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やんやん  作者: きじねこ
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4.痴女降臨


 無理矢理テンションを上げる為に、いつもより速く登校してみた僕。クラスメイト数名に「今日は速いじゃん。なにかあったのか?」とたずねられた。僕は天変地異かなにかのトリガーか。遅刻気味な僕が速く登校するとクラスメイトの瞳には奇妙に映るのか。

 後ろの席に座る妹尾せのおくんに昨日のことを謝りつつ自分の席にヒップドロップ。心の広い妹尾くんは昨日のヒップアタックを許してくれた。

 机の中に教科書を詰め込んでいたところ、話し相手を探していたのか、前の席の広瀬ひろせくんがカロリーメイトをムシャムシャしながらこちらに振り返った。ハンズアップでおはようさん。

鈴城すずき章吾しょうご――池田いけだから聞いたか? 転校生の話」

 転校生の話?

「土曜日にジジイ経由から聞いたような……詳しくは知らないや。なに? 転校生が池田くんの知り合いだとか?」

 それだと凄い偶然だ。

「いやなに、今日は池田が日誌の当番だろ? あいつが日誌を取りに職員室へ行ったら、うちの制服じゃない格好の女子を二人も目撃したんだとよ」

「へ〜二人も?」

 ジジイの情報は間違いじゃなかった訳だね。ピロシキが騒がしくなりそうだ。

「うち、一人は我がクラスで、もう一人は隣のチワワ小屋だとか」

「チワワ小屋って……」

 いつの間にかミス・エリザベスの扱いが人外に。あ、愛玩動物と言う認識だから元々人外扱いだったっけ。

 それはまぁ置いておくとして、

「五月の終わりに転校生が二人か、変なの」

 数日前にもこれと同じことを思ったけど、改めて首を傾げる価値の珍事だ。

 広瀬くんはダイエットコークをがぶがぶ飲んで一息吐く。

「ケプッ――親の転勤にくっついてきた、とか?」

「せっかく猛勉強して入学できた高校を、親の転勤如きでそう易々とは手放さないと思うけどなぁ」

 子供が小中学生なら親の転勤にくっついて行くことは普通に思えるが、子供が高校生なら親にはくっついて行かず単身赴任を選んでもらうだろう。一昨年の僕は寝食を犠牲にして必死に勉強した結果、この場所を補欠合格で勝ち取ったのだ。加齢臭にそこをヤメロと言われても「はい解りました」と素直には従えない。

 首を傾げることしかできない僕。

「お金の工面くめんができなくて転校してきたって訳じゃなさそうだよね」

 ここ私立綾喃高校は他校に漏れず学費が高い。とすると、お金の目処めどが立たず、と言った金銭的理由で引っ越してきた訳ではなさそうだ。

「金よりも事件絡みっぽくね? なにかクサイ事情でもありそうだ」

 ニヤリと笑う広瀬くん。

 他人の不幸は蜜の味とよく言ったものだ。勝手な憶測や邪推を入れる余地があるテーマは話題に飢える高校生にとってかっこうのゴシップなのだ。

「クサイ事情……ゴミ屋敷が手に負えなくて逃げたしてきたとか」

 広瀬くんがダイエットコークをぴゅるっと吹いた。僕の顔に。

「すまん。それだと本当に臭い事情だな」

 トイレから掻っ払ってきているトイレットペーパーを机の中から取り出して顔をフキフキ。

「この名探偵鈴城が推理した結果だよ。間違いない!」

 ちなみに鈴木から鈴城姓に変わったのは両親の力関係です。加齢臭の立場の弱さに枕を濡らしたのは秘密ね。

「以前住んでた場所で事件を起こしたとか、起こされたとか……やべぇ、オラわくわくしてきたぞ!」

 サ●ヤ人化した広瀬くんが興奮して鼻の穴を膨らませた。

「そう言えば、悟空の一人称って誰譲りなんだろうね」

 育ての親たる悟飯じいちゃんじゃないし――全然関係ないけれど、ふと気になった。

 広瀬くんがハッとなる。

「それ超盲点じゃん!!」

 うぉーーーー!! と雄叫びを上げる広瀬くん。

 こう言っては失礼かもしれないけれど、広瀬くんも僕並みに脳のできが残念な気がする。

「ど、どうしたの?」

 いつの間にか登校していた、右隣に座るプリティーガール――新海(しんかい)さんが、広瀬くんの発狂具合にビビって僕に目配めくばせ。

「誰も気付かない謎に気付いて感動してるんだよ」

 広瀬くんは感動を共有すべく、周囲のクラスメイトへ手当たり次第にこのネタを触れ回り始めた。

「あはは、面白い面白い」

 吹聴する広瀬くんの姿が滑稽で少し笑える。ネタの発案者って優越感に浸れるものなんだね。

「サッパリ解らないよ! 具体的な説明をお願いするであります!」

 なぜか敬礼する新海さん。今日も可愛い。小動物チックな笑顔に僕はノックアウト寸前だ。

「具体的な説明? 新海さんはアニメとか見る?」

 新海さんはドラ●ンボールを見たことがあるだろうか?

「小学生までは見てたけど、今は見てないよ〜」

 だろうねぇ。アニメを見るのはもっぱらピーターパンシンドロームを引き摺り続ける男の子と一部の女の子だ。

 一般的な女の子にアニメトークをすると引かれちゃうだろうし、新海さんに引かれたら僕は死んじゃうので、例え話をしよう。

「上手く例えるなら」

「例えるなら? なになに?」

 新海さん前のめりにならないで! む、胸元から、胸元から、水色なほにゃららが見えちゃいますよ!

 ついっと視線を明後日の方へ向けて例え話をつむぐ。

「巨乳から貧乳が産まれるのはなぜか? こんな感じだよ――ってあれ?」

 先ほどまで僕と肌が触れ合いそうな距離だったのに、ふと見返した隣の新海さんは机に突っ伏して泣いていた。

 昨日と同じ状態じゃないですか、どうしたプリティーガール。

「わ、わたしだって、わたしだって好きで貧乳してる訳じゃないの。お母さんと妹はオッキイのに、わたしだけなぜかチッサイの。なぜだろう、なぜだろうね? 神様は不公平が好きなのかな? むしろ好物かな? 男の子はオッキイのが好きなんだよね? 鈴城くんもオッキイのが好きなのかな? チッサイのは嫌いかな? 嫌いかな? 嫌い? わたしのことは?」

 聞き取れないほどかすかな声音でブツブツブツブツと机とお話する新海さんは、纏う空気が仄暗ほのぐらくてとてもじゃないが声をかけれる雰囲気じゃなかった。

 そこへ、目の前にぬぅっと巨人ジジイが出現した。朝の挨拶もそこそこに僕と新海さんを見比べて、ふむと一人納得している。

「【新海殺し】の異名は伊達だてではないのぉ」

 なにその不名誉な異名。

「誰だその異名を僕に付けたヤツは! 異名は【バカ】だけで充分だ!」

「……バカは認めておるのか、そうか」

 気不味いなら言わないでよ! それと微妙に視線を逸らさないでよ!

「異名を付けたヤツは……ほれ、あそこで寝ておるぞ」

 ジジイが窓側から二列目の最前列を指差した。

「ピィロォシィキィー!!」

 ぶっ殺す!

 椅子を蹴飛ばして飛び出した僕はピロシキの背後に立つ。制裁を加えるべく、机の上で腕枕睡眠中だったピロシキの旋毛つむじをチョキでグリグリ。

「うりゃりゃりゃりゃりゃっ!」

「っつ!? ぐわっ!? ちょ!? ヤメロ!! 下痢になるじゃねえか!! 誰だよ朝からこいつのギアをトップに入れたヤツは!?」

 ピロシキが僕を振り払って立ち上がる。

「ジジイだ!」

「殺す!!」

 ロケットエンジン点火ばりにピロシキが飛んでいき、ジジイの太股ふとももを蹴った。即ジジイに蹴り返されて涙目なピロシキ。

「いでっ、朝から小細工こざいくすんなよ祐介!」

 つまり、僕はていよくこまにされた訳なの?

 ジジイがなんでもないことのようにケロッと言う。

「スキンシップじゃ」

 それは明らかに使い方を間違っていると思う。

「いちいちオレサマに絡むな。快眠の最中だったのに余計なことしやぐぼぁ!?」

 ピロシキの首を後ろからチョップ。イケメンが崩れるようにドサリと倒れた。

永久とわに寝てろ」

「相変わらず鬼じゃなお主」

 鬼だと? 僕の異名をこれ以上増やすさないで貰いたい。

はなむけだ!」

 トドメを刺そうと拳を振り上げたところで、予鈴がなり、興ががれてしまった。

「運の良いヤツめ!」

「優哉よ、別の捨て台詞はないのか?」

語彙ごいが乏しい僕になにを期待してるんだ!!」

「お主の口から『餞』や『語彙』がでたことにわしは軽く感動を覚えたぞ」

 倒れたピロシキをジジイとともにヤツの席まで運び座らせた。けど、脱力しているせいか上手く座ってくれない。起こすのも面倒なので、やむなくジジイから奪い取ったビニールテープで、ピロシキを自身の椅子に巻き付けておいた。隣に居たジジイはしきりに僕の手を止めようとしていたけど、知ったことかと入念に固定しておいたのは変な意地だ。

 僕は自分の手際てぎわの良さに惚れ惚れしつつ、マイチェアーに戻ってヒップドロップ。SHRと転校生を待ち構える体勢を取った。


 ◆◆◆


 昨日に引き続き、先ほどもまた吹き飛ばしてしまったらしい妹尾くんにペコペコと謝罪した。

 僕の状況を無視するように、スライド式ドアが押されて、片桐先生が入ってきた。顔の絆創膏ばんそうこうやガーゼは取れていた。

 先生の後ろに誰か居る。恐らく転校生だろう。

 さ、とうとうお出ましだ。

 僕と広瀬くんは顔を見合わせてニヤニヤする。隣で突っ伏していた新海さんも回復した様子なので、僕たちのワクワクを分けてあげようと振り向いたら、憮然ぶぜんとした表情のプリティーガールと目が合った。

 あれれ? なにやら怒っていらっしゃるぞ?

 ムッとする新海さんは僕と視線を合わせるのが嫌みたいで、すぐに逸らされてしまった。

 え〜と……なにか怒らせるようなことをしたかな?

 に落ちないながら、広瀬くんや新海さん共々転校生を眺める為に、前を向く。同時にヒソヒソ声の応酬おうしゅうに包まれていた教室内が、ピタリと静寂に移り変わった。

 片桐先生のあとを付いて、転校生が教室内に入って来たのだ。

 ――知り合いに似ていた。

 パッと見て、転校生は相庭梨華に一切引けを取らない、むしはるかにまさるスタイルの良さを持っていた。

 ――息を飲んだ。

 転校生は豊かな胸を揺らし、腰まである光沢を帯びたつややかな黒髪を、サラサラと風に踊らせ、なびかせていた。

 ――胃が痛くなった。

 転校生はエメラルドグリーンの冷徹な瞳をたずさえていた。

 ――背中から冷や汗が出た。

 物静かな雰囲気の転校生と目が合った。

 ――現実を呪った。

 転校生から目を逸らした。

 片桐先生が黒板にチョークで転校生の名前を書いていく。

 片桐先生が「鈴」と書いた。

 片桐先生が「城」と書いた。

 片桐先生が「姫」と書いた。

 クラスメイトが黒板と転校生と僕を順繰じゅんぐりに眺めていく。

 片桐先生が「風」と書いた。

 クラス中がざわざわと騒ぎ始めた。

 姓の一致に新海さんが僕と転校生を交互に指で差して、まばたきを繰り返している。

「静かにしろ」と片桐先生がクラス中を黙らせて、転校生を促した。

「さてと、鈴城すずきさん、まずはクラスメイトと親睦しんぼくを深める意味合いを込めて、軽く自己紹介をお願いします」

 それを受けた転校生は慇懃いんぎんにお辞儀すると、魅惑的な唇を開いた。

「私は鈴城姫風すずきひめかと言います。そこに居る鈴城優哉の妻です。あれは私の所有物であり、私もあれの所有物です。またあれは私の占有物であり、私もあれの占有物です。このような理由により、どなたもあれについて、着手及び侵害しないようお願いします」

 クラスメイトが騒然とした。

 そりゃそうだ。こんな奇妙な内容を誰がまともに聞き入れようか。誰もが我が耳を疑う表情になっているのが転校生の挨拶への返答である。

 そして誰もが結婚の話に疑わしげだった。僕が高校二年生であり、十八歳に達してないとすぐに気付いたからだ。

 けれど、僕と転校生に視線を反復させて変にいぶかしむクラスメイトは多数居た。「鈴城」姓は珍しい苗字。それも加味かみして、いきなり僕を指名した挙げ句、自分をそいつの「妻」と名乗ったのだ。まともな意識をもつものなら変だと思考するだろう。

 それはむしろ自然な流れで、中学生の時になかった常識がここにはしっかりとあった。

 その空気――正常な流れに僕は少し安心した。

「静かにしろ」と片桐先生が大声を張った。けれども喧騒けんそうは収まらない。

 しかし、「ゆう、良い子にしてた?」と言う転校生の一言で喧騒が水を打ったように静かになった。

 ゆっくりと僕は立ち上がり、窓側まで近付いてアルミサッシに「よいしょ」と足をかける。

「やめろここは三階だぞ!」と片桐先生と広瀬くんと妹尾くんと国府田さんとジジイが僕の身体を羽交い締めにした。

 僕はジジイの手により力一杯ビニールテープで拘束されて、椅子に縛り付けられる。

「僕にM属性はないぞ!」

 僕を殺せと(わめ)いたが、誰一人相手にしてくれなかった。

 クラスメイトは僕を嬉々とした目で眺めている。

 片桐先生がクラスメイトと僕をさとした。

「色々と愉快な内容の自己紹介だったが、鈴城姫風すずきひめかさんはそこのバカのお姉さんだそうだ。皆、仲良くするように。特にそこのバカ、しっかりとお姉さんのサポートをしてあげるんだぞ」

 なんだ双子の姉の茶目っ気か、とみんな興味本意の目で転校生と僕をジロジロ見ている。

「似てないだろ!? 全く似てないだろ!? こいつとなんか姉弟きょうだいじゃない!!」と叫びたかったけど、クラスメイトに余計なゴシップを与えることが怖くて、沈黙を保つことにした。

