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やんやん  作者: きじねこ
16/20

6.拉致事変


 最後の打ち上げ花火が終了すると宴もたけなわへと末し、各々屋台の戦利品を回収した僕たちは、叔母さんに連絡をして迎えを待った。

 田園風景が長閑のどかな農道に面した駐車場で待つこと数分、磯の香りが漂う一五人乗りの巨大な車ハイエースコミューターが到着。

 何気無く携帯電話のメインディスプレイを眺めると、時刻は二十二時ちょい過ぎだった。

 椿さん、姫風、僕、しぃちゃん、沙雪さん、相庭さん、国府田さん、灰田くん、佐竹くん、ピロシキ、ジジイ、楓さんが乗り込み、全員乗車して車が発車したところで僕の携帯電話が着信を告げる。

 メインディスプレイには「妹尾せのうくん」と表示されていた。

「はい?」

『ぜーはーぜーはーぜーはー』

 電話口からは荒い呼吸音が聞こえるばかり。

 地味な妹尾くんの地味な嫌がらせだろうか?

 嫌がらせを受けるいわれはないので、妹尾くんに一言モンクを告げよう。

「妹尾くん……変態みたいに息を荒げてハァハァするのはやめてくれない? って、あれ?」

 モンクを伝えようと車内を見回したけれど、地味で変態な妹尾くんの姿が見当たらない。

「妹尾くんは?」

 不審に思い、みんなに地味で変態な妹尾くんの在りかをたずねるけど、返答は「知らない」の一点張り。

「どこに居るの?」

 地味で変態な妹尾くんに通じる電話口へ呼び掛けてみるけど、彼の返答は、

『ぜーはーぜーはーぜーはー』

 荒い呼吸音が返ってくるのみ。

 そこである事実に気づき、ハッとした。

 ――まさか。

「ゆう?」「お兄ちゃん?」

 咄嗟とっさに立ち上がり、クラスメイトを掻き分けて車内の最後尾へ移動した僕は、そこから外を覗き込む――――居た。見えた。

 仄かな外灯に照らされて無様に農道を走り続ける――地味で変態な妹尾くんの勇姿が。

「叔母さん! 車を止めて下さい!」

 運転席の叔母さんがブレーキ踏み、ハイエースコミューターが緩やかに停車した。

「え? どうしたの? 神社になにか忘れ物?」

「はい。僕たちは大切なものを忘れて来ました」


『ぜーはーぜーはーぜーはー』


 ◆◆◆


 ちょっとしたハプニングは、「存在感がない妹尾くんが悪い」と言う結論で締めくくられてしまい、地味だけど変態ではない妹尾くんは、乗車後すぐにカーゴスペースで一人泣いていた。

 それはさておき、ハイエースコミューターに揺られながら叔母さん別荘宅駐車場へ戻ってきた僕らは、そこでデンッと鎮座していた物体に目を奪われた。

 各々戦利品を手に車内から降りた僕らは、滅多に間近で見る機会がないそれを、不躾ぶしつけにジロジロと眺め始める。

「なんでこんな物がここにあるんだ?」とピロシキ。

 誰もその問いに答えることができず、「さあ?」と首を傾げるばかり。

 月光に照らされているそれは、真っ白な塗装に青いラインのカラーリングが施されたヘリコプターだった。

 背の高いジジイが中を覗き込めども、ヘリコプター内は無人らしく、シンと静まり返っているそうだ。

 駐車場の持ち主たる叔母さんへたずねてみる。

ヘリコプターこれは叔母さんのですか?」

 叔母さんがぷるぷると首を左右に振る。

「私のじゃないわ。そもそも高所恐怖症だからこれの免許を取るなんて考えただけでも怖いもの」

 ヘリコプターこれが叔母さんの物でないとすると、誰のだろう?

 もしかして映画や漫画のように、不慮のトラブルでここへ不時着した、とかだろうか?

 周囲に人は――

「これはどなたのかしら? 怪我とかされてないと良いけど――って、あら? 玄関前に誰かが居るわね」

 叔母さん別荘宅玄関前に佇んでいた人物――女性二人はこちらに気づいて声をかけてくる。

「あ、お義姉ねえさん。お久しぶりです」

 僕らは立ち止まり、叔母さんだけが女性たちへ近寄る。

「その声は……嘘、チャコちゃん? どうしてここに? 何年ぶりかしら?」

 叔母さんにチャコちゃんと呼称された女性は指折り数えながら、

「えーと……裁判所以来だから九年ぶりですね。ここには夏期休暇を兼ねて花火を見に来たんですよ。それで、お義姉さんは毎年『海の家』を経営されてたなぁ、と思って、近くに来たことだし挨拶でも、と思いまして」

「まぁ、そうだったの。こんな時間だし顔見せだけじゃなくて、ゆっくりして行ってね。あ、もしかして明日から仕事?」

「来週いっぱいまでお盆休みです」

「だったら暫く泊まっていけば良いわ。積もる話もあるし……既にホテルを取ってる?」

「日帰りのつもりだったので取ってないです」

「良かった。で、隣に居るチャコちゃんそっくりな子は華虎かこちゃん? 最後に会ったのは小学五年生くらいだったかしら? 美人さんになっちゃってまぁ」

「お久しぶりです叔母さん」

「今はなにしてるの?」

「大学生してます」

 この立ち話は長くなりそうだなぁ、みんなダレてるよね、早くなかに入ってゴロゴロしたいよね、とクラスメイトたちの空気を読んだ僕は、話し込む叔母さんたちに声をかける。

「長くなりそうだし、中で話しませんか?」

「あ、そうね。待たせてごめんね――って、これって親子の再会シーン!?」

 突然声を荒げた叔母さんが僕と玄関側で話し込んでいた女性二人を指差した。

「「「親子?」」」

 僕と玄関側の女性二人の声音がシンクロした。

 ついで、視線が交錯する。

「優哉」「ゆーくん」「ぎょ」


 母さんと姉ちゃんだった。


 ◆◆◆


 その場で固まっていた母さん、姉ちゃん、僕を叔母さんが取りなし、先に母さんと姉ちゃんを叔母さん別荘宅室内の一室に押し込み、僕らは少し経過してから玄関をくぐった。

 僕に対してなにか訊きたそうなクラスメイトたちは、しかし、ぶっちょう面になっているであろう僕の態度と空気を呼んで、あてがわれた各部屋に戻って行った。

 僕はと言うと、母さんが何気無く漏らした「裁判所」と言うフレーズが引っかかっていたので、それを問う為に、リビングにてソファーに腰を下ろし、叔母さん待ちをしている。

 傍らには右にしぃちゃん。左に姫風が座り、椿さんが背後に立っていた。

 なにこの三姉妹陣形。

「……お兄ちゃん訊いて良い?」

 僕の空気に当てられたのか、見上げてくるしぃちゃんはおどおどしていた。

「なにかなしぃちゃん?」

 しぃちゃんを怖がらせてはいけない! 笑顔を作らねば!

「さっきの女の人たちは、お祭りで会った人たちだよね?」

「うん。母さんと姉ちゃんだよ」

「ここは大丈夫? 苦しくない?」

 ここ、と僕の心臓辺りをさわさわしてくるしぃちゃん。

 抜け目ない姫風がしぃちゃんの手をはたいたので、姫風の額をデコピンしておいた。

「しぃちゃんのお陰で大丈夫だよ。ほら目を見て目を」

 しぃちゃんが僕の双眸そうぼうをジッと見つめる。

「……うん。お兄ちゃんは無理してない。けど、混乱してる?」

「……鋭いなぁ」

 思わず苦笑いが漏れてしまった。

「多分ね、このあと叔母さんに呼ばれて、僕は母さんや姉ちゃんと話し合う感じになると思うんだけど――」

 長い年月離れていた家族が再会したのだ。親戚の叔母さんなら、顔を合わせて話し合いをさせるくらいのお節介はやりかねない。

「――そこでなにを話せば良いのか、僕にはさっぱりなんだ」

 自分の額を押さえる姫風が恨みがましそうに僕を見つめてくるけど無視だ。

「ん〜……。なにを話せば良いんだろうか。しぃちゃんにいろいろと聞いて貰ってスッキリしたから、恨みごとは吐かないだろうし」

 恐らくもう母親に対する怨嗟えんさは出てこない。

 そして、困惑したことに、怨嗟以外に吐く言葉を持ち合わせていない自分に気づいたのだ。

「今更、再会した母親と話したい内容なんて、特にないんだよね。姉ちゃんとはちょっと話してみたい気もするけど」

 母親に対してドライだ、と捉える人もいるだろうけど、僕の身になって想像して欲しい。

 三歳で母親に手放されて十四年後に突然再会したとして、怨嗟えんさ以外になにか話すことはあるだろうか?

 更には怨嗟が晴れている場合、なにか話すことはあるだろうか?

 ふむ、と背後から椿さん。

「『興味がない相手に対して、なにを話せば良いのか解らない』と言ったところかな?」

「まさにその通りです」

 自分の母親と言えども、どのような人か知らないし、特に知りたいと思わない、と言うのが本音だったりする今日この頃。

「以心伝心と言うやつだね」と椿さん。

「以心伝心?」

 不意に、背後から頭を掴まれて背後の椿さんの方へ顔を向けさせられる。ついでに頬をナデナデされる。

「ゆうやの彼女であればゆうやの思考を当てることなど雑作ぞうさもないと言うことさ」

 ふふ、と相変わらずの不機嫌面な椿さん。

「僕の彼女……?」

 言うや姫風がソファーを飛び越えると同時に椿さんの顔面を片手で掴み、そのままフローリングへ叩きつけた。

 …………。

「な、生でフェイスクラッシャーを見ることになるとは……!」

「……お兄ちゃん、驚くところが違うと思うよ?」

 強制気絶攻撃フェードアウトを受けた椿さんを慌てて抱き起こしたしぃちゃんが、僕に向いて嘆息した。

「え? 今のは姫風と椿さんが急にプロレスをしたくなった訳じゃないの?」

 しぃちゃんが「えー」って顔をする。

 姫風がしぃちゃんと僕の視界の間に割って入った。

「そう。私は椿と急にプロレスがしたくなっただけ」

「だよね」

 しぃちゃんが「お兄ちゃんは天然さんだ……!」と驚愕した。

「僕が天然? 初めて言われたなぁ」

 天然てあれでしょ? 空気が読めない人のことを言うんでしょ?

「お兄ちゃんは額面通りに受け取る癖を少しだけ崩した方が良いと思う」

「『額面通り』ってなに?」

 しぃちゃんが「えー」って顔をする。

 さらになにかを伝えかけたしぃちゃんを遮るように、母さんと姉ちゃんが滞在する隣室から、叔母さんが出てきて、部屋の戸を後ろ手で閉めた。

「優哉くん、ちょっと良いかしら?」

 ほら来た。

 手招きされたので、叔母さんへと歩み寄る。

「どういったご用件でしょうか?」

「優哉くんてば解ってるクセに」

 知覚したことを必ずしも理解したい訳ではないのです。

 年頃で言えば反抗期ってやつだし。

 叔母さんは僕に向いて「しょうがない子ねぇ」みたいな顔をしたあと、「ついてらっしゃい」とフローリングに転がる椿さんをまたいで、ダイニングへ移動し、マグカップを三つ手に取り、手際よくコーヒーを作ってそれに注ぎ込んだ。

「これをチャコ――お母さんとお姉さんに届けてくれる?」

 やり方が露骨だなぁ、と頭を掻く僕。

 叔母さんからは「嫌とは言わせない」みたいな空気が流れ込んでくる。

 ヒエラルキー最下層の僕はおずおずと従うのみ。

「ゆっくり話してきなさい」

「……はぁい」

「あ、そうそう。私はチャコちゃん――あなたのお母さんと優哉くんが会ったことを黙っててあげるから安心してね」

「え?」

 黙っててあげる?

「どういうことですか?」

「どういうこともなにも、チャコちゃん――あなたのお母さんとあなたは法律で会うことを禁止されてるって知ってるでしょ?」

「へ?」

 寝耳にウォータガだった。

「あれ? 知らなかったの?」

「知りません。え、なんスかそれ?」

「詳しいことは本人に訊いてみると良いわ」

 叔母さんは困惑全開な僕の背中を押しつつ、母さんや姉ちゃんが滞在する一室の前へやってきた。

「それじゃ、ごゆっくり」

 三つのマグカップを載せたお盆を渡されると同時に、部屋へと押し込まれてしまった。


「優哉」「ゆーくん」


 僕に似た顔立ちを持つ、四つの瞳に注視される。


「……どうも」と軽くお辞儀する僕。


 親子のセカンドコンタクト――開始。


 ◆◆◆


 親子のセカンドコンタクト――終了。


 あれだけ引っ張っておいてそれだけかよ、みたいなことをきみは思うかも知れないし、僕には話す義務みたいなものがあって当然なのかも知れない。

 けれど内容がつまらなくて取り立ててここで語るほどでもないんだ。

 いて内容を取り上げるとするなら――

 母さんと加齢臭との離婚の理由のこと。

 法律で僕と母さんが会うことを禁止されていたこと。

 母さんの仕事はヘリコプターのパイロットだったこと。

 姉ちゃんは法律大学に通っている二回生だったこと。

 詳細は省くけど、総括するとそんな感じ。

 会話時は、終始母親が僕にぎこちなく話を持ちかけ、それに対して僕がぎこちなく返答する、を繰り返していただけだった。

 間に姉ちゃんの過剰なスキンシップやおふざけが入らなければ、お通夜みたいなムードだったかも知れない。

 僕の心境的には母さんや姉ちゃん――二人と再開するなら、せめて気持ちを整理する時間が欲しかった、の一言に尽きる対面談だった。


 ◆◆◆


 母さんは僕のことを当たり障りのない程度に掘り下げ、粗方訊き終えたのか、質問権をお姉ちゃんに移譲した。

 お姉ちゃんとの会話は姫風とのそれに酷似していて、僕は段々と疲労が蓄積している次第です。はい。


 僕より少しだけ低い身長のお姉ちゃんが、胡座あぐらをかいて座る僕を、背後から抱きすくめて居た。

「ゆーくんは彼女とか居るの? ぢゅっ」

「居ないよ。あと首をチューチュー吸うのヤメテ」

 首筋がヒリヒリする。

「ちゅぷっ、んふふふふ……キスマーク完成」

 首筋に吸い付いていたのは所有権を主張マーキングする為だったのか……。

 気を取り直す意味合いを込めて、僕も同じ質問を返す。

「姉ちゃんは彼氏居るの?」

「居ないよ。ゆーくん一筋」

 弟一筋ってなに?

