表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
やんやん  作者: きじねこ
4/20

3.暗中模索


 寮で夕食を取り、自室にあるユニットバスで入浴を済ませ、近隣で四週間前に発生した脱獄犯ニュースを流し見して、動物ドキュメンタリー番組に感涙していたところで、無粋ぶすいな邪魔が入った。

 電話の着信音だ。誰だろう?

 ベッドに投げ出していた携帯電話を手にとる。液晶のサブディスプレイに表示されていた名前は、「……片桐先生?」担任から電話がかかってくるのは初めてだ。【相庭梨華親衛隊】の勧誘かな?

 当然呼び出しには応じない。僕にはタヌキの生態を観察しなければならない重要な使命があるのだ。


 カバの生態まで記憶があったけど、そのあとはうやむやで、気付いたら寝ていたみたいだった。しかし、寝苦しくて目が覚めた。怖い夢を見た訳でも、金縛りになった訳でもない。

 五月にしては温度が高いらしく、窓を閉めきって寝ていたせいで、部屋に湿気が溜まり熱くなっただけなのだ。

 この街は、北に山、東に工業団地、南には海、西は住宅街となっていて、僕の通う私立綾喃高校と寮は市街地近くにある。高校を囲むようにベッドタウンと言うなの高級住宅街とアミューズメント施設、アスレチックドーム等があり、外に目を向ければ野球場や空港、コンビナートやジーンズ工場、造船所等々が見受けられるとはピロシキの講義だ。

 窓は北に面していて山から降りてくるおろしのお陰で、窓を開けていれば寒い。(よど)んでいた室内の空気が一瞬で入れ変り、急激な温度変化とともに窓を閉めた。

 寒い寒いとベッドに潜り込んだところで、コンコンとドアをノックする音が聞こえる。

 枕元にあるデジタル時計が、今は《23:37》と教えてくれた。

「……気のせいだよね」

 ここは女子禁制の男子寮だ。すなわち訪問者は男。入寮して一年と二ヶ月経つけど、誰かがこんな時間に訪問してきた記憶はない。だから、都合良く空耳化する。

 コンコンと再度ノック音。

「……空耳じゃない。勘弁してよ」

 最初に浮かんだのは恐怖。次に迷惑。最後に寒い。

 基本的に僕はビビりだ。内弁慶だ。そして乳輪に毛が生えている。長さは二センチだ。

「……こんな時間に誰? まさか、僕の乳毛を引っ張りに?」

 それとも【親衛隊】だろうか? 放課後に相庭あいばさんをなじったことへの闇討ちかも知れない。

 出入口の扉には覗き窓やドアチェーンと言った代物は付いてない。自分の身を守るのは貧弱なシリンダー錠が一つだけ。

 例えば、今日闇討ちを回避できたとしても、明日は? 明後日は? 先の見えない恐怖に怯えるよりも、初日から罰を受けるなり、話し合うなりした方が早期に争いが解決することも……や、希望的観測だけど。

 僕は諦観の挙げ句、対応しようと心に決めた。

 恐る恐る扉を開けると、果たして扉の外に居たのは――【親衛隊】の幹部・片桐先生だった。

「おぉ、鈴城夜分に――」

「目潰し!」

「――悪いな目があああぁぁぁっ!?」

 片桐先生が両目を押さえて転げ回る。

 バタン。

「ちょ!? 鈴城! 目潰ししたあげく無言で逃げるな!」

 ガチャ。

「鼻! 耳! 口! 喉! 鎖骨! 鎖骨! 鎖骨!」

「鎖骨が! 鎖骨が重点的に痛いいいぃぃぃ!!」

 崩れ落ちる片桐先生を尻目に僕は握り拳のぬめりをピッピッと払った。

 ガチャ。

「三十代前半の冴えないマッチョが出すような悲鳴を聞いたんだが、なにかあったのか?」

 隣の部屋の広岡くんだ。

「気のせいだよ」

「そうか。それじゃあ俺ヨガに戻るわ」

「健康的だね。お休み」

「おう、お休み」

 バタン。

 僕もバタンと室内へ。

 扉の外からは「お前ら……先生をなんだと想ってやがる……」と呪詛が聞こえてきたけど、無視だ。

「僕をビビらせるやつが悪い」

 この判断が二日後に起こる惨劇停止の手だてを潰し、僕の首を真綿まわたで絞める要因となった。


 ◆◆◆


 次の日。

 事件が起きた。

 相庭さんに謝らなきゃなぁ、と陰鬱気味に登校していたのだけれど、遅刻手前に踏み込んだ下駄箱ゾーンでギョッとした。

 驚くべきことに、僕の靴入れの中に、水色の便箋が入っていたのだ。裏には「鈴城優哉くんへ」と僕宛だけが記されている。

「これは……」

 プラス思考に取るなら、ラブレター。マイナス思考に取るなら――

「体育館の裏に来い、とかかな?」

 くだんの【親衛隊】の果たし状かどうかはともかく、中身が気になる。即開封だ。糊付のりづけされた封を、ぎこちない手付きで若干緊張しながら剥がして中を覗くと、「――からかよ!!」便箋を足元のコンクリに叩き付けた。

「くそ! 見せもんじゃない! 散って! 散って下さい!」

 BやDと言った隣接クラスの住人がなにごとかとこちらを見ていた。羞恥心メーターが危険値を振り切りそうだったので、下駄箱から逃げ出して二‐Cに飛び込んだ。

 ぜーはーぜーはーと荒い呼吸を繰り返しながら窓側二列目・後ろから二番目の席につく。

「どうした暗い顔して?」

「……あ、おはよう」

 前の席に座る広瀬(ひろせ)くんに顔色を覗かれた。陰鬱気味な気分が顔に出ていたらしい。

「告ってフラれたとか?」

「いや、昨日遅くまでDVDを見てたせいで寝不足なんだ」

 恥ずかしくて「ラブレターを貰ったけど中身が空でした」とは言えない。

「DVD? 洋物ようものAVか?」

「アフリカ動物紀行四巻」

 良いよねチーター!

「渋いなお前」と苦笑いな広瀬くん。

 そうこうするうちに、担任が教室内へ入ってきてSHRショートホームルームが始まった。


 担任の顔を眺めたクラスメイトのほぼ全員が息を飲んだ。次いでどこからか「くすくす」と笑いが込み上げ始める。

「ぶっ、その顔どうしたんスか? 階段から顔面ダイブとかッスか?」

 窓側から二列目の最前列に座るピロシキが、笑いながら担任・片桐先生の顔を指摘する。

 顔中絆創膏やガーゼだらけの片桐先生は、苦虫を噛み潰したような顔で、不機嫌丸出しだ。

「……ある生徒に襲われたんだ」

 片桐先生が言うや、クラスメイトは揃って廊下側一列目の最前列に座る『ある生徒』に目を向けた。

「……なんだよ?」

 皆の視線に気付いた長身の美男子・灰田くんは不服そうに顔を(しか)める。

「女は俺を見るな! 見て良いのは男だけだ!」

 灰田くんは人間的に末期なことを叫んであさっての方向を眺めてしまった。

「みんな落ち着け。先生は灰田に襲われた訳じゃない」

『え?』とクラス一丸いちがんとなって声を揃えた。クラスのみんなは目を点にしてほうけている。

 いち早く回復したピロシキが、推理するように顎に手を当てて考える人のポーズ。

「先生の尻を襲ったのが灰田じゃないとなると……」

「おい坂本。灰田がなぜ先生の尻を狙うんだ?」

 片桐先生を無視したピロシキが、なにかに思い当たったらしく、ハッとして叫ぶ。

「ミス・チワワか!? ――まさかチワワに強引に迫られたんスか!?」

 隣のD組担任には英語教諭のミス・エリザベスと言う二十八歳の未婚教諭が居る。例えるならブロンドのチワワが適当。

 新海さんよりも小柄で、ヘタをすれば小学生にも間違えられそうな身長を持つアメリカ人の女性だ。愛称はまんまチワワ。もしくは名称からリズ。学校全体で愛玩動物扱いをされている奇特な先生だ。ちなみにミス・チワワは我がC組の色黒筋肉達磨・片桐先生にゾッコンなのだ。

「坂本、先生をチワワ呼ばわりするな。エリザベス先生は繊細な方なんだ。あと先生は迫られてないからな? 迫られてないと言ったら迫られてないからな? ははっ、あはははははっ」

 片桐先生が疲れたように薄笑いを浮かべる。いつもチワワに言い寄られている片桐先生は、背徳的な対格差を気にして陰ながら涙しているらしい。今もふと窓の向こう――ここではないどこかを眺めて黄昏たそがれている。

 特に連絡事項もなかったらしく、出席を投げやりに確認した片桐先生は、瞳を空虚にさせつつ教室から出ていった。

 一昨年までストーキング被害にあっていた僕は、先生の背中にそこはかとない親近感が沸いた。頑張れ先生!