 片桐先生は必要事項を述べ始める。

 それをBGMに隣の新海さんが恐る恐ると言った感じで、僕を見つめてきた。そして転校生の感想を下さる。モチロン、ナノデシベルで。

「す、凄い性格のお姉さんだね」

「ふ、ふはははは……お願いだ。僕を殺して」

 新海さんに凄く困った顔をされた。そして、なぜか悲し気におろおろされてしまった。教壇前の転校生が新海さんを睨んでいたからだ。

 僕は転校生に《睨むな》とアイコンタクト。

 転校生は僕に《浮気?》とアイコンタクト。

 誰が浮気だ。勘違い電波女め。

 ガックリと項垂うなだれた僕の背中を、隣の新海さんがそっと撫でてくれた。

 まるで新海さんの優しさが心に染み渡っていくような撫で方だった。

 もし来世があるのなら、食器洗い乾燥機でも良い、竹炭でも掃除機の紙パックでも詰め替え用洗剤でも良い、とにかくこの人の役に立つなにかに生まれ代わりたいと、心の底から思った。

 だって、僕には新海さんが天使に見えたから。

 翼の代わりにポニーテールが生えている天使に見えたから。

 ポニーテールの天使。略してポニ天。なんだかイカ天みたいだけど気にしない。

 地味だなんて周りは言うけれど、可愛いよ新海さん可愛いよ。

「新海さんて可愛いよね。はぁ、抱き締めたい」

 僕の口から微かに漏れた呟きは、新海さんの鼓膜を射止めて時を止めてしまった。僕の背中を撫でた体勢のまま固まっている。

 しまった。なんで朝から告白してるんだ僕は。恥ずかしすぎて脳が痛い。これが突然現れた転校生効果か。

「ご、ごめん。変なこと言った。忘れて」

 マイクロデシベルで囁いた僕の声は固まっていたポニ天を溶かしたようで、おずおずと言うか、チラチラと僕を見てくる。

 まずい。変に意識させてしまった。キモいと思われただろうなぁ……あぁ、死にたい。

「す、鈴城くん……」

 新海さんの口から返ってきた声は、喉の奥から絞り出すようなかすれた声音だった。

「こ、ここ、こん、今週の土曜日だけど、あ、空いてます、か?」

 毎週土曜日はやる気のない部活に精を出していますが、これはもしやアレですか? キモい僕の処刑日のお誘い? 良かろう。ポニ天に殺されるなら本望だ。

「毎週土曜日は閑古鳥かんこどりが鳴いております!」

 僕はビニールテープを引きちぎり、立ち上がって叫んでいた。

「鈴城、お前凄い筋肉してるな。それと土曜日がどうかしたのか? 暇ならぜひ【親衛隊】の会合に来ないか? 我が【親衛隊】は常時隊員を募集中だ」

 先生、朝から勧誘するな!

 【親衛隊】の崇拝対象たるエロい巨乳美人さんこと相庭さんは、転校生や片桐先生に興味を示さず窓の外を眺めている。

「え、遠慮します!」

 急いで勧誘を断る。

 その際、吸い込まれるようなエメラルドグリーンの瞳を持つ転校生と目が合ったけど無視だ。

 急いで着席した僕は顔を両手でおおった。穴があったら身投げしたい。誰か僕を埋めてくれ。

「うぅ〜恥ずかしい……」

 新海さんが頭をよしよしと撫でてくれた。はぁ、癒される。

 ポニ天はなぜこんな浅ましい僕にまで優しいのだ。あぁ、処刑前だからか。

 しかし、僕の現実逃避は、

「先生すみません。ちょっといいですか?」

 教壇前の転校生の一声で強制終了となった。

「なにかな?」

「ゆうの周りにウジが湧いているので、今から駆除します」

 よどみなく告げた転校生が、新海さん目がけて消火器を持ち上げた。

「ば!? やめろ姫風(ひめか)!!」

「解った」

 素直に停止した転校生は消火器を片桐先生の足に落とした。

「小指があああぁぁぁっ!?」

 片桐先生は、跳ねながら教室から飛び出していった。

 その後ろ姿を見送った新海さんが、ポツリとこぼす。

「確かこのあと片桐先生の数学だったよね?」

「自習だろうね――って姫風また消火器を持ち上げるな!!」

 僕は急いで教卓前の転校生に近付いた。

 不穏な空気を察したクラスメイトは、僕と転校生に巻き込まれないよう、席を立ち遠巻きから観戦開始。

「だって」

 唇を尖らせた転校生がゴトリと消火器を床に下ろす。

「だって?」

 どうどう、と眉間にしわを寄せた転校生をなだめる。

「ゆうが私以外の人間が吐いた息を吸うなんて耐えられない」

 三十四人分の二酸化炭素をどう回避すれば吸わなくて済むんだ。その方法があるなら教えてくれマジで。

「だからこれ」

 転校生がどこからか重たそうなリュックサックを二つ取り出して、ドンと教卓に置いた。

「これはなんだよ?」

 スキューバダイビングの時に、背中に背負うボンベセット一式に似ている。ボンベには酸素ボンベとプリントされていた。

 窓から投げ捨てた。

「酷い」

「酷くない。このご時世に酸素ボンベを常備している女子高生がどこにいるんだよ!?」

「違う」

「なにが!」

「これは酸素ボンベじゃない」

「じゃあなんだよ!?」

「私の息が詰まった二酸化炭素ボン――ああ」

 もう一つも窓から投げ捨てた。

「もう帰れよ! 頼むから帰って下さい!」

 僕は涙声だった。

「甘いわ、ゆう。まだボンベは二つあるから――ああ、ゆうやめて、捨てないで。これを捨てると私とお揃いじゃなくなる」

「知るか!!」

 追加分を窓から投げ捨てようとしたが、転校生が万力まんりばりに抵抗する。

 ええい、その手を離せ!

「嫌なの? ペアボンベ」

「揃ってボンベから二酸化炭素を吸うヤツがどこに居るんだよ!? 死ぬだろ!」

 転校生が僕の顔を見ながら舌舐めずり。

「ゆうと死ねるなら本望」

 全身がゾクリと粟立あわだった。

「ひ、一人で逝け! 僕はりたいことがまだまだいっぱいあるんだ!」

 不意に転校生の力が突然弱まって、たたらを踏んだ。

「例えば? ああ酷い」

 素知らぬ顔で窓からボンベを投げ捨てた。階下から「か、片桐先生!? 片桐先生ぇぇぇ!?」と悲痛な叫び声が聞こえたが気にしない。残るボンベはあと一つ。

「酷くない。例えば……」

 僕はチラッと新海さんを見る。

「しゅ、週末にデート……とか」

 厳密に言えばポニ天による処刑だけどね。

 僕と転校生以外誰も物音一つ立てない静かな教室だ。今の会話を聞いていただろう新海さんは、僕をチラチラ見ながらポニーテールの先をもてあそんでいる。アレはテレてる時にやるクセだったっけ。処刑をやる気満々だなんて可愛いなぁもぅ!

 ポニ天に処刑されると解っていても、僕の人生、最初で最後のデートだ。週末が楽しみでしょうがない。

 転校生が無表情から一変して微笑ほほえんだ。

「行ってあげる。どこ? 古墳?」

 高校生がデート先に古墳をチョイスするとかしぶすぎだろ!?

「頬を赤く染めるな! 姫風とじゃねえよ!」

 空気読めよ!

「私以外の誰とデートするの?」

 無表情に戻った転校生のみならず、クラスメイト全員が聞き耳を立てている……気がする。

「そ、それは……」

「相手は誰?」

 言いつつ転校生は新海さんから目を離さない。

 ――バレてる!?

「だから消火器を新海さんに投げようとするな!!」

「解った」

 みんな引かないで下さい。転校生は聞き分けが良くて、基本的に素直な良い子なんです。まだクラスに馴染めてないだけなんです。ほんとです。

「殴る」

「解ってないだろそれ!!」

 新海さんを消火器で殴ろうとした転校生の身体を、後ろから羽交い締めにする。

「嬉しい」

「は?」

 アグレッシブな転校生を羽交い締めにした途端とたん、このはピタリとその行動を止めた。

「やっと私に触れてくれた」

「状況を考えろよ!? これ不可抗力だろ!!」

「不安の種は解消した。私に飽きたのかと少し心配だった」

 なんだよその自信は!?

「姫風とは一生プラトニックですから!」

「ふふ。私から襲えば良いの?」

 そこで頬を赤く染めるな!

「あっさりと犯罪をほのめかすなよ!」

 このままだと高血圧で倒れるなり、血管が切れて脳溢血のういっけつになるなりしそうだ。

「そうだ。大切なことをたずね忘れてた――ああ酷い」

 奪い取った消火器を窓から投げ捨てた。「ひじがあああぁぁぁ!?」と片桐先生の嘆きが聞こえたが気にしない。あと一つ。残る凶器はあとボンベ一つ。

「酷くない。大切なこと? またどうせロクでもないことだろ?」

「違う。本当に大切なこと」

 転校生は真剣な眼差しだった。

「……なんだよ?」

「ゆうの貞操のこと。まだ童貞?」

「ぶふっ、姫風には関係ないだろ!?」

 転校生と鼻声で叫んだ僕は付き合ってる関係じゃないんだ。そんなことを聞かれるだなんて失礼にもほどがある!

「ゆう、怒らないから正直に答えて。今現在、特定の誰かと付き合ってるの?」

 だ〜か〜ら〜クラスメイトの前でなんてことを聞くんだ!! クラスメイト全員の耳が象のダンボばりにでかくなってるし! この状況ではノーコメンロとか言えないじゃないか!

「くっ……僕はモーガンフリーマンだ」

 あの黒人おじいちゃん俳優が大好きです。

「解りやすくお願い」

「彼女が居ないはずがないと思いたい!」

「つまり、居ない」

「ぐふっ」

 ライフゲージの半分を削られた。

「彼氏と彼女のどちらも居ない。それで合ってる?」

 ヤメテ! 僕のライフはもうゼロよ!

「か、彼氏までなんで聞くんだよ? 普通、健全な男子高校生に彼氏なんて居ないだろ?」

 僕を注視した転校生は、無表情だった頬を赤く染めながらペロリと唇を舐めた。

「ゆうは可愛い顔付きをしている。私が男なら後ろから掘りたい」

 転校生は僕の顔を見つつペロリとまた唇を舐めた。

 また……舌舐めずり?

「ひっ!?」

 転校生の行動に思い至り、鳥肌がたつ。

「つまり、ゆうは私の居なかった一年間と二ヶ月の間フリーだった」

 ヤメテ! 現実を突き付けないで! 転校生の妄想を除けばこの十七年間ずっとフリーよ!

「止めるな広瀬くん妹尾くん国府田さんジジイ!」

 僕を三階ここから飛ばせてくれ! 自由が欲しい、自由が欲しいんだ! この大空に!

 クラスメイトたちに拘束されて、椅子にビニールテープでくくり付けられた。

「またかよ!?」

 自殺の予防だと言われては仕方がない。

 はぁ……、それで転校生は結局なにが言いたいんだ。

「で?」

 段々ムカついてきたよ。僕を晒し者にするな。欠席者を除くクラスメイト全員がこの二‐Cに居るのだ。そろそろ屈辱に満ちた恥辱プレイを終わりにしたい。

「付き合って。また、私と」

「……はあ」

 この子ってばまたオカシナこと言い出した。

 姉弟きょうだいと片桐先生が紹介していたので、クラスメイト全員がこの発言に目を丸くしたのは仕方がない。

「私、ゆうが好きなの。五年前から。濡れてるの。五年前から」

「頼むから後半は思ってても言わないでくれ」

 無視された。

「今日ゆうにやっと会えると思ったら、朝から滝みたいに止まらなくなった。だから履けなかった。詳しく説明すると、今ノーパ――」

「頼むから黙っててくれ!」

「解った」

 頭が痛い。

 思い返せば転校生とは約十年間の付き合いだ。今まで電波発言に付き合ってきてよく発狂しなかったと思う。唐突に自分を褒めたくなった。それとは別に、中学時代までのことを思い出してはらわたが煮えくりかえった気分だ。

「いい加減にしてくれ。……そろそろ僕を、解放してよ」

 心からの懇願こんがんだった。

 しかし、転校生は首をかしげた。まったく意味が解らない、とばかりに。

「どうして?」

「なにが、どうしてだよ?」

「どうして? ゆうは私が好き。ゆうは私を愛してる。ゆうは私を犯したい。すなわち、ゆうは私の子供が欲しい。なぜそれを認めないの?」

「誰か助けて! 話が通じない!」

 目を合わせたクラスメイト(オーディエンス)のことごとくが、不自然に僕から目を逸らした。

「みんな私を祝福してる」

「なにそれ恐い」

 転校生がクラスメイトを見回して「ね?」と、同意を求める。転校生のなんとも言いがたい気迫がクラスメイト全員を頷かせた。飄々(ひょうひょう)としているピロシキはおろか、常識のかたまりたるジジイまで頷いていた。

「みんな私を祝福してる」

「なにそれ恐い」


 ◆◆◆


 好奇の目にさらされていた僕は、一限目の終了と同時に五号棟(敷地内の北西に位置し、僕が在籍する進学科と特別進学科が詰め込まれている)からいささか離れた八号棟(敷地内の南西に位置し、電気科や被服科、工業科等が詰め込まれている)まで宙吊り設計の渡り廊下を走って逃げてきた。

 そこの四階にある男子トイレへ駆け込んだ。大の個室に飛び込み、急いで扉を閉め、鍵をかけて便座に腰を下ろす。額から流れる汗に呼応こおうするかのように、荒い息があとを絶たず呼吸がまったく整わない。深呼吸を繰り返してどうにか自分を落ち着けた。

 トイレ走と言う種目が有るならば、間違いなく僕は世界を狙える逸材いつざいになるだろう、と自分勝手に妄想する。気分はスク●イドの最速兄貴だ。

「は、はは……世界最速の男に僕はなってやる……じゃなくて!」

 最悪だ。いや極悪だ。超悪なんて単語はあるだろうか。

「じゃなくて! まさか、転校生が……」

 脳内では雷やら吹雪やら嵐やら、壮絶そうぜつな風景が展開している。自分でなにを言ってるかサッパリだ。

「転校生が、姫風だったなんて……」

 これは考えられないケースではなかったけど、現実的に考慮して、いさんで行使こうしするケースではない。普通に妄想するパターンでもない。端的たんてきに言えば努力で勝ち取った進学先を易々と転校するヤツなんていない――さっきまでそう思ってました。広瀬ひろせくんとバカ笑いしながら他人事のように語り合ってました。転校生・鈴城姫風すずきひめかが、一般人枠から大きくズレていることを失念してました。例外だ、と頭の片隅から放り投げてましたよ、ええ。ちくしょう。楽観的に構えていた自分が憎い。

 自分が憎いが家族も憎い。

「姫風の転校について、誰かがメールぐらいくれてもバチは当たらないと思うんだけど」

 加齢臭、百合さん、椿さん、しぃちゃんの顔を順に思い浮かべる。

 ちょっと待てよ。

 家族のせいにする前に、もしかすると、去年の僕のツケがめぐり廻ってやってきたのかも知れない。

 漠然とそう思った。

 去年の僕は一身上の都合により、夏休みも冬休みも強引にピロシキ宅へ転がり込んで、わざと帰郷しなかった。

 一身上の都合――ストーカーに会いたくないって理由だけど。

 そう言えば、家族に変わりはないだろうか?