 それは兎も角、お姉ちゃんと僕の身の安全の為に、ここはしっかりと釘を刺しておかねば。

弟一筋それを姫風――エメラルドグリーンの瞳に黒髪を腰まで伸ばしている女の子には絶対言わないでね」

 嘆息しながら言うと、お姉ちゃんの瞳が一瞬で剣呑な物に変わった。

「なんで? あ、もしかしてそのこの子と好きなのかにゃ? ぶっ殺す対象かにゃ?」

 お姉ちゃんの口調は冗談めかしているけど、瞳はまったく笑っていなかった。

 僕は顔の前で手を振る。

「あの姫風を好きとか無いよ。マジで無いよ。ホントに無いよ。それだけは勘弁だよ」

 真っ赤なリボンを頭頂部に付けた黒髪セミロングヘアーのお姉ちゃんが、どうして? とばかりに首を傾げた。

「『あのヒメカ』がどんな含みを持っているか解らないけど、そのヒメカさん絡みで、ゆーくんはなにかのトラブルを抱えているのね?」

「抱えていると言うか……」

「厄介な人なの?」

「厄介な人と言うか……」

「大変な人なんだね?」

「うん」

 一言で表すと「痴女」です。

 僕のなんとも言えない表情を見てとったお姉ちゃんは、

「ゆーくんの為にお姉ちゃんが一肌脱いで、そのヒメカさんを駆逐してあげる!」

 駆逐って……。

「いや良いよ。これ以上問題を抱え込みたくないし」

 誰がなにをしようと、姫風を駆逐することは無理だと思うし、むしろ、姫風に特攻をかけて――僕が――無事で居られるはずがないので、お姉ちゃんには介入して欲しくない。

 現状がこれ以上ややこしくなることを僕は望んでないのだ。

「問題なんかお姉ちゃんに任せれば即解決だよ? ほらそこで、『この世界で一番愛してるお姉ちゃん助けて!』と泣きついて良いんだよ? ゆーくん言って言って♪ 『お姉ちゃん愛してる大好き!』って言って? 言わないとキスマーク増やしちゃうぞっ!」

 お姉ちゃんと言う名の削岩機さくがんきが、僕の精神をゴリゴリ削ってゆく。

 再度首筋に吸い付こうとしたお姉ちゃんをやんわりと押し留めた。

「問題は自分で解決するから大丈夫だよ」

 取り敢えずいさめてみた。

 途端とたんにお姉ちゃんの瞳が潤み出す。

「やだゆーくんカッコイイ……」

 いかん、お姉ちゃんの好感度を上げてしまった。

「……えっと、とにかく、お姉ちゃんは姫風に触れないでね。危ないから」

「どんな風に危ないの?」

 呼吸するように関節を外してきたり、突然尻を鷲掴みにしてきたり――

「人の話は聞かないし、すぐ口と手が同時に出るタイプかな」

「え、なにその最悪な人。ゆーくんはそのヒメカさんから危ない目に会わされてるの?」

 常に。

「まぁ、その……」

「……そうなんだ。可哀想に」

 勝手に納得したお姉ちゃんが僕の背後から横へ移動すると、僕をぐいっと胸に抱き寄せてしまった。

 ――痛い。

 勢いが付いていたのでお姉ちゃんの胸に頭が衝突した瞬間、凄く痛かった。ぽよん、とかなかった。

 お姉ちゃんの胸は、貧乳選手権で椿さんや沙雪さんやしぃちゃんとタメを張れるくらいのレベル――ぎゅむっと押し付けられても、痛いだけ。

「ヒメカさんにはお姉ちゃんが抗議してあげるから安心してね」

 よしよし、と頭を撫でられる。

「抗議しても無駄だよ。なんだっけ、暖簾のれんに……腕押し?」

「つまり」とお姉ちゃん。

「ゆーくんに意見をあおがず、話を暴力で解決させる――そんな人なんだね?」

 疑問系だけど確信を持った声音だった。


 ◆◆◆


 お兄ちゃんが一室にこもったのと時を同じくして、リビングでは鈴城三姉妹会議と言う名の尋問が開催されていました。

 鈴城紫苑しぃは書記だそうです。なにをするのか正直よく解りません。

 議長の姫風ひぃちゃんが、寒気がするほどの冷淡な声音でこう言いました。

「いつから椿がゆうの彼女を自称するようになったか、教えて」

 対する椿つぅちゃんは真っ青な顔で一言も返答しません。できません。

 しぃはひぃちゃんに訴えかけます。

「つぅちゃんをそろそろ降ろしてあげて、お願いだから」

 顔を真っ青にさせたつぅちゃんが、天井から伸びたロープに足を固定され、腕を後ろに縛られ、中空に吊るされています。

 ちなみにお兄ちゃんの叔母さんは我関せずを決め込み、どこかへ電話をかけながらリビングから出て行ってしまいました。

「なにか言いなさい椿」

 ひぃちゃんがつぅちゃんの頬をつんつんとつつきます。

「ひ、ひぃちゃんやめてあげて」

 つぅちゃんはまだ――気絶中なのです。

「う〜ん……頭が痛い」

 そうこうするうちにつぅちゃんが目を覚ましました。

「なぜか世界が逆さまに……腕や足も動かない……これは――金縛り?」

 早速ボケてくれました。

「……金縛り恐い」

 そしてなぜかブルブルと震えだし、怖がり始めてしまいました。

「つ、つぅちゃん大丈夫? これは金縛りじゃなくてひぃちゃんがつぅちゃんを縛って吊るしてる状態なの。助けられなくてごめんなさい」

 途端につぅちゃんの震えがピタリと止まりました。

「ほほぉ、つまり私は金縛りにあってない、と言うことかな?」

 心配するところはそこなの?

「えっと、うんそうだよ。つぅちゃん大丈夫? 気持ち悪くない?」

「大丈夫。私はうっぷ――大丈夫だ」

「ひぃちゃん早く降ろしてあげて!」

「やだ」

「紫苑、心配せずとも私は大丈うっぷ――大丈夫だ」

「ひぃちゃんお願いだから!」

 ひぃちゃんが嘆息しながら天井を見上げます。

「そんなに紫苑も吊るされたい?」

 吊るさ――え!?

「えとえと……つぅちゃんと交換ってこと? しぃはそれで良いよ。つぅちゃんの限界が近そうだもん」

 しぃが言い終わると、ひぃちゃんがジッとしぃを見つめてきました。

 顔には……なにも付いてないと思います。

「紫苑はその顔を自重。ゆうの保護欲をそそるオーラが全身から出てる」

「え、オーラ?」

 ひぃちゃんが手刀で天井とつぅちゃんを繋ぐ太いロープを切断――ドサッ。

「ぷぎゅっ」とつぅちゃんが顔面からフローリングへ落下しました。

「……ひめきゃ、顔から落とすなんて酷いじゃないか」

 涙目のつぅちゃんは倒れたまま自分の顔をナデナデしてます。

「椿は些細ささいなことでモンクを言わない」

「すまない」

 謝っちゃうの!?

「それで、いつから椿がゆうの彼女を自称するようになったのか――明確に答えなさい」

 ひぃちゃんに両手で顔を掴まれて強引に立たされたつぅちゃんがこう答えます。

「自称もなにも、あれは盆踊りの時だったかな。ゆうやと私の二人だけでベンチに座って話していた時に、ゆうやが私のことを『好きです』と伝えてくれたんだ。そこでお互い、両思いだと話し合ってね……って、姫風、アイスピックを私から奪ってなにに使う気だい?」

「ダーツ」

「ほほぉ、まとは?」

「椿の瞳」


 アイスピックが飛びました。


 ◆◆◆


 母さんや姉ちゃんと話終えた僕は、二人を伴い、部屋から退出した。

 で、最初に目に飛び込んできたのは、

「……なにがあったの?」

 頭からアイスピックを二本生やした椿さんが、部屋の隅っこで体育座りをしながらシクシク泣いていた。

 僕に気づいた椿さんが、いつもの不機嫌面をひそめ、泣きべそをかきながら僕に近寄り、浴衣のたるみ・・・を摘まんでくる。

「……ゆうや」

 くすん、と椿さんが鼻を鳴らす。

 僕の背後に居た母さんが、椿さんの目元をハンカチでき、椿さんにそのハンカチを手渡した。

 母さんからハンカチを受け取った椿さんは、「じゅみまじぇん」と礼を返し、僕に向き直ると、

「……姫風が酷いんだ。私に難癖まがいの言いがかりをふへっ」

 椿さんが派手に転がり壁にぶつかって止まった。

 姫風が瞬く間に足払いをかけたのだ。

 相変わらず容赦がないなぁ。

「それで、姫風が難癖ってなんの話かな?」

 椿さんへ足早に歩み寄り、目を回している彼女を抱き起こしてソファーに横たわらせる。

 間に何度か姫風から妨害を受けた。

 一連をやり終えて、僕がしぃちゃんに水を向けると、しぃちゃんは言い難そうに口を開く。

「つぅちゃんが、その、お兄ちゃんの彼女とか彼女じゃないとか……それでひぃちゃんとつぅちゃんがトラブルになっちゃって」

 なんだ。姫風による恒例の言いがかりか。

「姫風ちょっとこっちに来なさい」

「解った」

 一足飛びで姫風に距離を縮められた。

 迎え打つは僕のデコピン。

「ほあたぁ!」

「痛い」

 額を押さえて恨みがましそうに僕を見上げる姫風。

「どうしてDV?」と不服そうに唇をとがらせている。

「DVじゃない。今のDPデコピンは椿さんをいじめた罰だ」

 ソファーに横たわる椿さんを顎で指す。

「虐めてない。しいたげただけ」

「余計悪いわ!」

 悪辣なドSの額を再度DPしたけど、容易く避けられてその指を口に食わえられてしまった。

ゆうの指甘いんんんんんんんん

 ちゅうちゅう吸われ甘噛みされ艶やかに鼻を鳴らされ上目使いで流し目を――

「やめい!」

 とあるところがモゾモゾしてきたので、口から急いで指を引き抜くと、無表情な姫風がちょこっとだけ首を傾げた。

御褒美ごほうびは終わり?」

「なんの御褒美だ!」

 続けて姫風を糾弾しようと声を張り上げる寸前、


「――貴女あなたがヒメカさん?」


 僕の背後で立ち尽くしていたお姉ちゃんが、僕越しに姫風へたずねた。

 しかし姫風は、

「椿がゆうと付き合っているなんて妄言を吐いたからそれを成敗した御褒美」

 私の声は聞こえなかったのかな? とお姉ちゃんは思ったのだろう。

 もう一度、姫風に対してお姉ちゃんが訊ねる。

「――貴女がヒメカさんだよね?」

 確実に聞こえていたであろう姫風は、僕を見つめながら、

「御褒美は終わり?」

「名指ししたにも関わらずスルー!?」

 お姉ちゃんが凄く驚愕した。

 お姉ちゃんと姫風は距離にして三メートルしか離れていない。

「あ、あのね姫風、あれは僕の姉だから、一応反応してくれると助かるんだけど」

 僕が指を差しながら諭すと、指を食わえたがっていた姫風が、真っ赤なリボンを頭頂部に装飾したお姉ちゃんに視線を移動させた。

 眼中になかったお姉ちゃんを初めて視界に入れたけど「誰?」――姫風の無表情はそう物語っている。

「ほら、自己紹介してあげて?」

 促すとようやく姫風が「私は――」と口を開いた。

「鈴城姫風ゆうの妻十六歳天秤座RH−AB型バストサイズはE大抵ノーパン今もノーパン明日もノーパン」

「ノーパンノーパン言わないの! パンツは毎日履きなさい!! あと姫風は僕の妻じゃないからね!?」

 ノーパンを公言した姫風が浴衣ゆかたの裾を持ち上げようとしたので急いで止めた。

「のーぱん……」と呟き茫然自失と化していたお姉ちゃんが、ハッとして我を取り戻し、自己紹介を始める。

「わ、私は水地華虎みずちかこ。二十歳の蟹座。ゆーくんの姉であり妻。血液型はAでバストサイズは、し、Cだよ。あとパンツは履いてます!」

「お姉ちゃんも対抗して妻とかパンツ論争に加わらないの!」

 続けていさめようとした僕を制すように、「C?」と姫風が呟き、目を細めて、お姉ちゃんの一部分を凝視する。

「えっと、ヒメカさん、なに?」

 姫風がお姉ちゃんの一部分――胸部をジッと凝視している。

 なにかついているのだろうか? と僕もお姉ちゃんの胸部を眺めてみる。

「……ゆ、ゆーくんにヒメカさん、不躾ぶしつけにジロジロ見られると、お姉ちゃんとしては気分が良くないよ?」

「あ、ご、ごめん」

 頭を下げる僕とは裏腹に、姫風は瞬き一つせず、ジーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッとお姉ちゃんを見つめている。

「ヒメカさん?」と困惑するお姉ちゃん。

 誰に呼ばれようが、姫風は気にしていない様子。

 そのままお姉ちゃんを見つめ続けた姫風は、自分の胸部に視線を移行して、またお姉ちゃんの胸部に視線を往復。それを何度も繰り返す。

「な、なにかな? ヒメカさん」

 お姉ちゃんは顔をひきつらせながら問いかける。

 ややあって、お姉ちゃんの胸部を鑑賞し終えた姫風が、視線をお姉ちゃんの顔へ移行すると同時に――わらった。

「ヒメカさん、な、なにが面白いのかな?」

「Cはない――AA」

「ぐっ」お姉ちゃんが一歩後退る。

「トップとアンダーの差が一五センチもない。もしかしたらAAA?」

「ち、違うもん! ギリギリAだもん!」

 涙目になったお姉ちゃんが、口元と胸をおおい、僕を見て、姫風を見て、しぃちゃんの胸を見て、ゆっくりと後退してゆく。

 そしてすぐに背中を壁にぶつけて止まった。

 微妙な沈黙が流れる。

 ややあってから、お姉ちゃんは子犬みたいにプルプル震えだし、悔しそうに唇を噛み、少し経ってからどうにか気を取り直したらしく――違うな、開き直ったらしく、涙目でキッと姫風を睨む。姫風の胸を睨む。薄い胸を張りながら巨乳を睨みつける。

「貧乳は……」

 続けてこう言った。

「貧乳は可憐かれん! 貧乳は美麗びれい! 貧乳はせ・い・ぎ!」

 お姉ちゃんの声音の中に「巨乳は潰れろ!」とか「巨乳は縮め!」が混ざっている気がしたのは気のせいか。

 それを受けた姫風は、これ見よがしに、自分の巨大な胸を下からすくい上げるように腕を組んだ。

 浴衣越しでも――たゆん、と揺れる姫風の胸にちょっとひるむお姉ちゃん。

 対して姫風は嘆息しつつ、

「胸が小さい女は胸の偽装に必死過ぎて困る」

 嘆かわしい、と言わんばかりにかぶりを振った。

 ソファーに横たわる椿さんの肢体したいが少しだけ跳ねた気がしないでもない。

「い、言わせておけば! お姉ちゃんは完全に怒ったよ!」

 お姉ちゃんが激昂して妙なファイテングポーズをとる。

「シャドーセックス六段の腕前を見せてあげるよ!」

「なにを見せる気!?」

「んと、シャドーボクシング的ななにか?」

「啖呵切ったあげく設定はテキトー!?」

 お姉ちゃんにツッコンでいたら、こっちを向いてとばかりに姫風が僕の頭を掴み、強引にぶちっと姫風の方へ回した。

「……今さ、鳴っちゃいけない音が僕の首辺りから聞こえたよね?」

「?」

「そこ首を傾げるところ!?」

 僕の首、猛烈にジンジンしてますよ?