 あ、そうだ。片桐先生にエールを送ってる場合じゃなかった。相庭さんに謝らなきゃ。

 席は……と。窓側一列目の最前列に……居た。良かった相庭さん来てた。

 背筋を伸ばして座るエロい女王様は、後ろ姿も凛々しくてさまになっていた。

 さっそく【親衛隊】の取り巻きに囲まれて、その中の一人と談笑している。

 よ、よし! 相庭さんに謝るぞ!

 尻込みしそうになりながらも席を立ったところで、不意に相庭さんが後ろ(こちら)を向いた。そして、僕を一瞥してプイッと前へ向き直る。

 え、僕の気配が読めるの? 謝ることすら拒否ですか?

 身体中から奮起ふんき霧散むさんしていくのが解る。

「……一限目の終わりに、頑張ろう」

 僕は自分に言い訳して席に座り直した。

 そこへにこやかな新海さんの声が聴こえる。

「鈴城くんおはよう!」

 声はどこから――あ、右隣の席だったっけ。

 現金なもので、新海さんの声を聞くと、ショボンとしていた僕の心に活力が充ちてくる。

「新海さんおはようさんです!」

 新海さんは小さくハンズアップした僕の挨拶に満足気な感じで頷いている。

「今、どこかに特攻しようとしてたけどどうしたの?」

 授業があと数分で始まるにも関わらず、席を立ってどこかへ行こうとした態度を不思議がられたようだ。

 返って好都合な話題だった。

「ん〜相庭さんのところにね。新海さんは相庭さんからなにか聞いてない?」

 女の子は話すことがストレス発散に繋がるらしい。相庭さんと新海さんは仲良しだから、僕とのいざこざを、ストレス発散要因として相庭さんから聴かされてないだろうか?

「梨華から? え、鈴城くんあてにってこと?」

「いやいや、え〜と、昨日、僕は相庭さんに色々言って怒らせちゃって、その愚痴を新海さんにこぼしてないかなぁ、と。二人は仲が良いから早合点した訳です」

「つまりは鈴城くんと梨華がブルファイト?」

 なぜガチンコバトル?

「どっちが闘牛でどっちがマタドール? 決して体当たりで争ったりしてないからね?」

 新海さんの脳内は以外とバイオレンス。

「梨華がマタドールで、鈴城くんがマタドールが持つ赤い布みたいな感じです! モーモーさんを颯爽と交わす鈴城くんに拍手喝采!」

 僕は体よくひるがえされるムレータ(赤い布)ですか。誰かに振り回される人生を予言されているようで悲しいなぁ。

 項垂うなだれる僕の隣で、新海さんが「はて?」と首を傾げる。

「んん?」

「どうしたの?」

「ちょっと疑問なのですよ。モーモーさんはなぜ赤いものに興奮するのかな? と、わたしは思った訳です」

 新海さんが肩の前に持ってきた茶色い尻尾(ポニーテールの先)をビシッと僕に指す。

「なにかの本で読んだけど、確か、牛の目は色を区別できなくて、実際は色じゃなくてマタドール自身の動きで興奮を煽ってるらしよ。あの赤い布で興奮するのはマタドールの方だとか」

 お〜、と感嘆する新海さん。

「意外な事実にビックリ! 鈴城くんはモーモー博士に決定! 略してモハ!」

 それだとモーター付き普通客車の略になっちゃいます。

「新海さん僕がJRの車両になってるよ」

「JRの車両に? あ、そう言われたら、モハとかクハとかわたしにはよく解らん暗号が車両には書いとられますね〜。なにかの国家機密でしょうか?」

 ん〜ボケてる新海さんも可愛いなぁ。一緒にボケておこう。

「今までそれを調査しようとした人が沢山いたけど、いずれの人も……」

 新海さんからツーッと目をらす。

「え? え!? 調べようとして、調べようとして、ど、どうなっちゃったの!?」

 新海さんの目が泳ぎまくって、口元をあわあわさせている。

 僕は含みを持たせてニヤリと笑って見せる。

「……さぁ?」

「そ、そんなぁ……」

 新海さんは真っ青になってうつむいてしまう。

 軽く突っ込んで欲しかったけど、ここまで純粋に信じられるとは思わなかった。

 空気の入れ替えばりに話題を変えよう。

「そこのポニーテールな彼女、昨日はどうして休んだの? 目の下にくまができてるけど」

「う〜怖いよぉ……んん? 隣から鈴城くんの美声が!」

 ……美声って。

「き、昨日はですね〜、ちょっとやる気を回復する為に、杏仁豆腐を一日中パクパクしてたんだよ! め、目の下の隈は、えっと、徹夜で、そう! 徹夜で杏仁豆腐と格闘していたからだよ! ふふ、なかなか手強い相手だったよ〜」

 頬袋に杏仁豆腐をいっぱい詰める新海さんが脳内でデフォルメ召喚されてしまう。もきゅもきゅって感じで幸せそうに杏仁豆腐を貪る新海さんを想像してなごんだ。

「お持ち帰りしたいなぁ、もぉ」

 自室にて心行くまで()でたいナンバーワンの新海さんが首を傾げる。

「んい?」

 なにその奇声?

「……いやいや、こっちの話」

 それにしても、杏仁豆腐か。落ち込みを回復する為のマストアイテムなのかな?

「杏仁豆腐って甘いよね。新海さんの好物?」

「お〜いぇい、であります!」

 ビシッと僕に向けて敬礼する新海さん。くりくりした瞳とか柔らかそうなほっぺたが魅力的。柔らかそうなほっぺたを触りたいなぁ。あ〜もぅ、可愛いなぁ。

「一日中杏仁豆腐かぁ〜」

 新海さんのスレンダーボディーにどれだけ入るのだろう?

 そだ、ちょっとだけ、からかっちゃおう。

「それだけ食べてたら太らない?」

「ぐふぇ!!」

 新海さんが口からなにかを吐き出した。

「し、新海さん!? 誰かっ!! ジジイ! ピロシキ! ちょっと来てくれ! 新海さんが、新海さんが!!」

 騒いだせいで周囲のクラスメイトが僕に注目。

 呼びだされたジジイが、なんじゃ? とゆっくりやってきてくれた。ピロシキは無視を決め込んで寝ている。薄情なヤツめ!

「落ち着け優哉、なにがあった? ……ん? 新海が涙を流しながら泡を吹いておるな。ふむ。まるで蟹じゃ」

「感心してないでさ、どうすれば良い!? 保健室!? 救急車!? ラマーズ法?」

 ひっひっふ〜?

「放置じゃ放置。うちひしがれておるが、じきに回復するじゃろうて」

「それじゃあ手遅れにならないかな!?」

 僕を見兼ねたのか、ふむ、とジジイが一計を案じる策士のように頷いた。

「ならば優哉よ。新海への特効薬を授けよう。耳を貸せ」

千切ちぎらないでね」

何気なにげに余裕じゃなお主。まぁ良い」

 ジジイが特効薬とやらをゴニョゴニョと耳元で囁いた。

「こんなことを言うだけで新海さんは復活するの?」

 信憑性が感じられず(いぶか)しむ僕。

「そうじゃ。全ては誠意と言霊ことだまじゃ。誰しも褒められれば悪い気はせぬじゃろぉ?」

 言ってジジイが顎で新海さんを指す。急かされた僕は「……コホン」と一息ついて、涙で机を濡らす新海さんの耳元に口を寄せた。

 それを見た周囲の女性陣の「きゃ〜♪」と言う揶揄が聴こえるが、つとめて気にしない。

「し、新海さん可愛いよ新海さん。新海さんの杏仁豆腐を食べる姿が見たいな。むしろ新海さんは杏仁豆腐だな。いや杏仁豆腐は新海さんだな。僕も杏仁豆腐を食べたいな。新海さんと食べたいな。富士山の上で食べたいな」

 後半が適当なのはなにも考えないで喋ってるからであって突っ込まないで!

 僕が離れると同時に女性陣の「きゃ〜♪」が再燃、さらにはピクンと新海さんの身体が跳ねた。

「うきゃ!? わたしは杏仁豆腐!!」

 意味不明な叫び声とともに机にへばりついていた新海さんが覚醒した。

「ま、まだ食べるのは早いのです! せめてデートを一回くらいしたあとで召し上がって下しゃい!!」

「はい?」

 新海さんはなにをおっしゃってるの?