 ふと、殊勝な心掛けをした自分を叱咤する。

「便りがないのは悪魔げんきな証拠。誰一人連絡を寄越さないのが物語ってるよね」

 椿さんとは時々、しぃちゃんとはマメに、メールや電話のやり取りをしているだけに落胆が大きい。なにか伝えられない理由でもあったのだろうか。

 椿さんやしぃちゃんはともかく、家長たる加齢臭が僕になにも言ってこないのはオカシイ話だ。こうなったらモンクの一つでも言ってやる。

 鬱屈した気分と鬱憤をぶち撒ける為、ポケットから携帯電話を取り出して、加齢臭を呼び出す。4コール目で出た。

『はい、マイサン!』

 無駄にテンション高いなオイ。

「今、電話しても大丈夫?」

 加齢臭は料理研究家の肩書きを持ち、エッセイ集やレシピ本をいくつも出している。

 担当さんと打ち合わせを行なっていたらマズイよね。

『全然OKさ! 優くんとのお話の時間はいつでもどこでもOKさ! それはそうと、お互い声を聞くのは久しぶりだね! 元気でやってるかい? ぼくはもう毎日よろしくやってるさ!』

 なにをよろしくやってるかは、敢えて訊かない。

「超元気玉。んなことよりちょっと訊きたいことがあるんだけど」

『なにかな?』

「姫風寄越したの親父おやじ?」

 ここだけは愛想を振り撒けなくて、自然と声が低くなった。

『ん? 姫風ちゃんがどうかしたのかい?』

「姫風がたった今転校してきたんだ。心当たりは? あるよね?」

『心当たりもなにも、四週間ほど前に姫風ちゃんが突然こう言ったのさ! 「父、母、ゆうと離れていることに耐えられなくなった。だから、転校していい?」ってね! 我慢は身体にポイズンだからオールOKさ♪ と家族満場一致で転校を承認したんだよ』

「その家族の中に僕が含まれていないのだが?」

 はなはだ遺憾だ。

『OH! そうだった! 誰か欠けているなぁと、あの時思っていたんだよ! 欠けていたのは優くんだったんだね!』

 欠けているのはキサマの脳だ!

「くっ、僕はみんなに嫌われているのか……」

 ズキッときた。胸が痛い。大量のわさびを食した時のように鼻の奥がツンとした。ショックな出来事できごと目頭めがしらが熱い。

『HAHAそれはないさ! 紫苑しおんちゃんが優くんのことを聞きたがるから、もっぱら話題は優くん関連さ!』

 つまりはエア優くんがそこに居るわけだな。

「……嫌われてないことは飲み込めたけど、姫風がここに転校することは、なぜ僕に黙ってた?」

『そ・れ・は・その方が面白いと思って家族全員で秘密にしたのさ♪』

 カチンと来る前にハッとした。

「ちょっと待て! さっき僕の存在を忘れていたって言ったよね!? 矛盾してるじゃないか!」

 電話の向こうで加齢臭が息を飲む。

『ギクッ』

 あざとい反応だなオイ。

「僕に反対されることが解ってるから、僕に告げずに、最初から最後までことを極秘で通した。そうだろ?」

『OH! 名探偵もかくやと言った感じだね! かのスナフキンも言ってるじゃないか「いつもやさしく愛想よくなんてやってられないよ。理由はかんたん。時間がないんだ」ってね』

「スナフキンさんには敬意を表するよ。でも、今のは、わざとバラしたよね」

『ぼくは隠し事が苦手なんだ』

 再婚も堂々と隠してたよね。

「……はぁ」

『そうそう。今年こそはこっちに帰ってくるよね? 去年一年間は優くんに一度も会えなくて、ぼくも百合さんも寂しかったんだ』

「誰が帰るか!」

 反射的に言ったが思い直した。

「やっぱ今年の夏休みはそっちに帰るよ。ヤらなきゃならないことを失念してた」

『本当かい? それなら須磨辺りに予約を入れておこうかな。家族水入らずで旅行にでも行こうじゃないか!』

「どこでも良いよ」

 ――そこがキサマの墓場になる!

『そうそう。大事な提案を忘れていたよ』

「なんの提案?」

『現在ぼくと百合さんは、頑張ってベビーをはぐくもうとしているんだけどね?』

 僕的聞きたくないものランキングトップテンに、親の情事と言うものがある。

『その子の名前を考えてくれないかな? 来年の雛祭りには優くんの弟か妹が――』

 通話を切った。

「……この歳でさらに弟か妹ができるのか」

 実話ならば十七歳差の兄弟の誕生だ。愕然とした。同時に、親のパワフルさに頭を抱える。弟か妹のどちらができるかは知らないが、実感が湧かないのでこのことは記憶の片隅に追いやった。

 通話を終えた携帯電話のサブディスプレイを何気なにげなく眺めると、

「げっ、もう三分もないや」

 授業の合間の休憩時間は無惨にも、間もなく終焉を迎えようとしていた。

 今まで無断欠席と言うものをしたことはないけど、もういいや。二限目はサボろう。さすがに今の精神状態はヤバイ。ヤバイと言うかキツイ。大袈裟だけど錯乱気味で誰彼構わず八つ当たりしそうだし。

 むしゃくしゃして側面の壁に思わずヘッドバッド。対する壁のプレゼントは視界のチカチカと少量の鼻水。

 自傷行為って痛いね。

「っ……姫風がやって来たことをどうこう考えても、もうどうしようもない。大事なことは、これから僕がどうするか、だよね」

 わずかにクリアーとなった脳内で導き出した結果、

「次は僕が転校しようかな」

 難解な解決策が出た。

 無理だ。僕がバカすぎる。編入できそうな高校が発見できるか怪しいレベルだ。

 脳のできが可哀想な自分にこの算段は不可能だね、と一秒で諦めた。はからずも涙が出る。

「例え転校するにしても、新海さんとジジイをくっつけてから、だよね」

 未練が言い訳となったか、自身の心に整理をつける為の通過儀礼か、そこのところは自分でも判断がつかない。いや、逸らしていた――瞑っていた目を開ければ解ることだ。恐らく両方とも正解だ。

 転校先が確保できたとして、卵が先か鶏が先か、先行きの暗さに鬱々とした溜め息をつく。

 終わずに手に持っていた携帯電話がブルブルと震えた。

 加齢臭が掛け直してきたのだろうか。サブディスプレイをろくに見ず、通話ボタンを押す。

「男の子なら『ゆうき』。女の子なら『ゆうか』で」

『は? 男の子とか女の子ってなんの話だ? つか、お前今どこよ? もうそろそろ授業始まんぞ』

「……なんだピロシキか」

 携帯電話を使用中と言うことはビニールテープの拘束を誰かに解いて貰ったのだろう。

『さっきのアレなんだよ。お前の姉、滅茶苦茶面白そうじゃねぇか。あとピロシキ言うな!』

 クラスメイトの評価は『面白い姉』。それは節穴だ。

「きみの姉・一葉かずはさんも充分面白いよ」

 溜め息混じりに返すと、ピロシキが電話越しにたじろいた気配けはいがする。

『ね、姉ちゃんのことは言うな。頼むから』

 ピロシキの口調は、いつもの強気がなりをひそめた弱々しいものだった。懇願に近い。ピロシキは滅法姉に弱いのだ。同様に僕もピロシキ姉は苦手。妙に気に入られて怖い思いをしたからね。

 ピロシキがわざとらしく咳を一つして、通話口の向こうに漂っていた空気を払った。

『俺の話は捨て置くとしてだ。あとでお前の姉の話聞かせろよ。このままバックレることはねぇんだろ?』

「次は出ないけど、三限目か四限目には戻る。気力が回復すれば、だけどね」

 まどろっこしいな、とピロシキが悪態をつく。

『今、どこに居るんだよ? なんなら回収してやんぜ?』

「超遠慮する」

『そうか? 遠慮すんなって』

「捜索して無理矢理連れて行くなんてことしてみろ。僕の地雷が火を噴くぞ!」

『自爆する気かよ。踏まなきゃいいだけの話だな』

「一葉さんの話を大々的に喋ってやる」

『や、ヤメロ! マジでヤメロよ?』

 そんなに焦るなよ。

「互いに姉の話は地雷なんだ。完全な痛み分けになるから、これ以上突っ込まないように」

 ピロシキの舌打ちが聞こえた。

『……それじゃ、あとでな』

「うん」

 通話を終えて、ふぅと一息つく。

 棚ぼた式に伝導スピーカー(移動式吹聴器)の一つを潰せた。もう一つの伝導スピーカー(高性能伝達装置)はどう攻略しよう。

 う〜む、と首を捻っていたところに控え目なノックの音が響いた。続いて癒すような、心配するような声音が聴こえてくる。

「ゆう、トイレにこもって九分が経つけど大丈夫?」

「あ、うん、ちょっと考えごとをしてただけ」

 自然と対応した。鈴をならしたような心地良さをもつ独特な女の子の声音に。

「ん?」

 今、僕は誰と会話をしたんだ? もしかして、否――もしかしなくても。

「ひ、姫風さん?」

「なに? ゆう」

 ナチュラルに会話をしていた相手はストーカーだった。

「ぎゃあああぁぁぁっ!?」

 思わず立ち上がって叫んだ。

 なんでここに居るのさ!?

「どうしたの、ゆう?」

 僕は脇目も振らず全力でここまで駆けてきたはずなのに!!

 心配そうなストーカーの声音が聞こえる。

「誰かに襲われてる? ドア、壊そうか?」

「壊すな! ストーカーに心を襲われてんだよ!」

「ストーカー? 女?」

「姫風だ姫風!」

「そう。それなら良かった」

 良かないですぞぉー!

 ムック化してる場合じゃない。落ち着け、落ち着け僕。

 まずはストーカーから情報を引き出そう。

「……どうしてここに?」

「ゆうの居場所が私の居場所」

 まともに会話を成立させる気がないらしい。

 腹の底から溜め息が駆け上がってきた。

「……ここ男子トイレだから。外で待ってなさい」

「解った」

 足音が遠ざかって行った。

「……相変わらず引きぎわは心得てるんだな、姫風のヤツ」

 呟きが聞こえたのか、姫風が戻ってきた。

「呼んだ?」

「ひぃっ! よ、呼んでない! 外で待ってて!」

 今度こそ個室の前からスタスタと姫風が遠ざかる。

 なんつ〜地獄耳だ。

「エイリアンとか悪魔とか謎の組織に狙われている訳でもないのに、なぜ僕の平凡な日常が、脅かされないといけないんだ……」

 頭を抱えて便座に再び腰を下ろす。

 長く居座ったりしてすみませんね便座さん、とアンニュイな気持ちで尻に敷く便座に謝罪した。

 いかん、相当弱ってるな僕。

「それもこれもあれもどれも姫風のせいだ」

 このまま手をこまねいていると、寸分違すんぶんたがわず小中学生時代の二の舞だ。

「呼んだ?」

 トイレ口から姫風の声。

「呼んでない!」

 極力抑えた声音がなぜ聴こえるんだ。

 妖怪か悪魔か超能力のたぐいか、はたまた電子機器的ななにかか。姫風のスペックを考えれば僕のどこかに盗聴機を仕込んでいてもなんら不思議ではないけど。それくらい姫風のポテンシャルは突き抜けているのだ。運動能力、智力、容姿のどれをとっても。はたから、いや、傍で十年間も見ていたからよく解る。

 賢さの証明が必要? 簡単だよ。私立綾喃高校の敷地面積は広大で、校舎だけでも独立して八棟ある。それぞれが宙吊りとなっている渡り廊下で結ばれていて、一棟一棟の距離がかなり遠い。移動教室の授業は遅刻が十分も許されているほどだ。そこに転校してきた姫風が、初日にも関わらず、全力で行方ゆくえくらませた僕をものの数分で発見できたことは、ハイスペックと言うか、高度な智能を備えていると言うか――解るでしょ? 姫風が恐い相手だってことが。

 嘆息と涙が同時にこぼれた。

「そう言えばさっき変なこと言ってたよね……五年前から僕のことが好きだって。……十年以上もストーカーしてるクセに、なぜそこだけサバを読んだのだろう?」

 これだけ想われれば悪い気がしない、と思う人も居るだろう。けれど、想像してみて欲しい。好きな女の子ができて告白したとしても、相手が笑いながら「姫風と付き合ってるんでしょ? 浮気はダメだよダーリンくん」といさめられた時の僕の気持ちを。一世一代は大袈裟だけど、清水の舞台から飛び降りるくらいの気概で告白して、「ごめんなさい」と言われるよりも相手にされない状況を作られている僕を。

『状況とは自分で作るものだ』とのナポレオンさんもおっしゃっているが、そう易々と作られた状況をくつがえせるほどの能力なんて僕は持ってないし、どうすれば良いかも解らない。

「解らない」は逃げ文句と言うか、思考の放棄と取られるかも知れないけど、解らないものは、解らないのだから仕方ない。矜持きょうじなんてはなから持ち合わせちゃいないしね。

 ちなみに清水の舞台から飛び降りて亡くなった人の数は少ないそうです。

「ゆう」

 トイレ口からまた姫風の声が届いた。決して大きな声ではないけど、よく通る声だった。

「……なに」

 ふふ、と姫風の嬉しそうな声音。

「打てば響く。最良の状況を作り出したゆうに感謝」

 ナポレオンさ〜ん!

 我知らず状況を作り出しちゃったけど、これは望んでないよ!