 怨みを乗せて姫風を睨めども、当の加害者はどこ吹く風。

「そんなことより」と姫風。

「僕の首は『そんなことより』程度で済ませちゃうことなんだ……」

「そんなことより」と傍若無人な姫風。

 このワガママ娘はどうしても話を進めたいらしい。

「はぁ……で、そんなことより、なに?」


「私はシャドーセックス八段」


「姫風はもう黙ってなさい!!」

「お姉ちゃんは九段に昇級したことを忘れてたよ!」

「二人ともそんなことで張り合わないでよ!!」

 ※ 教育上よろしくないのでしぃちゃんの耳は僕の手によってふさがせていただいてます。

 取り敢えず、これ以上争いを長引かせない為に、姫風とお姉ちゃんを引き離す。距離的な意味で。

 その際、お姉ちゃんの胸部をチラッと一瞥いちべつした姫風が僕にポソッとこう言う。

「貧乳は哀れ。ゆうもそう思わない?」

「え」

 ここで僕に振るのか。

 また胸の話に戻るのか。

 涙目貧乳のお姉ちゃんを前にしてする話しか。

 姫風さんてばお姉ちゃんの胸部をガン見し過ぎだぞ。

「ゆうは巨乳派。その巨乳派のゆうに、貧乳についての意見を聞きたい。貧乳をどう思う?」

 これ、わざとだよね?

 お姉ちゃんのプライドを潰しにかかってるんだよね?

「えーーーーーーーーーーと……」

 僕は、その……大きい胸が好きなんだけど、今ここで面と向かって言える空気でないことは重々承知している。

 涙目のお姉ちゃんがつつましやかな自分の胸に視線を落としたあと、そこから僕を見上げてくる。

「ゆ、ゆーくんは貧乳もイケる口だよね? ね? Aでも良いよね?」

 姫風曰く、Aカップはトップとアンダーの差が一〇センチ。Cカップは一五センチ。Eカップは二〇センチだそうだ。

 今唐突に数字を出したけど、これと言って特に意味はない。

 ないけど、姫風はEカップでお姉ちゃんはAカップ、もしくはAAカップ。

 じゅ、一〇センチ以上も差があるのか……。

「ゆーくん?」と不安げなお姉ちゃん。

 はっ!?

「えほんげふん。んー、胸が大きいとか小さいとか、僕は特に気にしないかな?」

 僕は焦りながらもどうにか取りつくろった。

「……良かったぁ」

 心底ホッとするお姉ちゃん。

「――と言うのは嘘で、僕は巨乳が大好きだよ? 姫風の巨乳が大好きだ。姫風愛してる!」

 姫風が僕そっくりの声音を発した。

「……地味に凄い特技だなぁ、じゃなくて! 僕の声を真似るな!」

「ゆーくんはおっぱい星人なの!?」

 お姉ちゃんが凄く驚愕した。

「お姉ちゃんは騙されないで!」

 丁度その時、ドアをへだてた廊下から、重い物が転倒したような音が聞こえてきた。

「今、あっちからドサッて音がしたよね?」

 姫風はノーコメント。しぃちゃんとお姉ちゃんと母さんは頷いてくれた。

 廊下になにか立て掛けていたのだろうか?

 なんだろう? と様子を探るべくドアの方へ。

 果たしてドアを開けて廊下を覗いたそこには、

「し、新海さん!?」

 水溜まりの中へうつ伏せに倒れている新海沙雪さんその人だった。

 譫言うわごとだろうか? 「チッサイのはダメ? チッサイのは悪?」としきりに漏らしている。

 沙雪さんの転倒を聞き付けたらしい沙雪さんの姉・楓さん&クラスメイトたちが、上階からぞろぞろと降りてくる。

 そして沙雪さんに視線を移した先頭のピロシキが半眼となり、ジジイがやれやれと首を横に振った。

「……またか」

「いつものじゃな」

「そんなところで寝てると風邪引くわよ沙雪」

「なにその恒例行事的な感想は!? あとかえでさん冷たいな!」

 事態をこれ以上ややこしくしないで欲しい。

 沙雪さんに駆け寄る寸前で背後から姫風に抱きすくめられてしまった僕は、身動きを諦め、声だけ投げ掛けて彼女の安否を確認してみる。

「新海さん!! どうしたの!? なにがあったの!? 誰にヤられたの!?」

 息も絶え絶え、顔も真っ赤な沙雪さんが、蚊の鳴くような声音で告げる。

「は、犯人は……巨乳好きのしゅじゅきくん」

「また巨乳好きのしゅじゅきくんか! こそこそと隠れてないで出てこい!!」

 今日こそはぶん殴ってやる!

「それゆーくんのことだよ?」

「しゃあああぁぁぁ!! 歯を食いしばれ僕! ――ってちょっと待て! 話がややこしくなるからお姉ちゃんは黙ってて!」

 お姉ちゃんが「えー」って顔をした。ついでに母さんも「えー」って顔をした。

 タイミング良く外から戻ってきた叔母さんが携帯電話をポケットに戻しながら、「なんの話かしら?」と話題に介入してきた。

 誰もが顔を見合わせて答えあぐねていると、一同を代表した母さんが自分の胸部を指差して、

「え〜と……胸?」

「開かれた性教育ね」

 叔母さんがあっさりと納得した。

 この親族たちもうやだ。

 続けて僕らを見渡した叔母さんが、

「開かれた性教育はまた明日にして、ご飯にしましょう。あ、それともお祭りの食べ歩きでお腹はいっぱいかしら?」

 時刻は現在二十三時ちょい過ぎ。

 クラスメイトたちや鈴城姉妹、水地母娘は「お腹いっぱいです」と言ったジェスチャーや表情、モールス信号を叔母さんへ返す。

 もろもろを受信した叔母さんは一人頷き、

「それなら、順にお風呂へ入りなさい。開かれた性教育はそのあとで続けてね?」


 開かれた性教育はもう結構です。


 ◆◆◆


 恥も外聞もなく浴室に飛び込んで来ようとする姫風を押し戻し、その隙をぬって波状攻撃のように突撃してくるお姉ちゃんをどうにか防いで、バスタイムアタックを終了させた。なんだバスタイムアタックって。


 ……姫風が二人になった気がするのは気のせいか。


 その後、疲労困ぱい状態へと陥った僕は、三階角部屋の一室にて、畳の上に敷いた布団の上で、うつ伏せにへばっている次第です。

 同室には坂本寛貴ことピロシキと鳳祐介ことジジイが居て、簡易テーブルにて囲碁をさしてます。

 んで、聞き上手なジジイによって、水地母娘――お姉ちゃんと母さんについて詳細な内容を話してしまったところで、「なんで母さんたちのことを話してるんだ僕は?」と我に返り、後の祭り状態に陥って、やっぱり突っ伏している状態な訳です。


「……はぁ」と僕の口から深い溜め息が漏れた。

 パチン、と碁石を碁盤にさす音が響く。

「『疲れた』の一言すら出ねえか」

 ピロシキが茶化してくるけど、相手をする気力もない。

「こいつ相当まいってるな」

 ジャラジャラ……パチン。

「そうじゃな。まぁ、心中を察すれば無理もないことじゃろう」

「一〇年越しに再会した実姉が全力で求愛してくるとか恐ろしいを通り越して尊敬するわ」

 するな。

「わしなら発狂する」

「オレサマならここから海へ飛び降りるわ」

 好き勝手言いやがって。

「本当に反論する気力すらかないようじゃな」

「みたいだな」

 ゴロンと寝返りをうち、僕は仰向けになる。

「……二人とも僕の反応を試さないでよ。刺殺したくなるじゃないか」

「さらっと物騒なことを吐くな」

「そしてゆっくりと立ち上がりペーパーナイフをわしらに向かって構えるな」

 得物を取り上げられた。

 すかさず、

「うりゃ」

「あへっ」

 ピロシキの力任せによる押し倒しでその場に僕は転倒した。

「つうううぅぅぅっ」

 後頭部から落下したので地味に痛い。

「ほらかかってこい――って、お前……本当に大丈夫か?」

 ピロシキに足の親指でおでこをグリグリされる。

 反撃する気力すらかないので、気力が回復次第ピロシキをボコボコにすると決めた。

「優哉大丈夫か?」

 いたわってくるジジイにすらイラッとくる。八つ当たりがしたい。

「……そう思うならほっといてよ」

 取り敢えず足を退かしてピロシキに枕を投げておく。

 枕はピロシキを避けて放物線を描き、見事碁盤に命中――ボスッジャラジャラッと音がした。

「おいおい」とジジイの批難ひなんする声。

「手元が狂ったんだよ」

「お前ホントにノーコンだよな」とピロシキ。

「手元が狂ったんだってば」

 枕がおでこにボスッと返却されたので、もう一度枕を投げたところで、ドアの開いた音が聞こえて、

「ぅわっぷ」

 誰かに命中した。

「うー鼻が痛ひ。ねえねえゆーくん居る?」

 枕はお姉ちゃんの鼻に命中したようだ。

 僕は「枕を投げてゴメン」と謝り、仰向けのまま手を上げてヒラヒラと振る。

「あ、ゆーくんだ。ねえねえちょっとこっち来て」

 言いながら僕を強制的に立たせる為にお姉ちゃんが近付いてくる。

 剛力が来るか!?

 そんな理由でちょっとだけ身構えたけど、自力で起き上がらない僕をどうにか引っ張って、引っ張って、引っ張って、「う〜う〜」唸るだけ唸り、最後は「……ゆーくんお願いだから自分で立ってよぉ」とお姉ちゃんは引っ張りあげること自体諦めた。

 剛力怪力は姫風の専売特許でお姉ちゃんはただの超ブラコンに過ぎなかった。良かった。ん? 良かったのかな? ……まぁ良いや。

「ねえねえゆーくんてばぁ、起きてよぉ」

「はいはいなになにうわっとっとっ」

 ゆっくりと立ち上がった僕の右腕に間髪入れずお姉ちゃんが抱きついてくる。

「……僕は非力なんだから急に体当たりされるとけるって」

「鍛えて! 愛するお姉ちゃんの為に!」

 ここまで自分をいつわらない人種も珍しいなぁ、と思ったけど、ある痴女とある暴君を思い浮かべて、実はそんなこともなかったなぁ、と僕は二重三重の意味で半笑いしながら嘆息した。

「そんな鳩が丸焼きにされたような顔をしないで? さ、お姉ちゃんに付いてきて?」

「鳩が丸焼きにされた顔ってどんな顔!?」

 既に原型無くない!?

「あ、間違えた。鳩が豆鉄砲をしこたまくらったような顔をしないで? さ、お姉ちゃんに付いてきて?」

「それ鳩がグロッキー状態だよね!?」

 あともう一歩でその鳩死ぬよ?

「もぉ〜なんでも良いからお姉ちゃんに付いてきて? あらよっと! ゆーくんのケータイゲットだずぇ!!」

 僕の腕に抱きついていたお姉ちゃんが文字通り僕から跳び離れ、ドアを突破し、階段を物凄いスピードで駆け降りてゆく。

「ちょ、返して! 逃げんな!」

「あばよゆーくん!」


 ――追走開始。


 ◆◆◆


 ――追走終了。


 お姉ちゃんをリビングで捕まえて携帯電話を取り返すべく二人して転げ回っていたところ、どういう訳かお姉ちゃんが上、僕が下と言った『馬乗り状態』で膠着こうちゃくしてしまう。

「うふ。弟を押し倒しちゃったぁ」

 お姉ちゃんが耳元にふぅと吐息を送ってくる。

「ひゃ」

 ふぅ。

「っうぅ」

 ふぅ。

「可愛い反応だね。このまま食べちゃいたいなぁ」

 お姉ちゃんてば凄く捕食者の目です。

 ふぅ。

「っうく」

 ゾクゾクするからやめて!

「そろそろ『ふぅ』はストップ」

「え? 『はぁはぁ』の方が好み?」

「言いながら服の上から僕の胸を揉むな」

 それはともかく――

「……姫風にはいつか押し倒されるだろうと想定してたけど、まさか実姉に押し倒される日が来るとは思わなかった」

「凄く想定の範囲内です」

「お姉ちゃんの中ではね!!」

 丁度そのタイミングで「……あ、あんたたちなにしてんの?」とどう見ても二児の母に見えない風呂上がりバスタオル一枚のセクシーな母さんに『馬乗り状態』を目撃されて、お姉ちゃんが「愛のシャドーセックス!」と爆弾発言。

 母さんの理性メーターがぶっ壊れて「バッカじゃないの!? ちょっとそこに正座!!」と叫び、僕は僕で必死にお姉ちゃんと格闘しながら「見たら解るでしょ!? ケータイを取り返してるの!!」とキレて叫んだ。


「――私のゆうに触れた」


 ヤバイのが来た。

「お姉ちゃん避けて!」

「ふえ?」

 背後に迫る姫風の拳に振り返るお姉ちゃん。

 |水地華虎(お姉ちゃん)享年二一歳。義妹の手により撲殺死――そんなフレーズが脳内をよぎったと同時にお姉ちゃんの悲鳴。

「うわっぷ」

 お姉ちゃんの頭頂部にある真っ赤なリボンや肩で切り揃えている黒髪が、ぶわっと一気になびいた。

 姫風の正拳から瞬時に大量の風が発生したせいだった。

 ……お姉ちゃん死んだな。

 今まで僕の太股ふとももに居たお姉ちゃんの行方を目だけで探してみる。

「――あ、あれ?」

 いつもの展開なら、誰かしら吹っ飛ぶはず。

 だから今回もいつも通りなら、僕の体の上に居たお姉ちゃんが、壁とか明後日の方向へ吹っ飛んでいるはずなんだけど。

 どういう理由わけか太股の上に居るお姉ちゃんは吹き飛ばず、姫風によって握り拳を鼻先で寸止めされているだけだった。

「こ、怖!」と声高に叫ぶお姉ちゃん。

「このヒメカさんて――怖!」

 上体を起こしていたお姉ちゃんが僕にしなだれかかり、抱きついて、プルプルと震え出す。

 姫風は姫風でお姉ちゃんに突き付けていた自分の拳を無言無表情で見つめている。

「……姫風?」

 ユーカリの木に抱きつくコアラよろしくヒシッと抱きついてくるお姉ちゃんをガバッと引き剥がし、のろのろと起き上がった僕は、姫風の両肩に手を置き、彼女の表情や体調をうかがう。

「大丈夫か? どこか調子でも悪いのか?」

 人間が自然に呼吸を繰り返すことと姫風が誰かを殴ることは同義だ。習慣だ。義務だ。確定事項だ。寸止めなんて有り得ない。

 拳を見つめていた姫風は、ともすれば一転して、僕の顔面に視線を移行する。

「今ゆうは私に対して失礼なことを考えた」

 断定!?

