2.青春賛歌
受験したのは加齢臭の姉が住む場所。もしもの時の身元保証人を考えての妥協的選択だ。生まれ育った土地から幾つもの県を越えた土地を受験し、そこの私立綾喃高校に辛くも補欠で受かり、鈴城姫風の居ない平和な高校生デビューを果たした。
慣れない環境――寮生活に四苦八苦していた数ヶ月は、今思えば素敵な思い出。部活は中学から続けているソフトテニスへ入り、青春っぽいものに興じている。
県外からの入学で、当初は方言の壁にかなり困ったけど、一年もすればそれにもなんとか慣れてきた。親友や悪友と呼べる友達もそこそこ出来て、仲の良い女の子も増えている。現在は本当に毎日が幸せで充実しているのだ。
五月三週目の土曜日。
半ドンの放課後にて、テニスコートで半面勝負に興じる僕と友人。点差はスリーオール(三対三)。
「はっ!」
パコン。
「らぁ!」
ポコン。
「優哉」
六度目のラリーで審判役の鳳祐介――通称・ジジイが口を開いた。
「ん? あっ」
しまった! バックハンドで打ち返した球が浅いロブになっちゃった。
「チャーンス! オラッ!!」
対戦相手の坂本寛貴――通称・ピロシキが吠えながら打ち込んだスマッシュは、軽快な音とともにライン際に食い込んで、点差を与えてしまった。
このままだとマズい。昼飯が僕のオゴリになっちゃうよ。
「ジジイ急に声かけるなよ!」
次やったらラケットでしばくぞ?
「すまんすまん。今のはわしが悪かった」
ジジイこと鳳祐介は、色黒で角刈りの身長百九十五センチを誇るガッチリした筋肉巨漢男だ。高校二年生にして一人称を『わし』とか言う爺臭い少年だ。少年?
趣味は確か陶器収集だったかな? とにかく渋い奴で、作務衣とか似合いそう。
温厚で話の解る良い奴だ。
「んでなに? あ、ピロシキ待てよ、まだサーブ打たないでよ」
ネットの向こう側でサービスエースを狙っていたのがピロシキこと坂本寛貴。
親父さんが道路族で多数の引っ越しを経験しているけど、高校受験を機会に地元たるこの土地へ帰ってきたらしい。
炎天下に居るにも関わらず色白中肉中背のイケメン野郎で、セミロングの茶髪を後ろで縛って犬の尻尾みたいにヒョコヒョコさせている。
リアルが充実している野郎で、休日にバッタリ出会すと、必ずと言っていいほど隣に女の子が居る。しかも毎回違う顔ぶれだったりする。今日もこのあとデートだとかで、県を隔てた水族館へ出かけるそうだ。羨ましい。
口は悪いがこいつも良い奴。
「ピロシキ言うな。早くしろよ。オレ喉渇いてんだから。つか、優哉早く負けろよ」
「水道水でも飲んでなよ。んでどうしたのジジイ?」
ピロシキが手持ちぶさたを見せ付けるように、ラケットでテニスシューズの踵をコンコン叩く。ガットが弛むぞ。
ジジイが体操服であるジャージの長ズボンから、じゃらりと鍵束を取り出す。
「先ほどこれを取りにいった時に職員室で聞いたんじゃが、わしらのクラスに転校生が来るらしいぞ」
今は五月半ばだ。時期的に変だね。
「女か?」
こういう話題が大好物のピロシキ。瞳を輝かせて食いつく。
「わしらのクラスに女、隣のD組にも女と、片桐先生が言っておったのぉ」
この時期に二人。実に興味深い話だ。話のネタ程度に。
「同時に二人って……双子か?」
瞳を輝かせながら僕に振るなピロシキ。
「僕に聞くな」
「わしもそれ以上はよく知らん」
巌のような男が腕を組んでピロシキに頷く。それを受けたピロシキが一人うんうん頷いて納得している。
「ふ〜ん。たまたま転校が重なっただけかも知れないパターンもあり得る、と」
それはそれで凄い確率だ。
ピロシキの言動に僕は引っ掛かりを感じた。
「双子と他人どうしの転校生の違いで、ピロシキになにがどう影響するのさ?」
よくぞ気付いた、とばかりにピロシキが唇を釣り上げた。そして真面目な顔で厳かに言う。
「考えてもみろ。双子の場合、一人を抱いたとして、そいつの片割れたるもう一人も抱いたことになるんだぞ。結構背徳的だと思わないか? あとピロシキ言うな」
せんせ〜、ピロシキの脳にウジが湧いてま〜す。
「なんじゃその理論は?」
「ほっとこう」
ジジイは苦笑い、僕は嘆息を返した。
朝起きて、寮から学へ行き、放課後はダラダラ部活に勤しむ。
部活が終わると寮に帰って、風呂へ入って寝る。
陳腐な言葉だけど、これが僕の日常だ。一年かけて日常に持っていった結果だ。悪くないよね? 事件なんて起きない代わりに、大した刺激もない。スローライフ最高。あ、ゆるゆるだから彼女の一人もできないって指摘は勘弁です。身に染みてますから。
今日はまだその日常を消化してる最中。今日は土曜日だ、まだ半日残ってる。午後からどうするかなぁ〜。
「ジジイ掘った芋弄んな?」
「……What time is it now ? と言いたかったんじゃよな? 今は十二時半過ぎじゃ」
「どっか遊びに行かない?」
我が男子ソフトテニス部は弱小の為、顧問の指導が緩い。加えて人数が少ない。先ほど話に出た片桐先生はソフトテニス部顧問兼学年主任兼我らが二年C組の担任でもある。しかし、部活の練習中にも関わらず一向に姿を現さない。いつもこうだ。自主性を重んじているうんたらかんたららしいけど、要は放任主義。だから、今までお遊びに興じていられたんだけど、些か飽きてきた。
「例えば?」
刺激に飢えるジジイが感慨なく合いの手。
「例えば、ピロシキに合コンをセッティングしてもらうとか」
やっぱ高校生なら女の子ときゃっきゃっうふふしながら青春しなきゃね!
「ん〜合コンか、バイトは休みじゃが、今日はそんなに手持ちがないから困ったのぉ」
ジジイがポリポリと耳をかく。
黒く焼けた百九十五センチの厳つい巨人が、可愛らしいエプロン姿で花屋のバイトしている姿を想像して、思わず吹きそうになった。
ジジイが人の良さそうな顔に疑問符を浮かべる。
「なんじゃ?」
「なんでもない。ま、金ならピロシキがおごってくれるから大じょ目がぁぁぁ!?」
僕の眼球にゴムボールがヒット。刺されたように痛い!!