 いつまでもここに居たらストレスで胃に穴が飽きそうだ。

 まさにこれでは生き地獄。

「姫風に知られないよう逃げるのは……無理か」

 個室の上部に手をかけて、懸垂けんすいの要領で外を覗いて見た。外部への窓はあるけど、ここは地上四階。完全な袋小路だった。

 ハイスペックストーカーを振り切ることはどうも不可能らしい。

 観念するように、自分に言い聞かせる。

「サボタージュと洒落込しゃれこみたいけど、初日から姫風をサボらせる訳には、いかないよね」

 まだまだ思考することが盛り沢山だけど、ここで一度打ち切る。バカな僕が一人で熟考するよりも、ジジイやピロシキの意見を取り入れる方が何倍か有意義だ。残りの課題は昼休みに紐解くとして、今は二限目のミス・チワワを拝みに行くとしよう。


 ◆◆◆


 授業の開始から既に十五分を経過した廊下は、とても静かで、授業中の教室を横切るたびに、僅かに空いた戸の隙間から各教師の個性的な声が聴こえてくる。

 そんな中――二‐Cを目指す僕と姫風の二人組。

 無人の渡り廊下を二人で連れ立って歩く姿は、他人の目からサボタージュに見えていることだろう。見回りの教師陣に呼び止められないよう歩むスピードを上げる。上げようとして小声で姫風に忠告した。

「離れろってば!」

「やだ」

 腕を取ってくる姫風から避けつつ教室を目指す。はたから見たら仲睦なかむつまじい鬼ごっこじゃないかこれ。

「捕まえた」

「でえい!」

 不意を突かれて掴まれた腕を気合い一閃引き抜く。

「させない」

 しかし、組まれていた腕は更にガッチリとホールドされてしまう。あは、僕の腕が青くなってきた。

「姫風、痛覚がなくなってきたから放して」

「逃げない?」

「逃げれない」

「解った」

 そっと解放された僕の手は、手首からひじまで紫色だった。僕の腕になにか怨みでもあるのか。

「姫風、ここは学校だ。公私混同しちゃいけない。解るよね?」

 自分の腕を一瞥いちべつした僕はきっと涙目だ。このストーカーには膂力りょりょく絶対敵ぜったいかなわない。情けないけれど言葉での説得をこころみる。

「僕は人前でイチャつくカップルが大嫌いだ。姫風は?」

「アニヒレイト」

「はい?」

「ゆうがそう望むなら、目の前でイチャつくカップルを見付けしだいアニヒレイト――殲滅せんめつする」

「しなくていい! 今の話は忘れて!」

 イチャつくカップルは嫌いだから、僕たちも人前でベタベタとイチャつくのはやめよう、と言いたかっただけなんだけど……抹殺対象を作るだけとは不覚。ちなみに、前置詞に僕たちはカップルじゃないを置き忘れたのはうっかりです。

「解った」

 物分かりよく姫風が首肯した。

 ……こう言うところだけ素直だね。

 コミュニケーション不足を顕著けんちょに痛感した。

 姫風が僕に歩調を合わせながら不意にたずねてくる。

「ゆうは前方後円墳と前方後方墳と双方中円墳と八角墳の中ならどれが好み?」

「は?」

 日本語かな? と首を傾げながら腕を揉み揉みする。

 あれれ? 温度を感じないよ?

「私としては天武・持統天皇の八角墳が好み。でも、ゆうの見たい古墳に合わせる。それが男を立てる女だと思うから」

「なんの話?」

「週末のデートの話」

 僕には終末のデートに聴こえるよ。そもそも姫風とはデートに行きません。

「他人の墓を眺めてどんな感慨を沸かせろと?」

「将来の参考にする」

 姫風の話でいくと僕のお墓は八角墳辺りかな。土地と人手が圧倒的に足りない気がするけど。

「僕は鈴木家代々の先祖墓に予約入れてるから心配御無用だよ」

 断じて鈴城家に入るつもりはない。

「ゆうのお祖父様じいさまの墓は古墳?」

「んなわけないだろ!? 僕のお祖父ちゃん世代で古墳持ちが居たら逆に怖いよ!!」

 千七百年前の王族や天皇の常識を現代に持ち込まないで欲しい。主婦の井戸端会議で「お隣さんは立派な前方後円墳ね」なんて会話は聞きたくない。

「ゆう、夢は大きい方が良い」

「規模が大きすぎだろ!? それに若い身空みそらで墓の心配なんかしたくない!」

 いつまで古墳話を引っ張る気だよ。

「古墳を見たいなら一人で見に行きなよ」

「ゆうと眺めることに意義がある」

 僕は暴れ出したい衝動を抑える。

 階下へ望む階段を降りて、三差路を右に曲がれば一分ほどで教室に到着だ。我慢我慢。

「我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我ま――はっ!?」

 思わず口をつくほど苛立っている自分に気付いてげんなりする。主導権は常にストーカーだ。これからずっとイライラさせられる生活が始まるかと思うと、憂鬱で仕方ない。ストーカーが新興感染病指定になって保険の適用とかされないかな。


 ◆◆◆


 各教室には教壇・教卓側とロッカー側に出入り口がある。授業に遅刻した生徒は厚顔不遜でない限り、ロッカー側――教師から見て下手から入室するのが通例だ。

 閉まっていたドアをゆっくりとスライドさせて、さも申し訳なさそうに、僕と後ろの姫風が連れ立ってロッカー側から入室する。そして順にオープンザマウス。

「遅れてすみません」

「遅れました」

 黒板下部を走っていたチョークの摩擦音と、ノートにシャーペンを走らせていた筆記音が止まる。

 セミロングのブロンドを後ろでたばねた英語教諭(リーディング担当)のミス・エリザベス(二十八歳独身女性)が板書からこちらを振り返った。

 コンパクトな動作のミス・エリザベス――ブロンドのチワワが、小柄な身体をブランドスーツに包んでいるものの、その姿は『背伸びをする小学生』みたいで実に微笑ましい。

「えっと、鈴城くんと……あなたは? んしょっと。転校生の鈴城さんだね? 二人でどこに行ってたの?」

 背伸びをしながら教卓の上にある出席簿を開いたチワワが、舌っ足らずな声音で姫風に問いた。

 今年で留日三年目となるアメリカ人のチワワだが、日本語はあどけないなりにしっかりと話せている(身の丈に合った喋り方がまた微笑ましい)。当初はカタコトの日本語だったらしいけど、ある日を境に、日本語教室に通って、ここまで日常会話を交わせるようになったらしい、とは部活の先輩の言葉だ。

 これも片桐先生と付き合う為の努力の結晶である、とまことしやかに噂されている。

 このチワワは男子生徒にかなり人気がある。一般的に言って高校の先生は同性に嫌われる傾向が強いけど、女性であるチワワは片桐先生に尽くそうとするその健気な姿から女子生徒にも人気が高い。休み時間などに女子生徒がチワワにお菓子で餌付けする姿をよく目撃するのだ。

「僕はトイレです」

「それだけだと、お前の存在がトイレに聞こえるぞ」

 揶揄やゆしたピロシキが口笛を吹く。それを皮切りにクスクスと教室内のクラスメイトが微笑み合う。

 僕の存在がトイレだと? 失礼な!

「僕は人間だ!」

「黙れ小僧!」

 ピロシキの合いの手に「もののけ姫かよ!」と広瀬くんが大笑い。

「お、お願いだから静かにして! 静かにしてくれないと斎藤先生をお呼びしないといけないの!」

 ゴリラを召喚されてはかなわん、と瞬く間にクラスメイトが鎮静化――と言うのは建前たてまえ。実際は愛玩動物を困らせるのは可哀想だよな、と愛らしいペットに接する心持ちで素直に引き下がった結果だった。

 過去に一度だけ、わざとチワワを困らせ続けたクラスがあり、その時には本当にゴリラが召喚されたらしい。当のゴリラは『対象の話を聞いて人の道をいたうえで殴って去っていく』荒業スキルを所持するので、もし本当に召喚されてしまったら僕を含むクラスメイトたちは肝が冷える思いをするだろう。

 しかし、生徒の話を聞いて生徒側が正しいと判断すれば、ゴリラは教師側を説く。なので、ゴリラは話の解る先生として頼りにされる場面が多々あったりする。

 ――あれ、なんでゴリラの話になってるの?

 ボンヤリした脳を振って、教壇に立つ微笑ましいチワワを眺め直した。チワワの背後――板書は今日も上部がスカスカだ。低身長のせいで黒板上部に手が届かないのだ。

 そのチワワが僕の隣の姫風をうながすように言葉をつむぐ。

「あなたはどこに居たの?」

「黙秘する」

 ここで黙秘を使うのは違う気がする。

 クラスメイトたちが唖然あぜんとしてるし。

 チワワが「ふえ?」と目を丸くする。

 僕と決然と言い切った姫風が、心にもない謝罪を再度しながら、ツカツカと自分の席へ着いた。僕は窓側から二列目、後ろから二番目の席。姫風は廊下側一列目の一番後ろに。

 転校生をどう扱ったものか、と小顔なチワワは大きな瞳をパチパチとまたたかせて唇をつぐんでいる。

 初日と言うことを配慮したのか、慎重に言葉を選んでいる様子だった。

「鈴城さんあのね? 遅刻した人はこれにその理由を書き込まないといけないの。黙秘は困るの。……リズのニホンゴ合ってるよ……ね?」

 不安そうな表情のチワワ(一人称はリズとリジィー)は電子辞書を取り出して、タッチペンで文字を書き込みなにかを確認している。そしてしきりに頷いてホッとした表情になった。

 どうやら自分の喋る言語が不安になったようだ。

「間違ってない……よね? うん、リズ間違ってない」

 チワワの説明通り出席簿には遅刻の理由を書き込む欄がある。

 だから、授業に遅刻した生徒はなんらかの理由を述べなければならない、のだけど……。

「もう一度訊くね? 鈴城くんの遅刻理由は?」

「腹が痛かったのでトイレに籠ってました」

 チワワが「stomachache(腹痛)」と書き込んでいる。

「鈴城さんの遅刻理由は?」

「ゆうとイチャイチャ」

 イチャイチャって……また嘘を。

 僕と姫風についてヒソヒソと囁き合っていたクラスメイトたちがシーンと完全に静まり返った。

 ――空気が重い。

 誤解を解くのも一限目で疲れた。今すぐ訂正したいけれど、後回しでも大丈夫かな。ここは安心できることに、小中学生時代のような「優哉と姫風はカップル」と言う噂が流布るふされていない。誤解を解くのは至極簡単に済みそうだ。あとでゆっくりと訂正行脚して回ろう。拡声器を持って。

 チワワが理解しかねるとばかりに首を傾げる。

「ユウト、イチャイチャ?」

 姫風が遠く離れた僕を指差した。

「あれとイチャイチャ」

 僕は「あれ」扱いですか。そうですか。

「い、イチャイチャ……? その、具体的には?」

 チワワが瞳をしばたたかせた。こちらから眺めた表情は困惑を現しているように見える。

 姫風による一限目の摩訶不思議まかふしぎな発言内容を聞いていないから無理もないか。

 姫風がいつもの無表情でチワワを見つめた。

「先生は他人の情事を事細かに、それへ書き込みたい? 訊きたいのであれば、一から十まで、起承転結を織り混ぜて、語ってあげる」

 泰然自若過ぎて自然と涙が出る。

 姫風の言動でそのまま固まってしまったチワワは、真っ赤になって口をパクパクするだけの人形にメタモルフォーゼ。

「ゆう、語る?」

「訊くな。語るな。黙りなさい」

「解った」

 ふぅ、頼むからこれ以上厄介事を増やさないでよ。

 うつむく僕。静かすぎる教室内。動かないチワワ。いろんなところから感じる視線。

 顔中がチリチリチクチクする。

 周囲を見回した。

 あれ? みんな目を点にして僕や姫風を眺めているけど、どうした……の? 一限目の内容で姫風の言動はスルー推奨だって理解してくれたはずだよね?

 沈黙を破ったのは頬をピクピクと痙攣させたピロシキだった。

「……ゆ、優哉。せめてトイレに居たことは隠しとけよ」

 姫風の言うことは『大同小異』なんだけど。

「え? 隠しとけもなにも、トイレにずっと居たし……」

 ――ハッとした。

 バカな僕でも空気が読めた。

 脳内で簡易チャートが立ち上がる。


 鈴城優哉と鈴城姫風は教室から別々に出ていった

 ↓

 トイレに籠っていた鈴城優哉

 ↓

 鈴城優哉とイチャイチャしていたと主張する鈴城姫風

 ↓

 なに食わぬ顔で一緒に教室へ戻ってきた姉弟


 まるで「なにかあったと疑ってくれ」と直で匂わせている状態ではないか。

 焦って言い訳をする僕。

「な、なななにもない! なにもしてないですよ僕たち!?」

「墓穴掘りまくりだぞバカ」とピロシキ。

 依然――チワワが魂を抜かれた人形のように、ただ酸欠の金魚よろしく口だけをパクパク動かしている。

「ほんとですよ!? ぼ、僕たち姉弟ですから!」

 トドメを刺されたようにクラスメイト中の顔が真っ赤に、あるいは蒼白となった。

「ゆう、恥ずかしい。それ以上二人の関係を喋らないで」

 姫風がいけしゃあしゃあと出鱈目でたらめを吐く。

「は!? なにが二人の――」

 機能停止していたチワワが口元を押さえて声を裏返した。

「い、いい良いの! す、鈴城くんも鈴城さんもそれ以上良いの! せ、せせ生徒からそんな話を聞かされたらリズ立ち直れなくなっちゃう! とつぎ遅れを自覚するのは嫌なの! えとえと、あ! す、鈴城さんの遅刻は初日なので多目に見るよ!」

「そう。ありがとう」

 姫風が慇懃無礼いんぎんぶれいに感謝を述べた。

 どもり続けるチワワが教卓の上に置いていた教科書やら参考書やらを何度か取りこぼしながらも、手早くまとめにかかる。

「きょ、きょきょ今日は、す、少し早いけど、こ、こここれで授業を終わるよ! い、委員長さん号令をお願い!」

 直後――チワワの懇願を受けたエロい巨乳美人さんが、よどみなく発声した。


 ◆◆◆


 チワワの足早な退出に思いのほか早く二限目が終了した。

 先生僕だけ遅刻扱いですか。そうですか。姫風の優遇に嫉妬。

 え〜と……次は移動教室の体育だね。体育教諭の藤田先生は、今週は体育館でバスケと卓球をするとおっしゃっていたな。さっさと着替えてレッツピンポン。体育館はここから六分ほどかかるけど、今は授業終了まであと二十分もある。余裕だね。そうだ。今のうちに誤解を解いてまわろう。

 席を立とうとして教室の異様な空気に気付いた。

 例えるなら、ピリピリとソワソワを足して二で割った感じ。

 授業が終了したにも関わらず、誰もお喋りを始めない。なぜだろう?