「なぜわゲフンそんなことはないよ?」

 姫風が僕の両耳朶みみたぶを摘まむ。


「――本当に考えてない?」


 凄まじいプレッシャーだ。

 このままでは耳朶に親指サイズの穴が誕生する。それだけはけなくては。

「――本当に考えてない?」

 耳の安否を気遣っていたら、姫風が念を押してきた。

 仕方ない……思考していたことを正直に告げよう。

「考えてたけど、それは姫風を心配してのことだから」

 姫風が鼻血吹いた。

「……騙されない」

 思いっきり騙されてるじゃん。

「ほら上向いて」

「う」

 室内のティッシュ箱を取り寄せて、姫風の鼻穴へこれでもかと言わんばかりにティッシュペーパーを詰めておいた。

「ゆう、苦ひい」

「そのまま窒息してしまえ」

「ゆう、好き」

「っ、も、もう喋るなっ」

 姫風のさりげない告白にドギマギしていたら、かたわらからピポパポピと電子音が聞こえてきた。

「ゆーくんのケー番て……女の子の登録が少ないね」

「ことあるごとに姫風によって削除される僕のアドレス帳になにか!?」

「ゆーくん怒りっぽいよ?」

「怒りっぽくもなるよ!」

 そもそも怒りっぽい僕のアドレスは、登録している人数自体少ないのだ。アドレスの中身を述べるなら家族、部活仲間、クラスメイトしかいない。

 と言うか怒りっぽい僕のアドレスってなにさ?

「じゃなくて勝手にアドレスの中身を見ないでよ!」

 お姉ちゃんから携帯電話を引ったくりどうにか端末の奪還を果たした。

「ったくもぉ……油断も隙もないんだから」

 お姉ちゃんが僕の目の前に立ち、両手を頬に添えてかぶりを振り、イヤンイヤンと体をくねくねさせる。

「お姉ちゃんはゆーくんに対して油断だらけの隙だらけ♪」

「黙らっしゃい!」

「私はゆうに対して果断だらけの好きだらけ」

「姫風は遠慮って言葉を覚えよね!」


 多重攻撃と書いて「ずっと痴女のターン」と読む。


 ◆◆◆


 どうにか携帯電話を取り返した僕は、姫風とお姉ちゃんをあてがわれている部屋に追い返し、うのていで三階角部屋に戻り、午前一時半にようやく布団の中へとぎ着けた。

 いざ就寝とまぶたを閉じかけた矢先、ふと気になることが浮上。

「ピロシキピロシキ、ジジイはどこに行ったの?」

 戻ってみれば室内に黒マッチョが居なかった。

「子供じゃねえんだから察せよカス。あとピロシキ言うな」

「……どういうこと?」

午前一時半こんなじかんに一人部屋から抜け出してどこに行ったかなんて、小学生でも解るだろ?」

「なんだ夜釣りか」

「お前の思考は健全過ぎだろ。それならオレサマも付き合うだろうが」

「なんだトイレか」

「もうオレサマは突っ込まないからな」

「なんだ筋トレか」

「…………」

「なんだ……え〜と」

「もう打ち止めかよ!?」

「突っ込まないって言ったクセにツッコミ入れた! 突っ込まないって言ったクセにツッコミ入れた!」

「うるせえ!!」


 結局ジジイはどこへ出かけたのだろう?


 ◆◆◆


 いつの間にか自分は寝ていた、なんてことはきみもよくあると思う。

 もちろん僕もあるし、現に今がそう。

 目を覚ましたあと、何気なく携帯電話を手繰たぐり寄せて時刻を確認。午前二時半のサブディスプレイ表示を黙視し、さてもう一眠りしよう、と布団を頭に被りかけて気づいた。

 天井に張り付くなにかに。

 不審に思い、なんだあれ? と凝視する。

 ――目が合った。

 ジーーーッと見つめられている。

 こちらを見つめている天井のなにかは人型で、サイズも成人した人間のそれ。

 つまり人間が天井に張り付いていると言うことになる。

 けれど常識から考えて、人間が天井に張り付くなんてあり得ない。

 そうだ、あり得る訳がない、と自分に言い聞かせる。

 僕は霊感なんて持ち合わせちゃいないので、天井のあれが幽霊じゃないことは確実。

 こう言った時、真っ先に候補へと上がる姫風には、「夜襲してきたら嫌いになる」と口を酸っぱくして伝えてある。

 なので、漫画やゲームの忍者ばりに天井へと張り付いている人物は、姫風ではない。そう思いたい。

 とすると、あれは…………幻覚に違いない。

 連日のバイトと多重攻撃――ずっと痴女のターン――のせいで僕は幻覚を見ちゃうほど疲れていたんだ。

 連日の熱帯夜のせいで冷房を効かせ過ぎて体がだるくなっていることも加味して幻覚を見ているんだ。うんそうに違いない。

 そんな感じで自分を納得させた僕は、寝返りをうち仰向けからうつ伏せに移行する。

 ――後頭部を刺すような視線が痛い。

 それから間を置かずして、ドサッとなにかの落下音が響き、畳がギシッと悲鳴を上げた。

 一気に空気が重くなる。

 寝ている僕になにかがのしかかったなような錯覚。そう錯覚。これは身体の勘違い。

 威圧感みたいなものが身体中を圧迫押しているけど、きっと激しい勘違い。そうに違いない。そうだと誰か言って欲しい。

「……ゆーくん」

 うん幻聴だ、幻聴。

 次第にハァ……ハア……と荒い呼吸音が聞こえてくる。

 きっと変質者の幻聴だ。

 これは新学期早々保健室登校かな。カウンセリングの予約を入れなきゃ。優しい女性の先生だといいなぁ。

 幻覚幻聴錯覚を受け入れないように固く目をつむるけど、掛布団を剥ぎ取られて、肩を揺すられてしまう。

「ゆーくんてばぁ」

 不意にサワサワと首筋を撫でられる感触。ついで首筋を舐められ……ゾワゾワと全身が総毛だつ。

「ひぃっ!?」

 一瞬だけ僕は布団から浮いた。五センチくらい。

「今の……どうやったの?」

 幻聴がビビってる。僕の方が聞きたい。寝そべる大仏が浮くシーンみたいなものだし。

 幻覚幻聴から逃げようとうつ伏せから仰向けに寝返りをうつ。

 ――お姉ちゃんと目があった。

「つ・か・ま・え・たぁ」

 そこからお姉ちゃんの行動は早かった。

 会えなかった一四年間を埋めるかのように、僕の背中へ両手を回し、強引にハグ。

 密着した肌は冷房が効いているにも関わらずしっとり汗ばみ、それでいて柔らかくて、なまめかしい。

 お姉ちゃんの些細ささいな胸部が自己主張して僕の胸部でわずかにむにゅむにゅと形を変えてゆく、と思ったら――相撲すもう技が来た。

「ぐふっ」

 さば折りです。肺から空気が絞り出されてゆきます。苦しい。

 お姉ちゃんの肩を掴み必死に引き剥がすけど、僕が非力なのかお姉ちゃんのエロパワーが尋常じゃないのか、ウンともスンとも動かない。離れない。

 次第に視界が霞んでくる。

 これ酸欠? 本気で呼吸が苦しくなってくる。

 死因は鯖折りによる呼吸困難?

 女性にベアバックで殺されるとか嫌だよ。恥ずかしくてオチオチ成仏してられないよ。

 あれ? なんだか少しだけ気持ち良くなってき――いかん、意識が飛びそうだ。

 快感と苦痛の狭間に揺れていた僕に救いもとい、許しがやってきた。

 フッとお姉ちゃんの両腕が緩んだのだ。

「た、助かった……ひっ!?」

 サワサワとTシャツの上から乳首を撫でられる。

「ちょっ!? やめっ!!」

 もちろんお姉ちゃんの悲鳴じゃない。僕の声音だ。

 お姉ちゃんが片手で僕をガッチリホールドしつつ、あいた片手で寝間着代わりのTシャツをめくり、腰やら脇やら尻やらを撫で回しているのだ。はぁはぁしながら。

「ゆーくん気持ちいぃ? はぁはぁ」

 はぁはぁやめて!

 気持ち良いわけ、いや、気持ち良いけど。違う。き、気持ち悪いさ!

「や、やめ、放して!」

 全力でお姉ちゃんを突き飛ばす。

 するとお姉ちゃんはゴロゴロと転がり壁にぶつかって止まった。

「な、なんでこんなことをするのさ!? それとどうしてここに居るのさ!?」

「ゆーくんにぃ〜呼ばれた気がしてぇ〜」

「呼んでないよ! それと甘ったるく言わないの! 加齢臭オヤジより先に墓へ埋めるよ!?」

 マントル層深くまで!

 途端に頬を両手で押さえたお姉ちゃんがイヤンイヤンと首を振る。

「それって『今から僕と一緒にお墓へ入らないか?』って言う、密かなプロポーズ? ふふ、遠回しなアプローチも嫌いじゃないよ」

「どこがプロポーズ!?」

「それとも来世の約束?」

「現世もまだ終わってないよ!」

 思考回路が崩壊しているお姉ちゃんを丁重に部屋から放り出すと同時に、僕が寝ていた布団付近から格闘ゲームのBGMが鳴り響く。

 携帯電話がメールの着信を告げているらしい。

 ピロシキに「うるせえ!」と怒鳴られる前に静めなくては。

「んん? ピロシキが居ない?」

 急いで着信音を止めたけど徒労だった。

 ピロシキとジジイが寝ているであろう布団を見渡すけど、そこにも室内のどこにも二人の姿は見受けられない。

「二人はどこへ?」

 夜釣りと喫煙タイムだろうか?

 思考しても意味がないので、脳内を切り替えて、携帯電話の着信相手を確認する。

「お、沙雪さんだ。なになに? 『起きてますか?』ですと?」

 午前二時半ですが諸事情により起きてます。

「沙雪さんはこんな時間にどうしたのかな? あ、眠れないから暇潰しに僕へメールした、とかかな?」

 眠くて眠くて仕方ないけど沙雪さんに付き合うとしよう。

「『こちらSY。起きてますよオーバー』と」

 メール送信完了。

 二つ折りの携帯電話をパクンと閉じ――メールの着信音が鳴る。サブディスプレイの表示は沙雪さんだった。

「返信早いなっ!!」

 まだ二〇秒も経ってないよ?

「え〜となになに? 『「SY」って「凄く弱い」の略かなにか?』」

 SYイコール鈴城優哉イコール凄く弱い。

 アレ? オカシイナ? 目の前がボヤけてきたよ?

「訂正するのもみじめだしテキトーに流しますか……」

 曇りまなこで返信メールを作成しようとした矢先、またメールの着信音が鳴る。

「沙雪さんて意外とせっかちなのかな? え〜と、『もしかしてわたしのメールで起こしちゃった?』 あ〜迷惑をかけたと思ってるのか……これメールでやり取りするよりも、電話をかけた方が早くないかな?」

 そのむねを返信すると、一〇秒もしないうちにRPGゲームの着信音が鳴る。

 間違いなく沙雪さんだ。通話ボタンをポチッとな。

「はい、凄く弱い鈴城優哉です」

『え、あ、間違えました』

 直後にブツ切り音が聞こえた。

「……なぜ通話を切られたのだろう?」

 履歴には「ぷりちー☆新海さん」と表示されているので、沙雪さんの携帯電話からかかってきたことは間違いない。ってなことで、僕から電話をかけ直してみる。

 ワンコールで通話口に出た沙雪さんは、疑心に溢れた声音でこう告げた。

『……優哉くんだよね?』

「兄の優一です」

『え、お兄さん!? あの、その、は、初めまして!! わたし、優哉くんに良くして貰ってる新海沙雪と言いまして――』

「沙雪さん沙雪さん嘘だから。僕だから。鈴城優哉だから」

『――いずれは弟さんとお付き合いを――って、え? 優哉くん?』

「弟の優三郎です」

『もう騙されませえええぇぇぇん!!』

「チッ」

『今舌打ちした? え? 優哉くん今舌打ちした?』

「そんなことはないッスよ? チッ」

『今した! 最後に露骨に「チッ」てした! ……もぉ、わたしで遊ばないでよぉ』

 携帯電話片手に悄気しょげかえる姿が目に浮かび、思わずニヤニヤしてしまう。

「可愛いなぁもぉ」

『んい!? 今、か、「可愛い」って言わなかった? 「僕が抱き締めたいNo.1は可愛い沙雪だぜ」って言わなかった?』

「言ったよ?」ノリに乗ってみる。

『んいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!?』

 沙雪さん絶叫。

 あまりの大音声に僕の鼓膜が破れるかと思った。

「っううう……」耳を押さえて丸まる僕。

『も、もう、この際、優哉くんに言う! 言っちゃう!!』

 なんか電話口で沙雪さんが息巻いてるけど、僕は鼓膜が痛い。

『優哉くん! 話したいことがあるので! 一〇分後に! 「海の家」まで! 来てください! 絶対! 来てください!』

 沙雪さんが召喚要請した直後、ブツ切り音が響き、通話が途切れた。

「っううう……」


 僕は鼓膜が痛かった。


 ◆◆◆


 一年間片想いをしている相手に「話したいことがあるので絶対来てください」と呼び出された。

 これは、ひょっとしたらひょっとするかも知れない。

 ジジイやピロシキの言質げんちを借りるなら、沙雪さんは僕に好意をいだいている。

 だから、彼女に告白されるかも知れない。

 そんな甘い妄想と言うか、可能性が、僕の脳内を占拠している。

 こればかりは、きみに「期待するな」と言われても無理があると思う。

 そのような状況下なので、必然的に僕の眠気は完全に吹き飛んでいる。

 期待に胸を膨らませつつ、着替えを済ませ、遅刻しないように五分が経過した頃合いを見計らって、叔母さん別荘宅から外出する。

 指定された一〇後に間に合うように、はやる気持ちを抑える為、五分かけて「海の家」へゆっくり向うつもりだった。

 いざ沙雪さんの元へ! と思っていたら、玄関を出てすぐの浜辺に、体育さんかく座りで佇む姫風が視界へ飛び込んできた。

 肩とへそを覗かせた黒いキャミソールにデニム地のジーパンをまとっていた姫風は、ちょっと肌寒そうだった。

 月明かりに照らされて夜風に髪をなびかせている姫風は、その……絵になるくらい綺麗でおごそかで、ゲフン、そんなこと思ってないよ?