 呆然とする僕へ向き直った新海さんが、僕の両肩をガシリと掴んだ。また女性陣の「きゃ〜♪」が聞こえる。

「な、なに? うわ!? ちょ!?」

 新海さんに高速でガクガクと身体を揺さぶられ始めた。

「ちょ、やめ! 脳が、脳が痛い!!」

 不意を突かれて抵抗できない僕。抗議は虚しく空回り。

 暴走する新海さんがなにやら早口で語り始めた。

「ものには順序がありましてわたしはすぐにでも杏仁豆腐になりたいのですがそれだと軽い女だとかちょろい女だとか言われそうで怖いのですだから一回くらいは初々しくデートに行ってそれでそのあとベタベタに甘い展開と言うかもう目も当てられない恥ずかしいフレーズを惜し気もなく連呼する関係と言うかダーリン・ハニーな濃厚ポジションと言うかいつでもどこでもキスしてキスしてキスしまくりの間柄になりたいと言うか――」

 新海さんに肩を激しくシェイクされて脳がミキサーにかけられたみたいに揺れる。まくし立てられている言葉が一言も聞き取れなかった。

「落ち着け新海願望が駄々漏れじゃ。あと優哉がそろそろ死ぬ」

 クラスメイトが「きゃ〜♪」と注目していたことに気付いた新海さんは、自分の手と僕の顔を見てハッとなり、僕の肩を掴んでいた両手をパッと離した。そして「ご、ごめんなしゃい! ……はぅぅぅ」と顔を隠すように机に突っ伏してしまう。

「……なにがなにやら」

 新海さんの拘束が解けた僕は、危ういところで一命を取り止めた。

「色んな意味で美味おいしいヤツじゃのぉ、お主は」

 ジジイは呵呵かかとして自分の席に戻って行った。

 むち打ちが美味しいとは……よかろう、昼休みにジジイの首をむち打ちにしてやる。

 カマを掘られたように首が痛い僕は、心にそれだけを刻み込んだ。


 ◆◆◆


 昼休み。

 階段の最上階たる踊り場――屋上の扉前にて、僕とジジイは死闘を演じていた。

「や、やめぬか優哉! わしの首は背後まで回らぬ!」

「僕のむち打ちを笑った罰だ! ジジイもむち打ちにしてやる!」

 小泣きじじいばりにジジイの背後へ張り付いていた僕は、ジジイの頭を両手で掴み、ふん! と勢いよく左右へ引っ張る。

「ぐっ、これはむち打ちではなくじ切りじゃ! わしを殺す気か!?」

「割りと毎日殺す気です」

 同時に静止した僕たちの間を、一陣の風が吹き抜けて行く。

「相変わらず恐ろしいヤツじゃなお主は」

「お前ら入り口でじゃれんな」

 ドカッとお尻に痛みが走る。

「っ!」

 階下から現れたピロシキが邪魔だとばかりに、ジジイへ貼り付く僕の背中を蹴ったのだ。僕を蹴ることでジジイが塞いでいた屋上への扉を、ピロシキがジジイに開けさせた。

「痛いなぁ! ピロシキくたばれ、とう!」

 ジジイからモモンガよろしくスタスタと前を行くピロシキの背に飛び移り、その首に腕を回して絞めた。

「な、うわやめろ馬鹿! あとピロシキ言うな!」

 チョークスリーパーが決まるが、ピロシキを落とす直前で、ジジイに動物を宥めるような感じで「どうどう」と声をかけられ、すぐにピロシキから引き離された。ジジイに抱えられる形で、脇の下に腕を入れられて宙吊り状態の僕。地に足が着かずブラブラしている。

「ピロシキめ命拾いしやがって!」

「ゲホッ、ゲホッ……毎回同じ展開は飽きないか優哉? おわっ、危ねえなぁ。この猿の手足縛っとけよ祐介」

 ピロシキにもう一発蹴りを放つが避けられた。

 ジジイが某動物大好きおじいちゃんばりに「よしよし」と僕をなだめる。

 ジジイにいさめられると、引き下がらなくては、となぜか僕は思ってしまう。

「ちっ。はたさんに感謝するんだな!」

「畑さんサンキュー!」

 ピロシキがジジイに向けて拳を突き出し親指だけたてる。

「わしは動物王国のおさではないぞ?」

 ジジイはげんなりと嘆息した。


 本日は晴天の為、昼食はいつものように屋上で取ることになった。

 なので、屋上にできた日陰・給水タンクの一角に陣取って三人でウ○コ座り中。

「カツサンド売り切れてた。祐介は代わりに焼きそばパン二個買ってきた」

 ピロシキはじゃん拳に負けた罰ゲームでパシり役になっていたのだ。

「そうか。ご苦労」

「優哉はハルマゲ丼がなかったからアンパンにした。一個で良かったよな?」

「うん」

 小食甘党の僕は、手渡された包装紙をすぐに破り、アンパンを一口かじる。

「いただきま〜すってこれこしあんじゃないか!」

「大福餅じゃねえんだ。アンパンにつぶ餡を求めるな!」

 ムカッときてピロシキにアンパンを勢いよく押し付けた。

「目があああぁぁぁ!?」

餡誅あんちゅうだ。餡子あんこを笑うヤツは餡子に泣く。覚えておくんだね。うりゃ!」

ひねるなじ込むなぁぁぁ!!」

 だめ押しとばかりにピロシキの眼球にアンパンをグリュッと押し付けておいた。

「食べ物を粗末にするでない」

「あいたっ」

 ジジイにポカリと殴られた。

 屋上備え付けの水道で目と手を洗ってきたピロシキが悪態をつく。

「餡子が目に染みるとか初めて知ったぞコンチクショウ!」

「次は紅生姜べにしょうがの逆襲だ。あ、ジジイ食べるなよ!」

 かたわらに有った食物兵器をひょいとジジイに取り上げられた。

「優哉よ、わしのパンをわしが食べてなにが悪い?」

「都合が悪い」

「新鮮な切り返しにわしは脱帽じゃ。いただきます」

 ガブリガブリとものの数秒で焼きそばパン二個がジジイの胃に消える。育ち盛り恐るべし。

「そう言えば、お前、梨華りかに謝ったのか?」

「う……まだ」

 話題の変更に肩が跳ねた。

 その返答はこうだ。

 ズルズルとここまで来ちゃいました。自分が情けない。

「ヘタレめ」

「ヘタレじゃな」

「ヘタレ言うな! 繊細と言って!」

 放課後までには謝るさ! 多分!

「話題変えて良い?」

 なんとも言えない顔になっていただろう僕を見て二人は苦笑い。

「これの筆跡が誰か解らない?」

 言いながら制服の内ポケットにしまい込んでいた水色の便箋――だった物を取り出して、隣のピロシキに手渡す。

「なんだこれ?」

「手紙……か? くしゃくしゃじゃのぉ」

 ピロシキはしわを伸ばして便箋を広げた。そして表、裏、中を確認する。

「中身は?」

「ない」

「は?」

「ない。最初からその便箋だけが靴箱に入ってた」

 ピロシキが明らさまな嘆息のあと、半眼で僕を見下す。

「お前さぁ、自演するにしても、もうちょいネタを注ぎ込んどけよ」

「自演じゃない!」

「どれどれ?」

 便箋を手にしたジジイが、ふむ、と頷く。

「差出人は不明か。相庭(あいば)新海(しんかい)に訊けば途端に修羅場と化すネタじゃのぉ」

 僕は首をかしげる。

「なぜにそこで相庭さんと新海さんが出てくるの?」

「はぁ? お前気付いてねえのかよ? 梨華と新海はムグッ」

 なにかを言いかけたピロシキの口を、ジジイの巨大な手が塞いだ。そしてジジイは顎で僕を指す。

「寛貴、時期尚早と言う言葉を知っておるか?」

「お前に言われて本末転倒と言う言葉も思い出したぞ」

「ならば良い」

 頷き合う二人はどうやら便箋のことを納得したみたいだ。

 しかし、僕は蚊帳の外に放り出された気分である。

「漢字を並べたてて僕を苛めるな! なにか解ったなら説明してよ」

 ピロシキが胡散臭うさんくさそうな目で僕を一睨ひとにらみ。

「その前にこれの経緯を説明しろよ。本当に自演じゃないのか?」

「違う! 朝、靴箱に入ってたんだ。中身は最初から無かった。最初はラブレターか果たし状かと勘違いしたけど、多分、冷やかしだと思う……」

「冷やかし犯を見付けたいから協力してくれってか?」

「そこまで頼むつもりはないよ。話のたねにこの字に見覚えがないか訊いてみただけ」

 改めて便箋に向き合った二人は、それを太陽に透かしたり、目を細めて真面目に眺めたりするが、

「いや解らねえ」

「もしや……いや、さっぱりじゃな」

 あっさりと思考を放棄した。

 さっきの納得はなんだったんだろう。バカな僕が思考してもなにも思い付かないけれど、ちょっと気になる。

 よって、僕なりに思ったことを口にする。

「きっとさ、これを仕掛けた犯人は、ラブレターを手にしてニヤニヤする僕を、ガッカリさせたかった知能犯なんじゃないかな? だから僕の純情を踏みにじった借りをその犯人に返す。お灸を据えてやる為にも、必ず見付け出して、必殺のデンプシーロールを喰らわせてやるんだ――」

「冷やかし犯如きにアキレス腱を差し出すなよ」

「――ピロシキが!」

「お前が冷やかされた程度でアキレス腱断裂を決意するとか、どれだけ友達思いなんだ俺は? あとピロシキ言うな!」

 睨み合う僕とピロシキ。

 ん〜……とジジイが唸る。

「わしにはこれの犯人が、優哉をめて得るメリットが皆無かいむに思えてならん。むしろ優哉は暴れると手がつけれぬゆえに、リスクの方が高いぞ」

 ピロシキがすかさず反論。

「メリットデメリットは度外視だろ。犯人は【親衛隊】じゃないか? 梨華に了解を得ず単独でやってる感じがそかはかとなく匂ってくるぞ」

 僕もそう思う。

「一見するとそうじゃが、呼び出して袋の鼠にする方がことは早いじゃろ? 男ならいきどおりはすぐに解消したいはずじゃ。しかし、これには中身が入ってないと優哉は主張しておる――」

「入れ忘れじゃないのか? それかどっかでこのバカが落としたとか」

「初めから入ってなかった!」

 僕とピロシキの取っ組み合いはジジイの「こらこら喧嘩するでない」で待ったが入った。

「寛貴、こうは考えられぬか? 優哉の反応を見るために、中身をわざと入れなかった、と」

 僕の反応を見る為?