 なにやら隣の相手と顔を見合わせて、互いに顔色をうかがっているみたいだ。前の席に座るお喋り大好き広瀬くんも僕に話しかけてこないし。珍しいこともあるんだね。

「ジジイ、ピロシキ、ちょっといい――ひぃ!?」

 言うやクラスメイト全員(相庭さんと姫風を除く)が一斉に僕へ振り返った。みんなの顔に表情がない。ホラーか。

 怖くて視界が滲んだ。

「――呼んだか?」

「なんだよ? モテ期到来男。あとピロシキ言うな」

 ジジイは苦笑い混じりに、ピロシキは溜め息混じりに、僕の机へまでやって来た。

「教室が変な空気なんだけど、僕のせいじゃないよね」

 周囲を見渡せばいろんなクラスメイトと視線が合う。そして逸らされる。一挙一動を監視されている気がした。

 僕は動物園のパンダか。

「……みんなに見られてる?」

 僕の机に腰掛けたピロシキが声のトーンを下げる。

「起因はお前の姉で、結果はお前に原因がある」

「ワンモア」

「だりぃ。祐介交代」

 早速面倒臭がり屋本舗の本領発揮かい。

「もうか?」

 苦笑いなジジイも声のトーンを落とす。

「見られておるのは当然じゃろぉ。お主の姉、鈴城姫風と言ったか。しょっぱなの刺激的な挨拶もさることながら、先ほどの遅刻内容と態度が際立きわだつ。正直なところ、転校生をどう扱えばよいのか、こちらは皆、困惑しておるのじゃ。橋渡し役を買って出るはずの弟は、一限目が終わると同時に行方を眩ましたが、教室に戻ってきた時には、くだんの姉と同伴じゃ。なにもなかったにせよ、鈴城姉の刺激的な会話内容に、なにかを憶測してしまうのは人間のさがじゃ。そこへ先ほどの『イチャイチャ』発言。お主はなぜ否定しなかった?」

 ジジイが意味ありげに周囲へ目配せする。周囲を気にして僕も小声で返す。

「否定しなくても、通じるでしょ? アレの頭はオカシイって」

 アレを指差す。指差した先をクラスメイトたちが一斉に凝視した。一糸乱れぬ行動が規律の取れた軍隊を彷彿させる。

 本当に一挙一動を監視されているみたいだった。

 僕はレッサーパンダか。

 当のアレはずっとこちらを見ている。無表情で。瞳だけは獲物を狙う肉食獣さながらに、獰猛な面持ちでギラついていた。

 ジジイが僕の掌を自然に下ろさせる。

「わしは優哉を信じるが。他はどうじゃろうな? 例えば、隣の新海などは?」

 促されて眺めた新海さんは、机に突っ伏してえぐえぐと泣いていた。

「新海さぁぁぁん!? どうしたの!? 誰に泣かされたの!?」

 くそ! 見付けしだい犯人を八つ裂きにしてやる!

「お主じゃ」

「僕が憎い! 待て、なんで僕が犯人なんだ!?」

 ジジイは真相を難解にしたいのか!?

「鈍感で自分に劣等感のあるヤツってうぜえな。『まさか自分が好かれてるとは思わない』っつ〜のは、一種の自己防衛か?」

 今のは黒板の方を向いてカチカチとメールを打つピロシキくん。

「誰の話さ?」

 僕のこと……?

「割りと顔は良いが、自分に自信がないうぜぇヤツの話だ」

 それは僕じゃないな。顔が良くていつもオドオドしている人物……誰だろう?

「くだらねぇ」と毒づいてピロシキがすぐに黙る。


 傍らでは新海さんがジジイに泣き付いていた。

「……わたし、勝てそうにないよ、おおとりくん」

「諦めるな新海。まだ前半戦じゃ」

「野球ならコールド負けだよ」

「バスケットの第二ピリオドと考えるのじゃ。スリーポイントを撃ち込み続ければ勝機は見える。恐らく」

「……恐らくなんだ……うぇぇぇん」

 この二人……僕がくっつけずとも、自然に付き合いそうじゃない?

 語り合う内容はスポーツか。共通の話題があって良いなぁ。


「オレサマ超面白いこと考えついた!」

 ピロシキが突然叫び出した。

「んい?」

「なんじゃ?」

「またどうせバカなことだよ」

 声の順番は新海さん、ジジイ、僕だ。

 ――ああ、またクラスメイトの視線を集めてるよ。

 こちらへ振り返ったピロシキが、満面の笑みを浮かべている。不気味だ。女子には人気のある顔らしいけど、今はかなり不気味だ。

「優哉彼女欲しくないか? 欲しいよな?」

 女の子はモノじゃないよピロシキ。でも、彼女として隣に居て欲しい人は新海さんだ。現状では新海さん以外に彼女を望まないけれど、新海さんはジジイが好きだからなぁ……早々に気持ちを断ち切らないと、ね。

「そりゃ欲しいよ。欲しいけど、欲しいからって、簡単に作れるモノじゃないし……」

 言った途端にポケットが震えた。携帯電話が着信を告げている。

 ディスプレイに表示されている名前は――姫風だ。

 廊下側一番後ろを一瞥して、すぐにピロシキへ視線を戻す。

「どうした?」とピロシキ。

「いや、なんでもない」

 側頭部にヒシヒシと視線を感じる。もう一度、目だけで姫風を一瞥した。携帯電話を耳に添えた姫風と目が会う。瞳が《出ないと、脱ぐ》と訴えている。緊急事態だ。僕にまで被害がおよびそうなので「ちょっとゴメン」と断りを入れて通話ボタンをポチリ。恐る恐る携帯電話を耳に押し当てる。

「なに……?」

『私が居る』

「はい?」

『私がゆうの彼女』

 聞いていたのか……。

『いずれは夫人。子供は二人。小さな家と大きな犬小屋。庭ではセントバーナードが駆け回り、炬燵こたつではガラパゴスゾウガメが丸くなる』

 なんだその人生設計は。

「……姫風は僕の彼女でも夫人でもない。ただの痴女だ。もう切るから」

 携帯電話をポケットにしまいながら僕は深い溜め息をつく。

「……それで、彼女の居ない僕になんの話?」

 自然と話題に戻ったものの、あっさりとピロシキにこう看破された。

「それよりも、今の電話……お前の姉、だよな?」

 なぜバレた!?

「顔に出やすいなお前。種明かしするから、姉の方を見てみろ」

 できるだけさりげなさをよそおって、僕は廊下側をチラ見する。廊下側一番後ろの席に座る姫風が、携帯電話を耳に押し当てたまま、ジーーーッと僕を見ていた。

 頭に穴が空きそうだ……。

「お前、あの姉になにしたんだよ? あの視線を見てるだけで背筋がゾクゾクして風邪をひきそうなんだが。なにしたか知らねえけど、早く謝ってこいよ」

 小声で訴えかけられても困るよピロシキさん。

「なにもしてないよ。これ以上アレの話を引っ張るなら、一葉さんのことを叫ぶよ?」

 僕とピロシキはヒシヒシと感じる眼力に頬をヒクヒクさせる。

「それはヤメロ。あ〜……と、ともかく話を戻すか……」

 ヒソヒソとピロシキがディスカッションを再開する。

「今週末だが、合コンセッティングするからお前来いよ」

「またサクラ役? なら歌い続けるだけで良いよね?」

 刺身のつまで酒のさかなが僕だ。身の程はわきまえている。

「いや、メインだ。彼氏彼女持ち数名と彼氏彼女なし数名を呼ぶ。お前の為に」

 新海さんとの折り合いをつけたジジイが会話に加わり、瞳をすがめる。

「突然どうしたのじゃ? 寛貴。お主は傍観者にてっするのではなかったか?」

こまけえことは良いんだよ。事態を進展させるにはテコ入れも必要だろうと思ってな。外から同じ展開を見てたら飽きるってもんだ。だから、このすくみ状態をちょっとだけ動かしてみようかとオレサマは考えたワケよ」

 僕にはよく解らないピロシキの提案に、渋い顔でジジイが難色を示す。

「それは蛇足じゃぞ? 現に新たな因子の登場で新展開に突入したではないか」

 蛇足? 新展開?

「だからこそ、だ。静観するより介入して引っ掻き回した方が確実に面白くなるだろう? ま、本音はオレサマさえ面白けりゃ良いんだけなんだけどな。それとは別で、実際に彼氏が欲しいって言ってる女も数名居るんだ。場合によっちゃあ感謝される行為だろ、これ」

 ジジイが僕を一瞥する。

「……こやつの見てくれや性格は悪くない。場合によってはその目論見は成功するじゃろうが、なにも今、無理矢理馬に蹴られるネタを作らずとも――なんとも納得しかねる話じゃな」

「勝ち取りたいならそこはそれ。こいつを好きなヤツが自分からアプローチかけねえとな。ニューフェイスも登場したことだし。つか、去年一年間余裕ぶっこき過ぎなんだよ『そいつ』が」

 んん? 僕を好きなヤツ?

「待って、『そいつ』って誰? 僕を好きな人が居るってホント?」

 それ重大情報じゃないか!

 僕を一瞥したジジイとピロシキが嘆息をユニゾンさせた。

 二人とも器用だね。あと質問を無視するな。

「優哉よ。それは自分で気付くべきことじゃ。のぉ? 新海」

 ヤレヤレとジジイが首を横に振る。話を唐突に振られた新海さんが「んいっ」としゃくりあげた。

「お、おおとりくん、わたしに言われても困る……」

 僕は水を得たフィッシュばりに新海さんへ食い付く。

「ねえねえ、新海さんは『そいつ』が誰か知ってるの?」

 隣の席に座る新海さんがビクッと体を震わせた。なぜか胸の辺りを押さえて苦しうめいている。

「うぅ……し、知ってるけど、鈴城くんには教えてあげません!」

 脳内でガーンと効果音が鳴った。新海さんに冷たくあしらわれると想像していなかったのだ。

「ショック。話のネタに僕を好いてくれる奇特な方の顔を、次の休み時間にでも拝みに行こうかと思ったのに」

 僕を好いてくれる人が本当に居るかは定かではないけれど、、仮に居るならばその人には諦めていただこう。想いが叶わずとも、今の僕にとって新海さん以上に素敵な女性は居ませんから!

「話の……ネタに?」

 新海さんにキョトンとされてしまった。

「え、鈴城くんは、その……す、好かれている子から告白されても付き合わないの?」

 好いてくれる人が自分から見て知らない人だとどうだろう、とちょっと想像してみる。

「相手が知り合いならその時の自分の気持ちで判断するけど、知らない人なら即ゴメンナサイですな」

 よく知りもしない相手と付き合うことは、未知との遭遇レベルで怖い。例えば、ETと付き合うのは怖いよね? ところでETの性別ってどっち? ちなみに腐れ縁のアレは怖いなんてレベルじゃないよ?

「あ……真面目に答えちゃった。もしかして、今のところはギャグで返すところだった?」

 それだったら恥ずかしいなぁ。

 好きな相手への吐露とろは何事にも耐えがたい恥ずかしさがあった。

 僕は気恥ずかしさを誤魔化すようにおどけて見せる。

「それで『そいつ』のことなんだけど、どうしても教えて貰えないかな?」

 新海さんは僕の質問を無視する。

「……わたしは知り合いだよね早々ゴメンナサイはされないよね大丈夫だよね第二ピリオドだよね前半戦だよねスリーポイントだよねふふ……ふふふふふ……」

 と言うより、聞いてない。いや聞こえてない? 

 新海さんはブツブツと口内でなにかを呟きながら僕を見ているけれど、その双眸そうぼうは虚ろと言うか、心ここに在らずと言うか、無視と言うより声が鼓膜に届いていないように見えた。

 ポンと肩に手を置かれる。ジジイだ。

「そっとしておいてやれ。せつに思うところがあるのじゃろう」

 そうだよね。新海さんにも色々あるよね、と鰾膠にべもなくジジイに首肯した。

「で、合コンだっけ? そっちの話はまとまった?」

「まあな」とピロシキ。やけにニヤついている。

 ジジイがなにかをおもんぱかってか、ヤレヤレと嘆息した。

「スパルタじゃな」

「荒療治と言ってくれ」

「いざとなったら全てを投げ出す放任主義が荒療治じゃと?」

「へっ。それは褒め言葉としていただいておくぞ。合コンの話だが、もちろん祐介も頭数に入れてるから、必ず来いよ?」

「良かろう」

 ジジイは意外とフットワークが軽い。

「――わしも彼女が欲しい」

 ただの尻軽だった。


 かくして、週末の予定は、新海さんとの処刑デートが不透明ながらも、ピロシキの超面白いこと(合コン)と相成った。


 ◆◆◆


 三限目の体育では、体育館にてピロシキと悪乗りした広瀬くんにしこたまピン球を食らった(※女子は家庭科の別授業)。

 四限目の美術では、美術室にて石膏デッサンのロダン像で二人を殴って、廊下に三人で立たされた(※女子は音楽の別授業)。

 廊下に出されたところで大人しく立ち尽くす訳もなく、ニス両手持ちVSアクリルガッシュ&紙ヤスリの連合軍とガチバトルが再勃発。数分後に教師からしこたま殴られて、今日の放課後はここの廊下を掃除することになった。


 ところかわって教室から遠く離れた屋外プール。周囲には格技場や部室棟しかない。放課後でない今は喧騒とは別世界の、とても静かな場所だった。

 広瀬くんの所属する水球部の部長さんに鍵を借りて、そこの一室にあるシャワールームで、僕はニスとアクリルガッシュを洗い流した。

 シャワーのコックを止めて、ふい〜と熱い息を吐く。

「さっぱりした」

 温水によって火照った肌をぺちぺち叩いた。これは風呂から上がった時の僕の癖だ。

 シャワールームの磨りガラスドアをスライドさせて、脱衣場へやってくると、外人さんが歌うシンコベーションたっぷりのR&BがBGMでかかっていた。

 広瀬くんはこの曲が好きなのかな?