「なに勝手に話進めてんだアホ! あとピロシキ言うな!」
僕はお返しにゴムボールを真上に上げて、地団駄を踏むピロシキに全力でスマッシュ。
「このあとオレサマはデートが二本入ってんだ邪魔すん鼻がぁぁぁ!?」
よし命中。次弾装填。
「てめえ優哉殺すぞ――って危ねえぞコラッ!!」
ちっ、ピロシキの癖に避けやがって。弾丸を補給だ。
僕はゴムボールを四十個ほど容れてあるカゴを無事確保。
「二股野郎は成敗する!」
高くトス。全身で振り抜くように渾身のスマッシュ。
「どわっ!? ヤメロ、痛えだろうが! それに俺は二股なんかしてねえよ!」
ちっ、外したか。
「じゃあ三股?」
羨ましい奴め!
「んにゃ。九股」
真顔のイケメンに殺意が沸いた。半殺し確定だ。
ネット手前の審判台に凭れていたジジイがゆっくりとこちらに歩み寄る。
「――手伝おう」
言ってカゴから球を拾い上げ、マイラケットを握り締めた筋骨隆々な黒鬼がターゲットをロックオン。
「ちょ!? 祐介はヤメロ! オレの体に穴があく!!」
「……わしはどれだけ怪力なんじゃ?」
命中率の高いジジイが、苦笑いしながらゴムボールをトス。
ピロシキが泣いた。ゴムボールが空気のカーテンて奴を貫通。
そして全米も泣いた。
この日から、ピロシキは暫くの間、デートに行けなくなった。
ちなみに、返事のない屍から幾ばくかの夏目漱石さんを頂き、僕とジジイはお昼をそれで済ませることにした。
今日も良い天気だ。
◆◆◆
僕たちは部活を早々に切り上げた。後輩と女性陣に「真面目に練習しなさいよ!」と顰蹙を買いつつ、さっさとテニスコートに屍を残して、バッグ(ラケット二本、テニスシューズ、タオル、清涼飲料水、ゴムボール、制汗スプレーを詰めた専用テニスラケットバッグ)を担ぎジジイと校門を抜けたところで――思い出した。
「あ」
「どうしたんじゃ?」
「ミスコンの投票日って今日までだったっけ?」
「確か……そうじゃったな」
「僕まだ投票してなかった」
「わしはこの手の内容に熱中できるお主らを心底尊敬するぞ」
ジジイはイベントの類い――ミスコンに全く興味がないらしい。いやいやいやミスコンは男の義務でしょう。
「まぁちょっと付き合ってよ。ピロシキの話だと相庭さんに投票すれば、それと引き換えに【親衛隊】からジュースを貰えるらしいし」
「【親衛隊】からジュースを進呈されるとな? ふむ、【親衛隊】で思い出したが、先週の放課後じゃったか、わしが忘れ物を取りに教室へ戻った時に見た風景なのじゃが、その時の教室は異様なムードに満ちておっての。机や椅子をどかして、中央でスクラムを組んだ輩数名が、『今年こそは梨華たんを一位にするZo!』と意気込んでおった。いやはや熱中できるモノがある奴は羨ましい」
梨華たんて……。
相庭さん――相庭梨華は見目麗しい狐顔の美人で、安い文句を使うなら、モデル並みに整ったスタイルと美貌を併せ持つクラスメイトだ。
けど、美人程度に僕は興味ないなぁ。やっぱ性格がよくないとね!
「熱中と言うか宗教に聞こえるのは気のせい? ジュースの件だけど、ピロシキの話はともかく、佐竹くんや広瀬くんは相庭さんに投票したらしい。そしたら、その場で漏れなく貰えたって話だよ」
「ほぉ、それは良いことを聞いた。ならばついでじゃ。わしも相庭に入れるかのぉ。もし貰えなかった時は、もう一発寛貴にスマッシュの刑じゃな」
僕が話を振ったとは言え、ジジイは既に投票の権利をジュースに変える気満々だった。
投票場所は一号棟(各部室と生徒会室、職員室と専門教室がある)にあるけど、僕たちの靴箱がある場所はそこから四百メートルほど離れた五号棟(進学科と特別進学科がある)だ。
距離があるので、一号棟にさっさと入って来客用のスリッパを失敬した。
テニスコートは一号棟の目の前にあるので、横を通り抜ける際「鈴城、鳳、帰んなぁぁぁ!」と喚かれたのはご愛敬。
面倒な鍵の施錠を押し付けたからソフテニ女子部長はご立腹なのだ。
一瞥した屍はテニスコートの端にまだ横たわっている。
投票場所へ行くまでに途中数人の男女とすれ違ったけど、各々手に手にペットボトルのジュースを持っていた。
【親衛隊】の買収話に信憑性が出てきた。四階にある生徒会室手前の選挙管理室までやってくると、痩せてる奴太ってる奴背の高い奴モヤシみたいな奴オカマエトセトラな色とりどりの野郎九十人ばかりに囲まれた。
どいつの目もどことなく焦点が合わず虚ろと言うか、バイオハザードのTウィルス感染者みたいだった。
こいつらは件の勧誘軍団――【相庭梨華親衛隊】だ。
その中心に見慣れた人物が居た。
「……なにしてんすか片桐先生」
ジジイに負けず劣らずの色黒マッチョ担任(学年主任)が額に「とりあえず梨華ちゃんに一票を!」とロゴの入ったピンク色のハチマキと法被を纏っていた。
法被の背中にも「I LOVE 梨華 ☆」とプリントされているではないか。先生必死だな。
ジュース資金の出所が解った気がする。
「おぉ、良いところに来たな鳳、鈴城!」
面食らった僕とジジイは思わず顔を見合わせる。
「ここでなにしてるんですか? 先生」
片桐先生は二度目の疑問にも答えず――
「ここに来たってことは投票はまだだよな? よく来たよく来た。投票用紙は、これだ。鉛筆は、これを使え。あとは、解るな?」
投票箱の横にある紙を渡して、筆記用具まで手渡してくれて、あまつさえ「筆記しにくいだろう?」と台まで持ってきてくださった。
僕とジジイは片桐先生から背を向けてナノデシベルで囁き合う。
「……優哉」
「……喋らない」
「……片桐先生の目が」
「……振り向かない」
「……虚ろなんじゃが」
「……誰かに洗脳されたみたいだね」
背後から物凄いプレッシャーを感じる。暑くないのに、背中からダラダラ汗が垂れてるよ。
ちらりと背後の担任を一瞥したけど、我らが担任の目は死んだ魚みたいに白く濁って……焦点が合ってなかった。あれも感染者か。
突如背中越しの威圧感が膨れ上がった。異能力バトルの開始? ロケットランチャーなんて持ってないぞ。
「鳳、鈴城、どうした? まだ書いてないじゃないか。はは〜ん。先生を焦らす気だな?」
違った。普通に担任が圧力をかけてきただけだった。つか、オッサン焦らして僕らになんのメリットがあるんだ。
「鈴城ぃ〜」と、ぐっと両肩を背後から掴まれた。
食い込んでる食い込んでる爪が食い込んでるよ!