「……それにしてもこんな遅くになにしてんだろう?」

 前日と同じように、姫風はジーと海を眺めているようだった。

 ほんの数時間前に普段とは違う行動を取っていた姫風。

 そのことが気にかかり、ちょっとだけ寄り道をしよう、と彼女に歩み寄る。

 やっぱり前日と同じように、遠目から見る分には、具合が悪くて立てない、と言った体調不良な訳ではなさそうだ。

「姫風」

 呼び掛けると、無表情な姫風が振り返り、僕を認めた。

「ゆう」

 姫風が隣に座れとばかりにかたわらの砂をトントンと叩く。

 僕は姫風の右隣に拳二つ分くらいの距離を空けて腰を下ろした。

 無表情な姫風は満足したように頷いている。何様だ? あぁ姫風様か。

「こんな遅くになにしてんの? また波でも見てたの?」

 僕は海の方角をあごで指す。

 すると「違う」と姫風が首を振り、一拍置いてからこう答えた。

「ゆうに伝える方法を悩んでた」

「僕に伝える方法……? なにを伝えるのさ?」

「私の愛」

 臆面おくめんもなく言われてしまったので最初は意味が理解できなかった。

 けれど、それを理解すると同時に 身体中がほてってきた。

 ……姫風の愛、か。

「ゆうへの愛をどう届けるか悩んでた」

 ダメ押しされた。

「……あ、愛の届け方、ですか」

 姫風は既に好き嫌いの次元を軽く越えていた。

 おもむろに自分の豊満な胸元へ両手を添えた姫風が、僕の瞳を見つめてくる。

「私の愛を今よりもたくさんゆうに伝えたい。どうすれば私の気持ちが――ゆうへのこの想いが、もっともっとゆうへと伝わるか、悩んで悩んで悩み抜いてた」

 悩まなくても、現在進行形で愛を猛烈に伝えられている。

 けれど、いくら伝えられても困る。

 僕は姫風のことが、好きではないのだから。

「昔から言ってるけどさ、僕は姫風のことが好きじゃない。それはわかってるよね?」

 姫風に凄く優しく微笑ほほえまれた。

 僕はビビってちょっと距離を取る。

「……解ってるよね?」

 気を取り直して恐る恐るたずねてみた。

 姫風はうなずく。

「解ってる。ゆうはツンデレ。私のことが大好きだけど、恥ずかしくて『姫風愛してる』となかなか言い出せないヘタレ。よく解ってる」

「解ってないじゃん!」

 それはともかく、愛を連呼できる精神、僕に対する揺るぎない想い、僕が否定しても好きを貫き通せる自信だけは凄い。凄すぎる。

 嘆息しつつ携帯電話のサブディスプレイに目を落とすと、沙雪さんとの待ち合わせ時間がすぐそこにせまっていた。

「……それじゃあ僕はもう行くけど、あんまり長居するなよ? このまま夜風に当たり続けると風邪を引いちゃうだろうし」

 砂を払って立ち上がりながら僕は言う。

「ゆうはどこへ行くの?」

 姫風が行き先をたずねてきた。

 ギョッとする僕。

 どうにか取りつくろおうと口から出た言葉はこんなショボいものだった。

「……ひ、秘密」

 途端、

「ふふ」

 姫風が笑った。いやわらった。

「怖!」

 僕は姫風から飛び退いた。

「私は怖くない」

 いえ凄く怖いです。

 そんなことよりも、なぜ姫風は嗤ったのだろう?

「……なにがオカシイのさ?」

 また姫風が変なことを喋り出して僕の胃をぶっ壊しにかかる。そうに違いない。

 だから僕は心中で身構える。

 けれど――

「いってらっしゃい」

 予想に反して、ストマックブレイカーひめかは軽く手を上げ僕に手を振って見せるだけだった。

「……え?」

 あ、あれ? いつもみたいに付いてくるとか言わないの? 執拗しつように無理難題を吹っ掛けないの? 押し問答をしないの? 痴女的な嫌がらせをしないの?

「ゆう、どうしたの? 行かないの?」

 座った態勢の姫風が、立ち上がって所在なさげにしていた僕を見上げてくる。

「い、いや行くよ? 行くけど」

「行くけど?」

「な、なんでもない! 行くさ! 行けば良いんだろっ!?」

 僕は肩透かたすかしをくらった気分を引きずりながら、姫風が居た場所をあとにする。

 途中何度か姫風を振り返るけど、彼女は既に僕への興味をなくしたのか、また海岸線を眺める作業に戻っていた。

「……なんだかなぁ」

 なんとも納得がいかない状況に首を傾げる僕。

 海から吹きつけてくる潮混じりの夜風に身を縮こませながら前進前進。潮風が肌寒い。

 姫風へ振り返ると、彼女は自分の両肩を抱いていた。

「……にゃろぉ」

 その場できびすを返し、進行方向を「海の家」から姫風へと切り換える。引き返す。

 姫風へとずんずん歩みより、

「ゆう?」

 戻ってきた僕を見上げてくる彼女の眼前でパーカーを「うんしょ」とか言いながら脱ぎ、「あう」とか漏らす、姫風に脱ぎたてのパーカーを頭からかぶせた。

「……暖かい」

 姫風がパーカーを着終えてすぴすぴと鼻を鳴らしながらそう呟いた。

 服の匂いをぐな。

 僕は嘆息混じりに言う。

「どうせ、まだしばらくここに居るんだろ? だったらそれを着てればいいよっ。ここは寒いし、ないよりはマシだろっ?」

 喋ってる最中に自分の言動が気恥ずかしくってきて、途中からぶっきらぼうな物言いになってしまった。

「ゆう、優しい」

 姫風は僕のパーカーに顔をうずめると、なにかを噛み締めるように染々(しみじみ)呟いた。

「はっ? べ、別に、普通だしっ」

 気恥ずかしさがピークに達したので姫風に背を向ける。

「優しい」

 左手薬指にひんやりとしたものが触れてくる。確認すると、姫風の親指と人差し指だった。

 こっちを向いて、とばかりに指を軽く引かれる。

「なにさっ?」

 継続中の気恥ずかしさを伴って、口をとがらせながら振り向くと、

「ありがとう」

 座ったまま見上げてくる姫風に礼を言われた。

 その状態で微笑むのは反則だと思った。

 姫風の表情は綺麗で可愛くて……凄く凶悪なコンボです。

「……そ、それじゃあ僕、行くから」

 なにかを断ち切るように、僕は姫風の指を払って、「海の家」へと歩き出す。


「帰りをここで待ってる」


 大きくも小さくもない姫風の声音が、彼女から去って行く僕の背中に、鼓膜に、しばらく響き続けていた。


 ◆◆◆


 案の定、遅刻して「海の家」に到着した僕は、開口一番に沙雪さんへ謝罪した。

 寛大な沙雪さんは笑って許してくださったので、ホッとする。

 同時に心拍数が上がり、脈拍が激しくなってゆく状態を自覚する。

 つまり、「呼び出し内容は僕への告白かも知れない」と妄想が先走り、ワンピース姿で着飾っている沙雪さんを前にしてドキドキしている訳です。

 沙雪さんは沙雪さんで、口を開いては閉じるを繰り返されてます。

 なにかを言い出そうとしてなかなか踏み出せない感じかな?

 それから妙な間が数分あって、目の前でもじもじしていた沙雪さんが「えっと……」と切り出した。

 切り出してまた間が空く。

 なので先を促す意味を込めて、「うん」と僕は相槌あいづちを打った。

「……その」と暗がりでも解るほど赤面している沙雪さん。

「うん」と僕。

「……あのね?」

「うん」

「だから……」

「うん」

「……わたしは」

「うん」


 これ永久に続きそう。


「で、沙雪さんが僕に話したいことって――なに?」

 僕はしびれを切らして切り込んでしまった。

「あ、うん、その、い、今、その」

 沙雪さんがわたわたと手を振り慌てている。

「うん」

「ゆ、優哉くんは、い、今、つ、つき……」

「つき?」

「つ、付き合ってる人が、か、彼女が、い、居ますか?」

 き、きた。探りがきた。

「付き合ってる人も、彼女も居ましぇん」

 噛んだ! 誰か僕を殺して!

 悶絶する僕をお構いなしに、

「……居ないんだぁ、良かったぁ」

 そう呟いた沙雪さんは、胸に手を当て、心底ホッとした表情になる。

 僕は彼女の一挙一動にドキドキしっぱなし。

 もしかして、もしかしなくても、これは告白される流れではないだろうか?

 その思考だけが脳内を占拠している。

 沙雪さんと言えば小さく深呼吸を繰り返していて――不意に、きりりと表情を引き締め、僕を見据えた。

 真面目な表情の沙雪さんから目が離せない。

 空唾を飲み込む。舌が口内に張り付く。

 沙雪さんの口の動きがゆっくりになる錯覚。

 一秒にたない時間が無限に思える。


「わたしと――」


 そして沙雪さんが――告げた。


「わたしと付き合って下さい」


 ◆◆◆


「優哉くんのことが好きです」


 赤面しつつ真面目な表情でそう切り出した沙雪さんは、


「去年の夏から好きでした」


 いつ僕を好きになったとか、


「優哉くんのちょっとした気遣いやいつもの笑顔が好きなんです」


 どこが好きになったとか、


「だから、こんなわたしと、良ければ付き合って下さい」


 聞いていてくすぐったくなるような、恥ずかしくなるような美辞麗句を、つらつらとその唇からつむいでくれた。

 沙雪さんの言葉の数々がお世辞に聞こえなかったことから、これは本音を述べてくれたのだろうなぁ、とどこか他人事のように受け止める冷静な僕が居る。


 冷静な僕が居るその反面――


 うおおおぉぉぉおおおぉぉぉおおおぉぉぉおおおぉぉぉっ!? 沙雪さんにKOKUHAKUされちゃったぞ!? やっべマジで!? 僕どうすれば良い!? OKしたあとこれどうすれば良いの!? 付き合うって具体的になにするの!? か、髪とか触って良いの!? 髪以外も触って良いの!? ぎゅって抱き締めて良いの!? 髪に鼻をうずめてくんかくんかとかして良いの!? あぁもうあああもおおおおお良いの!?


 サカる僕が居る訳で――


「あ……と、えっと……」

 それらの欲が言葉にならず、ただただ口をパクパクさせている僕が居るのだ。

「優哉くん、良ければわたしと付き合って下さい」

 声を裏返らせながらさらにプッシュしてくる沙雪さんは、瞳をうるうるとうるませて唇を一文字に引き結んだ。

 僕は口を開いては閉じるを繰り返す。答えは決まっているのに、なかなかそれを口にできない。

 沙雪さんは口を閉ざして真摯しんしな潤んだ瞳で見上げてくるだけ。

 彼女の中では、どうやら僕の返答待ちが始まったようだ。

 それでもバカみたいに口を開いては閉じるを繰り返す僕。

 僕は沙雪さんについて思考する。

 僕は沙雪さんが好きだ。

 明るくて優しい性格が好きだ。

 小動物みたいな可愛らしさと言動が好きだ。

 くるくると変わり続ける表情が好きだ。

 ポニーテールが好きだ。

 染めてるようで染めてない茶髪が好きだ。

 時折見えるうなじが好きだ。

「……うん」と内心で自分に確認をとる僕。

 僕は沙雪さんが好きだ。

 それは今の純粋な気持ち。

「……優哉くん」

 待たせ過ぎたらしく、心細そうな声音で沙雪さんから告白返答の催促をされてしまった。

 沙雪さんを不安にさせてどうするんだ僕。

 答えは最初から決まっているだろ? ほら、『こちらこそよろしくお願いします』って言っちゃえ!

 顔を引き締めて真面目な表情を作った僕は、「沙雪さ――」と口を開きかけて、脳裏に姫風がよぎった。

 砂浜で海を眺めていた姫風。

 渡したパーカーを着終えてそれに顔を埋めていた姫風。

 寒そうに体を震わせていた姫風。

『帰りをここで待ってる』と健気けなげに呟いていた姫風。

『私の愛を今よりもたくさんゆうに伝えたい。どうすれば私の気持ちが――ゆうへのこの想いが、もっともっとゆうへと伝わるか、悩んで悩んで悩み抜いてた』と小学生の頃から、一途に僕を思い続けている姫風。

 唐突に頭が痛くなる。

 なぜ今姫風のことがよぎるんだ、と僕は内心で焦る。

 僕が好きなのは沙雪さんだ。

 沙雪さんのことが好きで、姫風のことは好きじゃないんだ。

 かぶりをふる。


 途端に僕の胸の内の感情が叫ぶ。


 ――そうだ、最低最悪な姫風のことなんてどうでも良い。

 ――僕が好きなのは新海沙雪だ。

 ――なにを迷ってるんだ?

 ――大好きな相手だろ?

 ――早く告白を受け入れれば良い。


 一方で脳内の冷静な部分が語りかけてくる。


 ――いつも視界に入れておかないと不安でしょ?

 ――「誰を」って?

 ――それを「僕」にく?

 ――姫風だよ。鈴城姫風。

 ――なぜ困ってるのさ?

 ――どうして困ってるのさ?

 ――僕は姫風が近くに居ないと不安定だろ?

 ――構ってもらわないと困るだろ?

 ――知らなかったの?

 ――それとも気づかないフリをしてたの?

 ――○○だって。

 ――昔から鈴城姫風のことが○○だって。

 ――沙雪さんへ答えるよりも先に、姫風へ答えることの方が先だろ?

 ――ほら。

 ――……って、あれ? 僕、返事をしろ。

 ――お〜い。


 一方的に語りかけてくる感情と冷静な部分の自分自身に、僕は閉口する。

 なにが正しいのか解らなくなってきたのだ。


「優哉くん」

「は、はい!」

 沙雪さんに呼び掛けられた僕は我に返り、直立不動で「きおつけ」の姿勢になった。

 すぐに答えない僕を見かねたのか、

「……やっぱり考える時間が必要だよね」

 沙雪さんがそうのたまわれた。

「突然『好き』とか『付き合って下さい』って言われても困るよね」

 沙雪さんの表情は落胆していて……僕が即答しなかったことが原因だと思う。

 どこか空元気を絞り出したような陽気な声音で沙雪さんが続ける。

「優哉くんの告白の返事は……明日、明日といっても既に日付が変わってるから、今日なんだけど、今日の夜……八時頃には帰宅してるだろうし、九時頃に呼び出しをさせていただいてよろしいでしょうか?」

 沙雪さんがビシッと人差し指を僕に突き付ける。

 混乱している僕に、考える時間を与えてくれる沙雪さんの心使いが嬉しい。

「……うん」

 か細く言って僕は頷いた。

「それまでに、告白の返事を考えておいて下さい――あ!」

 急に驚愕した沙雪さんが、僕の後方を指差した。

「へ?」と僕は振り返る。

 振り返れども、そこには特になにもなし。

 なんだったのだろう? と沙雪さんへ向き直ると、

「なにかあっ――」

 沙雪さんの顔が、唇が零距離だった。

 温かく柔らかい唇の感触が、数秒ほど僕の唇に押し付けられて、ちゅっと水を弾くような音ともに沙雪さんが離れた。


「ま、待たされるわたしの! さ、ささやかな攻撃ですっ!!」


 全身を真っ赤にさせて声を裏返らせている沙雪さんはどう見てもいっぱいっぱいだった。

「それじゃあ、おやしゅみなさい!」

 あ、沙雪さんが走って逃げだした。

「にゃあっ!?」

 派手にころんだ。

 あ、起き上がってまたすぐに走りだした。逃げてった。


 僕はと言うと、脳裏をよぎった姫風のことと、口内に残る桃の味と香りを余韻に、その光景を眺めながら、「やっぱ沙雪さんは可愛いなぁ」と苦笑いをもらしていた。


 ◆◆◆


 新海沙雪さんの告白から数分後、僕は頭を悩ませながら、鈴城姫風の居た砂浜へと戻ってきていた。

「姫風、お待たせ」

 忠犬ハチ公よろしく、砂浜にて律儀に僕こと鈴城優哉を待ち続けて居た姫風が、体育さんかく座りの両膝の間に埋めていた顔を僕の方へと向けた。

 見上げてくる姫風は、パーカーを羽織っているにも関わらず、とても寒そうに見えた。

 現在、とある事情で姫風を直視できない状態へとおちいっている僕は、見つめてくる彼女からサッと視線をらす。

「ゆう?」と姫風がとがめるように名を呼んでくる。

 視線を逸らしたまま僕は言う。

「ごめん。待たせ過ぎた」

「待たされ過ぎた」

「……姫風っていつも一言多いよね」

「ゆうはいつも他人事ひとごとで済まそうとする」

 そうだっけ?