 扇風機を発見したので、全裸のまま仁王立におうだち。んでもって強設定でスイッチオン。

「おぉ〜気持ちぃぃぃぃ!」

 扇風機を堪能していると、シャワールームのゲートから出てきた広瀬くんとピロシキが、楽しげに笑い合っている姿を目撃。同時に出てきた姿が競馬場のパドックみたいで少し笑えた。

 先ほどまでピロシキと広瀬くんの髪はニスのお陰でイワトビペンギンばりにツンツンだったけど、今は水を含んでいる為にペタリとしおれている。

 三人とも全裸で仁王立ちしながら、二台しかない扇風機を取り合う。衣服は未だ乾燥機の中で稼働中だ。

「――ここに灰田が居なくて良かったな」

「確かにな。カマ掘られたくないし」

 ピロシキが広瀬くんに頷いた。

 灰田くんは美男子にも関わらず、女の子と関わりを持とうとしない一風変わったクラスメイトだ。なので妙な噂が起っている。

「鈴城は佐竹が居なくて良かったな」

「……あぁ、佐竹くんか。まあね」

 僕も広瀬くんに頷いた。

 ここに居ない佐竹くん――佐竹昴さたけのぼると言う人物は、僕を特殊な目で見てくるクラスメイトの一人だ。僕に対して含むところがあるらしく、たひたびその行動に困惑させられている。

 備え付けのタオルを棚から取ってきた広瀬くんが、嘆息していた僕とピロシキにそれぞれ渡してくれた。

 ついでに取り出したドライヤーで、髪を乾かし始めた広瀬くんが、僕の裸を一瞥して一言。

鈴城すずきってさ、男とは思えないほど綺麗な肌してるよな。女顔だし」

「え」

 加齢臭曰く母親似らしい。これは密かなコンプレックスだ。

「……気持ち悪いこと言わないでよ」

 僕は広瀬くんから微妙に距離を取る。

 今の状況でこれ以上問題を増やさないで欲しい。

「お前は佐竹二号かよ!」とピロシキが笑う。

「そういう意味と違うって! ほら俺の身体を見てみくれよ」

 どれどれと差し出してくる広瀬くんの胸や腹、腕や足を眺めた。

「お〜鍛えてるね〜」

「祐介並みに固いな」

 ジジイには及ばないけど、広瀬くんは体操選手のような、均整がとれた筋肉を維持している体だった。彼の持つ逆三角形のガッチリした体型に、僕は声にならない声をあげる。

 筋肉質ってちょっと憧れるよね。

 健康的に日焼けしている広瀬くんの肌には、ところどころ打ち身や擦り傷のような痕があった。これらは部活中の接触によるものらしい。「水球って生傷が絶えないんだぜ?」と広瀬くんはおどけて見せた。

 ほへ〜、と感嘆してつい腕をペタペタ触ってしまう。カチカチだ。

「ジジイみたいに固いなぁ。肌は地黒なの?」

おおとりも良い筋肉してるよな。肌は部活が屋外プールだから多少の日焼けもあるけど、俺はもとから黒いんだ。鈴城は白いな〜。坂本も白いよな」

 ひょろいとかナヨナヨしている、と言われた気がした。

「昔から僕はなぜか焼けない体質なんだよ。不思議だよね」

「オレサマは紫外線対策で日焼け止め塗りまくってるからな。お前らも使うか? 十年後にシミやそばかすで泣きたくねえだろ」

 言ってタオルで身体を拭き終えたピロシキが、乾燥機にかける際、学生ズボンから出していたスキンケアクリームを投げ渡してくる。

「いらね。そう言うのはなんか女々(めめ)しい」

 広瀬くんが僕に投げ渡す。

「僕もいらない」

 僕はピロシキに投げ渡す。

「そうか? 日々の努力は大事だぞ?」

 ピロシキ曰くモテる為の努力だそうだ。現にこのイケメン野郎はモテているからなんとも言えない気分になる。

 広瀬くんが話を戻す。

「それにしてもさ、鈴城は珍しい体質だな。俺は鈴城と違って肌がすぐ黒くなるし、腕や足が結構ボロボロだろ? 同じ男なのにこうまで肌の作りが違うのはどうしてかな? と思ってさ」

「遺伝子の違いとか?」

「一気に話が飛んだな!」

 広瀬くんが笑う。僕も笑う。ピロシキだけが馬鹿を見る目で口のはしをつりあげて嘆息していた。

 話を変えるように「ところで」とピロシキが前置きする。

「お前のその腕どうしたんだ?」

「僕の腕? あぁ……これか」

 今まで学生服で隠れていて見えなかった腕を指摘された。

 紫に変色した青痣うでを掌で押さえながら、ピロシキを全力で睨む。

 内心で親友だと思っているジジイとピロシキには、この腕の事情とともに、姫風のことも内含して昼休みにでも説明しようと思っていたところだ。

 元から、広瀬くんに言うつもりが毛頭なかったので――ここでそれを聞かれても困る。だから、禿げろと念じながらピロシキを睨む。

「これは……こ、コケて打っただけ」

 ピロシキが胡散臭いとでも言いたげに、半眼で僕を睨んだ。

「それ絶対嘘だろ。手首から肘関節まで真紫に変色してんじゃん。どうコケたんだよ? つか折れてる? もしくは挫滅症候群手前じゃねえのか、それ?」

 ざめつしょうこうぐんてまえ? 難解な日本語を羅列して、僕を混乱させて、相変わらず嫌がらせが大好きだなピロシキは。

 ピロシキにこの嘘は通じないらしく、渋々事実を打ち明ける。

「……アレにヤられた」

「アレ? アレってなんだよ? ……顔が苦々しいなお前」

 そりゃ苦虫を噛み潰した顔にもなるよ。

「ヤられた相手は姉だよ」と僕は告げる。血の繋がりは皆無だけどね。

「……DVか」とちょっと引いている広瀬くん。僕との距離は畳勘定にして一畳くらい。なぜ畳?

「お前姉から虐待されてんのか?」

 言ったピロシキは『恐姉家きょうしか』だ。今適当に作ったけど『恐姉家』って凄い造語だね。

 あとピロシキくん。「も」が抜けてる。『お前「も」姉から虐待されてんのか?』と言い直せ。

「どうなんだ?」とちょっと引いている広瀬くん。僕との距離は畳勘定にして一畳半くらい。あれ? 更に遠くなってる?

「虐待? ……どうだろう?」と首を傾げる僕。

 あれは虐待……なのかな?

「されているような、されていないような……」

「どっちだよ」とピロシキが突っ込んでくる。

 広瀬くんが「鬱になりそうだ。やめよう」と話を強引に打ち切った。そして「それとは別に訊きたいことがあるんだが……」と興味本意を顔に貼り付けたような表情で、僕に口を開いた。

「過激なお前さんの姉について訊いて良いか?」

 いよいよ来たか。

「答えられる範囲で良いならね」

 避けては通れない――クラスメイトからの質問が。

「鈴城とあの姉は、双子なのか? 顔は二人とも良いんだが――こう言っちゃあ悪いけど全然似てない。凄く不思議に思ったもんで、これだけ訊かせてくれ」

 いきなり核心か。弱ったなぁ……。

 ここで非血縁関係をバラせば良いのか、黙っておく方があとあと楽なのか、どうにも判断がつかない。

 乾燥機から取り出したトランクスをピロシキが履きながら、物識顔で語り始める。

「広瀬知らねえの? 男女の双子は二卵性双生児と言って、別々の卵子から生まれるから、似てなくて当然なんだよ。区分は双子だが、実際は歳の離れた兄弟と同じで顔が似てないのが普通って、ドキュメンタリー番組で言ってたぞ」

 へ〜そうなんだ。あ、これはもしかして渡りに船? それとニランセイってなんだろう……?

 少しも考えずとも、姫風のことは大々的に公言する必要がない……よね? つまりは、ここはピロシキの意味不明な知恵に乗っかるべきだよね。うん、乗っかろう。

「そう、それ。ニランセイの双子なんだ。よく似てないって、言われる」

 嘘をつくことに慣れていないから、心臓が五月蝿うるさいくらいにバクバク騒いでいる。

「へ〜」と広瀬くん。

「あ、これもドキュメンタリー番組の受け売りだが、双生児――双子ってさ、遺伝子的に産まれやすい家系があるらしい」

「と言うと?」

「双子から産まれたその子供はまた双子を産み、その子供もまた双子を産む確率が低くないらしいぞ」

「へ〜」

 どうにか誤魔化せたみたいだ。


 その後も教室にいたるまで、僕を他所よそにピロシキと広瀬くんが双子談義に花を咲かせていた。

 案の定、大幅に四限目を遅刻した僕たちは、英語担当ライティングのミス・タンタニア――通称・二足歩行のコロネにクドクドと説教を受けるのだった。


 ◆◆◆


 四限目が終わると、一限目と同じく教室内の視線から逃れるように、ピロシキとジジイを促して屋上へ移動開始。その際じゃん拳に負けたジジイは別動隊で食堂へ買い出し。昼食を購入してくるのを待つ。その間、これから話そうと思っている内容を僕はネリネリ練ることにした。

 いつものポジション――鉄製の頑丈な給水タンクを背に、日陰を確保して、2‐Cを見下ろす形でコンクリートの上に座る。座りながら考える。考える。ん〜と首をひねる。思考がまとまらない。日陰で鉄製のタンクだから背中が冷たい。夏間近――汗ばむ陽気のせいか、冷たさに気分がつい優先されてしまう。

 不意に隣の人と、ぴとっと、肌と肌が触れ合った。

 否――不意にじゃなかった。故意だった。腕を取られて距離を詰められたのが証拠です。

「姫風」

「やだ」

 僕の隣には、さも当然のように姫風が居た。

 強引に組まれている腕を振りほどいて距離を取る。

「寄るなよ。暑いから」

 追撃がきた。

 姫風に右手首を掴まれる瞬間――その手を叩き落とした。

 しかし、そちらはフェイントで、簡単に左手を掴まれてしまう。

「腕を冷やせば良いの?」

「手を放してくれれば良い」

「やだ」

「やだじゃない。迷惑だって気付いてよ」

 掴まれている手を力一杯引き抜くけど、万力ばりの力を発揮した姫風の前では、無駄な抵抗だった。ちっとも動かない。びくともしない。

 顔色一つ変えず姫風が答える。

「私は迷惑じゃない」

 なにこの基準私思考。もうちょっと周囲と思考を合わせようよ。できれば僕と合わせようよ!

「僕が迷惑してるんだ!」

「ゆう、大人しくして?」

「話を聞け!」

「大人しくする?」

「放してくれたら大人しくするさ!」

 景色が瞬間移動した。

 あとでピロシキに聞いた話だけど、足払い→お姫様抱っこ→膝枕→耳掻きと言う流れるような動作で、一連の過程を姫風が実行したらしい。僕は瞬く間に姫風の太股へコテンと寝かされたとか。この時はまさになにがなんだかと言った状態だった。

「――今僕になにが起こったんだ!?」

 突然の早業はやわざ過ぎて脳が追い付かない。気付いたら姫風の逆デルタ地帯を隠すプリッツスカートがドアップだった。

 顔を引きつらせたピロシキが、感嘆とも取れる声を上げる。

「今の凄いテクニックだな!」

「驚いてないで助けてよ!」

「ゆう危ないから動かないで」

 片腕だけで姫風の柔らかな太股に押さえ付けられる無力な僕。この女、ターミネーターか。

 近くに居るであろうピロシキに助けを乞うけど、触らぬゴッドに祟りなしと言った感じでこのイケメンはそこから動く気配がない。

「いや、オレサマは姉弟きょうだいのスキンシップを止めるほど野暮やぼなヤツじゃねえし」

「野暮で良いから止めてよ!?」

 頬には程好ほどよい柔らかさの太股。桃のような香りがする姫風の身体。押し退けようにもどこを触ったら良いのか、ピンク色の煩悩も合わさって身動きが取れない状態になっている。気持ち良い耳掻きにより頭が固定されているので、目だけ動かして姫風をちょっと見上げてみた。

 ……か、顔が見えない。

 僕と姫風の顔の直線上には、圧倒的な存在感を主張する柔らかそうなメロンさんがいらっしゃる。それと軽くコンニチハして目をつむった。

 つ、掴んでも余りそうなメロンさんだ。相庭さんよりデカイよこれ。

 抱き寄せられる形なので、もう目をつむって嵐が去るのを待つしかない。

「名前は?」

 姫風がピロシキに興味を持ったのか、そう率直にイケメンへ問い掛けた。

 唐突に話を振られたピロシキは、咄嗟とっさに言葉がつむげなかったらしく、かなりキョドっている雰囲気が耳掻き中の僕にまで伝わってきた。

「あ、お、オレッスか? オレは坂本寛貴さかもとひろきって言います」

「なんで下手したてなのピロシキ!?」

「ゆう危ないから動かないで」

「く、首を絞めるな……」

 ピロシキは威圧感かなにかに圧倒されたのか。いつもの「あとピロシキ言うな!」と言う口上フレーズを言わないし。

「坂本は良い人。覚えた」

 僕と姫風ちじょの関係を推奨する人間は痴女に取って好感触の人間らしい。

 その痴女は頷いているらしく、微かな振動が太股にまで伝わってくる。む、胸も微妙に揺れてる。ぷ、ぷにぷに〜。

「ど、どうもッス」

 見えないけれどピロシキが姫風に対してペコペコしている気がする。プライドはないのかプライドは。膝枕されながらこう思う僕もなんだけど。

 そこへ――

「公衆の面前で耳掻きとは――羨ましいのぉ」

 昼食の買い出しから戻ったのか、ジジイの声と足音が近付いて来た。

「姫風、昼飯を食べたいから放して」

「食べさせてあげる。そこの黒マッチョ――ゆうのご飯は?」

「…………黒マッチョ」

 しょんぼりしたジジイの声と、耳掻きが耳から無くなる感触と、カサカサとビニール袋の擦れる音が同時に聞こえた。

「――あった。ゆうはアンパンが好物。口を開けて?」

 僕の昼食を当てるな!

「なにをする気だよ?」

 横向きに寝かされていた頭を、両手に掴まれて強制的に青空へと向けさせられた。固定された。無表情の姫風と強制的に視線をまじわらされる。そして、予めビニールの包装紙を破っておいたのだろう、器用にアンパンを少しだけ噛み千切って口に「あむっ」と食わえた姫風が、それを僕に突き出してくる。

「んんん(食べて)」

「……なにこの嫌がらせ」

 目だけで周囲の友人をチラ見する。視線で助けを求めるけど、ジジイとピロシキは頬を引きつらせてその場から立ち去ろうとしていた。

「な!? 二人とも僕を見捨てる気!?」

「水をさすのは無粋ぶすいじゃろぉ」

「オレサマたち向こう行ってるわ」

 ジジイとピロシキが給水塔の日向の方へ、スタスタと歩いて消えてしまった。

「二人ともあとで酷いからな!!」

 こうしている間にも、徐々に近付いてくるアンパン――と姫風の唇。どさくさに紛れてキスしちゃいそうで恐い。

 しかし、痴女にしては詰めが甘かった。

迂闊うかつだな!」

 フリーだった両手で痴女の口にアンパンを押し込み、ひるんだその隙にゴロゴロ転がって距離を取った。

「ん、ごくん。酷い」

 アンパンを嚥下えんかした姫風が怨みがましそうに僕を睨む。

「酷くない! この僕をなめて貰っては困る!」

 言って逃げるように、いや実際は逃げながら日向ひなたへ小走り。日陰から数メートルしか離れていない日向にて、給水タンクを背にしたジジイとピロシキが無言で昼食をパクついていた。

「お、姉と弟のスキンシップは終わったのか?」とピロシキ。

「歯を食いしばれ!」

 小走りのままピロシキに飛び膝蹴りをお見舞いする。

「うおっ!? 待ていきなり蹴るな!」

「落ち着くのじゃ優哉」

 紙一重で避けたピロシキへ二撃目の鉄拳を見舞おうとしたら、ジジイによって羽交い締めにされてしまった。

 こら楽々と持ち上げるな!

「放してジジイっ。こいつを埋めて僕は逃げる!」

 ジジイは別にしても、先ほどまで一部始終を見ていたピロシキがなぜ僕の助けに入らないんだ!