「明記する名前はぁ……『相庭梨華』だぁ……解るなぁ?」
解んない解んないよ! つか、臭い臭い息が臭い。零距離でハァハァするな!
不意に「ん? これは?」と隣のジジイが声を上げる。これ幸いとジジイに便乗。
「ジジイどうしたの?」
ジジイは投票用紙を両手に持っていた。訂正。藍色の紙を含めて紙を三枚持ち上げた。
「カーボン紙やんけ!」
僕にも同じ細工がしてあった。短時間で一人につき二票獲得させる作戦とは、やるな片桐!
「ちっ、バレたか!」
「ばれない方がアホだろっ!?」
「これはダメじゃな。有効票を水増しするのはルール違反じゃ」
ジジイは苦笑いしながらビリビリと投票用紙を破る。
途端に唇を尖らせた担任が喚いた。
「良いじゃん良いじゃん! 梨華ちゃんが一位になる協力してくれたって良いじゃん!」
梨華『ちゃん』て。
耳から変な汁が出そうだ。
「なんだよ? 梨華ちゃんに入れて欲しいって頼むのがダメなのかよ?」
幼児退行しつつつぶらな瞳で訴えかけるな!
「クズだね」
「模範的な反面教師じゃな」
片桐先生はだめ押しとばかりに両手にペットボトルを握り締める。
「ジュース上げるからさぁ!」
ええい、生徒を物で釣るな!
「ならば、ジュース二本でどうだっ!?」
ほんとダメだなこの教師は!
「ふむ。ならば、ジュース五本で手を打とう」
「ジジイッ!?」
目の前でジジイと片桐がガッチリ握手。
――裏切られた!?
あ〜もうこの学校辞めたい……。
◆◆◆
一度寮に戻って私服に着替えた僕は、再度ジジイと落ち合って、セルフうどんで胃の中を満たした。本場の隣県だけあって、手軽で安くて美味い。ごちそうさまでしたぁ〜、と店内から出る。
行くあてがないので、都市中心部の駅前を、野郎二人でフラフラすることにした。
すれ違うカップルたちを見つめる僕。羨ましいなぁ。
「……彼女かぁ。良いなぁ」
僕はクラスメイトの一人を想い浮かべながら呟いた。
彼女になってくれるなら、誰でも良いって訳じゃない。
けれど、不特定多数の女の子にモテまくるイケメン野郎のピロシキが心底羨ましい。物語の世界では人間は中身だつ〜けど、やっぱ人間は外見……見た目なのかなぁ。で、でもでも中身も大切だよね?
「彼女とな?」
「モテるピロシキが羨ましいなぁ、って話だよ」
「モテると言えば、お主はピロシキの姉御殿に気に入られとるじゃろ? それで手を打てば良いではないか」
「自分よりデカイ女の人には恐怖しか沸かないよ」
ピロシキ姉は身長百八十センチを誇る引き締まった体躯の持ち主だ。冗談でハグされて死にかけたことがある。
「ふむ、優哉が選べる立場か? わしから見ればただのワガママにしか見えんがのぉ」
胸を抉られた。
「ふふ、月の光がない夜道には気をつけるんだね」
「……堂々とした闇討ち宣言じゃのぉ」
ジジイがわざとらしく首を竦めた。
「バカにしやがって! 僕だって頑張れば彼女の一ダースや二ダースくらい!」
「単位が間違っておるぞ」
「日本語で僕を追い詰めるな!」
「お主との会話はなに語なら通じるんじゃ?」
くそ! どうせ僕は、ショボい特技しかない、ろくなセールスポイントもない、平凡な高校二年生だよ。顔だって十人顔だし。成績だって下の下の下の下だし。乳輪から毛が生えてて(二センチ)密かに育ててるし。
「は!? 僕ってなに一つモテる要素がないっ!?」
「今頃気づいたか」
ジジイが僕の顔、体つき、脳内を順に見透かして、ヤレヤレと首を振った。
「や、そこはキャッチなりリリースなりしてよ!」
「それではバス釣りじゃ。フォローなりツッコむなりと言いたかったんじゃよな?」
「細かいことは良いんだよ!」
恥ずかしいじゃないか!
「……今までよく生きて来られたのぉ」
僕を哀れむような目で見るな!
「ほ、褒めないと人は伸びないんだからね!」
「お主に褒めるところがアレば、わしは両手を挙げて褒めるぞ」
僕はそこまで褒めるところがないのか……。
ジジイが僕の表情を読み取り頭を掻く。
「すまん。言い過ぎた」
……そこで申し訳なさそうに謝るなよ。くすん。
僕が落ち込むのを他所に、ジジイが通りを挟んだ向こう側を顎で指した。
「お、あれは新海と、相庭……か?」
おぉ、眼前にクラスメイト発見! 駅前通りのカフェテリアでケーキを食ってる二人組が居るね。しかも片方は僕の片想いの相手・新海さんだ。校外で会うのはなんだか新鮮な感じがする。これはクラスメイト以上に仲良くなるチャンスかな?
「昔の偉い人は良いこと言った!」
「突然なんじゃ?」
ジジイ引くなよ。僕は復活が早いんだ。テンション上げてくぞ!
「思い立ったが告白! 将を射んとすれば、まずパイルドライバー! と」
「それではただの殺人じゃ」
「なんだとぉ〜?」
「先ほどの前文は突っ込まんからの? あと後文の方じゃが、『将を射んとすれば、まず馬を射よ』じゃからな?」
「ふ、意味合いは大して変わらないよね」
ようは『目標を撃沈しろ』って話だ。今の例えに大した違いはないよね?
「……そうか」
おいジジイ、僕から気まずそうに目を反らすな。咳払いみたいなことすんな!