「……まぁ良いや。とにかく帰るよぐふっ」

 急に立ち上がった姫風が僕の左脇腹へタックルを仕掛けた。クリティカルヒット。

「……おのれは」

 左腕へ巨大なメロンさんとともに抱きついている姫風が「なに?」とばかりに首を傾げている。

 とりあえずメロンさんと姫風を腕から引き離した。

「寒い」と不満そうに唇を尖らせる姫風。

「そうだね」

「ゆうを待ったお陰で寒い」

「勝手に待ってただけじゃん」

「寒いから抱き締めて」

「嫌だ」

「抱き締めて優しくキスして」

「海に投げ込もうか?」

「二人で遠泳? 素敵」

「なんで僕まで泳ぐことになってるんだよ」

「考えごと?」

「えっ」

「返答にいつものキレと覇気はきがない。どことなくおどおどしている。私と目を合わせない。それらから導き出せるゆうの状態は――思考中、つまり考えごとをしている」

「……ひとを勝手に分析するな」

 図星なので反論できない。

 あと「はき」ってなに?

「僕だっていろいろ考えるさ」

 いろいろ考えてること――沙雪さんの告白と、沙雪さんへの返事の際に脳裏をよぎった姫風のこと。

「例えば?」

「さゆゲフン新海さんのこととか、姫ゲフンなんでもない」

「タヌキと私のこと?」

 目敏めざといなんて言葉があるけど耳敏みみざといなんて言葉も辞書には掲載されているのだろうか、と一瞬だけ思考逃避してみる。

 くいくいと姫風に肩口を引かれる。

「私のことを考えてる?」

「さあね」

 実際は沙雪さんと姫風のことについて絶賛思考中だけど、姫風に面と向かって話す内容じゃない。

 だから、ほっといて欲しい。

「ゆう、っ気ない」

「僕は優しいのか素っ気ないのかそろそろ固定してくれ」

「ゆうは不定形」

 ひとをスライムみたいに言うな。

 姫風を置いて叔母さん別荘宅へと歩き出す。

 間を置かずポンと肩を叩かれ、姫風に訳知り顔で言われる。

「悩め若人わこうど

 凄くイラッとした。

 肩の手を払う。

「……なにさとってんのさ。僕らおなどしだろ?」

 しかも僕の方が誕生日は早い。

 これ見よがしに、いや、ことさら大袈裟に姫風へ舌打ちして、歩みを再開させる。

「ゆう」

 背後から呼び掛けられるも、考えごとの最中なので、あえて無視する。

「ゆう」

 左隣に姫風が並ぶ。

 そして、刹那で僕との間合いを詰め、彼女の両手と唇が僕の顔に飛んで来る。

「甘い!」

 僕はバックステップで姫風のキスを回避した。

「そう何度も何度もキスされてたまるか!」

 眼前――砂の上にぺたんと座り込む姫風。

 油の切れたロボットばりにギギギと首を動かし、不自然にこちらを見上げてくる。

 その瞳はうらめしげ。

「ゆうが私の愛をけた」

 不満と批難を混ぜた声音だった。ねて唇をとがらせている。

 姫風を眺めていると、僕は悪くないはずなのに、なぜか胸の内側から罪悪感がき上がってくる。

「あ〜もぉ……ほら、手、出して」

「ん」

 うなじをきながら反対の手で姫風を引っ張り起こした。

「……避けて悪かった」

 反省はしてないけど。

「悪いと思うならゆうの唇と私の唇を密着させて欲しい」

 沙雪さんとのキスがフラッシュバックするけど、どうにか考えないようにする。

 話題を変えねば。

「……う、ウニとか落ちてないかな?」

 普通砂浜には無いよね。

 落ちてたら姫風の口へ押し付けてやるのに。

「ある」

 姫風がウニを掌の上に載せている。

「あるのかよ!? なんで持ってるの!?」

「ゆうの連想できるものは全て持ってる」

 す、スカイツリーとか通天閣とかカーネルおじさんも携帯しているのだろうか?

 ちょっとドキドキしてきた。

「――じゃなくて! 僕のことはしばらくほっといてよ」

「お願い?」

「え、おねが――あ、うん、そう。お願い」

「お願いには代償が付き物」

 姫風がまた妙なことを言い出した。

「代償? ……例えば?」

「ハグ一年分」

「却下」

「モーニングコール一年分」

「面倒臭い」

「ゆうの匂い一年分」

「採取方法が凄く気になる。却下」

「ゆうの右腕」

千切ちぎるな。却下」

「ゆう半分」

「割るな」

「ゆ――」

「却下ほうっ!?」

 ウニを頭に押し付けられた。

 動くと激痛が走るので、微動だにできない。

「……凄く痛いです」

「ウニ割れた」

「人の頭でウニ割るな」

「ズズッ塩味」

「そのままウニをすするな」

「食べる?」

 額から引き抜かれて見せられた赤いウニは、残りが汁だけでした。

「中身ないじゃん」

「ある」

「どこ?」

「ん」


 姫風とのキスは塩味でした。


 ◆◆◆


 叔母さん別荘宅へと戻り、姫風と別れてあてがわれた三階角部屋の居室に転がり込んだ僕は、敷いてある布団の上へ飛び込んだ。

「ごふっ」

「……はぁ、今日は激しい一日だった」

「てめえの布団は真ん中だろうが! 一々オレサマの上に来て寝んな!」

 いつの間にやらピロシキは戻ってきていたらしい。

「冷たいなぁ、僕とピロシキの仲じゃないか」

 冗談でピロシキに抱きつく。

 こいつ良い香りするなぁ。

「他のやつが聞いたら誤解するようなことをサラッと言うな! 離れろカス! あとピロシキ言うな!」

 蹴って引き剥がされた。

 そこからマウントポジションへ移行して、僕へ馬乗りになるピロシキ。

 そこへドアをガチャッと開けてジジイが登場。僕らを一瞥いちべつしてたじろく。

「……お主らがそんな仲じゃったとは……!」

 そして数歩後退あとずさる。

「ちょ、まて祐介! お前なにか勘違いしてるぞ!?」

 焦りだすピロシキ。

 悪乗りしてピロシキに抱きつく僕。

「ピロシキ、僕、今日は帰りたくない」

「『帰りたくない』とか意味解んねえぞ!? あとピロシキ言うな!」

 さらに一歩後退あとずさるジジイ。

「……今まで気づかなくてすまなかった。わしはリビングで寝るから、その、あとは二人で楽しんでくれ」

 部屋をあとにしようとするジジイの肩を、僕を引き剥がしたピロシキが急いで止めた。

「だから待てって祐介!」

 僕は叫ぶ。

「行かないでピロシキっ!」

「お前はいい加減にしろっ! あとピロシキ言うな!」

 ジジイはピロシキに向き直り、彼の肩をポンポンと叩いた。

「安心しろ。こう見えてわしは口が堅い。皆にはこのことを黙っておく」

「そうしてくれると助かるよジジイ♪」

「祐介はオレサマの話を聞け! 優哉はもう喋るな!」

 ピロシキが一際大きな声で怒鳴った。

 僕とジジイは顔を見合わせる。

「そろそろ飽きたのぉ。寝るか」

 後退っていたジジイが室内へ戻り、自分の布団内へともぐり込んだ。

「そうだね、寝よう」

 僕も自分の布団内へ潜り込んだ。

「……ちょ、え?」

 一人事態に付いていけないピロシキ。

「おやすみ」

「おやすみ〜」

 僕とジジイは布団を引き寄せてかぶった。

「は? どういうことだ?」

 未だに要領を得ないピロシキくん。

 数秒して、ハッとなった。

「まさか……てめえら即興ではかりやがったのかっ!?」


 ストレス発散はピロシキをイジるに限る。


 ◆◆◆


 眠れない。

 携帯電話を手繰り寄せて時刻を確認すると、午前四時だった。

 沙雪さんに告白された上に自分の内から突きつけられた――姫風が近くに居ないと不安でしょ? と言う、あり得ない思考が重なっていて、眠れるはずがない。

「ねえ、ピロシキ、ジジイ」

「ZZZ……ZZZ……」

「……Zz……Zz……」

 二人とも熟睡中みたいだ。

「……ん〜。よし、ちょっと走ってこよう」


 十分後、僕は防波堤にあるテトラポッドの上で伸びていた。


「やばいなぁ……年々体力が落ちてるような気がする」

 小学生の時に友達と無尽蔵に走り回っていたのはなんだったのか。

 そんな下らないことを思考するのはめて、真面目に思考して本題に入ろう。いや、その前に、整理しよう。

 テトラポッドから降りて、砂浜に着地する。

 そして近くにあった流木を手に、砂浜の徘徊はいかいを開始した。

「……ジジイたちの言った通り、沙雪さんは僕のことが好きで、ありがたいことに告白をしてくれた」

 砂浜に僕と沙雪さんの名前を流木で書き、沙雪さんから僕、僕から沙雪さんへ矢印を引く。

 相思相愛マーク!

「僕は沙雪さんが好きだ。これは間違いない。間違いないと思う」

 じゃあ、なぜ、沙雪さんへ返事をする時に姫風のことが脳裏をよぎったのか。

「……はて、なぜだろう?」

 姫風の名前を砂浜に書く。

 そしてその文字を流木で突き刺す突き刺す突き刺す。

 文字の原型がなくなったところで、砂浜にまた姫風と書き、僕へと矢印を引く。

「……姫風は僕のことが好き。これは揺るぎない事実」

 でも僕は姫風のことが、

「最近は嫌いじゃないけど、でも『好きか』と問われれば……好きじゃない。うん、好きじゃない」

 だから、なんであの大事な場面で姫風が出てきたのかが解らない。

「おかげで沙雪さんに即答できなかったし、変な気まで使わせちゃうし」

 姫風の文字を突き刺す突き刺す突き刺す。

 姫風なんかただのストーカーで痴女で迷惑しかかけてこなくて嫌がらせで胃が殺られそうで……。

「あぁ、もやもやする。ワケが解らない。なんで姫風のことでこんなに考えなくちゃならないんだ」

 気分が不完全燃焼、とでも言えば良いのだろうか。

 段々腹が立ってきた。

「姫風なんて、姫風なんて、やっぱ嫌いだ! 大嫌いだっ!!」

 流木を蹴飛ばすと同時に、頭がガンガンし始めた。

 重い風邪を引いた時のような痛みが走る。

「痛、いたたた……あぁダメだ。考えすぎて、頭痛がしてきた」

 砂浜にうずくま

 バカな僕がこれ以上思考しても無駄だと脳が警告している。

 さっさと部屋に戻ろう。

「……朝食の時にジジイやピロシキへいてみよう」


 頭痛を引きずりつつもどうにか立ち上がった僕は、叔母さん別荘宅へとゆっくり引き返すのだった。


 ◆◆◆


 し込む日差しが僕の目に入り、鉛(なまり)みたいな匂いも気になって目を覚ました。

 匂いの元を探そうとして、超至近距離に椿さんが居ることに気付く。

「……ゆう……や……すぴー」

 うん、ワケが解らない。

 なにかの拍子で鼻と鼻が触れ合ってしまいそうな距離だ。

 離れなければ我が身に火の粉が降りかかるかも知れない。

 そう思考する反面、椿さんの可愛らしい寝顔に、ついつい見入ってしまう。

 普段の不機嫌面が鳴りをひそめているせいだろうか、とても可愛らしいのだ。

 こんな機会は滅多にないので、椿さんをさらに観察する。

 椿さんて睫毛まつげ長いなぁ。

 お、姫風よりちょっとだけ小顔なんだなぁ。

 ぷにぷにしてそうなほっぺたを触りたいたいなぁ。

 つやつやぷるぷるしている唇に、ちょっとだけチュッてしてみたいなぁ……って、そんなことしたら椿さんに殺されちゃうよね。

 いやいやいやいや殺されちゃうとかじゃなくて、僕は沙雪さんと姫風について考えないとダメなのに、チュッてしたいとかどうなの!? 最低だ!

 僕が悶々と葛藤している中、

「うにゅ……ゆ……うや……」

 椿さんの両腕が伸びてきて、肩を抱かれてしまった。

 抱きつかれてしまった。

 その際、一瞬だけだよ? 一瞬だけだけど、ちらっと、椿さんの鎖骨とかピンク色のさきっぽが見えてしまった。


 椿さん、今、服、着てない。


「うええええっ!?」

 叫んでいたらヤバイので急いで口を閉じる。

 つか、なんで着てないの!? なんで椿さんは上半身裸なの!?

 そもそも、椿さんはなぜ僕の布団の中に居るの!? それとも、僕が部屋を間違えて椿さんの布団へ潜り込んだの!? どっち!?

「……ゆう……や……いつも……姫風だ……け……ずる……い」

 なにが!? なにがずるいの!?