「なんでさ? やっぱ冷やかし?」

 僕の問いを無視したピロシキがポンと手を打つ。

「ラブレターのせんか!」

「ラブレターのせんじゃ」

 どこをどう紐解ひもといたらラブレターの話になったんだ。

 ニヤニヤするピロシキ。

「こりゃ面白くなるな」

「うむ。見物みものじゃな」

 水色の便箋を返されて、なおかつ「理解できなくても良いから、これは大切にしまっておけ」と二人に説得(?)されてしまった。

 僕に解る次元で話をして欲しいものだ。


「ときに優哉、お主はイ○ポか?」

「がふっ」

 僕はコーヒー牛乳を吹いた。

「イ○ポっぽいな。こいつから女の話なんか聞かねえし」

「そんなことないだろ!? ジジイなんとか言ってよ! 僕は新海さんが好きだって話したよね!?」

 あれ? ジジイに向いて「将は新海さんの巻」って言ったよね?

「新海の話は聞いたが、犬猫レベルの好きじゃろぉ?」

「え、新海? お前新海が好きなのか?」

「好きだよ悪いか!?」

 ピロシキめ心底驚いた顔をするな!

「相庭ではなく新海が好きなタイプと公言しておったわ」

「したけどなんだよ! しちゃ悪いのかよ!?」

 ピロシキの表情は感心と小馬鹿を足して二で割った感じだ。

「お前凄いな。面食いじゃないヤツ初めて見たぞ。俺はアレ無理」

 右手一閃。

「アタアッ!!」

「鼻があああぁぁぁ!?」

 ピロシキが鼻を押さえてのたうち回っている。

「たかが掴んで回した程度だろ? 暴れるな。それと今のは僕侮辱罪な」

 ピロシキがガバッと立ち上がった。

「は!? 意味解んねぇぞてめえ!!」

 僕に掴みかかろうとしたピロシキを背後から羽交い締めにするジジイ。

「寛貴よ、優哉の前で新海をおとしめると、また攻撃がくるぞ。この前わしも肩を外されそうになった」

「経験者かよ! そう言うことは先に言えよ祐介!」

 ジジイを振り解いたピロシキが舌打ちとともに「二人とも飯食い終わったよな?」と僕とジジイに確認する。

 そろそろ昼休みが終わる頃合いだ。ピロシキはある成分を補給したいのだろう。

 僕らはう○こ座りに戻る。

 案の定、ピロシキは『二十歳未満は口にしちゃいけない物』を内ポケットから取り出し、それのはしをトントン叩いて一本ニョキッと出てきたところをパクッと食わえる。

 銀色に鈍く光るジッポを取り出して、食わえた物の先端に着火すると同時に、息を吸い込んだ。一吸いして鼻から紫煙(実際は灰色に近い白色)を吐き出す。

 愛煙家歴五年のイケメン野郎は飲み終えた缶コーヒーに灰を落とした。

「ふ〜うめぇ。んで話戻すけど、新海が好きってマジ?」

 僕は右手親指と人差し指をワキワキと動かす。

「次は耳だ」

(ひね)り予告すんな!」

 ピロシキが急いで僕と距離を取った。

「普通に好きかどうか訊いてるだけだっつ〜の」

「新海さんをか!」

 ピロシキまで僕の純情を踏みにじる気か!

「そうだ。……なんで(いさ)み足なんだお前」

「僕は新海さんが割りと好きだ!」

「割りと?」

「割りとだ!」

「寛貴聞き返すだけ無駄じゃ。恐らく本気の発言じゃろう」

 ジジイはヤレヤレと首を横に振る。

 なんだその無駄発言は!

「恐らくもなにも割りと好きだ!」

「割りと、ね。そろそろ胸を張っての仁王立ちはヤメロ。見てるこっちが恥ずかしい」

 ピロシキに座らされて「はぁ……」と疲れたような顔をされたが、今僕はなにか変なことを言っただろうか?

 僕の熱意が伝わってないように感じるぞ。ならば、もう一度だ!

 僕は胸を張って立ち上がり、こう宣言した。

「他の女の子より右肩上がりに好きだ!」

「もうそれは良いから」

 紫煙を吹き付けられた挙げ句、ピロシキにまた座らされた。

「なあ祐介。もしかして、こいつ、マジで犬猫レベルの好き?」

「十中八九間違いなかろうて」

 二人は僕の宣言を聞いてないのか?

「マジイ○ポ野郎じゃねえかお前」

「寛貴、昼間からイ○ポを連呼するな。注目されておるぞ」

「あ、わりい……」

 オーディエンスの視線を感じたのかポリポリと頬をかく気恥ずかしそうなピロシキ。ついで食わえていたモノを手に取り缶コーヒーに押し付けて、その中に落とした。

 食わえていモノがバレれば停学処分の始末書は免れず、最悪の場合退学処分だ。

 向かいの棟の二階には職員室があり、窓ガラスからこちらが見えるはずだと言うのに、ピロシキは堂々ともう一本食わえる。かなり度胸があるヤツだ。

 ちなみにその真上には我らが二‐Cがあり、新海さんが相庭さんと食事中の光景が拝めた。ランチボックスを広げて和やかにパクついている新海さんは小動物みたいで癒される。

 目線を屋上に戻す。

 ここには思い思いの場所に十数人が散らばって座っているけど、先ほどジジイがいさめた通り、そのうちの数人がピロシキやジジイによるイ○ポ発言の為か、こちらを眺めていた。間違いなくピロシキのある成分を補充する行為は見られていただろう。普通なら告げ口なり教員を呼ばれるなりされるところだろうが、しかし、密告される心配はなさそうだ。屋上にいる数人は、男女ともどもピロシキと同様にある成分を補充しに来ているヤツラばかりなのである。皆さんはコソコソと職員室の死角から愛煙中だ。

 ――ここでは騒ぎを立てないのが暗黙のルール。

 だがしかし、名誉を傷付けられた僕には関係ない。

 他人ひとが見てる?

 先生にバレれる?

 んなこと知ったこっちゃない!

 僕はビシッとピロシキを指差す。

「さっきから人をインホ○インホ○って! 僕はインホ○じゃない!」

「優哉よ丸の位置がズレておるぞ」

「ある意味それで通じるけどな。それと座れ。目立ってて恥ずかしいから」

 職員室から見える位置にも関わらず、ピロシキは食わえているモノを気にせず堂々と立ち上がって僕をまた座らせた。

「インホ○のどこが違う!?」

「半濁音になってねえじゃん」

 バカを見るような目で僕を見下ろすな!

