心境を抱えながら、五戦目を辛くも勝利し戦々恐々の六戦目に突入。「あ、来た」思ってる傍から乱入された。

 素人を狩って楽しいか!? 得意か!?

「げ」しかも対戦相手はまるで狙ったように僕の苦手キャラクターを当ててきた。

「……ごめんよ」

 僕のキャラクターは手も足も出せず、赤いパンツのレスラーによる一方的なコンボを鑑賞するハメに陥るのだった。


 対戦を終えた相手が乱入の続きをプレイしようともせず、こちらへ歩み寄ってくる。

「お前少しは抵抗しろよ」

 顔見知り(ピロシキ)の反抗に、怒りで血流が沸騰した。

「足元が居留守だっ!」

「足元? ――爪先があああぁぁぁっ!!」

 ニヤつく対戦相手の革靴を踏み潰した。

「ゲームの素人を狩るなピロシキ! リアルファイトで雌雄を決してやるぞピロシキ! 構えろピロシキ! ほら立てピロシキ!」

「ぴ、ピロシキピロシキ言うなこのヤロウ……」

 足を押さえてうずくるピロシキ。

 ピロシキの背後にひかえていたジジイが、僕らの寸劇にヤレヤレと嘆息する。

「遣り過ぎじゃ優哉。それと寛貴よ、そろそろこのルーチンワークを学習したらどうじゃ。つい構いたくなるのはわかるが」

 ピロシキが何事もなかったかのようにゆっくりと立ち上がり、台に据え置きされている傍らの椅子に腰掛けた。

 リカバリーの早さに舌を巻く僕。

 ピロシキがダルそうにその僕を指差した。

「構ってオーラを出してるこいつが悪いんだよ」

「僕を寂しがり屋みたいに言うな!」

 ※ウサギが孤独死するのは迷信です。

 抗議する僕を、ピロシキが上から下まで視線でなぞった。

「なにさ?」

「優哉はまあ、及第点として。祐介……格好がサラリーマンみたいだな。もっとマシな服はなかったのか?」

 僕の抗議を無視してあっさり服装点検に巻き戻される。

「サラリーマンは否定せんよ。わしは洒落た服など持ち合わせておらんからのぉ」

「それならまだ似非えせサラリーマンスタイルよりも普段着の方が良いぞ」

「似非? 格好だけはサラリーマンじゃが、ほれ」

 ジジイがポケットから青いネクタイを取り出す。するとピロシキが目を剥いた。

「まんまサラリーマンじゃねえか! まんまサラリーマンじゃねえか!」

 まんまサラリーマンなのでピロシキが二回言いました。

 合コンに高校生が背広で来るなんて誰も想像しない。

「で、時間は大丈夫なの?」と僕。

「あ、あぁ、大丈夫だ。予約を取った部屋で三人とも待たせてある」

 ピロシキは差し詰め捜索隊か。

 動揺の抜けきらないピロシキを促して、アミューズメント施設内の三階にあるカラオケボックスへ赴いた。

 辿り着いたカラオケ店のレジカウンターでは、クラスメイトの佐竹くんがバイト中で、僕は終始彼から背を向けていた。

 佐竹くんの案内で通された部屋は、同時に十人までが収容できるサイズだった。

 覗き窓のあるドア押し開けて「待たせた」とピロシキ。

 愛想のない顔だった。

 合コン時は作り笑顔がデフォルトのはずだけど、どうしたのだろう。まさか、合コン事態を水の泡にするつもりだろうか。

 後ろにいた僕は脊髄反射で殴りたくなったけど、どうにかこらえる。

 室内からは「あ、来た来た!」「鈴城くん来た?」「やっと来たの?」と三人の女の子の声。ピロシキ、ジジイと順に室内へ消え、僕も深呼吸して「ちわ〜」と入室。既に中では三人の女の子が待機していて、歌本をパラパラめくりながら談笑しているようだった。

 その中の一人と目が合う。

「え、新海さん……?」

 視線を交わした相手は「おはよう鈴城くん」と真っ白なワンピースにストレートジーンズ姿のポニ天・新海沙雪しんかいさゆきさんだった。

 今日も小動物チックで可愛らしい――じゃなくて! 本来ここに居るはずのない女の子が五人掛けのソファーの一つに腰掛けていたのだ。

「鈴城くん鈴城くん、沙雪ちゃんだけじゃないよぅ!」

 言われて残りの二人に目をやる。新海さんの右隣に「やあやあ」とボクッ娘の国府田未紀こうだみきさん。ボブカットにシャギーが入っている頭髪、キャミソール&ハーフパンツ姿で、元気印全開だった。

 左隣には「……ふぅ」とエロい人・相庭梨華あいばりかさん。長い黒髪を後頭部でシニヨンに結っている。服装はまたまたホルターネックのワンピース姿で、スカートの丈が短いマイクロミニ。覗き込めばパンツが見えそう。カモシカばりに引き締まった太股が健康的なエロスを醸し出していた。

 新海さんは控え目に、国府田さんはにこやかに、相庭さんは嘆息混じりに視線を飛ばしてきていた。

「……合コンの相手って」

 全員クラスメイトだった。

 女の子はカジュアルな服装で、相庭さんを除きめかし込んでいる様子がない。

 そう言えば、とピロシキの姿を頭から爪先まで改めて眺め直して気が付いた。

 纏っているものが、総じてブランド物じゃない。毎度合コンには気合いを込めたブランド物一式を纏い会場に姿を現す男なのに――今更ながら異変に気付いた。

 僕はピロシキに耳打ちする。

「これはどういうこと?」

「……むにまれず、とある事情でこうなった」

 なにその事情?