「……私は……ゆうや……と……もっと……仲良く……したいだけ……なのに……デートとか……してみたいだけ……なのに……いつも……誤解されて……いつも……姫風が……ぐすっ……」

「え……?」

 ぐすっぐすっと椿さんが泣きながら眠っている。

「椿さんが、僕とデート? え、どういうこと?」

 呟く僕の中で、思考がめぐるましい稼働具合をみせてゆく。

 椿さんはデートがしたい。誰と? 僕と? つまり僕を憎からず思っているワケで、もしかしたらそれ以上に思っているワケで……。

 これって、もしかして……いや、いやいやいやいや、そんな、まさか、深読みし過ぎだよ僕。

 沙雪さんに告白されたからって調子に乗り過ぎだぞ僕。

 上半身裸な椿さんに抱き抱えられている僕の耳に、コンコンと部屋をノックする音が届いた。

「お兄ちゃん朝だよ? もう九時だよ? 起きてこないのはお兄ちゃんだけだよ?」

 この声は紫苑しぃちゃんだ。

 続けてガチャッとドアの開く音とともに、彼女が入室した。

「お兄ちゃんおはよう」

 しぃちゃんの入室と同時に椿さんを振りほどき、僕の布団の中へ押し込んだ。

「お、おはよう! 僕は寝坊したみたいだね! 起こしにきてくれてありがとう!」

「朝から元気だねお兄ちゃん♪」

 僕の腕を取り、引っ張りあげようとするしぃちゃんをやんわりと拒む。

「僕、着替えがまだだから、それが終わったらすぐに行くよ。しぃちゃんはダイニングで先に待っててくれるかな?」

 布団から抜け出せない僕とそこから引っ張りだそうとするしぃちゃんとの地味な攻防戦が始まった。

 ぐいぐい引っ張られるけどどうにか踏ん張る。耐える。

 しぃちゃんやめて!

 椿さんの肌のどこかに僕の足が触れちゃってるから!

 時々「んっ」と椿さんのくぐもった声音が聞こえてきてるから!

「しぃはお兄ちゃんが着替え終わるまで待つよ?」

「それだと僕が困る!」

「え?」

 理解できないとばかりに首を傾げるしぃちゃん。

「あ、やべっ……え〜と、とにかく先にダイニングへ降りていて下さいお願いします」

 しぃちゃんが怪訝けげんな表情となる。

「……なにか隠しごと?」

 鋭い!

「うえ!? あ、いや、そんなことはないよ?」

 しぃちゃんは僕に押し切られる形で、後ろ髪を引かれながらも三階角部屋をあとにした。

 しぃちゃんの足音が去ったのを見計らってから、僕は布団からそっと抜け出す。

 そして、さっさと着替え始め――視線を感じた。

 視線の出所は僕の布団の中。

 かけ布団がかすかに上下している。

「……椿さん、起きてたりします?」

「お、起きてない」

 ばっちり起きてらっしゃいました。

「いつから起きてました?」

「紫苑がドアをノックした辺りから」

 椿さんが布団の中からにょきっと頭だけを生やした。

「……やっぱ起きてたんじゃないっすか」

「あ、あう」

 指摘すると椿さんは赤面して目を泳がせた。

「で……つかぬことをおきしますが、なぜ、上半身裸なんですか?」

「ん? か、下半身も裸だが?」

 ……は?

「今、なんて言いました?」

 かけ布団を身にまとった椿さんが、すくっと立ち上がる。

 敷布団には赤黒い謎の血痕。なにあれ?

 赤面している椿さんが噛みながらこう言う。

「じょ、上半身どころか、か、下半身も裸だが、それがどうかしたのか? み、見るか?」

「見ませんよっ!!」

 バカな……下半身まで裸だと?

 しかも、それがどうかしたのか? と、きましたか……。

「いや、それ、平然と言うことじゃないとおもうんですけど……一応、僕、男だし、その、もし、もしですよ? まかり間違って椿さんに襲いかかったりしたらどうするんですか? 起こしにきてくれるのは嬉しいんですけど、もっと慎みをもった起こし方が他に――」

「よ、夜這よばいにつつしみは必要なのか?」

「――もあると思……え? よば、夜這い?」

 僕が暴言にほうけていたその時、ガチャッとドアの開く音が聞こえた。


「ゆう」「優哉くん」「お兄ちゃん」


 姫風、沙雪さん、しぃちゃんが入室した。


 椿さんの傍らには、椿さんが脱いだと思わしき、パジャマが落ちている。


 あぁ、さすがにこの状態はマズイよね。


 ◆◆◆


 姫風から折檻を受けた椿さんがしくしくと泣いている。

 と言うのも、「私は全裸で街中を歩くことが大好きです」と言う手書きのプラカードを首から下げて、リビングルームにて正座させられているからだ。

 椿さんは泣きながらこう訴えている。

「ゆ、勇気を振り絞ったのに、ぐすっ……」

 振り絞ったベクトルが違い過ぎるので、現状は「二度と姫風の真似をしないで下さい」と口を酸っぱくして言い聞かせることに留めて置いた。

 椿さんは納得してない表情だった。

 ……正直、これ以上面倒ごとを増やさないでいただきたい。

 ちなみに、鉛のような匂いと敷布団へ付着していた赤黒い血痕は、椿さんの鼻血だそうです。

 椿さん曰く「興奮し過ぎた」とのこと……なにに興奮したのだろう?


「ゆーくん茶番劇は終わった? ならお姉ちゃんと遊ぼうよ! あいたっ」


 傍らで一部始終の経過を眺めていたお姉ちゃんのコメントでした。

 お姉ちゃん……茶番劇って。

「話の腰を折らないの」と母さんに頭を叩かれている。

「お母さん痛い! 叩き方に愛がない! あいたっ」

「そんなことより、ほら、優哉に言ってきなさい」

「もぉ〜自分で言えば良いのにぃ〜あいたっ」

「大きな声で言わないでよ」

 お姉ちゃんと母さんの茶番劇を後目しりめに、午前一〇時頃に朝食を終えた僕は、なにかを企む二人から逃げるように帰り支度じたくを始めるべく、三階角部屋へと戻る。

 叔母さん曰く、午後三時のおやつ時にはここを経つとのこと。


 あらかた帰り支度の準備を整えたジジイがポツリと漏らした。

「いやはや……今年はいろいろと内容の濃い夏休みじゃったな」

 それを皮切りに、

「勝手に終わらせるな。あと一〇日ある。オレサマは遊び足りねえぞ」

 ピロシキが残り一〇日はナンパとデートでついやす宣言。

「わしの妹もお主にもてあそばれるワケじゃな?」

「ぶふっ」

 ピロシキがコーラ吹いた。

「がはっごほごほっ、肺に、コーラが、ごほっ」

 ピロシキが現在熱をあげている相手はジジイの妹だったりする。

 ※ やんやん短編集参照。

「ピロシキとジジイは、いずれ義兄弟か……胸が熱くなるね」

 二人は顔を見合わせてなんとも言えない顔をした。

 例えるなら、勘弁してくれ。

 不意に、……トタトタトタトタッと軽やかに階段を駆け上ってくる足音が聞こえてくる。

「お、お兄ちゃんお兄ちゃん!」

 必死な剣幕で僕たちの居室に飛び込んできたのは、金髪ツインテールをなびかせたしぃちゃん。

 よっぽど急いで来たのだろう、はぁはぁと肩で息をついている。

「か、華虎かこお姉ちゃんが、華虎お姉ちゃんが、梨華お姉ちゃんと喧嘩を、喧嘩を始めちゃったの!」

「はあ?」

 なんでまたそんなことを?

「とにかく、お兄ちゃん来て!」

 しぃちゃんに手を引かれるまま嫌がるジジイを強引に連れて階段を降り、目指す先たるリビングルームへ付いていく。

 リビングルームへ辿り着いた矢先、最初に聞こえてきたのは、水地華虎こと我が実姉の人をあざけるような声音だった。

「――ふ〜ん? りかちゃんはゆーくんのことが本当に好きじゃないんだね?」

 どうやらお姉ちゃんは黒髪シニヨンヘアーのエロ女王こと相庭梨華さんに絡んでいるらしい。

 リビングルームには、未だ「私は同性愛者です。カワイイ女の子に目がありません」と言う新たな手書きのプラカードを首から下げた正座中の黒髪ワンレングスヘアーエメラルドグリーンアイな椿さん、その隣にソファーも持ってきて優雅に座り、足の指先で椿さんのほっぺたをぐにぐにしている黒髪ロングヘアーエメラルドグリーンアイな姫風、事態の推移をダイニングルームの椅子に座り見守る叔母さんと母さん、ただただオロオロあたふたしている茶髪ポニーテールの沙雪さんは僕に気づくと赤面して小さく手を振ってくる。

 リビングの入り口にたつ僕も小さく手を振り替えした。

 そこへ、姫風が間に入ってきて、一々手を振ってくる。

 僕はげんなりしながら手を振り替えした。

 真っ赤なリボンを頭頂部にあしらった黒髪セミロングヘアーなお姉ちゃんが、さらに間へ入ってきて、笑顔を振りまきながら大きく両手を振って見せる。

 僕はあからさまに嘆息をしてみせた。

 不機嫌面を復活させた椿さんが自分を指差して僕になにかをアピールしていたけど、ソファーへと戻った姫風に顔を掴まれて封殺されていたので、なにをアピールしたかったのかよく理解できなかった。

 お姉ちゃんはお姉ちゃんで、なにやら満足したらしく、相庭さんへと向き直り、

「ねえ、本当にゆーくんのことが好きじゃないの?」

 相庭さんに問いた。

 これはなんの話? どうしてこんな話の流れに?

「そう言ってるでしょ?」

 疲労をにじませる相庭さん。

「へ〜? ほ〜? ふ〜ん? 本当に?」

「そうよ」

 お姉ちゃんは相庭さんから視線をらさない。

「本当に? 嘘偽りなく? ゆーくんのことが嫌い?」

 相庭さんは僕を一瞥して視線をらした。

「……嫌いとは言ってないでしょ?」

「あ、じゃあ、やっぱり好きなんだ?」

 酷い誘導尋問だ。

「だから、なんとも思ってないと何度言わせるの!? さっきからしつこいわよっ!?」

「しつこいもなにも認めるまで言わせるよ?」

「みと、認めるまでって、あなたバカ?」

「バカでーす♪ 法律大学ほうだい主席入学のバカでーす♪」

 多分僕が一番イラッとした。

 同じくイラッとしているであろう相庭さんが、気を取り直した感じで問う。

「……鈴城くんのことばかりいてくるけど、あなたは鈴城くんのなに? 昨日の夜に突然現れたと思ったら、今朝けさ、突然私に絡んでくるし」

 お姉ちゃんがにんまりと笑む。

 嫌な予感がする。

「私はゆーくんのお姉ちゃんでーす♪」

 ちょっ。

「水地華虎って言いまーす♪ 両親が離婚して名字は違うけど、正真正銘の姉弟きょうだいでーす♪」

「えっ!?」「はぁっ!?」

 沙雪さんと相庭さんが凄く驚愕した。

「……鈴城くんたちのお姉さん?」

「言われてみれば確かに優哉く――鈴城くんと顔つきがそっくり……」

 相庭さんと沙雪さんは顔を見合わせ、困惑しながらも僕とお姉ちゃんの顔を交互に見比べた。

 お姉ちゃんは困惑する二人を気にも止めず、僕に手招きする。

「ゆーくんこっちにおいで」

「……なに?」

 ぐうの音もでない僕は、渋々従い、お姉ちゃんの眼前に立つ。

 リビングの中央にお姉ちゃん、東側に相庭さんと沙雪さん、北側に姫風と椿さん、南側に僕、西側に叔母さんと母さんとジジイって感じの位置取りだ。

「『表明』って大切だよね」とお姉ちゃん。

「はい?」と僕。

 これまたなんの話?

「言い換えるなら、『意思表示』」かな? 大切だよね『意思表示』」

「はぁ」

 多分僕は眉間みけんにシワを寄せて口をポカリと開けているに違いない。

 僕にはなにをおっしゃりたいのかさっぱり解らないお姉ちゃんが続ける。

「思っていることを相手に伝えることはとても大切だと、お姉ちゃんは考えます」

「う、うん、まぁ、そうだよね」

 脳裏に海辺でたたずむ物げな姫風と告白の返事待ちな沙雪さんとなぜか上半身裸な椿さんがよぎる。鎖骨とピンク色のさっきぽがよぎる。うわあああぁぁぁっ!?

 お姉ちゃんが目をぱちくりさせて覗き込んでくる。

「どうしたのゆーくん? 顔が真っ赤だよ?」

「き、気にしないでっ! お姉ちゃんは話を続けてっ!」

 僕の裏返った声音がリビングにやけに響いた。

 お姉ちゃんは「は〜い♪」と元気良く挙手。

「それじゃあね、まずは、お姉ちゃんとキスしようか?」

「きす?」

 あれかな? 「魚偏」に「喜」と書くあのお魚のことだろうか? でも「お姉ちゃんときすしようか?」なんて文は聞いたことがないよ?

 僕が思考にまったと同時に、誰であろう相庭さんが、誰より先に声を張り上げる。

「華虎さん、で良いわよね? きょ、姉弟きょうだいでキスとか、なにを考えてるの?」

 相庭さんは普段と違い、落ち着いた声音ではなかった。

「え? 姉弟でキスしちゃいけないの? 私はゆーくんのことが大好きで、愛してるんだよ?」

「……は? 愛? いや別に姉弟でキスしなくても」

 相庭さんが呆れた声音で言った。

「キスはほら、一番手っ取り早い方法じゃない? 『私もゆーくんのことが大好きだよ』って言う『意思表示』が、ここに居る『ゆーくんを大好きな女の子たち』に一発で即周知させることができる、一目瞭然で素敵な行為でしょ?」

「……私はどこから突っ込めば良いのかしら」

 相庭さんは頭痛を我慢するように自分の頭を押さえた。

 彼女の中の理性メーターが悲鳴をあげているのがよくわかる。

「優哉く――鈴城くんと、弟とキスしちゃうのはダメだと思います。血縁関係でそう言うことをするのは倫理的によくないです。法律で決まっていて罰を受けます」

 相庭さんの親友たる沙雪さんが取って変わった。

 沙雪さんは社会的、倫理的概念を前面に押し出すけど、お姉ちゃんは、

「血縁関係? 倫理? 法律? 愛し合う二人にはそんなもの、なんの障害にもならないよ?」

 易々と一同をドン引きさせた。

 青くなって一歩たじろく相庭さんと沙雪さんとジジイ。

 痛みをこらえるように頭を押さえる母さん。

 なにか思い当たる節でもあったのか苦笑するだけの叔母さん。

 展開に付いていけずただただ目を真ん丸くするしぃちゃん。

 いつも通りの無表情な姫風。

「足が痺れてきた……」と椿さん。

 さらにお姉ちゃんがたたける。

「誰の人生も一度きりなんだよ? 生まれ変わるだとか永遠の命だとかはこの世にないんだよ? 私が偶然好きになった相手が弟で、その子とは偶然血が繋がってるだけ。その弟と付き合って結婚して幸せになることがなんでダメなの? もう一度言うけど、人生は一度きりなんだよ? 最愛の人と添いげることがなぜ罪なの? やりたいことをやることがどうしてダメなの? 私に理解できるように、納得できるように、説明して?」

 ……お姉ちゃんが納得するように説明するなんて誰にも無理だと思う。

 頼みのつなたる母さんに目をやると、ぼんやりと天をあおいでいるだけ。この人マジで使えないな。

 誰もなにも言い返せない――姫風は言い返さないだけ?――ことを確認したお姉ちゃんは、演説を続ける。

「倫理や法律はすぐに私がくつがえします。それ以外で反論出来る子が居れば、ゆーくんの姉妻たる私にドンドン訴えて下さい」

「は〜い」とすかさず挙手する僕。

「はいゆーくん!」

「姉妻の意味が解りませ〜ん。突然みんなの前で僕のことを好きだの愛してるだのげるだの結婚するだの僕の意見も聞かずに勝手に喋りまくってみんなをドン引きさせる意味が解りませ〜ん」

「ゆーくんの意見? あぁ、それなら簡単だよ。大人の世界には、『事後承諾』って言葉があるんだよ?」

 事後承諾?