「んん、ちなみにお主にとってどっちが将でどっちが馬なんじゃ?」
相庭梨華と新海沙雪。例えるなら陽と陰。我が校の男の子なら将は相庭梨華一択だろう。理由は去年文化祭の時に開催されたミスコンで、一年生ながら相庭梨華が見事三位に食い込んだからだ。
相庭梨華は常に男子生徒(プラス一部の教師)の取り巻きが出来るほど人気者で、例の【親衛隊】まであり、今年のミスコン優勝候補筆頭だったりする。
身長百六十センチくらいで見た目ボンキュッボン。顔の輪郭は切れ長の睫毛と鋭い瞳を持つ狐系。目の下の泣きボクロがエロっぽい。艶やかなセミロングの黒髪をシニヨン(お団子頭)にしたり、沢山の三つ編みで飾ったりしている。見た目はかなり綺麗系。人気なのも頷ける。雰囲気からエロい人とか、女王と呼ばれている。
その恩恵(?)で、男に人気が在りすぎるせいか、性格が悪いのか、女子には嫌われてるっぽい、とは坂本寛貴――ピロシキの見解。
打って変わって新海沙雪は地味。うん、ジミーさんだ。胸はペッタンコ。腰は絞まってそう。お尻は……ちょっと解んない。顔は……十人顔。身長は百五十センチくらいで茶髪をポニーテールに結っているのが唯一の特徴。他は……その、セールスポイントが僕並みにないとか。えっと、強いて上げるなら、別け隔てなく誰とでも打ち解ける能力の持ち主で、僕の五倍賢い……ってのがこれまたピロシキ評価。
二人を比べた場合、あきらかに新海さんが見劣りする、らしい。
でも僕は――
「新海さんが将でござるの巻!」
僕は地味可愛い新海さんがお気に入りだ。去年からクラスが同じで、転校したての僕を、親身になって面倒をみてくれたし、今現在は席が隣で、話していて結構面白いし、子犬やハムスターばりの小動物って感じで癒されるのだ。
「ほほぉ、わしからすれば相庭の方が一般的に惹かれる女だと思うのじゃが」
ふん、一般人カテゴリーめ。新海さんの可愛さになぜ気付かない!
「相庭と並ぶと新海には花がな肩が千切れるように痛いいいぃぃぃっ!?」
「僕侮辱罪で脱臼刑!」
ジジイが強引に僕の腕を振り解いた。
「な、なぜ優哉侮辱罪!? どちらかと言えばわしは新海を侮辱したはずじゃろ!?」
「新海さんの侮辱は僕に対する侮辱と同義」
「なんじゃその迷言は!? お主はそこまで新海に入れ込んでおるのか?」
ジジイは解放した腕を撫でさする。
「入れ込んでますがなにか?」
言い切ったら、一瞬ジジイがぽかーんとした。呆気に取られたらしい。
なんだよこの間は? 冗談だよなにか言えよ恥ずかしいじゃないか。
我を取り戻したジジイが自分の右肩を指差す。
「じゃ、じゃからと言って、平然とサブミッションに移行すな!」
新海さんへの入れ込みをスルーしてくれて助かった。
「遠慮しないでよ。いつでもどこでも(ジジイの肩を)外してあげるから」
僕はワキワキと両手を動かす。
「お主は犯罪者予備軍か!」
頷こうとしたら、背後から女の子の声がした。
「……むしろ犯罪者?」
「ぽいね」
「「うわっ!?」」
二人して振り向くと背後になぜか相庭さんと新海さんが居た。今の話、聞かれてた!?
「……リアクションが露骨ね」とクールな相庭さん。
「ひ、酷いよ。そんなに驚かれると、結構傷付くんだけど……」と若干落ち込む新海さん。
六車線挟んだ向こう側の喫茶店にいたクラスメイトが、いきなり背後から現れたんだ。驚きもするさ。もしや、きみたちは神出鬼没スキルの持ち主? ファンタジー(非日常)臭くてそれはそれで有りだね。
「こんちは、相庭さんと新海さん。こんなとこで奇遇だね。なにしてんの?」
喫茶店から出てきたは良いが、僕たちみたいにあてもなくブラブラしてるのかな?
小動物みたいな新海さんはポニーテールの先端を弄んで、モジモジしている。ん〜眼福眼福。
「ウィンドウショッピングを少々してました〜マニーがないので、目の保養で済ませたであります!」
僕になぜか敬礼する新海さん。
「にはは今日は暑いね〜」
と、僕の肩をツンツンする。
いつ見ても新海さんは心のオアシスだ。朗らかな笑み、と然り気ないボディータッチだけで、幸せを感じる。我ながら現金だ。いや、現金でも良いさ。だって新海さんには癒されるし。
駅前のたこ焼きについて語る新海さんを上から下まで観察する。
今日も今日とていつものポニーテール姿だ。服装は、上は水色のカーディガンにインナーは黒色のキャミソール。下はジーンズ地のミニスカートで茶色いブーツを履いていた。
人によっては没個性と言われそうだけど、僕には可愛く見える。理由は簡単。私服姿が見れただけで感動していて、ちょっと見とれてしまったのだ。
あ〜新海さん可愛いなぁ。滅茶苦茶和むわ〜。
「あ〜新海さん可愛いなぁ。滅茶苦茶和むわ〜」
思ったまんま言っちゃったよ僕のバカ!
途端に足元からゆっくり赤くなって――急激な体温の上昇だ。熱射病かな?――いった新海さんが「きゅ? うけ? んい?」と奇声を発して両手ですぐに顔を覆ってしまった。
な、なんか目の前で珍獣が誕生したんですけど。
その珍獣は時折指の間から僕を見上げて、目が合うと「きゅ!? ふひぇ!?」と謎の奇声を発しながら、また顔を覆う作業を繰り返している。
これは保健所に連絡した方が良いだろうか? 未知の生物って引き取ってくれるかなぁ。
「けひ、ひひひ……ひひ……」
ついで新海さんから引きつったような声が聞こえて……いかん! 保健所の前に先ずは精神科に連絡だ。手遅れになる前に!
僕はジジイ(地元の人間)に判断を仰ぐ。
「たった今知り合いが精神を患ったんだけど、大学病院とクリニック、どっちに行けば良いかな?」
新海さんの様子を眺めたジジイが口を開く。
「急ぎならクリニックじゃな。大学病院は紹介状が必要じゃ。近場のクリニックはこの通りを曲がって二本目の十字路を左折すればすぐじゃ」
助かった、それは近いな!
「よし行くぞ新海さん!」
ゆでダコばりに真っ赤な顔の新海さんを率いていざ出発!