 僕から視線を逸らすピロシキ。珍しいことに「申し訳ない」と表情が物語っている。

 一番疑問なのが相庭さんだ。相庭さんとピロシキは犬猿の仲。なぜここへこうして収まっているのだろう? あ、新海さんの付き添いかな?

「ほらほら内緒話はやめて歌おうよぅ!」

 国府田さんに手を取られて、強制的に彼女の隣に座らされた。長方形のテーブルを挟んだ向こう側にピロシキとジジイが座る。

「はいデンモク。まずは一曲歌って歌って!」

 朝から元気だなぁ。これは合コンではなく、親睦会だよね。それなら一思いに騒ぎますか!

「よ〜しパパ歌っちゃうぞぉ〜♪」

「誰がパパだ誰が」とピロシキ。

「ボク、ママ!」とハンズアップする国府田さん。

「誰がママだ誰が」とピロシキ。

「僕がパパで国府田さんがママでピロシキが長男でジジイがジジイ!」

「アダ名がポジションになっとる!」

 向かいに座ったジジイが腰を浮かした。両目には「驚嘆」と書いてあった。


 その場のノリと妙なテンションで二時間熱唱。最初のうちは洋楽や邦楽で各々場を繋いでいたけれど、国府田さんが演歌を歌いだいしたところで、新海さんが民謡に切り替わり、ジジイが軍歌を絶唱して失笑を買った。

 苦笑いが一段落して、ピロシキが室内備え付けの電話子機に手をかける。

「飲み物と食い物を注文するから、順番に言え」

 すかさず「餅!」と元気に挙手する国府田こうださん。「ないから」と嘆息する相庭あいばさん。「ポテトポテト!」と取り扱い商品一覧表のプライドポテトを指差す僕。「お前本当にイモが好きだよな」と呆れるピロシキ。「わしは枝豆じゃ」とジジイ。「お前は本当におっさん臭いよな。酒は頼めねえからな」と予め釘を刺すピロシキ。

新海しんかいは?」

 促された新海さんが取り扱い商品一覧表を眺めながら言った。

「わたしはたこ――」

「歯に青海苔が付くぞ」と茶髪半眼の捌き手・ピロシキ。

「――す! タコスが食べたい!」

 新海さんはタコスが大好き、と。心の日記帳にメモメモ。

「以上だな?」

 フィクサーピロシキが全員を見渡す。除け者にされた相庭さんがムッとした表情で「寛貴ひろき」と呼んだ。

「私にも訊きなさいよ」

梨華りかはプリンと紅茶だろ?」

「紅茶はアールグレイにしてよ?」

「へいへい」

 ピロシキと相庭さんのやり取りはツーカーだった。

 今は犬猿の仲でも昔は付き合っていたに違いない、と再邪推してみる。

 相庭さんとピロシキの間で視線を往復させていた僕を、目敏めざとくピロシキが睨み付けた。

「なんだよ?」

「こうして二人を並べて見ると、お似合いだなぁと。他意はないよ?」

 僕の嫌味なしな感想にチッとピロシキが舌打ちする。頬をヒクヒクさせて不機嫌丸出しだ。彼が本気で嫌がっている時の表情だった。相庭さんも同様に見えた。ピロシキはそのまま子機を取り、それぞれの注文を電話口に述べてクレイドルにそれを戻す。

「ボク頼んでないよぅ!?」

 国府田さんは涙目だった。

 ピロシキが冷酷に告げる。

「カウンターはここを出てすぐだ」

「ボクは直で注文しに行くの!?」

「走れゴウダ」

「ゴウダじゃないよぅ!? 国府田だよぅ!! あふんっ」

 首根っこを掴まれた国府田さんがピロシキによって室内から摘まみ出された。

 憔悴しょうすいしたようにカウンターへ歩み出す国府田さんを覗き窓越しに一瞥してピロシキ。

「誰だよ国府田呼んだやつ」

「……わ、わたし」と申し訳なさそうな新海さん。

「うだつが上がらねえやつだ」

 チッとピロシキが舌打ちする。

 ムカッときた。

 新海さんへの態度に非情なものを感じて、ピロシキの背中を一蹴しようと片足を上げたところで、「お待たせぇ〜♪」と国府田さんが帰室した。

 ものの数分で戻ってきた彼女の両手には沢山の料理を載せたトレーがあった。僕らの前に据え置きされている長方形のテーブルに、品物が次々と並べられてゆく。

「誰もお前なんか待ってねえよ。食い物置いてさっさと出ていけ」

「どうしてそういうこと言うかなっ!? どうしてそういうこと言うかなっ!?」

 注文の品を全て置き終えたと同時に、僕らの眼前で騒音発生装置ノイズと化した国府田さん。

 その正面に笑顔で立った相庭さんが「千切るわよ?」とボクッ娘の唇を摘まんで黙らせた。

 一切目が笑っていなかった。

 涙目で頷いていた国府田さんを「邪魔」と外から新たに入室してきた人物が押し退けた。

 その人物は、カラオケ店の赤いエプロンを身に付けた――鈴城姫風だった。

「どうしてここに!?」

 ストーカーの本領発揮!?