「『経過』はどうでも良いんだよ? 『最終目標』さえ達成すれば、あとはどうにでも『料理』できる」

 要領を得ず、僕は首を傾げた。

 お姉ちゃんがまたにんまりと笑む。

「つまり、法律さえ改正すれば、ゆーくんとのことはどうにでもなるって寸法だよ?」

 お姉ちゃんの語る未来図が天才的な理論過ぎて涙が出てきた。

「え、僕の心は? 気持ちは?」

「大丈夫。ゆーくんはお姉ちゃんが一番大好き。これ間違いない」

 ……この人ヤバイ。なにがヤバイって大言壮語を叶えそうでヤバイ。

 今後の為にも、ここはしっかりと否定して、お姉ちゃんにちゃんと言い聞かせておかなければ。

「そ、そもそもさ、現状の法律ではお姉ちゃんと結婚できないし、元々お姉ちゃんと結婚する気もないよ、僕は」

「え? でも『結婚するなら料理の上手な人が良い』ってゆーくんはお姉ちゃんに言ったんだよ? だからお姉ちゃんは料理を極めたんだよ? だからゆーくんはお姉ちゃんと結婚するの! 絶対するの!」

 その約束、僕が二、三歳の時の話だよね?

「私の手料理はゆうに好評」

 とうとう姫風が参戦した。

 お姉ちゃんが姫風に目をやる。

 姫風は僕を眺めている。

 僕はフローリングの木目を数え始める。

 そこへ、おずおずと沙雪さんが復帰した。

「あの、華虎かこさんがおっしゃる『倫理や法律はすぐに私がくつがえします』の意味が解りません。それと、そもそも姉弟は法律で結婚できないと思うんですけど」

 ソファーへ優雅に座る姫風を足の指先から頭頂部まで舐めるように凝視していたお姉ちゃんが、嘆息しながら沙雪さんに返す。

「二〇〇年前までは世界中で盛んに近親相姦してたんだよ? ここ二〇〇年でできた日本のにわか法律なんて現実は、ゆーくんのお姉ちゃんたる私がこの手でぶち壊す!」

 ……二〇〇年前に生まれてなくて良かった。

「タヌキは日本の成り立ちと神話を熟読してから物を言うべき」

 ひ、姫風がお姉ちゃん側に回った!

 痴女どうしでタッグを組むことだけはヤメテっ!

「え、あれ!? 倫理がまったく通じない!? わたしなにか間違ったこと言った!?」

 言ってません。

 混乱する沙雪さんをさて置き、お姉ちゃんが僕に抱きつこうとして、ソファーから腰を上げた姫風に遮られた。

「好き勝手に妄想を垂れ流すことは自由。けれど、ゆうに触ることだけは許さない」

 僕の前に立つ姫風と相対するお姉ちゃん。

 数秒してから、お姉ちゃんが唐突に寂しげに微笑んだ。

「どうやらヒメカさんとは、思想は同じだけど、好き男の子も同じみたいだね」

 見つめ合う痴女二人。

 姫風から視線を外し、かぶりを振るお姉ちゃん。

「残念だね。あぁ本当に残念だ。私たちが違う形で出会えていたなら、きっと友達にもなれたのに」

 いや無理でしょ。

「けれど、ゆーくんを好きだと言うならば別。ゆーくんを好きだと言う子は、全てこのお姉ちゃんが排除する!」

 お姉ちゃんてば勝手に自分の世界を作って演技してるし。

「私を排除する? ゆうから引き離す?」

 無表情だった姫風の瞳が、剣呑な光をび始めた。

 はい姫風さんのスイッチ入りました。

 ビビるお姉ちゃん。

「そ、そうだよ、排除だよ! まずはヒメカさん! あなたを最初に排除するよ!」

 まさか昨日姫風に殺されそうになったお姉ちゃんが、その姫風に喧嘩をふっかけるとは予想できなかった。

 一応お姉ちゃんに釘を指しておく。

「お姉ちゃんお姉ちゃん、やめといた方が良いよ。姫風強いよ?」

「ふっふっふっ昨日は遅れを取ったけど、実はお姉ちゃん強いんです。シャドーセックス九段の腕前は伊達だてじゃないんだよ? うひゃっ!?」

 姫風の拳が一閃。

 演説中のお姉ちゃんの眼前で止まった。

 お姉ちゃん涙目。

「こ、この人酷い! 突然殴ってきたっ!」

「――殺す」と姫風。

「こ、殺すとか酷いよヒメカさんっ! な、泣いて謝るなら今のうちだよ?」

 多分泣いて謝るのはお姉ちゃんの方だ。

 対する姫風は、拳を突き出したまま、無表情でお姉ちゃんを眺めるだけ。

 お姉ちゃんは「や、やっちゃうよ? やっちゃうよ?」となんちゃってワンツーパンチを振るいながら、自分を奮い立たせている。

 僕はえて止めない。

 お姉ちゃんには一度痛い目を見て貰った方が良いと思ったからだ。

 お姉ちゃんに右拳を突き付けていた姫風がそれを引き、左拳をコークスクリュー状に突き出す。

「ひゃあっ!?」

 お姉ちゃんは尻餅。姫風はお姉ちゃんの眼前でまたもや寸止め。

 なんでまた姫風は寸止めしてるの?

「うぅ〜……負けないよ!」

 姫風は起き上がりざまにお姉ちゃんが繰り出したへろへろアッパーカットを難なくかわし、背後に回る。

 わたわたと焦るお姉ちゃん。

 急いで背後の姫風に向き直り、駄々っ子ばりにパンチを披露する。

 駄々っ子パンチを受け止めた姫風はお姉ちゃんの拳を易々とひねりあげた。

「い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い許してゴメンナサイ痛い痛い痛い痛い痛い」

 お姉ちゃんよわっ。

「うぅ〜いだいよぉ〜離じでよぉ〜」

 両目からボロボロと涙をこぼすお姉ちゃん。

 これマジ泣きだ。

 痛がり方が半端ないので、二人を離れさせる。

 すかさずお姉ちゃんが僕の胸に飛び込んできた。

 それを見た姫風が、お姉ちゃんに殴りかかってきたので、今は待て、と姫風を牽制する。

「うぅ〜いだいよぉゆーぐん。ビメガざんにイジメられだよぉ」

 自業自得だと思う。

 自業自得だと思うけど、一応慰めておく。

「まぁ、姫風がやり過ぎなのはいなめないね。どこが痛いの?」

「ごご」と鼻声でお姉ちゃんが肩の付け根を反対の指先で差す。

 よしよしとそこを撫でる。

「挑発したお姉ちゃんも悪いけど、挑発に乗った姫風も悪いんだぞ?」

 無表情な姫風は唇を尖らせている。ねているらしい。

 ともすれば、またお姉ちゃんを殴りかかろうとしたので、姫風からお姉ちゃんをかばい、それを止めた。

「どうしてすぐに誰かを殴ろうとするのさ?」

「今ゆうの姉が私に対して『ねえねえゆーくんに抱きつきたい? うらやましい?』と口パクしたあと舌を出してきた」

 お姉ちゃんに視線を移すと、涙目で首を傾げるだけ。

「姫風、嘘をつくなよ」

「嘘じゃない」

 お姉ちゃんは僕の胸に顔をうずめて泣いている。

 姫風に視線を戻すと拳を振り上げていた。

「やめろってば!」

「また舌を出して私を嘲笑あざわらった。ゆうの姉壊す」

 姫風がまた殴りかかろうとしたので、お姉ちゃんを胸に庇い、姫風を制止させた。

「壊すな! 嘘を口実にお姉ちゃんを攻撃しようとする機会を作るな!」

「嘘じゃない」

 そしてまた姫風が殴りかかろうとしたので、お姉ちゃんを胸に庇い、姫風を制止させた。

「いい加減にしろ!」

「ゆう、私の話を聞いて。ゆうの姉がまた私を嘲笑った」

「嫉妬も嘘も大概にしろ! お姉ちゃんはずっと泣いてるじゃないか!」

 僕が怒鳴ると、急に姫風がうつむいた。

 続けて呪詛じゅそのようにポツリとらす。

「……嘘じゃない」

「いつもの嘘だろ?」

 軽蔑を乗せた声音と視線を姫風に送るが、彼女はうつむいたまま、呪詛を繰り返す。

「嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃないっ!」

 キッと姫風が顔を上げる。

 その時姫風の瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれた。

「え?」

 姫風が……泣いてる?

「ゆうの隣に居て良いのは私だけ! 離れろゆうの姉! 私のゆうから離れろ!」

 叫んだ姫風がお姉ちゃんに飛びかかった。

 こちらへ飛びかかってくる姫風の動きが、スローモーションに見える。


 不意に、冷静な部分の自分に語りかけられた、


 ――昔から鈴城姫風のことが○○だって。


 の○○の部分が唐突に理解できた。


 ――好きだって。


 ――昔から鈴城姫風のことが好きだって。


 あぁ、そうか、と妙に納得する僕が居る反面――どうしてこのタイミングで気づくんだ僕は! と慌てる僕が居る訳で、沙雪さんに対する好きはどうなるんだ! と叫ぶ感情面や、椿さんやしぃちゃんや相庭さんに対する好きはどうなるんだ、と叫ぶ意味不明な面も露出してくる訳で、情報処理能力が低下を始める脳が焼けそうなほど熱くなっている訳で、訳で訳で五月蝿うるさい!


 この思考は時間にして、〇.一秒にも満たなかったらしく、我に返った僕は、咄嗟とっさにお姉ちゃんを抱き寄せて転がり、姫風の攻撃をかわした。

「ゆうが、私のゆうが、逃げる、私から、逃げる」

 第二撃に走ることもなく、その場で姫風が唇をわななかせている。

 ポロポロと涙をこぼしながら。

「……姫風」

 お姉ちゃんから手を離し、姫風に寄ろうと、抱きしめようとして、お姉ちゃんに肩を掴まれる。

「……このままヒメカさんをなぐさめて良いの?」

「でも、姫風が泣いてる……」

「ゆーくん聞いて。きっとゆーくんはヒメカさんに流される。今のままだと、どこまでも流されたあげく、ヒメカさんに手籠てごめにされる」

 振り向くと既にお姉ちゃんは泣いていなかった。

「そこにゆーくんの意思はない。選択肢を与えられぬまま、ゆーくんは不満を言いつつも、最後はこれで良いや、と自分を強制的に納得させる。少しのあいだだけどゆーくんとヒメカさんを見ていてお姉ちゃんにはそれが解った」

 お姉ちゃんは法律家の卵。

 既に弁護士事務所で下積みをしているらしく、人間を見抜く洞察眼はプロのそれだ。

「お姉ちゃんがゆーくんに考える時間をあげる」

 外にヘリコプターが止まってるでしょ? と、お姉ちゃん。

 強引に手を引かれて、外へと、ヘリコプターの前へと連れ出される。

「ゆーくんを無理矢理連れていきたい訳じゃないの。ゆーくんがヒメカさんやさゆきちゃんとのことを――考える時間をあげたいだけなんだよ?」

「どうして沙雪さんのことまで?」と僕が問うと「好きな子の好きな相手は解るものよ?」と突然大人びたお姉ちゃん。

「だから、二人のことを考える時間をゆーくんに作ってあげたいの」

 お姉ちゃんは僕が先送りにしようとしていた現実を痛い程押し付けてくる。

 少しも間違っていない。

 だからこそ、僕は……。


「――水地華虎」


 僕とお姉ちゃんを追ってきた、姫風、椿さん、しぃちゃん、相庭さん、沙雪さん、ジジイが、僕とお姉ちゃんの間に割り込んだ。

 姫風は既に泣いてなかった。

 いつもの無表情は鳴りをひそめ、ただ怒っていた。

 姫風の怒りの表情を初めて見た。恐らく本当になにをしでかすか解らない状態だ。

「これ以上私のゆうをたぶらかすなら――容赦ようしゃはしない」

 告げる姫風の傍らの椿さんは、半眼になりお姉ちゃんを冷酷に睨み付けている。

「ゆうやを惑わすのはいただけないな、ゆうやのお姉さん」

 姫風と椿さんが本気で戦闘体勢に入り、

姫風ひぃちゃんも椿つぅちゃんも華虎かこお姉ちゃんも、お兄ちゃんのことで喧嘩しちゃダメだよ!」

 しぃちゃんが体を張って仲裁している。

 しかし、誰もしぃちゃんをかえりみない。

 そんな次元の話は既に終わっている――そんな空気だ。

 姫風を一瞥したお姉ちゃんは、僕の目を見て「ね?」と微笑ほほえんだ。

「ほらゆーくん、鈴城姉妹はこう言う人間だよ?」

 言われて自然と、

『ヒメカさんて人は――』

『ゆーくんに意見をあおがず、話を暴力で解決させる――そんな人なんだね?』

 昨日交わしたお姉ちゃんとの会話を思い出した。

「僕は……」

「ゆう下がってて。我慢の限界」

 殺る気満々の姫風。

「ヒメカさんは少しだけ静かにしてなさい」

 姫風を前にして臆さないお姉ちゃん。

「僕は……」


 ――姫風は僕をどうしたいのだろう?

 ――流されるだけは悪いこと?

 ――お姉ちゃんは僕をどうしたいのだろう?

 ――「仕方がない」は悪いこと?

 ――沙雪さんは僕を……。

 ――椿さんは僕を……。

 ――僕はどうすれば……。

 ――考える時間が、考える時間が欲しい。


「ゆーくん、おいで」


 あとから考えれば、多少、お姉ちゃんの声に引き寄せられた感じは否めない。

 けど、この時僕は――姫風を押し退けて――お姉ちゃんの手を掴んだ。

 自分の意思で。


「……ゆう?」


 僕は自分からヘリコプターに乗り込んだ。

「飛ばして、お母さん」

 いつの間にやら僕らを先回りしていた母さんが、ヘリコプターの運転席に座っていた。

 お姉ちゃんがヘリコプターのドアをスライドさせて勢いよく閉じる。

「しっかり掴まってなさい、優哉」

 母さんが言うや、ヘリコプターのプロペラが回転数を増して、膨大な風圧を生んだ。

 誰一人として立っていることができない風圧の中を、僕を見つめながら姫風だけが立ち尽くしていた。


 地上から遠ざかる僕を、ジッと見つめていた。


 ヘリコプターによじ登ってくることもなく、細工をするでもなく。


 いつもの無表情で、ただ、ジッと、僕だけを見つめていた。




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