 そこへ、を読んでかピロシキの携帯電話が鳴った。

 最近CMで起用されている邦楽曲だった。

「お、これは美奈ちゃんだな」

 電話ではなく、メールだったようで、中身を確認したピロシキが、

「うわマジかよ。か〜……今日暇になっちった」

 舌打ち混じりに嘆いた。

 どうやらドタキャンされたようだ。

「今日お主はバイトの日ではなかったか?」

「クビになった」

 ピロシキがおどけて笑う。

「はやっ! 始めてまだ一ヶ月じゃなかったっけ?」

 二つ折りの携帯電話をパカパカ開閉しながら、食わえているモノにピロシキは着火した。

「バイト中に綺麗な子が来たからダベってたら怒られて、それを何度か繰り返したらクビにされた」

「自業自得じゃな」

「前と同じパターンじゃん。アホだねピロシキ」

 僕とジジイは「ねぇ」とか「のぉ」とか頷き合う。

「黙れマッチョにイ○ポ! あとピロシキ言うな!」

「マッチョと一括くくりにするでない。これは健康的な体じゃ」

「僕は新海さんが好きだって言ってるだろ!?」

「マッチョは体脂肪率何パーセントだよ? イ○ポお前は黙ってろ」

「この間赴おもむいた銭湯のサウナじゃから正確ではないが、そこで計測した時は、確か五パーセントくらいだったのぉ」

「ピロシキあとで鼻を千切(ちぎ)ってやるからな。それにしても、ジジイの身長は二メートル近いよね? なのに体脂肪率が五パーセントって、どれだけ筋トレしてるのさ?」

「筋トレはしとらんよ?」

「じゃあマラソンとか夜間の走り込みか? 夜道を駆け抜ける黒い筋肉か……想像すると怖いものがあるな」

「寛貴、わしは珍獣か?」


 カオスな言い争いは二分ほど続いた。


 とぼけた感じもないジジイは、やはり顔色一つ変えない。

「ん〜、マラソンも走り込みも、特にしとらんが……」

「ならそのマッチョの説明をしろよ祐介」

 僕はマイク代わりの携帯電話をジジイに差し出す。

「ジジイの筋肉隆々な謎が、今明らかに!」

「優哉よ、変なダイアローグを入れるでない。わしの祖父もわしの父も体格はガッチリしておるから、恐らくは血筋か家業のせいじゃな」

「家業?」

「なんのこと?」

 僕とピロシキは揃って首を傾げた。

「わしの家は代々続く農家でな。米作りとマスカットの栽培をしておるのじゃ」

「あ〜だからジジイは真っ黒に焦げてるのか!」

「そこは日に焼けてると言ってやれ優哉。祐介が珍しく涙目じゃねえか」

 ジジイのガッチリした筋肉と日焼けの理由に納得した。

 明らかに気落ちしたジジイが自分を指差す。

「……わし、そんなに黒いかのぉ?」

「黒点よりは白いよ?」

「黒点よりも白い男――彼の名を鳳祐介と言う!」

 珍しくジジイが憤慨した。

「不名誉な二つ名など要らぬ! お主らもっとましなフォローはできんのか!?」


 食わえていた物を缶コーヒーに押し付けて、中にそれを落としたピロシキ。ジジイの茶化しに飽きたらしく、眠そうに生欠伸を噛んでいる。身心を回復したジジイは携帯電話で誰かにメールを送信している。長閑のどかだなぁ、とグラウンドで汗を流すサッカー部の連中を僕は眺めていた。そろそろ昼休みが終わる頃合いだ。

 ピロシキがう○こ座りから立ち上がる。

「あと何分だ?」

「昼休みか? 七分弱じゃな」

「お、あと一本イケるな」

 言うや再びう○こ座りになるピロシキ。『二十歳未満は(以下略)』を内ポケットから取り出して、箱のはしをトントンと叩く。

 詰まっているのか、中から出てこない。イケメンが中身を覗き込んで舌打ち混じりに嘆いた。

「ラス(いち)かよ。帰りに買わねえと」

 この愛煙家は一日三箱消化しているらしい。見ていてハッキリ解るくらい一本一本の減りが早い。身体によくないとみんな言うけど、聞き入れない。ま、肺癌で天に召されるのはピロシキだから良いけどね。

「受動喫煙者も肺癌になるぞ優哉」

「なんだとぉーーーっ!?」

 ピロシキのせいで僕が死ぬ!? ふざけるな、ぶっ殺す!!

「わっ!? ちょ!? 祐介焚き付けんなよ!!」

 素早く立ち上がって勢いよく繰り出した僕のローキックを紙一重で避けるピロシキ。

「お主らのスキンシップの形じゃ。観念せい」

「これがスキンシップ!? 偏見に満ち溢れてるぞ祐介!」

 隙有り――狙いは膝だ! くらえ!

薪割(まきわ)りダイナミック!!」

「砕けたあああぁぁぁっ!?」

 降り下ろしたチョップが命中して、患部を押さえながらピロシキが屋上のコンクリ床にドサッと崩れ落ちた。

「薪割りなら『割れた』と叫ぶべきじゃな」

まったくだ! あと『じゅどぉーきつえん』てなんだ!」

「……意味も解らず殴ったのか、優哉よ」


 予鈴に背中を押される形で、僕とジジイは屍を引き摺りながら、屋上をあとにした。

 あとにする際、つい眼下の我がクラスに視線を落として、瞳でマイ癒し系小動物さんを探してしまうのが最近のマイブーム。マイ癒し系小動物さんこと新海さんは……窓際に発見。うは、可愛いね! って、その新海さんがなんとこちらを見上げていた。

 僕を見ていたのかな? と、一瞬自惚(うぬぼ)れてドキリとしたけど、違った。


 新海さんが見上げていた視線の先に居たのは――ジジイこと鳳祐介だった。


 ◆◆◆


「――しかし、ボブは待ち合わせから十分が過ぎても姿を見せません」

 我がクラスのボクッ娘・茶髪セミロングな国府田(こうだ)さんは、先生に指示された一文の英訳を終えて、その顔色を窺っていた。

「よしありがとう国府田。次の訳を、小窪(こくぼ)、訳してくれ」

 安堵の表情を浮かべて僕の左隣の席の国府田さんが着席する。打って変わって左斜後ろの小窪さんが席を立つ。

「――ボブから電話を受けたメイリンはバス停で彼を待つことになりました」

 ボーイッシュな小窪さんが着席した。

「よしありがとう小窪。その次の訳を、坂本訳してくれ」

 昼休み明け一発目の授業は眠い。複雑な気分を抱える僕だけど、お腹は満たされてるし、今は五月と言う程好ほどよい気候も相まって、睡魔に襲われている。ポカポカする温度と微睡まどろむような心地好い陽射しに、目蓋が少しずつ落ちてくる……。

「おい坂本!」

 舟を漕ぎ始めそうだった僕の耳にゴッと鈍い音が響いた。

「いで!?」

 悲鳴の発生源は僕の列の一番前。ピロシキだ。最前列にも関わらず堂々と爆睡していたらしい。有りがた英語オーラルの斎藤先生(男・三十九歳・妻子持ち。顔がゴリラ。通称もゴリラ)から鉄拳を頂戴したようだ。

「っいててて。先生、体罰で教育委員会に訴えますよ?」

「お〜お〜訴えてみろ」

 頭頂部を押さえて口をとがらせるピロシキへ、ゴリラが容赦なく鉄拳制裁。机とピロシキの頭がキスしたような鈍い音が響く。

「いで!! っつぅ〜……」

 ピロシキが頭を押さえて机の上でうずくまっている。

「青臭いガキの頭でっかちが、なにを勘違いしている? 高校生の分際で大人と対等に扱ってもらえると思うな」

 追い討ちとばかりに出席簿でピロシキの頭をポンポン叩くゴリラ。

「死ぬ! 先生! 俺の優秀な脳細胞達が死ぬ! 手軽に叩かれて死ぬ!」

 ゴリラが出席簿の手を止めた。

「オレも偉そうなことは言えないが、男は四十になってから一人前だそうだ。お前らが社会人になり、まともな職についてから、文句を言いに来い。そんときゃ黙って聞いてやる」

 ごもっともな意見になにも言えない、僕以下クラスメイト達。

「そうは言いますけどね先生? 俺らの方が先生の学生時代より賢いッスよ? 多分」

 ピロシキの意見をゴリラが先生の威信に賭けて否定するかと思いきや、

「多分もなにもそうだろう。お前らはオレの学生時代にはなかったことを多く学んでいる。確かに賢いと思うが、そう言うことは真面目に授業受けてから言え。では次の訳を、後ろの葛尾くずお、ピリオドまで訳してくれ」

「やってませ〜ん」

「……後で坂本と職員室に来い。葛尾の後ろの広瀬(ひろせ)、ピリオドまで訳してくれ」

「すんません。当たるところと違う箇所を訳してます」

 僕の前に座る広瀬くんの声はバツが悪そうだった。ピロシキ、葛尾くん、広瀬くんの顔を順繰じゅんぐりに眺めたゴリラが「お前らなぁ」と呆れた。

「オレは先週言ったよな? このページを来週、つまり今日までに訳してくることが宿題だと」

「すんません。悪戦苦闘の末、一分前に訳し終えました。自分のところだけ」

「……坂本や葛尾と一緒に広瀬と鈴城すずきのバカも職員室に来い」

 ちょ、僕まで!?

「先生! 僕まだ当たってもないんですけど!? せめて僕にも訳くらいさせて下さいよ!」

「鈴城、去年一年間の自分のテスト結果を思い出してみろ」

 結果? バカ言っちゃいけない。

「過去にこだわってるとちっちゃい人間になるって昔近所のばあちゃんが言ってました!」

「お前は拘れ。それとそのばあさんを呼んで来い。明らかに言う相手を間違えてるから」

「ちなみに一昨年おととしばあちゃんに会ったら泣かれました!」

「お前の成長したベクトルが斜め上過ぎて不憫ふびんで仕方なかったんだろう。そのばあさんは」

「ばあちゃんの悪口を言わないで下さい!」

「よく聞け。ばあさんの悪口は言ってない。お前の悪口を言ってるんだ」

 悪口を言われていたのは僕なのか!?

「酷いですよ! 名誉毀損? で訴えますよ!?」

「よく言えたな名誉毀損。ちなみにどう言う意味か説明してみろ」

「くっ、やはり先生の言う通り、僕に外来語を訳す能力はないのか……?」

「――今までの会話は全て日本語だからな鈴城」

 ゴリラに盛大な溜め息を吐かれた。

「要するに、お前に英訳は無理なんだ」

 英訳が無理? そんなもの勘でなんとかしてみせるさ!