「優哉よ、落ち着くのじゃ。お主になにがあってこう暴れておるのじゃぐわっ!?」

 鈍い音が聴こえたあと、僕を羽交い締めにしていた手がゆるんだ。後ろを振り向くと筋肉巨漢男(百九十五センチ)が白目を向いてドサリと倒れるシーンに遭遇した。

「ジジイッ!?」

「祐介ぇっ!?」

 ジジイの背後では、白いパンツを覗かせながら、スラリと伸びた長い足を見せつけるように、ハイキックの体勢でスカートをなびかせている犯人が立っていた。

「ゆうに触れて良いのは私だけ」

 忽然こつぜんと現れた姫風が蹴り倒したのは、高校生二人(百七十センチと百七十五センチ)を楽々と持ち上げる怪力さと頑丈を売りにしている人物だ。少しだけでいいからパワーバランスを考えて欲しい。ジジイが蟹ばりに泡を吹いてるじゃないか。

「だからって蹴り倒すなよ!?」

「ゆうの為なら喜んで阿修羅になる」

「なるな!」

 断言できる。阿修羅になるべき時は今じゃない。

「ゆう、捕まえた」

 何事もなかったかのように、痴女がすっと腕を絡めてくるが、力の限り飛び退いて難を逃れた。

「僕の忠告は無視か!?」

「ゆう恥ずかしがらないで」

「恥ずかしいがってないよ!」

 姫風の目は飾りか!

「優哉……つかぬことを訊いて良いか?」

 ジジイみたいな日本語だなピロシキくんよ。

「坂本は良い人のはず。今は邪魔しないで」

「あ、はい」

 姫風に出鼻をくじかれてすごすごとピロシキが引き下がる。

「なにその聞き分けの良さ!?」

 坂本寛貴――ピロシキの構成物質は『ワガママ』でできていると今日まで信じて疑わなったのに。軽くカルチャーショックだ。

「日本のことわざにもある。『将を射んと欲すれば、まずパイルドライバー』と。ゆうの受け売りだけど」

「僕の座右ざゆうめいを勝手に使うな!」

「いや昔の日本人はパイルドライバーなんて単語しらないからな? そこの姉弟きょうだい

「私の座右の銘は一挙両得いっきょりょうとく一騎当千いっきとうぜん

「効率重視か……」

「恐ろしい姉弟だなオイ!」

 そもそもなんの話をしてたっけ? あ、なぜジジイを蹴り倒す必要があったのか、だっけ。

「将はゆう。馬は黒マッチョ」

「だ、だから最初にジジイを沈めたの!? 次は、ピロシキにパイルドライバーをするとか……?」

 最終的に姫風は僕を殺したいの?

 ピロシキが身に迫る死を実感できず、鼻で笑いながら口走る。

「おいおい優哉、そんな訳――」

「ゆうとの幸の為に坂本も犠牲になって貰う」

「――あるみたいだな……。あとピロシキ言うな!」

 つまり……二人だけのイチャイチャ空間(姫風主観)を造る為に、異分子は徹底排除すると言うことか。ジジイを潰すことは最初から計算に入っていて、次のターゲットはピロシキな訳ね。合掌。

 姫風がピロシキに照準を合わせてテクテク近付く。

「オレサマに向けて手を合わせるな優哉! この姉をなんとかしろよ!?」

「闘えれば道はひらかれん!」

 後退あとずさりながらピロシキが叫んだ。

「なにその格言!? お前はRPGの石板か古文書かよ!? のわっ!?」

 ピロシキの頭を姫風の拳が一閃。辛くも避けたピロシキがバックステップで大きく距離を取る――が、刹那せつなでその差を詰めた姫風が彼の鳩尾みぞおちに前蹴り。これに対応できなかったピロシキが給水タンクまでゴロゴロ転がり、したたかに頭を打ち付けていた。

「待て姫風! なに大の男を二人も倒しちゃってんの!?」

「待たない。これもゆうと私の未来の為」

 言うやドンッと鈍い音がした。先ほどまでピロシキの頭があった位置――彼がギリギリでかわした給水タンク表面に、姫風のほそく小さな拳が命中していた。

 その部分は隕石が命中した地表のように深くへこんでいて、クリーム色の塗装が剥げて錆びた鉄色のクレーターができていた。べっこりと。

 それを一瞥したイケメンが、血の気の引いた顔で懇願するように叫ぶ。

「お、おねえさん! オレ、こいつの情報を色々握ってるんで、それと引き換えに攻撃するのをヤメテくれませんか?」

「僕を売る気!?」

 あと今の「姉」の発音の仕方がオカシクなかった?

 無表情な姫風だけど、眉毛だけはピクリと反応した。

「ゆうの情報? 聞く。殺す前に聞く」

「……殺す前提ッスか」

 鈴城姫風は幸せの為ならば手段を選ばない人種らしい。アレの頭の中はゼロサムしかないのか。

 さすがにこれは止めないとマズイ。僕の数少ない友人を減らされても困るし。

 痛そうに腹を押さえているピロシキへテクテク近付いて、姫風(殺気なしの無表情)が拳を振り上げた。

 早急に姫風を止めるべく、僕は奥の手を使う。

「そんなことをする姫風は『嫌いだ』」

 言うや姫風がピタリとそのまま静止した。暴化していた姫風がそろそろと拳を下ろして、目の前のピロシキの腕を取り、さっさと立たせた。そしてホコリを払ってあげてからピロシキの元をテクテク離れる。

「嫌い? ゆうなんのこと? 私はなにもしてない」

 これが今しがたピロシキの頭を潰そうとしたヤツのセリフだ。

 ええい、どさくさに紛れてすり寄って来るな。

 殺されかかった当のピロシキは、鳩に豆鉄砲を食らったような顔で呆気に取られている。

 ここはきっちりと忠告すべきだよね。少ない友人を減らされてはかなわない、堪ったものではない、と。

 だから姫風にはきっちり謝らせないとね。

「姫風、ごめんなさいは?」

「なんのこと? 私はなにもしてない」

 こいつめシラを切るつもりだな。ならば、奥の手だ。

 僕はまた取って置きを放つ。

「謝れない子は――」

「坂本ごめんなさい」

 僕が「嫌いです」と言う前に、空気を読んだらしい姫風が、ゼロコンマ一秒でピロシキへ謝罪を口にした。

「え、な、は?」

 ピロシキは事態が飲み込めず動転しているようだ。

 殺人未遂犯が速攻で謝罪を口にする光景なんて珍しいもんね。

「坂本ごめんなさい」

「あ、は、はい」

 ギクシャクとピロシキがぎこちなく頷いた――にも関わらず、再び姫風が謝罪を口にする。

「坂本ごめんなさい」

 ピロシキの今の心情には同情する。状況についていけないが、なんとか頷くことで、事態を納めようとしているのだ。涙ぐましいね。

「あ、その、もう謝らなくて良いッス」

 多分僕が「許す」と告げるまで姫風は謝り続けるだろう。

 その最中さなか、ジジイが「う〜ん」と呻き声をあげながら、首を押さえて起き上がった。

 ――回復早いなオイ。

「一体なにが起こったのじゃ?」

 ジジイが理解に苦しむ光景なのはよく解る。

 目を覚ましたばかりのジジイの瞳に飛び込んできた風景は、「坂本ごめんなさい」を繰り返す姫風と、困惑全開で冷や汗を垂らすピロシキと、不自然に塗装が剥げて深くへこんだ給水タンクだったのだから。

 それよりもなによりも、蹴り倒されたジジイ(の首)は大丈夫だろうか?


 停戦条約を結んだ姫風とピロシキ。冷戦化した状況下で僕から一部始終を聞き終えたジジイ。昼食が途中の僕と姫風は、周囲から見て仲良くアンパンを分けあっていた。

「僕のパンを返して」

「待って、今口に食わえるから」

「……もうやだこの罰ゲーム」

 ボソボソとピロシキの囁く声が聴こえてくる。

「やり取りがツーカーつうか。阿吽あうんの呼吸つうか」

「この一場面だけ切り取ると、仲睦なかむつまじくじゃれておるだけに見えるが……」

 僕はわざとジジイとピロシキに僕と姫風の状態を観察させている。これからする話の説明――伏線と言うやつの為に。

「姉と弟と言うより、彼氏彼女じゃな」とジジイ。

 ギョッとした。

 僕と姫風ははたから見て交際中の男女風にとらえれるのか。

「……もしかして、マジで付き合ってんのか?」とピロシキ。

 今の質問の中には隠語があった。「もしかして」のあとに「姉弟なのに」をピロシキは入れたかったのだろうけど、倫理が邪魔をしてそれを押さえたみたいだ。僕には「もしかして」のあとに「このストーカーと」と言う恐怖の隠語(連想単語)がどこからか聴こえていた。幻聴だ。これは幻聴だ。

「いや、いやいやいやいやないないないない」

 僕は飛びそうな勢いでぶるんぶるんと首を横に振った。

「ゆう否定し過ぎ」

 姫風を無視してピロシキとジジイに告げる。

「ほんとに付き合ってないよ?」

「姐さんの指摘通りだぞ」

 ピロシキくん。僕にはキミが去勢された犬に見えるよ。

 ジジイはジジイでニヤニヤと恵比寿顔えびすがお

 初孫を眺めるような瞳をこちらに向けるな。

 このままでは小中学生時の二の舞だ。頭を抱える暇があれば脳を動かせ! だよね。うぅ、脳が痛い。

「はぁ……早く地盤を固めなきゃ」

 ここでシャングリラ(楽園)を造成する為にも、第一に姫風の話だ。それから傾向と対策だ。まず姫風の話をするにしても、隣のアンパン口移しマシーンをどうにかして遠方へ島流しする必要がある。後鳥羽上皇ばりに。だって余計な茶々を入れられたくないんだもん。

 少ないCPUで脳内会議改め・遣り繰りをしている最中に、ピロシキが横槍を入れてきた。

「姐さん、質問しても良いッスか?」

「良くない!」

 どうにか姫風からもぎ取ったアンパンを咀嚼そしゃくした僕はすかさず反論。

「優哉に訊いてねえよ」

 ピロシキが吐き捨てると同時に「る〜るるる〜」と親狐の子狐を呼ぶ声が聴こえた。いかん帰巣きそうせねば。

「ゆうどこへ行くの?」

はたさんのところへ」

 僕はジジイの隣で大人しく体育座り。身体が勝手に動くのだ。これはもはや習性だ。いや本能か。

「姐さん、質問して良いッスか?」

 姫風が僕を一瞥して答えた。

「ゆうに関しないことであれば」

「へ?」

 予想外の答えにピロシキが目を点にする。

「ゆうに関することを答えると、ゆうの魅力に気付いてしまう恐れがある。だからゆうに関しては答えない」

「そ、そうッスか……」

 口角こうかくを痙攣させると言う奇妙な芸を見せたピロシキが、気を取り直したように会話を続ける。

「なら、姐さん自身についての質問は可能ってことでOKッスか?」

「うん」

 素直に頷いた無表情な姫風に、ピロシキが恐る恐ると言った感じでたずねる。

「姐さんは、空手とか格闘技をやってんスか?」

「去年一年間タイへ行ってた」

 え、聞いてないよそれ!?

「じゃあ、さっきのハイキックや給水タンクをへこませた正拳はそこで習ったんスか?」

 改めて一瞥した給水タンクのへこみは、スイカが楽に入りそうなほどの深さと大きさをゆうしていた。

「カポエラとムエタイを習った」

 特に足技を鍛えたのか。

「ゆうを除く家族全員で過ごしたタイは、過酷を極めた」

 加齢臭は仕事を放り出して出掛けたのか!? 待って! 椿さんやしぃちゃんとは国内で普通にメールや通話をしていると思っていたけれど、実際は遠く離れた異国に居たんだね……。電子化恐るべし。

「椿さんやしぃちゃんや百合さんもカポエラを習ったの!?」

 なにを思って格闘技を習いにタイへ? 身近な空手や剣道じゃダメだったの?

紫苑しおんはスジが良くて、アマチュア大会のリングで六戦無敗だった」

「なにその輝かしい成績」

 開いた口が塞がらないピロシキとジジイ。二人の性格から考えると、異国と言う非現実的な単語に戸惑っているのだろう。笑うべきかノルべきか、と。

 リカバリーの早いピロシキが口を挟んだ。

「凄い家族ッスね」

「全部嘘」

 ケロッと姫風がそう告げる。

 なんだろうこの気持ち…………ほっとしたような、悔しいような。

「ちなみに私の血液型はAB型のRhマイナス。誰か知り合いで献血できる人、居る?」

「あ、珍しいッスね。知り合いには居ないッス。確か日本人は二千人に一人の割合らしいっスねその血液型。ちなみにオレはO型のRhプラスッス」

「わしの知り合いにも居ないのぉ。鈴城姉は迂闊な怪我ができぬ体なのじゃな。ちなみにわしはA型じゃ。Rhはプラスじゃったと思う」

 二人とも順応能力高すぎ。あっさりと日常会話に戻らないでよ!

「どうでも良いよ血液型なんて!」

 姫風の話を素直に信じた僕がバカみたいじゃないか!

「お前はB型だっけ?」

「だったらなにさ?」

 小心者で面倒事が嫌いでノリ重視で短気で変にプライドが高くて騙されやすくて落ち込みやすいB型だけどなにか!? 部屋はいつもピカピカですがなにか!? 掃除大好きB型ですがなにか!?

「オレサマ、血液型を訊いてキレるヤツを初めて見たぞ」

「僕も血液型を訊かれてキレたのは初めてだよ!」

 僕のいきどおりを他所よそに、仕切り直しとばかりに、ピロシキとジジイが二人で打ち合わせを開始した。

「次はなにを訊く? 祐介」

「また『嘘』と言われかねない気がするが……家族関係を訊くのも面白そうではないか?」

 午前中で僕のHPは真っ赤だ。そろそろゾンビ化するぞ。

「それ以上訊くな二人とも」

 僕を無視してイケメンが質問を続ける。

「そうだなぁ……無難に行こうか。姐さん、こいつ、家族のことをほとんど喋らないんで、そこら辺を語ってくれるのはOKッスか?」

 姫風がコクンと首肯する。

 家族について? 変人の加齢臭、姫風、椿さん以外に、特に語るような人は居ないと思うけど……ベラベラ喋ることではないと思うから、強制終了させて貰うよ。ピロシキ狙いで。

 僕は「一葉かずはさん」と小さく、しかし滑舌よく呟いた。するとピロシキが、ギクッと固まった。

「ゆ、優哉……言うな」

 ピロシキの発声は、悲観的かつ懇願的で、あたかも許しを乞うような、悲愴的なものだった。

「これ以上詮索するなら、僕は校内放送で今すぐ叫ぶよ。一葉さんについて」

「解った。理解した。詮索しねえ。だから、お前もヤメロ。それだけはヤメロ」

 ピロシキが自分の恐姉を想像したのか、ガックリと肩を落として黙りこんだ。

 状況に頓着とんちゃくしない姫風がピロシキに訊ねる。

「質問は?」

「諸事情により以上ッス」

 ジジイを無視した戦闘不能表示のピロシキが、項垂れながら力なく頷いた。

「では、私から質問する」

 なにを訊く気?