「バイト」とストーカーが短く答えた。

 至極全しごくまっとうな理由でした。

「……ば、バイト? あ、確かにここのエプロン着てるね」

 こくりと頷き無表情で勤労に励む姫風が言う。

「似合う? そそる? 押し倒したい?」

 エプロンに惚れる特殊性癖は持ち合わせていません。

「に、似合う、似合ってるよ。バイト頑張って」

 だからそれ以上近寄るな。

 目尻を下げて喜色満面な表情を見せていた姫風が、一転してキリッとキャリアウーマンばりにデキる女の表情へチェンジした。

「全力で頑張る。――国府田」

 静かにとなえられた国府田さんが、背筋を伸ばして姫風に敬礼した。

「なんでありますか閣下っ!?」

 姫風と国府田さんの間にいったいなにがあったんだ。

「コードDを発動しなさい」

 なんだ『コードD』って。

「了解でありますっ! 御注文は以上でしょうかっ!?」

 クラスメイトがストーカーの忠実な犬に成り下がっていた。

 はからずも涙腺が決壊する。

 それにえて触れないのか、意に介さないのか、一番槍のピロシキを皮切りに「あ、オレサマはコーヒー、ホットな」「わしも」「僕も」「わたしも」「私は紅茶のお代わり――オレンジ・ペコーをお願い」とみんな便乗して雨霰の如く注文した。

 矢継ぎ早にヒアリングさせられた国府田さんは、目を白黒させながら端末リーダーに注文の品物を打ち込む。

 それ姫風の仕事だよね? あ、国府田さんもここでバイトをしているとかカナ?

「く、繰り返すよぅ!」と金切り声を上げる国府田さん。

 切実なまでに悲哀感を漂わせている。どう見てもここで働いてない――姫風に働かされてるね。鬼か。

「ホットコーヒーが四点、紅茶のオレンジ・ペコーが一点、鈴城優哉専属終身雇用侍女が一点、以上でしょうか?」

 最後のはなに?

「以上だ」

 総員を代表したピロシキが頷くと、国府田さんは室内からさっさと出ていった。

「うぉーーいっ!?」

 呆然から我に返った僕は御絞おしぼりをピロシキの顔面に投げつけた。

 今、さらっと人生の分岐点を他人に決められたよ!? 人を一人雇ったよ!?

 頭から御絞りを被ったピロシキが「なにすんだテメエ」と僕を睨む。僕は颯爽さっそうとテーブルを飛び越えて、イケメンの首を両手で締め上げた。

「なにすんだテメエじゃない! 僕の人生を勝手に造るな!」

 食い込ませた僕の指を引き剥がそうと躍起やっきになるピロシキ。

「ぐえ……は……な……へ……」

「肌が赤から青に!」

 驚愕する新海さん。

「チアノーゼが出ておるぞ!」

 唖然とするジジイ。

「寛貴なんてほっといけば良いのよ」

 素っ気ない相庭さん。

 ジジイが僕を、新海さんがピロシキを、急いで引き剥がした。

 過呼吸気味な僕と窒息気味なピロシキの荒々しい呼吸音が室内を占拠する。

 今の行動を非難するようなジジイの視線が痛い。新海さんも「遣り過ぎだよ」と視線で訴えかけてくる。

 気まずい空気になるかと思いきや、なにを思ったか、姫風が僕とピロシキの間にしずしずとやって来てかぶりを振りながら言った。

「やめてゆう、私のせいで争わないで」

「争ってない!」

 ――棒読みだし、そもそも言うタイミングが遅い!

 みんなの視線に居たたまれなくなった僕は「……トイレへ行ってくる」とこの場から退室するのだった。


 ◆◆◆


 男子トイレに駆け込んだ僕は、急いで鍵をかけて洋式便器に座り込んだ。

 最近逃げ込む先がトイレばかりだ。僕はトイレに安らぎを感じる変態なのだろうか。将来は便器型の家を建てたり、便器型の家具を揃えたり……はぁ、そろそろ現実を見よう。

 どこに居ても付いてくる姫風について思いを巡らせることは苦痛だ。

「知らなかったのか? 大魔王からは逃げられない」と大魔王様の声が聴こえた気がした。そろそろ耳鼻科に行くべきかな。

 弾道追尾システムを搭載したミサイルのような痴女が恐ろしくて堪らない。いつでもどこでも現れる。これが「ゆりかごから墓場まで」なのだろうか。

「使い方違うだろ」と個室の外から否定された。独り言が漏れていたみたいだ。

 いつの間にやらやって来ていたピロシキが言う。

「それ福祉用語だろ。QOL(QUALIA OF LIFE)を提唱する前にまず現実見ろよ、医療従事者」

 なんの話だ。

 ゴンゴンとドアを乱暴にノックされた。

「取り敢えずそこから出てこい。んで一発殴らせろ」

「僕も一発殴らせろ」

「は?」

「姫風に有利なカード(ネタ)を渡したよね? どういうつもり?」

「あれはただの冗談だろ?」

「それが姫風に通じるとでも?」

「つか、国府田にあのネタを仕込んだのは姐さんだろ? ならどっちみち逆らえる訳ねえし。人身御供ひとみごくうは適切な自己防衛だろうが」

「僕を差し出して自分だけ助かろうって魂胆だよね? 上等じゃないか、今日こそ白黒つけてやる!」

 かけていたかんぬきを引いて個室の引き戸を開けると、ピロシキの右拳が間髪入れず飛んできた。僕は咄嗟にしゃがみこんで「お腹が居留守だっ!」と左掌底を腹部に突き込む。刹那でパシッと渇いた音が鳴り、ピロシキの左拳と僕の左掌が重なった。僕は「もう一丁!」とフリーの右拳を突き出したが「させるかっつ〜の!」と再度ピロシキに止められてしまった。半秒後にはパンッと頬を張られ、弾けた痛みが走る。ジンジンする。