「殺ればできると言うところを見せてやります!」

「殺るな。遣れ。遣る気があるならさっさと訳せ。十三行目の一文をピリオドまでだ」

「時間を下さい!」

 ゴリラが腕時計を一瞥する。

「今から訳すのか? はぁ……五分だけだぞ」

「足りません! 一時間下さい!」

「クラスメイト全員を付き合わせた個人授業をさせるな」

「みんなは心が広いので英訳の二時間や三時間、余裕で待ってくれます!」

「時間を増やすな。オレが持たんわ!」

「隣の新海さんも待ってくれるって言ってます!」

「鈴城、オレの話を聞け」

「わ、わたし、鈴城くんが英訳できるまで待てます!」

「落ち着け新海」

「ほら、新海さんもこう言ってくれてることですし、三時間くらい待ってて下さ眉間があああぁぁぁ!?」

 ゴリラの投擲とうてきしたチョークが眉間にサクッと刺さってる。

「さっさと訳せ」

「はい」

 どれどれ?

 十三行目の一文は『Bob regularly goes to the hospital.』と書いある。

 えっと『ぼびぃ、れぐらりぃ? ごず、とぅ、ざ、ほすぴたる?』と読むのかな? 僕の知識を総動員した結果、英語は後ろから訳して辻褄つじつまを合わせると過去検索にヒットした。後ろから後ろからっと。

 ざ、ほすぴたるは、アレだ……病院? 美容院? 病院だよね? とぅ? とぅってなんだっけ? ご、ごず、ごずは、行くのなんちゃら系だよね? れぐらりぃ? なんだよれぐらりぃって。これはアレだ。要らない単語だ。危ない危ない。危うく騙されるところだった。ぼびぃ? ぼびぃもアレだ要らない単語だ。――ふふ、解った。いや、閃いた。訳がパッと脳内で開花したよ!

「先生解りましたよ!」

「言ってみろ」

「訳は『病院へ行く』です」

 僕が言うや微かな物擦れ音が一瞬で止まり、教室中が無音になった。

 ゴリラが口を開く。

「そうか……解らないからと言ってボブすらすっ飛ばしたか」

「怖いくらい完璧に訳せました。どうですか先生!」

 ふっ、とゴリラが僕に微笑みかけた。

「オレがお前にしてやれることは、なにもない」

 怒られるでもなく、諭されるでもなく――

「見捨てられた!?」

 教室中から笑われてしまった。


 ◆◆◆


 その後も笑われ続けた僕は、なんとか七限目まで乗りきり、どうにかSHRまで漕ぎ着けた。放課後まであと少し。慣例通りのSHRを終えた満身創痍な片桐先生(顔も心もボロボロ)が教室を出て行く。

 相庭さんに謝ろう謝ろうと思っていたけど、決心が鈍り、とうとう放課後まできちゃった訳で、今日謝るとしたら、機会は――今しかない。

 ――よ、よし、謝るぞ!

 その時、なぜか後ろ――僕を一瞥したのだろうか?――を振り向いた相庭さんと目が合った。

「え?」

 一瞬、胃が萎縮したけれど、どうにか自分を奮い立たせた僕は、椅子をね飛ばすように、ガタッと勢いよく立ち上がった。

「あふんっ!」

 後ろから悲鳴が!?

「あ!? ごめん!」

 僕が勢いよく蹴飛ばした椅子が、背後の妹尾(せのお)くんと彼の机を丸ごと吹き飛ばしてしまったらしい。妹尾くんが机に潰される形で椅子ごと仰向けにひっくり返って、床に転がっていた。急いで妹尾くんを起こし、体の安否を確認。妹尾くんが「怪我はないよ、ぐふ」と告げてくれた頃には、既に相庭さん以下【親衛隊】の数名は忽然こつぜんと教室から消えていた。

 取るものも取らず、急いで教室を飛び出し下駄箱まで走ったけれど、相庭さんの出席番号たる一番の靴箱には、既に上履きが入っていた。もう校舎内には居ない。でも、SHRが終わってまだ五分くらいだ。

「走ればまだ間に合うかも――いや間に合ってみせる!」

 土足に履き替えてすくにダッシュ――できなかった。下駄箱を飛び出したは良いけど、校舎外の十字路まで到着してそこで二の足を踏んでしまう。立ち尽くしてしまう。

 理由は簡単だった。我が校には校門が東西南北と四ヶ所ある。それに加えて通学方法は高校からの距離により、徒歩、自転車、バイク(原付、小型二輪、普通二輪)、バスに分かれる。

 駅や商店街方面なら徒歩か自転車を使い、山や海方面ならバイクかバスだ。

 相庭さんがどの校門から、なにを使用して帰宅するのかを僕は知らない。いや、少しだけなら知っている。

「確か……新海さんが言ってたよね。部活に入ってない相庭さんは学校が終わるとすぐ遊びに繰り出すか、電車を使って自宅最寄り駅まで帰る、と……」

 遊びに行くなら自転車なり原付きなり普通二輪なりでニケツ(道交法違反)して市街地に繰り出す。アミューズメント施設は商店街を突っ切った方が早いので、西門だ。

 即帰宅するなら、駅方面を徒歩かニケツ(道交法違反)で、南門だ。

 どっち? 確率は二分の一。どっちに行く? オロオロしている間にも、相庭さんは進んでしまうだろう。

「……どっちだろう?」

 考え込む僕に声がかかる。

「往来のど真ん中で立ち往生してると邪魔よ」

「あ、すみません」

 反射的に背後へ振り返って謝ると、

「――って、相庭さん!?」

 声の主はエロい巨乳美人さんこと相庭さんだった。

「大きな声を出さなくても聞こえるわよ」

 相庭さんは不機嫌そうに眉間にしわを作り、僕の横をさっさと通り過ぎて行く。南門の方角・駅方面だ。新海さん情報が正しいならば、今日の相庭さんはすぐに帰宅するルートらしい。その後ろを【親衛隊】二十八名が金魚の糞みたいに付いていく。……教室から出て僅か五分で二十人も膨れ上がるとは【親衛隊】恐るべし。

 それと、僕はいつの間にこの集団を抜いたのだろう?

 あ、そんな疑問を浮かべている場合じゃなかった。

「相庭さん!」

 相庭さんが迷惑そうに振り替える。呼び掛けに一々立ち止まってくれるとは、以外と律儀な人なのかも知れない。

「大声を出さないで。鈴城くんには私が耳の遠い老人にでも見えるのかしら?」

 【親衛隊】の集団から五分刈り頭がしゃしゃり出てくる。

「こいつ昨日から生意気ですよね? お嬢、オレがヤっちゃいましょうか?」

「ヤっちゃわないの。昨日言った通り彼には手を出さないで。それと『お嬢』はやめてって言ってるでしょ? 私は猿山の大将でもヤクザの姐さんでもないの」

 相庭さんは「お嬢」と呼ばれているのか!?

 吹き出しそうになったけどなんとかこらえた。

「それで、なんの用件?」

 取り巻きに「お嬢」と呼ばれていることが恥ずかしいらしく、相庭さんは頬を少しだけ赤くして唇をとがらせた。

「このあとなにか急ぎの用事がありますか?」

「今日は特にない。でも、昨日のことがあって鈴城くんとこうして話す気分じゃないのは、察してくれるかしら?」

 相庭さんは腕を組み、溜め息をついた。

「……はい。解りますん」

「どっち?」

 僕は周囲を見回す。

 ここは人の行き交う場所だ。できれば静かな場所で相庭さんに謝罪したい。

 今はSHRが速く終了したクラスの帰宅組がここを通っている。しかし、もうすぐいろんな学年のクラスから人がごった返してこの往来を通るだろう。そうなるとハリノムシロだ。今でさえ数人の野次馬と【親衛隊】に囲まれていてギブアップ気味。人だかりの中心が、エロい巨乳美人さんとえない僕では、要らない誤解を受けてしまう。この場をどうにかして移したいのだ。

 相庭さんはイライラがつのっているような顔で口を開きかけたが、僕がさえぎる。

「どこか静かな場所で話したいんですけど、ありですか?」

「……良いわ。教室に戻りましょう」

 相庭さん一行プラスアルファは教室へと進路を変更した。


 ◆◆◆


 引き返したニ‐Cの教室には既に二名しか居なかった。その二名は談笑していたが僕が教室に踏み込むと手を上げて迎えてくれた。

 ピロシキが「妹尾せのお涙目だったぞ?」と笑い、ジジイが「明日もう一度謝るんじゃぞ?」と人道をいた。連日謝る予定が入る僕っていったい……。

「んで、お前はどこに行ってたんだよ?」

 僕の背後を視線で誘導してピロシキの疑問に答える。

「相庭さんを捕まえに」

「鈴城くん。それだと私が犯罪者に聴こえるわ。訂正して」

「相庭さんを捕獲しに」

「鈴城くん。それだと私が珍獣に聴こえるわ。訂正して」

 あれ? あれれ? これも違いますか?

 それじゃあ――

「相庭さんを乱獲しに」

「鈴城くん。私は人よ?」

 これも違いますか?

「えと、それじゃあ――」

 ピロシキが口を挟む。

「梨華は珍獣だろ? 人扱いなんてしてやる必要ねえし」

五月蝿うるさい。寛貴には訊いてないでしょ?」

 梨華? 寛貴? おやおや? ピロシキは相庭さんを知っている風だったけど相庭さんもピロシキと旧知の中みたいだね。場違いな考えだけど、美男美女が睨み合う姿は絵になるなぁ。

 いがみ合っている二人だけれど、これはもしかしてツンデレとか言う、特殊なラブラブ関係ですか?