「うけへへ……! って、ちょっと待ってちょっと待って! わたしおかしくなってないですから!」
「え?」
とっさに僕が手を離すと、逆にハシッと新海さんに握り返された。しかし、自分の手を見返した新海さんは、ハッとなって手を振り解き、駄々っ子の如く両手を振り回して地団駄を踏む。
相当錯乱してらっしゃる。
普通の人は地団駄なんか踏まない。どう見てもこれは前後不覚状態だ。落ち着かせよう。
「新海さん……」
僕は落ち着かせるように新海さんの肩へ両手を置き、目線を合わせて瞳を覗き込んだ。
「は、はひっ!!」
すると、新海さんが一度だけぴょこんと跳ねた。
「も、もしかして、き、きき、キスでありますか?」
新海さんが目を瞑って唇を少し突き出してくる。
「これは……」と目を丸くするジジイ。僕はジジイの意図を読んで「あぁ」と頷く。
「相当錯乱してるな」
「は? 優哉お主なにを言って――」
ジジイは横でゴチャゴチャと言ってるが無視だ。最優先は新海さんの安否である。
「可哀想に。新海さん大丈夫。大丈夫だよ。怖くない。幻覚か幻聴か躁鬱病か解らないけど、精神病は、誰でも初めは認めたくないものなんだよ」
「へ? あれ? キス……は? って、え、わたしが精神病?」
話に付いてこれない新海さんが目を丸くして吃驚する。だから僕は真剣に首肯した。
「……マジなのかネタなのか」と呟いて、隣で僕の顔を見詰めていたジジイが、瞬きを数度繰り返したあと、ヤレヤレと首を振り、そして「そうじゃな」と援護相槌。
なにその相槌前の首振り。
僕の疑問を他所にジジイは援護を買って出てくれた。
「新海よ、同中のよしみじゃ、策を授けよう。お主はさっさと自分に素直になって、電波キャラを受け入れるべきじゃ」
「待って鳳くん! なんで既に電波キャラ化決定なのわたしっ!?」
僕は無言で雛鳥を見つめる。
新海さんと同じ中学出身のジジイも同じように、産まれたての小鹿を見守る母親のような瞳を電波未遂さんに送っていた。隣の相庭さんは我関せずとばかりに爪を磨いている。
「え? え? なんでそんな生暖かい目でわたしを見るの? 梨華もなんとか言ってよ!」
「知らない」
女友達に見捨てられたのが、ショックだったのか、新海さんの口からエクトプラズムが出てる。
僕はこの哀れな雛鳥に、先ほどよりも努めて優しい声音を心掛けた。
「安心して。僕が付いてる。寂しくなったら電話してくれていいから」
新海さんが嬉しいような、悲しいような、非常に曖昧な表情になった。
「う、うぇ〜ん、そのセリフは違うシチュエーションで聞きたかったよぉ〜……赤外線通信完了だよぉ〜思わぬ収穫だけど失った物の方が多過ぎるよぉ〜」
ぐずぐずえぐえぐ泣いてる新海さんと携帯電話番号&メールアドレスの交換を終えた。
「ほらジジイも交換」
「は? わしもか?」
びゃあああぁぁぁっ! っと先ほどよりも激しく新海さんが咽び泣きはじめた。
どうした!? 病状が悪化したのか!? 早くクリニックへ行かなければ!
新海さんとジジイの携帯電話番号&メールアドレスの交換を急がせた。
「ヴェェェェン! ズズギグンガヴァダジドゴドボォドボォダヂドジデジガビィデグデデダビィビョオオオォォォッ!」
新海さんの涙声は濁音いっぱいでよく聞き取れないし、ペタンと座り込みビョオビョオ泣きじゃくる姿が可哀想で仕方ない。見かねた僕は、なぜか僕をジーと眺めている相庭さんに声をかけた。
「えっと、話は聞いてたよね相庭さん」
「ええ。それでこのあと沙雪とどうするの? デートでも行く?」
エロい美人さんに冷静な声音で返された。ちなみに、エロい美人さんは自分の魅せ方を心得ているようで、胸(巨乳)を覆う面積が極端に少ないホルターネックタイプのワンピースを纏っていらっしゃいます。
「新海さんとデート? そんなことより、新海さんをクリニックに連れて行ってくれないかな?」
「え」
相庭さんに変な顔をされた。拍子抜けされたと言うか、それに近い表情だ。これはこれでレアな顔だけど、どうしたんだエロい人。
「それ本気で言ってるの?」
「うん。女の子どうしの方がより安心するだろうし、クリニックまであとは頼んます」
なにやら相庭さんは自分の眉間をモミモミしてるぞ。健康法の一種かな?
相庭さんが「ふぅ」と目を瞑って一息つく。
このエロい人は仕草の一つ一つが絵になるなぁ。
目を見開いた相庭さんが感心していた僕に頷いた。
「……ええ、任せて」
若干変な間があったが気にしない。
相庭さんが頷いたことに新海さんが目を丸くした。
「ちょっ、梨華!? なんで梨華まで敵なの!? 嫌だよもっと一緒にいてアピールを! アピールタイムを下さい! 病院なんか行きたくないよいやあああぁぁぁ鈴城くぅ〜〜〜〜〜んっ!!」
「今日は諦めなさい。鈴城くんにその気は一欠片もないから」
「梨華、それは嘘だと言って!」
「現実を見なさい」
「いやあああぁぁぁっ!?」
新海さんと相庭さんの声はフェードアウト気味に聞こえなくなった。
去り行くエロい巨乳美人さんと我が癒し系ポニーテールさんの背に合掌。んでもって、エロい美人さんにもう一度合掌。
――実に良い乳でした。
僕は満面の笑みでジジイに向き直る。
「僕たち良いことしたな!」
「鬼じゃなお主」
こんな純情少年に向かってオーガだと?
「僕は鬼じゃない!」
「はぁ……本気でそう思っておるようじゃなお主」とジジイが角刈り頭をポリポリ掻く。
ほんとに意味不明だけど、これだけは解る。テレてるなこいつめ! 人助けにテレちゃってるな! 親切が恥ずかしい年頃だな!! このこの♪
ジジイの脇腹を肘でグリグリしたら、嘆息されてしまった。
「新海が哀れで仕方ないのぉ」
「大丈夫! 早期治療ならすぐ良くなるさ!」
ポジティブに行こう!
「意味を履き違えとるぞ」
「??」
ま、なんにしても、五月の昼下がり、僕たちの友情は尊い一人のクラスメイトを救った。
達成感でいっぱいだった。
◆◆◆
人助けをした土曜日、怠惰に過ごした日曜日を越えて、五月の四週目である憂鬱な月曜日がやってきた。
漸く本日の四限目を終えた昼休み。
僕、ジジイ、ピロシキは第三体育倉庫の日陰で昼食を胃に流し込んでいた。
本日は朝からの雨天により、いつも昼食時に使用している屋上が利用できない為、已むなく体育倉庫を利用してます。
食事を粗方終えたピロシキが口を開く。
「――アメリカの数学者であるジョンは五歳になる娘と朝食をとっていた。娘は手が小さくて、パンにバターを塗るのが下手。だから誤って床にそのパンを落としてしまった。ジョンはバターを塗った面が運良く上を向く確率は二分の一だな、などと思って落下点を見てみると、バターの面が上になっていた。娘は拾い上げたパンを美味しそうに食べた」
これは一人が適当にお題を上げて、残りの二人がそれを答えると言う暇潰しだ。ネタはお題を出す人の感性で決まる。時事、漫画、ゲーム、エロ、地肌、毛根等様々である。
「次の日も娘がパンにバターを塗った途端、床に落とすのを見て二日続けてバターの面が上になる確率は四分の一だな、と床を見ると、バターの面を上にしたパンがこちらを見ていた。この子は運が良いのだろうな、とジョンは思った。そして娘はその日もパンを拾い上げて美味しそうに食べた。しかし、その次の日もそのまた次の日もさらに次の日も娘はバターを塗ったパンを床に落とすのだが、やはりバターの面が上になっている。確率的に、さすがにこれはおかしいとジョンは思い、床からそのパンを拾い上げた。するとどうだろう、バターはそのパンの両面に塗られていたのだ」
しかし、よくもまぁ、こんだけ長いセリフがスラスラと舌も噛まずに口から出るもんだ。
イケメンは舌の作りも違うのだろうか。
そんなことよりも――
「つまらないなぁ。実は娘が息子だったってオチじゃないの?」
「優哉よ、今の話に一体なにを期待していたのじゃ」
ジジイが原料緑茶二十%とプリントされた紙パックの中身を飲み終えてくしゃっと丸める。
残り八十%の成分はなんなんだ。
僕の期待を無視したピロシキが言う。
「ポイントは数学者とバターのパンかな」
「ふむ。久々のアメリカジョークじゃな。しかもマーフィーの法則か。それは別として、その数学者は娘が食べるパンに工夫くらいしてやればよいものを」
なんだその「ま〜ふぃ〜の法則」って。僕が知ってるのは「慣性の法則」くらいだぞ。
「祐介、重箱の隅を突っついたら話が終わるだろ?」
くっ、一気に話が飛んだ。なんだ「じゅうばこのすみ」って。
僕も発言するぞ!