「頬の弔合戦とむらいがっせんだ!」

「反対の頬も亡き者にしてやんぜ! かかって来いや!」

「……二人とも楽しそうじゃのぉ」

 丁度ドアを押してトイレ内へやってきたジジイが、僕とピロシキを眺めて目を細めた。

「お主らは相変わらず仲が良いのぉ」

『どこが!?』反論がユニゾン。同時に歯噛みする僕とピロシキ。好好爺みたいな眼差しを向けてこないでよジジイ。

 疲れたように、そして、流れを換えるように、ピロシキが嘆息する。

「結局祐介も逃げてきた訳か」

「お主に同じくな」

 ピロシキが鼻を鳴らして声を荒げた。

「怖いもんは怖いんだよ! うまく言葉にできねえけど、姐さんと同じ部屋に居たら落ち着かねえんだよ! 殴り殺されそうな錯覚に陥るんだよ!」

 ――多分それ錯覚じゃない。

「とどのつまり、三人とも逃げてきた訳だね」

 肯定するように頷くジジイ。

 チッと舌打ちするピロシキ。

「お前、ここで姐さんが働いてるって、なんで前もって言わなかった。あれか、騙し討ちか? 騙し討ちは楽しいか?」

 検討違いな言い掛かりもはなはだしい。なんでも良いから溜まった鬱憤を晴らしたい、とピロシキの顔には書いてあった。

「騙し討ちだなんて人聞きが悪い! 僕が姫風の行動なんて把握してる訳ないっしょ!?」

「しとけよっ!? 姉だろっ!?」

「義理だよっ!! 血は繋がってないよっ!! なにその『全ての原因は僕』みたいな言い方っ!?」

 僕とピロシキは「罵り合いは労力の無駄じゃ」とジジイにいさめられた。

 今度と言う今度ばかりはジジイが止めても無駄だ。

 そう鼻息荒く、僕は再びピロシキに掴みかかろうとしていたけど、それは強制中断となる。

 タイミング悪く、カラオケ店のエプロンを纏った店員がトイレ口からドアを押して入室してきのだ。

「掃除したいんだ。ここから出て行きたまえ」

 女性にしてはハスキーなソプラノボイスだった。

「あ、すみませ――って、椿つばきさんっ!?」

 清掃業務で男子トイレに突入してきたのは、男装の麗人・鈴城椿――姫風の双子の姉だった。

「おや、ゆうや? ふふ、私をストーキングしてここまで来たのかい?」

 誰が鈴城ツインズみたいな真似をしますか。

「……いえ、偶然、気まぐれ、運命の悪戯、神様の悪意、その他諸々です」

「そう身構えなくても良いじゃないか」

 言われて気付いた。軽く拳を握り、身体を強張らせている自分に。急いで握り拳をほどく。

「そ、そんなことないですよ? 椿さん」

 椿さんが不機嫌そうな表情で、鼻から息を抜く。

「……きいだ」

「……きいだ?」

 出た。椿さんが時々発する謎フレーズ。未だにそれは解けない。

 はて? と首を傾げる僕を睨み付ける椿さん。

 そんな僕の耳に口を寄せてヒソヒソと内緒話をするピロシキ。ジジイも耳をそばだてている。

「優哉、その人は?」

「姫風の双子のお姉さんだよ」

「やっぱりか」

「瓜二つじゃな」

 得心がいったとばかりに感心する野郎二人。

 椿さんが僕らの密談を遮るように語り始める。

「さて、私としては、ゆうやとつもる話に気を割くのもやぶさかではないが、今はこのとおり労働中だ」

 白い開襟シャツに紅いネクタイ、黒スラックスを纏う男装の麗人が、演技めいた動きで自分の赤エプロンを指し示した。

「私が取る、しかるべき対処方法は、君たちをここから殴り強制的に追い出すか、優しく排尿の手伝いをしたあとで蹴り出すかだが――」

 そうスラスラとのたまった椿さんの言葉に僕は勿論、ピロシキとジジイも絶句・微動だにできない。

「――どちらが好みかな?」

 不機嫌そうな瞳をギロリと一層鋭くさせて椿さんに睨まれた。

 椿さんなら間違いなくやりかねない。

 それを雰囲気で悟った僕ら三人は、

『失礼しました!』

 シンクロ率百パーセントで男子トイレから脱兎の如く飛び出した。


 ◆◆◆


 割り当てられた室内のドアノブに手を添えて、しかしピロシキが後退あとずさった。覗き窓を指差して「やばいやばい」と繰り返し身振り手振りで撤退を促す。

 お前はリアクション芸人か。

 すかさず携帯電話を取り出して僕とジジイに打ち込んだ文面をピロシキが見せてくる。

 明朝体で【姐さんと深海が睨み合い中。雰囲気的に修羅場】と表示されていた。誤字で「深海」と打ち込むほど焦燥感に駆られているらしい。僕も携帯電話を取り出して【最後の漢字が読めない】と返す。するとジジイが【修羅場:しゅらば】と携帯電話で提示してくれた。

 ピロシキがニヤニヤしながら極力まで絞った声音で囁く。

「お前とことん馬鹿だな!」

「……嬉しそうに言わないでよ」

 生活を送る上で馬鹿症状に困った経験はないけど、馬鹿の自覚はある。僕だって人並みに傷つくさ。

「そんなことよりなにが『やばい』のじゃ?」

 ピロシキが百聞は一見に()かずとばかりに、覗き窓を指差して「そっと覗いてみろ」と促してくる。

 ジジイと僕は疑問符を浮かべながら室内をそっと覗き込んだ。


 眼前の光景はどうしてそんなことになったのか、誰かに真相の説明を要求したい状態だった。

 五人掛けの重たそうなソファーが二つともひっくり返り、散乱しているのはまだ良い。

 癇癪かんしゃくを起こした姫風が台風の如く暴れたか、国府田さんに暴れさせたに違いない。

 中では騒ぎがなく、室内は物音一つない――静かな状態をかんがみると、今のところ怪我人は居ないみたいだ。それも良い。

 僕が説明して欲しいのは、新海さんと姫風が室内中央で睨み合っている状態についてだ。

 相庭さんは難を逃れるかのように、二人から距離を取って最奥の壁に背を預けている。その足元には嫁入り前の国府田さんが、なぜか半ケツ姿でうつぶせに倒れている。国府田さんになにがあった。