「メガネ三つ編みブスが高校デビューとか気取ってんじゃねえぞ!」

「な!? それは言わないでって言ったでしょ!? この痴漢男!!」

「ちょ!? 俺は痴漢男じゃねえよ!! アレは勘違いだろ!? 俺潔白だろ!?」

 ラブラブどころか痛いレベルの口論が始まっちゃったよ。

 ちょいちょいとジジイに手招きされる。僕はこれ幸いにとジジイの元へエスケープ。

「二人は顔見知りかなぁ?」

「うむ。痴話喧嘩みたいじゃのぉ」

 夫婦喧嘩は犬も食わないらしい。心中で呟いたけど意味は解らないよ?

 僕とジジイは顔を見合わせてニヤニヤする。ジジイがピロシキと相庭さんを顎で指した。

「あの痴話喧嘩じゃが、優哉はなにか知っておるか? わしは寛貴から、相庭の話など聞いたことがなかったが、あの様子は浅からぬえにしと見える」

「僕よりピロシキと付き合いの長いジジイの方がなにか知ってると思ったんだけど、そうかジジイも知らないのか」

「付き合いが長いもなにも、お主と同様に寛貴とは去年からの付き合いじゃ。中学が違うからのぉ」

 ピロシキとジジイは地元組だけど学区が違ったらしい。

「ピロシキと相庭さんは昔からの知り合いみたいだね」

 オーディエンスと化した僕とジジイは勿論もちろんのこと【親衛隊】の面々も、この状況に戸惑いながら隣のヤツと情報交換をしている。

 相庭さんが蔑むような瞳をピロシキに向けた。

「勘違い? 都合の良い言葉ね。バカじゃないの?」

 対するピロシキが眉をつり上げて肩を怒らせる。

「言うに事欠いてバカとはなんだバカとは! 俺はお前より賢いぞ!」

 見た目中身ともに軽いイケメンは、こう見えて学年次席だったりする。

「それはどの口がほざいてるの? まさか寛貴の口じゃないわよね?」

 この不毛な言い争いは中断させた方が良いよね?

「止めた方が良いよね?」

「人道的には肯定。個人的には触らぬ神にたたりなし、の精神じゃ」

「余計なちょっかいは出すなってこと?」

「うむ」

 静観を決め込むジジイの言動は正しいようで違う気がする。

 激化した中に飛び込むのは恐いけど、どんな形であれ、僕は相庭さんを不愉快にしたのだ。ちゃんと謝らなくちゃ。

「……よ、よし、行くぞ!」

「まだ早いと思うがのぉ」

 僕の意見を尊重してくれたジジイが「頑張れ」と背中を押してくれる。

 僕は自分を奮い立たせるように腹に力を込め、つとめて一歩を踏み出した。

「あの、相庭さん、昨日は僕が――」

「優哉は悪くねえだろ? 昨日のは全面的に梨華が悪い! なあ優哉?」

「寛貴の意見なんて誰も聞かない。聞く価値がない。鈴城くんは鈴城くんの思った通りに言いなさい!」

 ピロシキと相庭さんの睥睨へいげいに涙が出た。

 ちょっとチビった。

「いや、あの、僕は相庭さんに話が――」

 ピロシキが僕に向き直り相庭さんを指差した。

「なにが思った通りに言いなさいだ。優哉こんな珍獣に謝ることなんてねえぞ指があああぁぁぁ!?」

 ピロシキの指を折った相庭さんが僕に向き直る。

「寛貴五月蝿い。鈴城くんは私と話してるの。見ていて解らない?」

 解らない。ピロシキの指を折る動作が自然過ぎて疑問をどこに挟んだら良いか解らない。

「くうぅぅぅ……舐めた真似しやがってこのメガネ三つ編みドブスが!」

 人差し指を押さえたピロシキが怨嗟えんさを吐いた。ともすれば相庭さんの瞳が抜き身の刃と言うか、剣呑な雰囲気を帯びる。

「……頭きた。寛貴にやられたって叫びながら服を破って外に出てやろうかしら」

 相庭さんそれ反則技!

「お〜お〜、やってみろよ。ここに居るヤツラが俺の証人になってくれるさ。俺は痛くも痒くもねえぞ。それにお前みたいなドブスを抱く日がくるなんて俺には一生来ねえよ!」

「誰がドブスよ!? もう一度言ってみなさい!」

 ふんっと鼻で笑うピロシキ。

「梨華だ梨華。鏡で自分の顔を見てみろや、なあ優哉?」

 相庭さんがピロシキからかばうように僕の前へ立つ。

「鈴城くんを抱き込んで苛めないの。可哀想でしょ?」

「え? 別に僕はピロシキに苛められてる訳じゃ――」

 相庭さんに般若より恐ろしい形相ぎょうそうを向けられた。

 寿命が二年くらい縮んだ。

「俺は優哉を苛めてねえ! 苛めてねえよな? なあ優哉?」

「どちらかと言うとピロシキが相庭さんに苛められ――」

 相庭さんに羅刹女らせつにょより恐ろしい形相を向けられた。

 僕に明日は来ないかもしれない。

「苛めてないって言ってるクセに、口で強引に誘導してるじゃない!」

 ヒートアップする相庭さん。

「意味解んねえよ!? 俺のどこが優哉を苛めてんだよ!? 言ってみろやコラ!」

 ヒートアップするピロシキ。

「凄めば怖がるとでも思ってるの? 痴漢男!!」

「おまっ!? 俺は痴漢なんかしてねえって何回言えば解るんだ!!」

 罵詈雑言飛び交う場はしばらくやみそうにない。

 ああ……僕、なけなしの勇気を振り絞ったのに……。

「僕の決意が……」

 ジジイにポンと肩を叩かれた。

でも打たぬか?」

「ルールを教えてね!」


 ――現実逃避開始!


 輪から抜け出して教室のすみに移動完了。

 ジジイがマイ碁盤とマイ碁石をザックから取り出し、ルールと実演を兼ねて一局開始。

「――出口、もしくは四方を囲まれてしまうとその場はその色の石の支配領域となるのじゃ、このように」

 パチン。

「へ〜」


 待避した僕らが、教室の隅で囲碁を打ち付け始めて、五分が経過した頃……。


 パチン。

「パチン? な!? お前らなに悠長に五目並べとかやってやがるっ!!」と、ピロシキがこちらへ怒鳴る。

「鈴城くん。私は鈴城くんを守る為に闘っていたのに、これはなにをしているのかしら?」と、相庭さんも振り返る。

 【親衛隊】をき分けた美男美女がテクテクと僕らに近寄ってきた。

 ジャラジャラ……パチン。

「上級テクニックじゃが、相手にわざと取らせて陣地を広げる手もある。このように」

 パチン。

「うわっ! いちに〜さんし〜、いっきに八個も取られた!」

「注意力散漫じゃな優哉」

「こんなに囲まれるまで気付かないなんて悔しい!」

 スキル「負けん気」発動。

「鈴城くん」と相庭さん。

「あと二秒お待ち下さい」


 三分後。


「……鈴城くん? そろそろ私帰って良い?」

 羅刹女がそこに居た。

「ん? あ、ちょっと待って下さいっ!!」


 ――現実逃避終了。


「昨日はすみませんでした」

 相庭さんに改めて向き直った僕は、軽く頭を下げた。

 対するエロい巨乳美人さんこと、相庭さんは腕を組んで仁王立ち。プラス無言と冷徹な双眸そうぼうを僕へ不躾ぶしつけにぶつけてくる。

「すみませんでした」

 他の言葉を重ねれば泥沼化する。それくらい僕にも解る。だから、余計な発言は付随ふずいしない。最低限の言葉しか告げない。あとは相庭さんの動向待ちだ。

「一応、昨日の暴言は行き過ぎたと思ってる訳ね」

 昨日の暴言は行き過ぎた?

「いえ、全然」

「え?」

「僕、行き過ぎたとは多少思いましたけど、暴言ではないと思ってます、はい」

 発言の内容を謝るつもりは毛頭ない。これは行為を謝っているのだ。不愉快にさせた行為を。

「……それじゃあ、君はなにについて私に謝ってるの?」

「気分を害す? ……で合ってますか?」

「え?」

 相庭さんの表情は意表を突かれた人のそれだ。

 僕の斜め後ろに座るジジイが助言をくれた。

「無理をして自分の解らない言葉を使うより、稚拙ちせつでも自分の知る言葉で謝る方が、相手へ真摯しんしに伝わるもんじゃ」

 ――そう言うもんか。

 ならば。

「相庭さん!」

 僕は教室中に響き渡る大声を上げた。【親衛隊】も相庭さんもピロシキも皆、目を細めて同様の顔をしている。

「……鈴城くん。五月蝿い」

 ――すみません。

「それで?」

 冷徹な双眸の相庭さんに促されて胃が萎縮する。しかし、ポンポンとジジイが背中を押してくれた。

「昨日はすみませんでした! 相庭さんはブスじゃないのにブスとか言ってすみませんでした! ほんとは美人だなぁとか、エロいなぁとか、立ち振舞いが凛々しいなぁとか、思ってます! 以上です!」

 相庭さんの瞳を凝視したまま言い切った。

「……後半部分は要らないだろ」

 黙れピロシキ! 言ったあとで僕も気付いたんだよ!