「今のネタってアメリカ人は床に落ちたパンを食べるってジョークだよね?」
二人ともなんだその苦笑いは! 違うのかコンチクショウ!
「いやな、親父の部屋で見付けた古い科学雑誌に『サイエンス』ってのがあって、パンの落下を検証してたことがあったんだよ。祐介の指摘どおり元ネタはマーフィーの法則なんだが。解りやすく言うと、パンが落ちるときは必ずバターの面が下で、標準的な机の高さと、机の縁からパンがはみ出す時に重心の回転移動が加わって、机から床へ落下する間に必ず半回転するらしい。よってバター面が下へ向く確率が二分の一よりも大きくなるって話なんだが……そうか、優哉にはちょっと難しかったか」
哀れんだような目で見るな! 今のは偶々(たまたま)何語か解らなかっただけだ。
「日本語で頼む」
「九割日本語だ」
む〜……九割日本語とな? つまり「ま〜ふぃ〜さん」とやらの苗字は「間亜不意さん」となる訳だね。
「――んな苗字あるかボケェ!」
「は?」
それくらい僕でも解るぞ!
「ピロシキのくせに僕をバカにしてるだろ!?」
「なに一人でキレてんだこいつ? あとピロシキ言うなボケ!」
「ボケ言う奴がボケだボケ!」
「ヤメロ髪を掴むな抜くな!」
ピロシキの髪の毛をむしってやろうとしたところで「る〜るるるる〜」とジジイに諫められた。
ちっ、母狐が呼んでる。巣に戻るか。髪の毛拾いしやがって。
「話を戻すが、マーフィーの法則を謳った御仁は、確かイグノーベル賞を取ったはずじゃったな」
ピロシキが乱れた髪型を整える。
「そうだった気がする。マーフィーの法則もバカだが、それよりもっとバカなのが『ジッパーにペ○スが挟まった場合の対応法』ってやつでイグノーベル心理学賞を受賞したオッサンだろ」
居るのか、そんな人が……。
アレがチャックに挟まったら……悶絶するしかない。想像したらジンジンしてきた。
「他に受賞した御仁は、絵をハトに見分けさせた日本人などもおったな。わし個人としては、アレはノーベル賞ものだと思ったがのぉ」
さっきから気になっていたけど、イグノーベル賞ってなに?
「い――」
「優哉、ノーベル賞って知ってるか?」
くっ僕の質問をピロシキ風情が封殺しやがった。
「の、ノーベル賞くらい知ってるさ! へ、平和賞とか物理学賞とか、偉い人に贈られる賞でしょ? 最近は日本人のじいちゃんが受賞してた……よね?」
売り言葉に買い言葉。けど全然解らない。あてずっぽの適当だ。う、じろじろ見るなピロシキ!
「それでは訊こうか。イグノーベル賞とはなんだ?」
「ぐ……だから、それはノーベル賞の……別バージョン……とか?」
僕を冷ややかな目で見ないで!
「優哉を苛めるのはその辺りでやめてやれ」
ピロシキを諫めながらジジイがヤレヤレと首を横に振る。
「イグノーベル賞は優哉の解答であっておるぞ。別名ギャグノーベル賞じゃからな。世界中からお主の研究結果は『面白いネタである』との受賞を受ける――真剣に研究してきた学者にとっては実に不名誉な賞に変わりないモノでな。ちなみに授賞式は彼の有名なハーバード大学で行われる名誉なモノじゃ」
「ふ〜ん……つまり、イグノーベル賞(?)は『カッとなって殺った。反省はしていない』ってこと?」
ジジイがぽりぽりと頭を掻く。
「どう解釈したらそうなるんじゃ」
ピロシキが僕を嘲笑った。
「読解力の低さを嘆いて勉強させる前に、小学生からやり直させた方が早そうだな」
「失礼な! 九九なら七の段まで完璧だぞ!」
「悪いことは言わない。小学二年生からやり直せ顎ッ!?」
「顎が居留守だボケ!」
ピロシキは僕のアッパーカットの前に沈んだ。白目を剥いてピクピク痙攣している。
ちょっと殺り過ぎたか。
「カッとなって殺った。反省はしていない」
「殺すな殺すな。まだ死んどらん」
なに!? だったら今度こそこの手刀で仕留める!
「ピロシキくたばれ!」
「とどめを刺すな!」
ちっ、運の良い奴め、度々ジジイに命を救われやがって。
ともすればゾンビみたいにピロシキがむくりと起き上がった。
「ひっ!?」
「痛たた……どこまで話したっけな?」
お、顎パンチで記憶が飛んでる。
「マーフィーの法則についてじゃ」とジジイが合いの手を入れた。
「あぁマーフィーの法則か。これを考えた人は稚拙だよな。法則自体もかなり稚拙。失敗するやつは必ず失敗するって理論だし」
なにごともなく語り出されたらそれはそれで怖いな。思い出して仕返しされない為にも、僕は茶々を入れずピロシキの演説に耳を傾けることにした。
「逆説で考えれば、落としたパンがバター側に落下する確率と、仰向けから落とした猫が、着地の際に足から地に着く確率が同じになるなんて、形状もそうだが、重力加速度や摩擦抵抗、落体の法則から考えて有り得ないだろ?」
ふ、重力加速度にまさつていこう、らくたいの法則ね。なにそれ食えんの?