 ピロシキが入室しようとして足がすくんだ理由に合点がいった。室内は足を踏み入れることに、誰もが躊躇してしまう光景だったのだ。


 二の足を踏む状況の中、新海さんの断言が、ドアの隙間から漏れ聞こえする。

『鈴城くんは鈴城さんのモノじゃありません!』

 状況は不明。けれど、新海さんが僕にとって嬉々とした発言をしてくれたことは理解できた。

 けど、相手は姫風だ。正論は通じない。

 案の定『その根拠は?』と姫風が鋭利な言葉のやいばで切り返す。

『え、え? こ、根拠?』

 戸惑う新海さん。

 まぁ普通の人ならそこで根拠など問わないよね。

 逆に姫風が混乱する新海さんを静かに問い始める。

『では、ゆうは、タヌ――あなたのモノだとでも? ゆうが、あなたに相応しいとでも? 答えなさい』

 ……タヌ?

『す、鈴城くんは、誰のモノでもありません!』

 再び新海さんは正論で対抗。

 まともな理論の持ち主なら二の句が告げない内容だったけど、相手が悪い。

『面白い戯言たわごと。そんな常套句はいらない。結論は既に出ている。ゆうは私のモノ。そして私はゆうのモノ』

 権利を主張する姫風が胸を張り、自信満々で押し切る。

『解る? これがこの世の真理』

 解らない。どのあたりが真理なんだ。

『……そ、そこに鈴城くんの意見は入ってますか?』

 新海さんのかすれた声音は、なんとか絞り出したものに聞こえた。

『ゆうの意見? 互いに求め合う関係の前には、言葉なんてものは必要ない』

 異常理論デタラメを前にした新海さんがとうとう閉口してしまった。泰然たいぜんとした姫風の態度うそに二の句が告げれない様子だ。

『私はゆうの一部であり、ゆうは私の全て。ゆうが髪を切れと言えばこの場で切る。瞳をえぐれと言えばこの場で抉る。歯だろうが骨だろうが臓器だろうが余すことなく捧げれる対象が、私にとってのゆう』

 ぶるりと僕の全身が震えた。

 悪寒おかんに思わず身体からださする。

姫風さん超グロいし、超怖い。なのでそんな話はヤメテ。

 そう言えば、姫風は財布の中にドナーカードを忍ばせていたけれど、もしかして、いざと言う時の為に?

『――それがあなたにできる?』

 姫風が刺すような視線で新海さんを見つめる。視線におくした新海さんが口を開閉しながら後退あとずさった。それを受けて姫風が一歩踏み出す。

 ヤバイ、姫風がなにかをする気だ。新海さんを助けなくては!

「ジジイ、ピロシキ、あとは任せた」

「うむ、任された」「貸し一つな」

 親友たちの後押しを背に、僕はバンッと扉を開け放つ。

「はい、姫風帰るよぉ!」

「あ、ゆう。腕が痛い」

 新海さんの「鈴城くん!?」と呼び止める声を振り切り、猛ダッシュ。

 カラオケ店、ゲームコーナーを経て、アミューズメント施設を出たところで、掴んでいた姫風の腕を放す。

 ぜーはーと荒い呼吸を繰り返す僕に姫風が告げた。

「私、まだバイト中。それにタヌキとキツネに話がある」

 バイトしてたのは半ケツの国府田さんじゃないか。

「タヌはタヌキのタヌだったのか。タヌキとキツネって?」

「タヌキはタレ目茶髪。キツネはつり目団子頭」

「新海さんと相庭さんのことか」

 それぞれの特徴を上手く捉えていた。

 頷いて「タヌキとキツネに話をつけてくる」と姫風がきびすを返す。「ちょっと待て」いさんだ姫風の腕を再度掴んだ。

 今の姫風の雰囲気は、話ではなく、オトシマエをつけたいだけのような気がする。

 今、姫風を解き放てば、新海さんと相庭さんに十中八九、被害が及ぶ。

 なにをするか解ったものではない物体Xを野放しにしては危険だ。義理とは言え姉弟関係にある僕が、責任を持って連れ帰らなければ。

「僕の勝手で悪いんだけどさ、バイトを、店長か椿さんに告げて今日は早退させてもらえないかな?」

 カラオケ店の店長さんには申し訳ないけれど、シフトを変更させていただきます。

「帰りに服が買いたい。付き合ってくれる?」

 掴んでいる腕を気にしながら、上目使いで甘えるように姫風が視線を向けてきた。

「それは嫌だ」

 はたから見ればデートみたいじゃないかそれ。

「タヌキと話をつけてくる」

 踵を返そうとする姫風を制した。

 弱味を握られている僕は急いで条件を呑む。

「あぁ、もぉ! か、買い物に付き合うよ! だから今から一緒に帰ろう!」

「バイト辞める」

「極端すぎる! 辞めなくて良いよっ!?」

 このいさぎよ過ぎだよ!