 相庭さんは眉間を揉み揉みしながら、長い長い溜め息をついた。

「……言いたいことはそれだけ? もう帰っていいかしら?」

「あ……はい」

 頷く以外にこの場を乗り切る方法が思い付かなかった。


 ◆◆◆


 相庭さんWith【親衛隊】が立ち去った教室に、当然の如く僕とピロシキとジジイが残った。

 机の上に座る誰もがとりとめもない会話を交わす。適当にバラエティーや音楽番組でお茶を濁したあとで、さくっとピロシキが切り出した。

「――んで、梨華(りか)に謝って満足したか?」

 このあとどうしたものかと内心で唸っていた僕だけど、これは余りにも直球だ――自己満足の度合いを訊くだなんて気心の知れた中だからかな。そろそろ付き合いも十五ヶ月になるし、それを勘定に入れれば遠慮する仲でもないか。

「……一応ね。体裁? は取り繕えたけど、このあとどうしたら良いかはさっぱりだよ」

「ふ〜ん」

 それっきり興味が失せたのかピロシキは僕に向けていた顔を逸らして、左頬を揉みながら窓の外を眺めた。

 いつもピロシキは言いっぱなしの投げっぱなしだ。斬り込み隊長役は買うが、他の面倒臭いことはジジイにさせろとばかりにだんまりを決め込む。

 心をさらけ出したんだから、ちょっとくらいアドバイスをくれても良いんじゃないか、と僕は内心でふくれた。

「どうしたら良いか解らない、か」

 僕の意識を汲み取ったジジイが、人の良い笑みを浮かべていた。

「解らないよ。罪悪感は少し払拭? できたけど、もう一度相庭さんに謝れば良いのか、もう謝らなくて良いのか、さっぱり」

「もう謝らなくても良かろう」

「そうかなぁ……?」

「謝罪の心意気は伝わっておるはずじゃ。アレでベターじゃろうて」

 そうかなぁ……?

 ピロシキがフンと鼻を鳴らす。

「はっ、くだらねえ」

 ぷちっと来た。

「それ僕に喧嘩を売ってる認識で良いよねピロシキ」

「だから、ピロシキはヤメロって何回言わせるんだテメエは」

 僕とピロシキは向かい合って飛び掛かる態勢に入った。切っ掛けがあればどちらからともなく取っ組み合いが始まる状態だ。

「互いに構えるでない」

 ムンズとジジイに襟を掴まれて、宙ぶらりんな僕とピロシキ。

 中肉中背の二人を軽々と片手で持ち上げるなんて……。

 険悪な雰囲気が一気に吹き飛んだ僕とピロシキは、互いに顔を見合わせて目配せ。


 ――ジジイは人か?


 ◆◆◆


 ピロシキやジジイの二人とともに下校して、素直に寮へ戻った僕は、着替えもそこそこに、ベッドの上へ倒れ込んだ。

 二人の前では平静を装っていたけれど、もう限界だった。

 ――頭が割れそうだ。

 頭が割れそうなほど痛い。この頭痛の原因はなにか解っている。物事を深く深く思考しているからだ。普段頭を使わない僕は考えごとをする行為が苦手で、度が過ぎると偏頭痛がやってくる。だから、極力物事を楽に考える――考えるようにしている。

 けれど、今日ばかりは脳に無理をさせた。ジジイやピロシキと別れてから、思考を拒否する脳に鞭打ち、脳内をフル回転させたのだ。

 なにをかって?

 新海さんのことだ。新海さんの視線の先のことだ。

 一つの懸念に折り合いを付けて、次の水色便箋事件に取り掛かろうとした矢先のことだ。

 昼休みに気付いた――僕にとっての惨事さんじが、今の今まで意識の中で鎌首かまくびをもたげていたのだ。

 ――新海さんは……ジジイのことが。

 脳に焼きごてを押し付けられた気分と言うか……このままだと頭が爆発しそうで、自然と視界が涙でにじんでくる。一度脳内を整理する為に、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して鼻から含んだ。

 ――痛かった。

 ちょっと落ち着いたので、新海さんの視線の先について考えてみた。


 僕のクラスには鳳祐介おおとりゆうすけと言う高校二年の同級生が居る。

 ピロシキや新海さんと同様に去年からの付き合いだ。

 不慣れな土地に引っ越して来た僕を、ピロシキや新海さんとともに、さりげなくアレやコレやと世話を焼いてくれた大変面倒見の良いヤツで、見知らぬ土地で誰一人知り合いの居なかった僕は、鳳祐介に何度も救われたと言うか、物凄く安堵した覚えがある。

 僕に深入りしないピロシキや僕から一歩引いている新海さんに比べて、鳳祐介はギリギリのラインを見極めて深入りしてくる心地良いヤツだ。

 この鳳祐介とは妙にウマが合う。遊びに行く時は必ずメンバーに居るし、皆のストッパー役だけど、ノリが良くて一緒になって無茶もする。過度に真面目過ぎない、話の解る男だ。

 そんな鳳祐介に、僕は一目置いている――と言うか、かなり尊敬していたりする。

 賢くて、温厚で、豪快で、男らしいし、話が解るし、生まれ変わるなら、なってみたい人物の一人だ。

 こんなこと言うのは恥ずかしいけど、鳳祐介のことを親友だと思っている。あちらはどう思っているか解らないけれど、僕は鳳祐介になら裏切られても笑って許せる自信がある。

 ――あると思っていた。

 今日の昼休みまでは。

 嫉妬はカッコ悪い。嫉妬は醜い。嫉妬するヤツなんてサイテーだと常々僕は思っていた。

 けれど、僕は嫉妬した。親友だと思っている、鳳祐介に。新海さんが惚れている、鳳祐介に。

 しかし、嫉妬と同時に落ち込んだ。

 だって……納得したから。

 新海さんが鳳祐介に惚れない要素など、ないからだ。

 例えば僕が女の子に生まれていたとしよう。十中八九、鳳祐介に惚れていたことが安易に想像できる。

 勉強も運動も人並み以上で、付き合いも良く、容姿も――僕らは冗談で茶化しているが――悪くない。これと言った欠点は特に見当たらず、良いところは、先ほども独白した性格だ。温厚で人間ができていて、気配きくばりと行動力が備わった破格の人格者。

 誰が太刀打ちできようか?

 新海さんは異性として最高に魅力的な鳳祐介に惚れているのだ。

 納得できる。納得できるけれど、盲点だった。違う。僕の中では盲点どころの話ではなかった。

 考えもしなかったことだ。

 考えもしなかったことだけれど、それは当然のことだ。

 僕に好きな人がいるように、新海さんにも好きな人がいて当然なのだ。

 その相手が鳳祐介。僕の身近にいる人物だっただけだ。

 対する僕は短絡的ですぐに手が出るヤツだ。比べるまでもなく、サイテーなヤツだ。

 完全に僕の敗けである。

 スタートラインからして違う。例えるなら、遠方に見える鳳祐介の背を眺めながら、今から走り始める半周遅れたランナーだ。しかも、相手は高スペックの能力を持っている。僕はどう足掻いても太刀打ちできそうにないすっぴんキャラ。

 この恋心はかないそうにない。

 いや、かないそうにない。

 鳳祐介よりも魅力がない僕に、新海さんを振り向かせる自信がない。


 ならば――


 この恋心を閉じ込めてしまおう。すぐには無理かもしれないけれど、気持ちに蓋をしてしまおう。

 簡単だ。自分の想いに目を瞑れば良いだけなんだ。

 きっと、大丈夫。きっと、この気持ちは風化させていける。いや、風化させてみせる。

 新海さんが幸せならそれで良いんだ。

 僕と新海さんでは釣り合わなくても、鳳祐介と新海さんなら釣り合う。お似合いだ。ベストなんちゃらだ。

 新海さんを諦める為に、僕にできることは、気持ちを風化させることと、新海さんが惚れている鳳祐介との仲を取り持つことだ。

 僕は新海さんが好きだと宣言してしまったけれど、まだ誤魔化せる範囲だよね。妙に鋭い鳳祐介と坂本寛貴さかもとひろきに誤魔化しきれるか少し不安だけど、こうなったら押し通す。

 聞くところによると鳳祐介は相庭さん派だ。なんとか新海さんの良さに気付いて貰うところから始めないとね!

 新海さんの為ならば一肌でも二肌でも脱いで、全裸になっちゃいますよ。御安い御用です。

 ……決意は示した。

 ――明日から……明日はちょっと無理か。僕の心がズタボロなのですよ、はい。えっと、あ、明後日から二人の幸せの為に、全力で頑張るぞ!


 ◆◆◆


 しかし、この決意は、しばらく記憶の片隅へと追いやられることになる。いやそれどころではなくなる。

 明日の来訪者によって。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