「マーフィーの法則に則り要約すると、前提1・バタートーストを新品のカーペットの上に落とすと、必ずバターの面が下になる。前提2・猫は、高いところから落ちても、必ず足から着地できる。Q.前提二つを踏まえ、バタートーストのバター面を上にして、猫の背中にくくりつける。それを猫ごと新品のカーペットの上へ放り投げるとどうなるか?」
猫とトースト? よく解らないけど面白そうな実験だ。
「どうなるのさ?」
「永久機関が完成する」
全然解らない。
重力加速度、まさつていこう、らくたいの法則、永久機関……なんだその僕を惑わせる数々の必殺技たちは。漫画に出てきそうだよ。「くらえ! まさつていこう!」って感じで。
「い、いかん! 優哉の耳からなにかがでてきたぞ!」
「うわ……赤い――ってこれ 脳脊髄液!?」
目の前が突然暗くなったかと思ったら、川を挟んだ遠くの方に一ヶ所だけ、パッとスポットライトが当たった。
ん、人が居るぞ?
「あれ? ばあちゃんだ。一昨年に亡くなったばあちゃんが川の向こうで手を振ってる」
「優哉、川は渡るでないぞ」
「え〜と、確か橋渡しの代金は六文だよね船頭さん。え、値上がりした? 六千七百三十五円? 高いなぁ……消費税も取るの?」
「んな金払うなよ」
「今財布には……万札一枚しかないんですけど……それじゃあこれで」
「払ったよこのバカ!」
「キャパシティーを超えて脳が破裂したか……これは、助かるのじゃろうか?」
「止めどなく両耳から血が! 輸血! 祐介悠長に観察してないで救急車だ! 早く輸血しないとこいつマジで死ぬぞ!」
倒れていたらしい僕はムクリと起き上がった。
「うっぷす。舟って結構揺れるなぁ……吐きそう……おえっ」
「「吐くな!!」」
「――ぐふっ!!」
痛烈な痛みが僕の身体中を駆け巡った。
「なぜか腹と頭と耳が今猛烈に痛いんだけど、理由を知らない?」
二人は揃って首を横に振る。
ん〜釈然としないけど、まぁいいや。教室に戻ろう、そろそろ五限目が始まる。って、おぁ、貧血かな? 勢いよく立ち上がったら脳がくらくらしたよ。
現代人は亜鉛不足らしいから、小魚とレバーを食べなきゃね!
◆◆◆
放課後になって朝から感じていた違和感にやっと思い至った。
「そう言えば……今日は新海さんて休みなんだね」
「……お主、今頃気付いたのか?」
早々と帰り支度を済ませて僕の前席・広瀬くんの机に座っていた筋肉隆々のジジイが、隣に立つイケメンのピロシキと顔を見合わせつつ、忙しなく瞬きを繰り返している。
「え? 隣が静かだな、くらいには思ってたんだけど。『そうか隣は新海さんだったな!』と気づいたのは、今だ」
「うぅ……わし、涙が出そうじゃ」
ジジイが片手で両目を覆った。
「な、なんでジジイが泣くのさ!?」
「あまりにも新海が浮かばれんからじゃ!」
「新海さんは過去に宙へ浮いた経験が有るの!?」
「どうしたらその発想に行き着くのか解らぬが、とかく、新海が不憫でならん」
ピロシキに肩をポンポンと叩かれて、ジジイが珍しく慰められている。なんだこの光景は。
ま、いっか。
「新海さんも学校来たかったよね」
感慨深く僕が呟くと、背後から苦笑いが聞こえた。
「ちょっとちょっと、沙雪を亡き者にしないであげて」
ぞろぞろと沢山の男子学生を引き連れて登場したのは、クラスメイトのエロい巨乳美人さんだった。百合さんには劣るが、相変わらず見事なメロンさんをお持ちだ。
「お、相庭さんとその他。あれから新海さんはどうなったの?」
昨日のことを訊いてみた。
相庭さんが顎に手を当てて答える。
「沙雪は落ち込んでた。凄くね」
「鬱病かぁ……これから通院するのかな?」
良い心理カウンセラーに巡り会えただろうか。
「通院はしない。そもそも鬱病とは違うからね」
ロングの黒髪で切れ長狐顔の相庭さんに真顔で否定された。感情が乗ってないと結構怖いなこの人。
「え? じゃあなに?」
「鈴城くんは、沙雪が今日学校に来れなかった理由が――落ち込んでる理由が、本当に解らないの?」
来れなかった? 落ち込んでる?
「解らないよ。僕は新海さんじゃないから。現在ブームの鬱病じゃないの?」
「ブームって……凄い言い方ね。残念だけど沙雪は鬱病じゃない。精神的なものだけど、精神病でもない。鈴城くん自身は『沙雪じゃないから想像もつかない』と本当に言い切るの?」
新海さんについてのクイズや謎々だろうか。なんとなくだけど、どちらも違うような気がする。
「……恥ずかしいながら、僕は難しいことを考えるのが得意じゃないんだ。想像しろとか言われても、ちょっと無理」
思考を早々に放棄した僕は、学期末テストだって十問に一問解けるかどうかってレベルだし、去年の学年末テストに至っては、ブービーをぶっちぎってワーストワンを勝ち取った実力を持っているのだ。ふふ、舐めるなよ?
「わざと……ではなさそうね。世に言う鈍感と言うやつかしら?」
漸く相庭さんは目の前にいるのがバカ(僕)だと気付いたのか、投げかける球種を少し変えてくれた。
「なら訊ね方を変えてあげる。沙雪のこと、好き? 嫌い?」
直球だ!!
「好きだけど?」
僕はゼロコンマ一秒で答えた。
誰だって可愛いものは好きだよね?
「さらっと即答したわね。それだけじゃ読み取れないわ」
「読み取る?」
隣の新海さんの席に腰掛けた相庭さんが、顎に手を当てて、僕を足の先から頭のてっぺんまで眺めた。考える人のポーズだ。
「更にアプローチを変えなきゃいけないみたいね」
「アプローチ?」
なんだか……試されてる?
「沙雪と『キス』してみたい?」
それはビーンボールだ相庭さん。
「僕が新海さんと……キス? そ、それは、その、プライバシーのシンギャイの為、ノーコメンロの方向でお願いします」
「鈴城くん、シンギャイとノーコメンロって……」
なにがどう違うのさ?
「侵害とノーコメントじゃな」と苦笑するジジイ。
うわ、僕恥ずかちぃ!
「そうそれそれノーコメント!」
相庭さんに軽く睨まれた。
「答えてよ」
「ノーコメントです!」
「答えて」
「ノーコメントです!」
相庭さんが目の前で組んでいた足を組み替える。
――白だった。
「どうしても、ダメ?」
相庭さんに絶妙な角度で見上げられて、切れ長の睫毛でエロくウィンクされてしまった。
「の、ノーコメンロです!」
ドキドキするが、まだだ、僕はまだやれるぞ。僕の心の中には新海さんが居るんだ!