 携帯電話を取り出した姫風がカラオケ店に電話を掛け始める。僕もピロシキとジジイに帰宅する旨のメールを送信しておいた。

【危険因子を連れ帰るからみんなには上手く伝えておいて欲しい】と言う僕の内容に、ジジイからは【了解。健闘を祈る】、ピロシキからは【姐さんにくれぐれも宜しくと伝えてくれ】と即返信がくる。

 理解がある親友たちに涙腺が弛む。

 嘆息とともに携帯電話をポケットへしまい、ちらりと隣で通話する姫風を一瞥いちべつ。視線に気付いた姫風がなにを勘違いしたのか、瞳を閉じて唇を突き出してくる。

 痴女すぎる思考にげんなりした。

 誰かこの人に倫理と“ほどほど”を学ばせてやって欲しい。

 やれやれと再度嘆息しながら唇を摘まんでひねると、姫風が涙目になりながら抗議の視線を飛ばしてきた。


 通話を終えた姫風を連れて、進路をバス停に定めながら歩く。姫風と肩を並べる行為は落ち着かない。生命の危機的な意味で。同じ落ち着かない状態に陥るなら新海さんと肩を並べて歩きたいなぁ。

「……もっと新海さんと一緒に居たかったなぁ」

「タヌキと居てもゆうにメリットはない」

 独白を姫風に拾われてしまった。

 言い切れる理由が知りたいものだ。

「……なんでさ?」

「没個性でエキストラ要員に過ぎないから」

 酷い言いようだ。あと思わず頷きそうになった僕を誰か殴って!

 思った途端、僕より身長のやや低い姫風に、頭をナデナデされた。

「私はゆうを殴れない」

「心を読むな!」

 姫風の手を払う。

 すると無表情の姫風が首を傾げた。

「ゆうが『僕を誰か殴って!』と叫んだから撫でた」

 もしかして僕はいつも独り言を駄々漏れさせているのか!?

 間もなくバス停と言うところで、憂鬱な気分に浸る僕のそでを姫風が引いた。

「タヌキが来た」

「はぁ? タヌキって新海さんが――ってマジですか!?」

 指摘された方角――アミューズメント施設からこちらへ駆けてくる見知った人物に気が付いた。

 茶髪ポニーテールを馬の尻尾みたいに揺らしながら近付いてくる女の子・新海さんだった。

「ど、どうしたの? 新海さん」

「わ、わたしも一緒に、す、鈴城くんと一緒に、か、帰る」

 激しく肩で息をつきながら、新海さんがそうのたまった。

 新海さんは全力で駆けて来たのだろうか? なかなか息が整わない。

「大丈夫?」

 ガランとするバス停前の待合所に、新海さんを促してベンチへ座らせる。

「ひ、久しぶりに走ったから、つ、疲れただけだよ?」

 ……それなら良いけど。

「急に走ったせいで、身体が驚いちゃったのかも知れないね」

 歳を重ねるごとに全力で走る機会なんて、日常ではどんどん減退していくよね。

 停留所脇に備え付けてある自動販売機からペットボトルに入った緑茶を三本購入。新海さんに手渡し。姫風には「この星から出ていけ」と投げつけた。

「扱いの差を感じる」

 ボソッと姫風に呟かれたが無視だ。

 受け取ったペットボトルをまるで宝物でも扱うかのように、新海さんがそれを両手で大切そうに抱える。

 服が水滴で濡れちゃいますよ〜?

「あの、ありがとう」

「いえいえ、お役に立てたようで僕としては満足です」

 呼吸の落ち着いてきた新海さんがほがらかに笑う。

「鈴城くんて良い人だね」

「はは、どうも」

 万年良い人止まりの僕には耳に辛い一撃だった。

 ひしひしと頬に視線を感じる。一瞥した先、すぐ隣には立ち尽くす姫風が居た。

「あ、姫風まだ居たの?」

 僕の一言で姫風が目を点にした。しかし、無表情は変わらずで、すぐに切り返される。

「仮に訊きたい。今、ゆうは私のことが邪魔?」

「うん」

 視界のはしで新海さんが「ちょっ!?」と目をまん丸くしたけど――気にしない。

「邪魔。できればシュレッダーにかけたいな、頭から」

 迷わず頷くけど、姫風は微塵もショックを受けた風がない。ただ首をかしげているだけ。

「これはなんのプレイ?」

「プレイとか言うな!」

 昼間から卑猥ひわいな!

「ロールプレイング? ゆうと私が、Sな彼氏とMな彼女を演じる? 配役は嗜虐しぎゃくの限りを尽くす彼氏と、虐げられても尽くす健気けなげな彼女? ふふ、良い。濡れる」

 なんの分泌液かは敢えて聞かない。あと精神汚染(マインドレイプ)はやめて。

「うぅ……二人の間に入れないよぉ〜」

 一人だけ座っている新海さんが、なぜかメソメソと肩を落としていた。

 いやここは入らなくて良いからね?

「ほあたっ!」と落ち込む新海さんの頬にペットボトルを押し当てた。

「ちべたいっ!」

 座った体勢のまま新海さんが垂直に跳び跳ねた。

「……今どうやったの?」

「わ、わたしにもさっぱり」

 世の中にはミステリーがいっぱい。

 くいくいと姫風に袖を引かれた。

「もう一度見たい?」

「なにを?」

「今のを」

「え、できるの?」

 おもむろに姫風が新海さんの隣に座り、自信満々で告げる。

「できる」

「しなくて良いから!」

 意識的に、座ったまま垂直に跳ばれたら、もう人間として姫風を見れない。

「横移動も可」

「しなくて良いから!」

 姫風は妖怪か。

 ふふん、と勝ち誇ったように姫風が隣に座る新海さんを横目でチラリ。なにその優越感。

「ゆうと連れって帰る人間は間に合ってる」

 姫風の言葉に新海さんが憤慨ふんがいした。

「す、鈴城さんの意見は聞いてません!」

 おぉ、新海さんが張り合ってる! で、今のはなにかの勝負だったの?