「どうぞどうぞ」

 頭が低いピロシキくん。

「あなたたちはゆうのなに?」

 一瞬「え?」と言った感じの妙な間があった。

「一応友達ッス」

「右に同じじゃ」

 それ以外に僕らの関係は説明できない。

「彼氏じゃないの?」

 僕はブバッと吹いた。今しがた購入してきたペットボトルの中身――緑茶を。

「んな訳ないだろ!?」

 姫風の瞳は冗談を言う人間のそれではなかった。なので、空気を読んだピロシキとジジイは無難に口を揃えた。

「ただの友達ッス」

「右に同じじゃ」

「つまり、私の敵ではない。それで、合ってる?」

 姫風はここまで一切抑揚がない声音だったけど、ここで初めて確かめるような声質に変化していた。いや、させていた。

「敵対するつもりは毛先ほどもないッス」

「右に同じじゃ」

 張り子の虎ばりにお辞儀する二人は、姫風の舎弟みたいだった。


 昼休みもあと数分で終わる。

 昼食を終えたピロシキが、いつものように『二十歳未満は(以下略)』を内ポケットからライター一緒に取り出す。

「五限目は物理か……ダリいし帰ろうかな」

 言葉通りダルそうなピロシキ。

「二週間前もそう言って帰ったよね」

「欠席日数は把握しておるのか?」

「一学期は五回休めるから、あと三回はイケる。その点は抜かりねえし」

 ピロシキが箱から中の一本をにょきりと生えさせ、口に食わえて先端に着火した。

 恐いほど静かに僕の横顔を見つめていた姫風が、急にスッと立ち上がる。

 隣の変人を警戒しながら下から顔色をうかがう野郎三人。

 ……と、トイレ、かな?

 姫風は無言でピロシキの正面に座り込むと、

「……なんスか?」

「ゆうの健康に害を及ぼす」

 ピロシキが食わえていた先端の火種ひだねを――握り潰した。

「な!?」

 目の前の驚愕行為に開いた口が塞がらない。

 姫風の小さな手――親指と人差し指の先端から、じゅ〜っと鎮火音が鳴っている。

「ば、バカバカバカバカッ!!」

 僕は咄嗟とっさに姫風の手を引いて、

「あ、ゆう、なに?」

 屋上に備え付けてある水道口の前までダッシュ。辿り着いた蛇口をひねると勢い良く水が流れ出した。

「なに考えてるんだ!?」

 焦燥しょうそうから僕の声が裏返った。

 流水に浸した姫風の指先は赤黒く焼け焦げている。

「姫風は一応女の子なんだからもっと自分を大事にしないと!」

 姫風が無表情で、ジーーーッと僕を見つめる。

 え、聞こえて……ないの?

 十数年来の付き合いだけど、この時ばかりはなにを考えているのか表情から読み取れず、それが腹立たしくて、思わず怒鳴ってしまった。

「解った!?」

「ゆう、顔が怖い」

 言葉とは裏腹に姫風は怯えていない。しかし、いつもの無表情から、少し困惑したような相貌そうぼうに変化していた。眉根を寄せ、首を傾げているのだ。

「僕の方が怖いよ!」

「どうして?」

 目の前で火傷やけどされるのは怖いでしょ!

「なにがどうしてだよ!? あ〜もう、ミズブクレになってるじゃないか! 自分から進んで怪我をしないでよ!」

「ゆうは、私が怪我けがをすると怖いの?」

 当たり前のことを訊くな!

「怖いよ。誰であろうと目の前で怪我をされるのは気持ちが良くないよ。まったくもぉ……」

 姫風が僕を不思議そうな瞳で見つめてくる。

 この人は痛覚がないのか?

 僕は盛大に、ともすればわざとらしく溜め息をついた。

 ちょっとは心配した、と言うニュアンスが姫風に伝わるだろうか。

 僕の顔を見つめていた姫風は、不思議そうに首を傾げたままで特に変わった様子はない。

 心配は伝わらないみたいだ。変人に常識を求めるのはお門違かどちがいなのか。

 変化の期待を諦めて、先ほどの突飛とっぴな行動の理由を、問いかけてみることにした。

「なんでこんなことをするのさ?」

「ゆうが副流煙でがんになるのを阻止しただけ」

 奇抜すぎる行動にしては一般的な理由でした。

 耳鳴りと頭痛が同時に発生した。

「あ、あのね、そう言う時は口で言いなさい。動物じゃないんだから」

「一秒でも早く煙を減らしたかった」

 一気に疲労がのし掛かってきた。僕の為とは言え、火中の栗を拾うような行動はいただけない。

「……あぁ、そうですか。……とにかく、次からは口で言うように。解った?」

「でも」

 ここは姫風的に譲れないラインらしい。けれど、危ないことは極力避けてほしい。

「でもじゃない。僕の心臓に悪いの。寿命が縮まりそうな行為はやめてよね。解った?」

「解った」

 姫風が納得していない顔で渋々(しぶしぶ)頷いた。

 蛇口の水を止めて、姫風の指先を確認。あ〜やっぱり赤く腫れてる。火傷になっちゃってるよ。これは手当てが必要だね。

「よし、これから姫風は保健室へ行って、火傷の処置を先生にして貰いなさい」

 綺麗に話がまとまったところで、姫風には退場願おう。

「やだ」

 姫風は頑固だな!

「行かないと口をききません」「それもやだ」

 僕は意地悪だな!

「無視もつけます」

「それもやだ」

 ぷいっと大袈裟おおげさに姫風から視線をらす僕。

「ゆう?」

 呼びかけに応じない。

「ゆう、行かないとダメ?」

 呼びかけに応じない。

 何度も呼ばれたが応じない。

 無視の解除よりも手当てをされる方が速いと判断したのだろう、「保健室に行ってくる」と根負けした姫風が疾風はやてのように走り去っていった。


 走り去った姫風と、水道口から戻った僕を、交互に眺めたジジイとピロシキが、感心したように頷いている。

「姉の扱いに慣れておるのぉ」

「伊達に姉弟やってねえってか?」

「そのことについてなんだけど……」


 これさいわいにと、いや、この機をのがすまいと、僕は語った。

 片っぱしから思い付く言葉を羅列られつした。

 姫風について。姫風との関係について。

 小中学生の時のこと、姉弟じゃないこと、再婚相手の連れ子だと言うこと、十年間の長きに渡りストーカー被害を受けていること、転校は家族ぐるみで仕組まれていたこと、さっきヤられた腕のこと等々。包み隠さず、一切脚色せず、主観になりがちなところも、できるだけ客観を混ぜて語った。


 全てを黙って聞き終えたジジイとピロシキは、顔を見合わせて難しい顔をしている。

「それがマジなら、壮絶そうぜつな話だな」

「形容しがたいが、胃が痛くなるような話じゃのぉ」

「マジなんだって!」

 ダメ元で全てを語ったけれど、やっぱり信じて貰えない、か。う〜切ないなぁ。

「いや、今の話だけなら疑ったけどよ、腕のことやさっきのことを加味してストーカー話を持ってこられたら、信じるしかねえじゃん」

 さっきのこと……あぁピロシキ撲殺未遂事件ね。

「わしは『さっきのこと』を見ておらぬからなんとも判断がつかぬ」

 蹴り倒された黒マッチョは気を失ってたもんね。

「そう言えば、祐介、お前、首は大丈夫か?」

 ピロシキが自分の首を指差しながらジジイに言った。

「首? 少しだけ痛むが、わしは本当に蹴り倒されたのか?」

 ジジイが胸の前で腕を組んだ。伝えた事実に半信半疑と言った様子だ。

あざやかに白眼をいてたぞ」

「一撃だったね」

 細身の女の子(百六十センチ)に自分が蹴り倒されたとはにわかに信じがたい、とジジイの表情が物語っている。

 大柄で筋肉質を微妙に誇っている面のあるジジイをおもんぱかれば、ショッキングなことは想像にかたくない。事実を伝えておいてアレだけど。

「それが本当なら、わしもまだまだじゃな。鈴城姫風恐るべし」

 ジジイが組んでいた腕をほどく。自分の中で折り合いをつけたみたいだ。偉いね。

「脱線した話を戻すが、わしは鈴城姫風について情報が少ないゆえに判断がつかぬ。今の評価は、大胆かつ突拍子もないヤツとしておこうかのぉ。平たく言えば変人じゃな」

 はい。『鈴城姫風は変人だ』に一票入りました。

「そう。変人で変態で変質者なんだよ姫風は!」

 感情の共有――共感って大切だよね。

「優哉の話は一意見いちいけんとして頭に入れておこう。他人の意見を鵜呑うのみにするのは性分に合わぬ性格なのじゃ。これは許せ。まぁ、お主の近くにおれば鈴城姫風の人となりは追々(おいおい)解るじゃろうて」

 人格者の見方は一般人と違い冷静で公平だった。自分の意見を通しつつ、フォローも忘れない。高等技術だね。

 ジジイの意見に頷いていたピロシキが、次の難題の風呂敷を広げた。

「んで、その変じ――ねえさんについて他のヤツラには言うのか?」

「それなんだけど、どうしようか迷ってる。言った方が良いのかな?」

 新海さんにも打ち明けようか迷ってる。

「言わぬ方が良かろう。非血縁関係ならば優哉と鈴城姫風が付き合っていると錯覚するものも出てくる。クラスメイトに、否――モテない男どもに自分はモテモテだとアピールし、やっかみや要らぬ嫉妬を買う原因を自ら作ることになるじゃろう。まず間違いなく闇討ちと言わず朝討ちは避けられぬ状態になるじゃろうな」

「あ、朝討ち!? 僕が『鈴城姫風は再婚相手の連れ子で、ストーキングを生き甲斐とする変人なんだ』とみんなに訴えても無駄かな?」

 真摯しんしに訴えれば納得してくれそうな気がする。半信半疑ながらも。ジジイやピロシキみたいに。

「そうさの、今からわしが言うことを寛貴ひろきに当てめて想像してみるのじゃ」

「なになに?」

「クラスメイトに、優哉が言う『ストーキング云々(うんぬん)』を、寛貴が言ったと仮定しよう」

「言ったのが僕じゃなくて? ピロシキが言ったと仮定するの?」

「そうじゃ。寛貴がそう公言したとして、教室内で人目もはばからず、朝から放課後までイチャイチャとバカップルな会話と態度を披露されれば、こうフツフツと殺意が沸いてこぬか?」

「うん。朝から息の根を止めたくなるね」

 納得できた。いくらストーカーだの十年間の被害だのと訴えても――当人は戦っているつもりでも、教室内でくっついている以上、周囲にはイチャイチャしているように見えかねない。

「祐介の例えは極端だが――オレサマたちの感情は簡単じゃねえんだ。単純なことでイラつくし、喜ぶし、エロくもなる。モテないヤツもモテるヤツも、言動の不一致で、簡単に疑心暗鬼を引き起こす生き物なんだ。だから『姉と弟じゃない発言』はやめとけ。あとピロシキ言うな」

 となると――

「新海さんにも言わない方が良いのかな?」

「新海かぁ……」

「新海ねえ……」

 二人してなにその渋い顔。

「ぬぅ、言った方が良いような、不味いような……」

「言ったら言ったで新海涙目。言わなかったら言わなかったで新海悶々じゃね? 妄想し過ぎて眠れねえって感じでさ」

「よく解らないけど、言った方が良いの? 言わない方が良いの?」

 二人はうなったあげく、

「新海への采配さいはいはお主に任せる」

「だな」

 丸投げされた気分だ。

「ま、お前と姫風姐さんが本当に付き合うことになったら、相当ウザいだろうな」

 もしかしてピロシキの言う「あね」は「姉」じゃなくて「姐」?

「かたやゆうゆうと四六時中傍らにおり、囁き、かたや姫風姫風と四六時中相対する。濃厚なのろけにラブプレカリアート層が黙っておらんじゃろうな。広瀬辺りがラブブルジョアジージェノサイドプロジェクト(LBGP)を立ち上げそうじゃ」

 ラブプレなんたらとラブブルなんたらってなにさ?

「そうなれば、寛貴もジェノサイド対象じゃ」

「はぁ? オレこいつと関係ねえだろ」

 ピロシキが僕を指差す。

「モテぬ男のひがみ――被害妄想じゃ。モテる男は憎い。その計画にわしも賛同しよう」

 モテるもなにも、僕が姫風に惚れるなんてありえない。

「ジジイ、取らぬタヌキの皮算用って知ってる?」

「一念岩をも通すと言うことわざもある。鈴城姫風の努力しだいじゃろぉ?」

「いくら姫風が努力しても、僕は付き合う気なんてさらさらない。もし付き合うことになったら鼻からワサビを吸ってあげるし、全裸でそこらの田んぼに飛び込んであげても良いよ?」

「二言は?」

「ないね」

 言い切る僕。ほくそ笑むジジイ。携帯電話をイジるピロシキ。

「寛貴聴いておったな?」

「おう。携帯にバッチリ録音したぞ」

 そんなことしても無駄なのに。ねえ?

 ふと携帯電話で時刻を確認すると、たけなわをとっくに過ぎていた。ものの数分で昼休みが終わりそうな時間帯である。

 重い腰を上げた三人は三者三様の表情で一路教室へ。屋上を降りる際、いつものクセで向かいの棟――階下にある二‐Cの教室を眺めてしまう。つい新海さんを瞳で捜してしまう。

 いつも通りなら新海さんは窓側最前列の席で相庭さんとランチボックスを広げているはずだけど――ギョッとした。

 こちらを見上げていた新海さんとバッタリ目が合ってしまったからだ。

 僕と視線が交わった新海さんは何度も瞳をまたたかせている。

 盗み見している形の僕はバツが悪かった。悄気込しょげこみそうな僕に、にぱっとんだ新海さんがピコピコと手を振ってくれる。仕草の一つ一つが可愛らしい。僕は気まずさを払拭するように、ブンブン手を振り返したあと、さりげなく階段の踊り場へ逃げ込んだ。

 本日の嬉し恥ずかし体験の〆(しめ)だった。


 午後の授業一発目は拍子抜けするくらい平和で、けれど教室内はソワソワしていて……。

 と言うのも、鈴城姫風が五限目の本鈴が鳴っても教室内に姿を見せなかったからだ。

 姉弟繋がりで教師に居場所を訊かれた。なので素直に「保健室へ行ってます」と答えた。六限目は勿論のこと、七限目になっても鈴城姫風は教室内に現れず、その都度つど、教師に居場所を訊かれたので、やはり「保健室へ行ってます」と答えた。

 結局、SHRにも鈴城姫風は顔を出さず、午後の授業を初日から丸々サボタージュした。あとで解ったことだけど、昼休みには早退を終えて、郊外へ繰り出していたそうだ。人騒がせも大概にして欲しい……。


 こうして慌ただしい半日がぐったりと終わった。




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