「交換条件なら答えてくれる?」
相庭さんが足を組み替えた。
――ヒラヒラいっぱい白のレース。
「条件にもよります!」
僕の意思は発泡スチロールよりも脆くて――正直な感情が口から飛び出しちゃったよ!
「よし、一歩前進。交換条件かぁ、そうねぇ、鈴城くんが答えてくれるなら――」
僕を眺める相庭さんが僕の隣の眠そうなジジイと、後ろのロッカーにゴロリと横たわって寝に入っているピロシキと、椅子に座る目下の僕を一瞥したあと、「一ヶ月くらい付き合ってあげる」と微笑みながら鮮烈に宣言した。
途端に『なっ!?』と【親衛隊】の面々は目を見開き、顎が外れるくらい口を開きまくって、驚愕を表している。『激震が走った』って感じだ。
「ほほぉ」と目を細めてニヤニヤするジジイ。ピロシキはスヤスヤと夢の中だ。
「……付き合ってあげる?」
「きみの彼女になってあげるって言ってるの。解る?」
僕は「はあ」と要領を得ない返事を返す。
「なに? 嫌なの?」
相庭さんみたいに美人でスタイルが良い女の子と付き合って貰えるのは男として嬉しい。魅力的で嬉しいけど――
「上から目線で言われるのちょっと」
相庭さんは拍子抜けしたような、呆気に取られた顔だ。
「え? 今なんて言ったの?」
僕にだって譲れないもの――ちっぽけなプライドがある。
「相庭さんてなにさまなの?」
言うやロッカーの上で寝ていたはずのピロシキが、場の空気を壊すように口笛を吹いた。ジジイもぶふッと吹いて咳き込んでいる。
「な!? この私が付き合ってあげるって言ってるのになにが不満なの!?」
声を荒げた相庭さんは虫の居所が悪いらしく、僕を不機嫌そうに睨み付けた。
「相庭さんは美人だけど、性格がブスなので、こちらから願い下げしてるんだけど、伝わらない?」
今すぐ謝った方が良い、と脳が忠告している。
その間に相庭さんがゆっくりと立ち上がった。
「……私の性格がブスだって、鈴城くんは言うのね? 可愛い系だけど、どう見てもモテそうにない、異性として全く魅力のない鈴城くんが」
か、可愛い系!? 謝ろうと思ったけど取り止めだ。モテないのは事実。けれど、指摘されると気持ち良いものじゃない。
僕と相庭さんは睨み合う。相庭さんは凄い剣幕だ。手が震えている……殴られるかも。
まさに一触即発。
「なにか言いなさいよ、モテない鈴城くん」
殴られるかもしれないけれど、仕方ない、売り言葉に買い言葉だ。
「そのモテない僕の相手をする暇があったら、相庭さんの見た目に騙される人を引っ掛けに、さっさと繁華街に行けばいいと思うよ? 見た目重視で良いなら相庭さんが歩くだけで誘蛾灯みたいにチャラい男が集まりそうだし」
「! う、五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿――」
叫びながら相庭さんが右手を振り上げた。これはよけずに甘んじて受けよう。でも、痛そうだなぁ。
「――い五月蝿い五月蝿い!!」
しかし、僕は殴られなかった。助け船の如く「はっはっはっはっ」とジジイが豪快に笑い、相庭さんの動きが止まったのだ。
「相庭、手を出す前からお主の敗けじゃ。なに、相庭の知りたかったことは、わしが優哉に訊ねておこう。それで今日は引いてもらえるかのぉ?」
ジジイの言葉を聞いて目を瞑った相庭さんは、目を開けると僕を睨み付けて舌打ちする。
そのまま踵を返すと、教室から出ていく――直前で相庭さんが僕に振り返った。
「――鈴城くん、私をブスと言ったきみの言葉、永久に忘れないから」
相庭さんは殺意の視線で僕を射抜いたあと、颯爽と教室を後にした。
ぞろぞろと【親衛隊】もそのあとを追っていく。各々(おのおの)僕やジジイを睨みながら。しかし、筋肉隆々のジジイが視線を返すと、皆さん蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
相庭さんが最後にくれた視線は鋭く痛いものだった。それが顔やら胸やらに刺さってズキズキと痛む。痛みに名前を付けるなら、罪悪感が適当だろうか。
少しずつ、それが込み上げてきた。
「ヤバイ……僕、ちょっと今から謝ってくる」
いつの間にやら僕の背後に立っていたピロシキが、椅子から立ち上がった僕の肩をガシッと掴んだ。
「もったいねえなぁ。お前、見事にフラグへし折ったぞ。それとどこへ行こうとしたんだ? もしかして、これから謝りに行くとか血迷うなよ? やめとけやめとけ。梨華は今、般若だ」
誰にでもフランクなピロシキが、両手の人差し指を立てて、自分の側頭部に持っていき、即席の鬼を表した。
「そうじゃな。今はおえん(やめておけ)。相庭は頭に血が上った状態じゃ。それではなに一つ事態など好転せぬ」
事態を客観的に眺めていた二人が言うなら、間違いないか。
「じゃあ、明日ちゃんと謝るよ」
けれど、明日のことを思うと背筋がぞくりとした。
美人にブスって屈辱的なセリフだよね……謝るってかなり勇気が要るなぁ。
「こいつ今更青くなってるし」
「度胸があるのかないのか、解り難いやつじゃ」
ピロシキとジジイは二人して苦笑い。
「笑いごとじゃないし! ヤバイよ! 【親衛隊】にボコボコにされるかも……」
「それはないな」とピロシキ。
ジジイもピロシキに合わせた感じで頷く。
「大丈夫じゃろう。ああ見えて相庭は人間が出来ておる。仕返しじみた稚拙な手段は用いないじゃろうて」
「梨華は気に入った相手にしか声を掛けない。気に入った相手しか攻撃しないってのがポリシーだからな。お前の心配は杞憂に過ぎねえさ。んなことよりさっさと部活に行くなり帰るなりするぞ」
「……杞憂」
「ま、いざとなったらわしが助けてやるさ」
「……杞憂か」
「甘やかすなよ祐介。ボディーガード代は利子くらい取れよ、十一でな」
「寛貴よわしは鬼か。そこは無償じゃろぉ?」
「……う〜ん」
「って、あれ? 優哉聞いてるか?」
「優哉お主、まさか目を開けたまま寝ておるのか?」
「あ、いやちょっと考えごとしてた。結局解らなかったんだけどさ『杞憂』ってどんな意味? ――お、おい待てよ、二人とも僕を猛スピードで置いて行くな!」
高速で遠ざかるジジイとピロシキに追い付いたのは、テニスコートに着く直前だった。