 たずねようとした矢先、口を開いたところで、尿意が僕を襲撃した。

「と、トイレへ行ってきます。先に釘を刺すけど、姫風、ついてこなくて良いからね」

「解った」

 腰を浮かせた姫風が座り直した。着いてくる気満々だったらしい。

 バスが停留所に到着するまで時間はまだある。急がなくても大丈夫そうだ。携帯電話のサブディスプレイを確認しつつ、最寄りの公衆トイレへ到着。

 小トイレは三つあり、小太りな中年のおじさんが先客で、一番奥を使い、ジョロロロロと用を足していた。

 僕は一番手前の小トイレに陣取り、アレを解放して構える。

「はぁ、この瞬間がなんとも言えないシ・ア・ワ・セ……」

 目を細めて用足しを終えた僕は、隣で長い間用を足している小太りなおじさんに軽い感嘆を覚えつつ、手を洗う。


 洗っていたところで――意識が途切れた。


 ◆◆◆


 目を覚ますと、そこは見知らぬ場所だった。

 いつの間にやら僕は寝ていたらしい。

 辺りは薄暗いけど、明かり取りから太陽光が射し込んでいるので、数十メートル先まで視界は明瞭。見回した地べた――地面は大小の小石が転がる砂地で、視界に映る範囲には、高い天井まで伸びた等間隔に建てられている支柱と、そこかしこに放置されているくすんだ鉄筋の群れだった。

 乱雑に放置されているそれらは腐敗と錆びが進行していて、締め切っていた空間特有のカビ臭い匂いも相まってか、この閉め切られた建物が長らく使われていない場所だと如実に伝えてくる。

 最奥に見える入り口は頑丈そうな鉄製の門扉で堅固に閉じられていた。

「……どこかの倉庫?」

 立とうとしたけれど立てない。後ろ手に縛られている。目の前に連なる支柱と同じものにくくりつけられて、ロープのような物で手首を固定されているようだ。

 抜け出せないかと試みて、手首を動かしてみるけれど、努力虚しくうんともすんとも動かない。現状を打破できない。

 諦観して周囲に気を配ることにした。

 なにかしら現状の打破に繋がる物がないか、よくよく辺りを見回してみる。

 え〜と……特にない。

 足が届く範囲には砂利と砂だけ。物音をたてるのは僕だけで静かな空間に居るのは僕だけみたいだ。

 そう言えば、外の音が聞こえない。特別な防音施設でも、僕の鼓膜が破れている訳でもなさそうだけれど、つまりここは周囲も含めて――

「人が立ち入らない場所なのかな?」

 頬がひきつる。想像が真実に繋がるなら、末路はたまったものではない。餓死しちゃうじゃないか。

「そもそも僕はどうしてここに居るんだっけ?」

 肝心な部分を忘れていた。

 確か合コンの最中に姫風を連れ出して、新海さんが付いてきて、二人が妙な対抗意識で張り合って、僕はトイレに行って……そこから記憶がない。

「あれ?」

 自分がどうしてここに居るのか、そもそも自分はなんなのか、自分は誰かにとって必要な人間なのか、人間とはなにか、クォ・ヴァディスが脳裏に浮かんで脳内追い駆けっこを実施していたら、後ろから声をかけられた。

「よぉ、起きたか?」

 低くてザラザラした男の声だった。

「起きたけど、どなた?」

 首を回せど、くくりつけられている背後の支柱が邪魔で、声の主の姿が見えない。

「誘拐犯てヤツだ」

 ややあって姿を見せた声の主は、フルフェイスの黒いヘルメットを被っていた。同系色のライダースーツまで着込んでいて、ぽっこりお腹が膨らんでいる。もしかしたら妊婦さんかも知れない。

「何ヵ月ですか?」

「は?」

「いや、お腹のお子さ――」

「ただのメタボだ!」

 言い切られた。

 声の主・メタボさんは語ってくれた。

 本来はもう少し小さな子供を誘拐するつもりだったこと。

 偶然トイレにやって来たマヌケが僕だったこと。

 目的は身代金の要求で、相手は誰でも良かったこと。

 スタンガンで眠らせた僕を車内に放り込んでここまで連れてきたこと。

 僕を運んだ話になった際、「男のクセに軽くて助かった」と言われて泣きそうになった。

 そこにオーバーな身振り手振りを交えながら、身の上話と四方山話よもやまばなしも付け加えられて、刑務所から逃げ出している脱獄犯だと知った。 そして、この誘拐犯はよっぽど話し相手が欲しかったんだと気付いた。

 結論――

「超ツイテナイな僕!」

 どうせなら誘拐犯じゃなくて宝くじに当たりたかったよ。

「ムショから逃げてばかりで久しぶりに女とヤりたいと思っていたんだが、よく見るとお前……可愛いな」

「はい?」

 常々自分の顔は十人顔だと思っていたけれど、この誘拐犯の評価は違ったらしい。

「可愛い顔だ。殺る前に一発ヤらせて貰おうか」

 この誘拐犯――おっさん(仮)といい、佐竹くんといい、姫風といい、僕の顔は変態に人気なのか!?

「良い声でいてくれよ?」

 おっさんが後ろ手を拘束されて動けない僕に、のっそりと近付いてくる。

「ちょ!? やめてよ!!」

 拘束されていないフリーの足でおっさんを蹴飛ばそうとするけどまったく当たらない。

 あっという間に側面へと回り込まれてしまう。

「大丈夫、痛いのは最初だけだ」

 ――経験者!?

 カチカチとベルトを緩める音が聞こえる。

 ――掘られる!?

「僕にその気はないぞ!!」

 ハアハアしながら僕に触れるな!

 おっさんがとうとう僕のジーパンに手をかけた。

 その時、思わず耳を塞ぎたくなるような――金属を切断するような音が響いて、頑丈そうな鉄の扉が、表現し難い効果音とともに、吹き飛んだ。

「な、なんだ!?」

 おっさんが慌てて、扉があった場所を凝視する。

 そこからは、ドッドッドッという2ストロークの低振動――モーター音と、威嚇するようなバイクの排気音に似た騒音が聞こえてきた。

 外の空気と中の空気が入れ替わり、土埃が舞う。

 その中を一人の人影が、こちらへ近付いてくる。

「お前は、誰だ?」

 驚嘆しながらもおっさんが誰何すいかした。

 果たしてそこに立っていたのは、片手にチェーンソーを握った姫風だった。

 背景に後光を従える姿はいろんな意味で眩しかった。

「私はそこで掘られそうになっているゆうの妻。ゆうを掘るのもゆうに掘られるのも、私だけ」

 もうちょっとマシな登場セリフはなかったのだろうか。

「ゆう無事? 掘られてない?」

 もうちょっと別の心配の仕方はないものだろうか。

「お前帰れよ」

「良かった。無事みたい」

「無視かよ!」

 そのままこちらへ姫風がゆっくりと近付いてくる。

「……く、来るな」

 おっさんがたずさえるスタンガンでは、リーチの関係で姫風のチェーンソーに太刀打ちできそうにない。

「ゆうは返して貰う」

 姫風が何故チェーンソーをチョイスしたかは深く考えないことにする。

 ひ、非力をカバーする為かな? それはあり得ないか。

 疾風よろしく、一足でおっさんとの距離を詰め、両手で上段に構えていたチェーンソーを姫風が軽快に振り下ろした。

「おわっ!?」

 呆気に取られていたおっさんがようやく事態を呑み込んで、一撃目を必死に横へと転がって避ける。二撃目、三撃目を更に転がって辛くも回避“できた”が、四撃目を避けた時点で足がもつれてしまい、前のめりに倒れてしまった。

 姫風はおっさんが起き上がる隙を与えず、ヘルメットにチェーンソーを突き付ける。

「わ、悪かった! オレが悪かった! この通りだ!!」

 おっさんは恐怖で腰が抜けたのか、蛇に睨まれた蛙ばりに動けない。

 姫風はそれに気付いているらしく、チェーンソー――回転する鎖刃くさりばの切っ先を、ゆらゆらと揺らしている。

 姫風の瞳に光はなく、仄暗い視線でおっさんを見下ろしていた。

「ゆうに手をかけた罪は重い」

 ――間違いない。

「悔いながら――死んで」

「ひ!? だ、誰か!?」

 溺れる者はわらをも掴む勢いで、おっさんと僕の目が合う。

「ぼ、坊主頼む! 頼むから助けてくれ!!」

 僕を殺す気だったおっさんが発したセリフは滑稽で少し笑えた。

 ――しかし、笑っている場合じゃない。

「さようなら」

 姫風がチェーンソーを振り上げたのだ。

「ひっ!? ひいいいぃぃぃ!?」

 迷いのない姫風は、おっさんを殺す気だ。

 姫風が勢いよく振り下ろした。

「姫風やめろ!!」

 僕の静止が届いたのか、おっさんのヘルメット額部分を数ミリ割っただけで、辛くも止まった。

 命拾いしたおっさんは、魂が抜けたように、ドサリと横倒しになる。

 恐怖が頂点を振り切り気絶してしまったみたいだ。

「ゆう、でも、」

 モワッとアンモニア臭が漂ってくる。

 見ろよおっさん恐怖のあまりに失禁までしちゃってるぞ。

「でももクソもあるか。家族から殺人鬼を出す訳にいかない」

 さらりと言えた家族と言うフレーズ。使ってみると存外恥ずかしいね。

「でも、」

「でもじゃない。携帯電話は……あれない。どこかに落としたのかな……姫風、携帯電話貸して」

 ここから先は僕らの税金で飯を食ってる警察の仕事だ。

 拘束を解いてもらった僕は、姫風かから無言で受け取ったそれに110番通報をした。

「警察を呼んだの?」

 持ち主に携帯電話を返す。

「うん。あとは司法で裁いて貰う」

「司法で裁く……? ゆうはそれで許せるの?」

 なおも回転するチェーンソーの切っ先を、おっさんのヘルメット頭頂部に向けて揺らめかせる姫風。

「許すとか許さないとかじゃなくて、襲われた僕が良いと言ってるんだ。あとそれをそろそろ止めようか」

 高校生の日常とかけ離れた凶器・チェーンソーのエンジンを姫風は素直に止めた。

「ゆうは優しくて甘い」

 チェーンソーはどこから調達してきたのだろう。ホームセンター? どこで獲得したか知らないけれど、真昼にチェーンソーを購入する女の子の姿は、はたから見てぞかしシュールな光景だったに違いない。

「でも、私は許せない。この人、ゆうを殺そうと、私のゆうを私から奪おうとした。許せない」

 不思議な気分だった。

「……姫風、前から訊こうと思ってたんだけど――」

 本来の僕は、姫風との会話事態が苦痛なはずだけれど、純粋な質問と言うか、素朴な疑問が身体の内側から沸き上がってきた。

「なぜ僕にこうまで執着するんだ?」

 そもそも姫風は、僕のどこに、惚れてくれたのだろう?




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